罅割れた夢   作:島ハブ

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最終話

 

 

 

 

 

 ジムの入口に佇む背中は、想像していたよりもずっと小さく見えた。当たり前といえば当たり前のことだ。彼はまだ少年なのだ。 

 困り顔で応対していたジムトレーナーが、サカキを見つけて手を挙げた。振り向いたレッドの瞳が、茫洋とした光の中にサカキを捉えていた。サカキも真っ直ぐに見つめ返した。

 シルフカンパニーで戦った時とはなにもかもが違っている。立ち姿を見ただけで、それがはっきりとわかった。敵。そう思った。サカキのこれまでの人生の中で、最高の敵だ。それが今サカキのみを見据え、容易に見通せぬほど深い心の奥底で闘志を滾らせている。それは、サカキ自身の内にもあるものだった。

 ジムトレーナーが表情を強張らせた。自分は今、笑みを浮かべているだろう。他人事のように考えてから、サカキは二人に近付いた。

 

「すいませんリーダー、今説明しているところです。この子がすぐにでもリーダーと戦いたいと言うもので」

 

「構わないよ。私が相手をしよう」

 

「え?しかし、勝ち抜き戦は」

 

「オーキド博士から頼まれてね。勝ち抜き戦などしなくとも実力は保証できるそうだ」

 

「オーキド博士が。それはまた」

 

 ジムトレーナーが曖昧に笑う。相対していればわかる筈だ、という言葉をサカキは飲み込んだ。力の差を皮膚感覚で感じとる能力など、サカキが若い頃でも必要とされなくなっていたのだ。不必要な物を持っていないのは当たり前のことだった。

 レッドを見る。持ちすぎている、と思った。

 戦うことについて、必要以上の力を持ちすぎている。彼の旅に図鑑完成という目的を持たせたオーキドは、あるいは少年への思い遣りからそうしたのかもしれなかった。ジムを巡るだけならば、機械的に勝利を重ね続けるだけの旅だっただろう。

 

「場所を変えよう。ついてきたまえ」

 

「リーダー、どちらに?」

 

「別館を使う。少々派手な戦いになりそうなのでね。今日はみんな本館でのトレーニングだろう?」

 

「確かに別館は空ですが、お手伝いは」

 

「必要ない」

 

 切り捨てるように言って、サカキは歩き始めた。ジムトレーナーは困惑しているようだったが、ついてはこなかった。レッドだけがいくらかの距離を取って後ろを歩いている。

 ポケモン図鑑の存在がレッドの旅に幅を持たせ、ロケット団とぶつかることになった。その図鑑がミュウツーをこの世から消し去ることを目的に作られたのならば、レッドとサカキの対峙はもはや因縁とも呼べないだろう。

 必然。ただただ、起こるべくして起こったことだったのだ。これまでのことも、そして、今から始まる戦いも。

 歩くうちに建物が少なくなり、やがて絶えた。トキワ郊外のさらに外れだ。人通りはとうに絶えて、左右には野原が広がっている。ここまでくるとジム別館に用事がある人間以外は滅多に見ない。

 ジムとしては小ぢんまりとした別館は、静けさの中に佇んでいた。ここ数日で書籍やトレーニング用具などは全て本館へと移し終え、建物としての機能以外はなにも残っていない。静けさは、老衰した生き物が息を潜めて最期の時を待っているかのような、どこか緊張を孕んだものだった。

 解錠し、ブレーカーを上げて照明を点ける。競技場を刺すように、幾筋もの光線が降り注いだ。建物が、不意に目を覚ました。競技場へ入ってすぐのところで、レッドが足を止める。サカキは光の中をゆっくりと横切り、ジムリーダーの定位置へ着いて振り返った。

 

「初めまして、と言っても白々しいだけか。私がサカキだ。トキワジムジムリーダーであり、ロケット団の総帥でもある」

 

「シルフカンパニーで会いました」

 

「そして、戦ったな。君はまだ未熟だった。隙を隠しきれていなかった」

 

「もう、敗けません。敗けないと思えるぐらい、鍛えました」

 

「口先だけ、という訳ではないな。見違えたよ。この短期間でよく研ぎ澄ましたものだ」

 

 レッドが腰に手をやり、モンスターボールを握った。

 

「リザードンだったな、君の相棒は」

 

「はい」

 

「私はニドキングだ。子供の時分からの付き合いで、語ろうと思えばいくらでも語れるぐらいには同じ時を過ごした。しかしまあ、今言葉は必要ないだろう」

 

 レッドとリザードンはまだそれほどの時間を共にしてはいないだろう。だからサカキが有利、ということはない。強さがそれほど単純なものではないことぐらい、嫌というほど知っている。

 サカキもモンスターボールを手に取り、収縮機能を解除した。磨きあげたモンスターボールが照明に鈍く照り返した。

 

「一対一だ」

 

「はい」

 

 同時に、モンスターボールを放った。ニドキングが地を踏みしめるのとリザードンが宙へ舞い上がるのも、また同時だった。

 リザードンの動きもシルフカンパニーの頃とは別物だった。真下に潜ろうとしたニドキングを容易く置き去りにし、天井付近まで飛び上がる。炎。『かえんほうしゃ』が二発、間髪入れずに飛んできた。

 

「風だ、ニドキング」

 

 軽く躱したニドキングが、サカキの声でもう一段後ろへ跳んだ。『エアスラッシュ』。炎の裏に潜んでいた風が地を切り裂く。巨大な斧でも叩きつけられたかのように、地面がぱっくりと口を開けた。

 

「『ヘドロウェーブ』」

 

 応ずるような雄叫びとともに、桔梗色の波動が放たれる。サカキはリザードンの動きだけを見ていた。翼を小刻みに動かすと、僅かな上昇と下降だけで波動を躱している。横の動きはなく、天井すれすれに競技場の中央を維持していた。

 何を警戒しているのか、見当はついた。シルフカンパニーで見せた、壁を崩しての疑似的な『いわなだれ』だろう。確かにリザードンにとっては致命打足りえる攻撃だ。

 炎が飛んでくる。ニドキングが躱し、ヘドロを返した。それはやはり、最小限の上下移動だけで避けられた。とにかく壁に近付くのを避けるつもりらしい。

 

「経験不足か。力はあるが、スケールがまだ足りんな」

 

 呟いて、サカキは競技場を見回した。

 古くはジム本館として使われていた建物だ。その頃からトキワは地面タイプのジムで、地下には衝撃を緩和する緩衝用の機構が整備されている。地面技を打ち込んだとしても建物が崩れる心配はなかった。

 あくまでも、過去のジムリーダー基準での話だ。

 

「ニドキング、『じしん』だ」

 

 指示を受けたニドキングが尻尾を高々と持ち上げ、地面へと力強く振り下ろした。

 凄まじい音とともにニドキングを中心とした円形が陥没し、僅かに遅れて衝撃が建物全体を襲った。窓ガラスが音を立てて割れ、陥没した地面から八方に地が裂けていった。レッドが体勢を崩し、手を付いた。サカキは競技場へ踏み入ると、ニドキングの背へ飛び乗り棘に手足を掛けた。

 

「外だ、ニドキング。崩れるぞ」

 

「リザードン、こっちに」

 

 地を走る亀裂が壁に達し、滝でも遡上するかのように登り始める。まだ激しく揺れていて、レッドは立ち上がれないようだった。リザードンが急降下してくるのを横目に、ニドキングが壁をぶち抜いて外へ飛び出した。ほとんど同時に亀裂が天井へ達し、芯を失ったように別館が崩れ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「東へ移動しよう。もう少し開けた場所がいい」

 

 駆け始めたニドキングの背で、サカキは後ろを窺った。砂煙がもうもうと立ち込めていて別館の姿ははっきり見えない。煙の向こうからは瓦礫がずれ落ちていく音が微かに聞こえるだけだ。

 

「多少のダメージになっていればいいがな」

 

 崩落から逃れる時間はなかったはずだ。レッドとリザードンは建物の下敷きだろう。それでもサカキは、勝負が決したとは思っていなかった。そんな普通の考え方が通じる相手ではない。

 目を凝らした。風のある日で、砂煙は北東へ流れるように薄まっていく。それが晴れる頃、別の煙が瓦礫の下から漂ってきた。黒煙だ。最初一筋だった煙は、やがて二つ三つと数を増やしていった。

 黒煙が十を超えた時、突然瓦礫の山が歪んだ。それが陽炎だと気付いた瞬間、別館全てを飲み込むほどの火柱が空へ迸り、周囲の瓦礫を悉く焼き払った。いくらか遅れて光と熱波がサカキの頬を撫でる。雲へ届かんとする火柱はやがて渦を巻き、周囲の空気を引き込みながら猛った。その中を一人と一匹の影が昇っていくのが、サカキからも見えた。

 渦が真ん中から霧散する。レッドとリザードンは、真っ直ぐにサカキを見つめていた。痛手を負っているような素振りはない。

 

「勝負はここからか」

 

 ニドキングが駆ける。リザードンが姿勢を前傾にし、追走してきた。二百メートルはあった距離がみるみる縮まり、半分ほどになる。攻撃の気配がサカキの肌を打った。

 リザードンが空へと火を吹いている。それはぐるりと円を描くと上空から空気を引き込み、螺旋を作りながら地上へと降りてきた。一つではない。別館を飲み込んだものと同じ規模の渦が三つ、野原に点在する岩や木々を消し炭にしながら迫ってきた。

 

「無数の火の粉ではなく『かえんほうしゃ』で渦を作ったのか。巻き込まれればただでは済まんな」

 

 速度は向こうの方が速い。ニドキングが進路を右に取ると、三つの渦も連動しながら追ってきた。

 

「制御を手放してはいないのか。面倒だな。ニドキング、消すぞ」

 

 ニドキングは反転すると、先頭の渦へ向かって一直線に駆け出した。その躰を砂塵のベールが、サカキごと覆っていく。

 近くで見上げる渦は呆れるほどに巨大だった。上は空まで届き、横はジムを丸呑みにできるほど広い。小山のようなニドキングがちっぽけに見えるほどだ。それでも、逡巡はなかった。

 

「『ドリルライナー』」

 

 何かに触れた。そう思った次の瞬間には衝撃が空間を走り抜けた。鍔迫り合い。一息で押しきったニドキングが、サカキが促すままに抵抗の一番強い所へ迷わず突っ込んでいく。抜けていた。渦。二つ目三つ目も同じく突き破る。真芯を破られた渦は行き場を失くしたように千切れていった。

 

「さあ、次はどうする」

 

 空に浮かぶレッドを見上げながら、サカキは呟いた。

 遠距離で撃ち合っている分にはいくらでも対処できそうだった。『ほのおのうず』は掻き消し、『だいもんじ』ならば躱せばいいのだ。消耗はリザードンの方が大きいだろう。

 近付いてくるか。あるいは、まだ技を持っているのか。

 リザードンが口を開けた。炎か。そう思ったが、なにも出てこなかった。それどころか、周囲の空気を凄まじい勢いで吸い込んでいる。吸気は長く、首から胴体にかけて一回り膨らんで見えた。

 サカキはニドキングの背から飛び降りた。あれはどう見ても尋常な技ではない。

 呼吸を止めたリザードンがその口を真下へ向けた。滝のような炎が、そこから吐き出されてきた。それは真っ直ぐに地へぶつかると跳ね上がり、後続の炎に押されて再び地面へと叩きつけられる。縦の渦。先程までの渦とは全くの別物だ。『ほのおのうず』のように周囲を引き込むのではなく、むしろ純粋なエネルギーで押し潰すような渦だった。

 炎の津波。あるいは、炎で出来た巨大なローラー。そうとしか形容できないものが地を埋め尽くすように広がり、サカキとニドキングを踏み潰そうと迫ってくる。

 初めて見る技だが、思い当たるものはあった。

 

「ナナシマで編み出されたという炎の究極技か。お伽噺だとばかり思っていたがな」

 

 ニドキングがサカキを見た。頷く。この状況で思い付く技は一つしかない。

 ニドキングが足を持ち上げ、地面を踏み抜いた。丹田に響く振動と共に無秩序な亀裂がニドキングを中心に広がっていく。その一つ一つをサカキは素早く見回した。

 道だった。衝撃を通し、絞り、加速させるための道。熟練のトレーナーでも見誤ると言われたそれを、サカキははっきりと見分けることができた。

 見えた。ニドキングが両手を握り合わせ、高々と振り上げた。

 

「『じわれ』」

 

 サカキが示した亀裂へ、ニドキングが全霊の一撃を叩き込む。地中から呻くような轟音が響き、次いで衝撃の波が地を裂きながら迸った。炎の津波へと真っ直ぐに向かっていく。咄嗟にサカキはニドキングの背後へ転がり込んだ。

 世界が弾け飛んだ。そうとしか思えないような振動と音が、二つの力がぶつかった地点から爆発的に拡散した。空気が暴力の塊となって、近くの木を根元から薙ぎ倒していった。目を閉じ、肚に力を込めた。有り余ったエネルギーの飛沫が過ぎていくのに、短くない時間が必要だった。唇を噛み、頭を低くしながらそれに耐えた。

 立ち上がる。視界に、ホエルオーが数匹は楽に入れそうな巨大なクレーターが見えた。その中では、行き場を失った炎がぶつかり合いながら地を焦がしている。サカキは苦笑した。

 

「大した威力だ。『じわれ』と真っ向から打ち消し合うとはな。これ以上撃ち合えば地獄絵図だが」

 

 空を見上げる。リザードンがその翼で薄い雲を引きながら、一気に距離を詰めてきた。レッドの判断は、どこまでも果断だった。

 『どくどく』を使うか。一瞬頭を過った案は、レッドの表情を見てすぐに捨てた。一切の隙がない。そして恐らくは、自分も隙を見せてはいないだろう。奇策を弄する余地はこの戦いにはない。純粋な力の勝負だけだった。

 ニドキングの背へ飛び乗った。リザードン。僅かな減速もないままに馳せ違った。ニドキングの肩口に一撃を貰っていた。代わりに、相手の脇腹を突いている。リザードンが旋回した。口が開いている。炎の下を潜り抜けようとしたが、読まれていた。炎を吐かずにリザードンは地に足を付け、『エアスラッシュ』を飛ばしてきた。避けようがなかった。

 三ヶ所、まともに喰らった。被弾しながら突き進んだニドキングを、リザードンが受け流そうとする。今度は、サカキが先読みした。上へのフェイントから右に逃れようとしたリザードンを完璧に捉えた。弾き飛ばす。打ち上げたが、追撃は躱された。

 振り向いた。サカキは一度息を吐き、大きく吸った。高速の近接戦では呼吸のままならない状況も多い。リザードンも一度上空へ逃れ、息を入れている。

 ほとんど垂直にリザードンが降下してきた。引き付けて躱すのがセオリーだが、レッドが地上に激突するイメージは湧かなかった。

 どこでブレーキを掛けるのか。リザードンは翼を折り畳んだままだ。呼吸を数えた。一つ、二つ。

 止まる気がないのだ、と気付いた時には激突していた。ニドキングの足先が地面へめり込んだ。サカキは背から飛び降りた。足を取られた時、トレーナーは邪魔でしかない。

 サカキの動きをわかっていたかのようにニドキングが躰を捻った。尾。リザードンの胴体をしたたかに弾いた。しかし足が抜けていない。

 

「『かえんほうしゃ』」

 

「『だいちのちから』」

 

 どちらも当たった。ニドキングが右へ体勢を崩しそうになる。リザードンが空中で立て直し、尻尾の炎を猛らせて全身に纏いながら向かってきた。『フレアドライブ』。

 サカキはニドキングの背に取りついて、重心を左へ寄せた。ニドキングが雄叫びをあげながら、尾まで使って地を蹴った。砂塵が巻き起こった。『ドリルライナー』。叫んだ。互いの距離が縮まっていく。

 リザードンの背にレッドが見えた。レッドも、サカキを見ていた。吸い込まれていく。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 低い唸り声をあげながらリザードンがサカキを威嚇した。その横ではレッドが倒れている。気を失っているようだ。あれほどの強者も、目を閉じると幼い印象が先立った。

 近付いた。リザードンが唸りを強くした。動きは鈍い。ほとんど限界に近いのだろう。しかし、倒れる素振りはない。

 サカキはちらりと後ろを見た。ニドキング。俯せに突っ伏した姿が、やがてゆっくりと収縮し始めた。瀕死状態なのは明らかだった。元気の欠片を与え、モンスターボールへと戻す。状態が落ち着いたら傷薬を使えばいい。

 レッドの方へ足を進める。リザードンが首を持ち上げた。

 

「妙な心配をするな。お前も主人の容態は気になるだろう」

 

 頭のすぐ傍で膝を折り、瞳孔を確かめた。それから関節。どこも異常はない。一時的に気を失っているだけだろう。所見をそのまま伝えると、リザードンは小さく頷いて地に伏せ、躰を横たえた。疲労の色が濃い。本当は目を開けているのすら億劫な筈だ。

 上着のポケットからバッジケースが覗いていた。引き抜き、空いていた窪みにグリーンバッジを嵌め込んだ。ぱちん、という小気味のいい音が鳴った。その音で気がついたのか、レッドがゆっくりと目を開いた。

 

「意識ははっきりしているな。手足の指をゆっくり動かしてみなさい。頭はそのままで」

 

 レッドは素直に応じた。何度か手を握ったり開いたりして、それから足首を回した。

 

「俺は」

 

「衝突の衝撃で気を失ったようだな。リザードンに感謝すると良い。君を落とすまいと、必死にバランスを取りながら地上まで降りてきた」

 

「リザードンが」

 

 どこかおずおずとしながら顔を寄せてきリザードンへ、レッドが手を伸ばし頭を撫でた。戦闘中とはまるで別の存在であるかのように、リザードンの表情が柔らかく綻んだ。

 少し待ってから、サカキはバッジケースを差し出した。レッドが向き直り、真っ直ぐにサカキを見上げた。

 

「見事だった。レッド、リザードン。君達の勝ちだ」

 

 受け取ったレッドが二、三度バッジを触り、ケースごと無造作にポケットへ押し込んだ。

 対等な勝負で敗れたのはいつ以来だろうか。ふと、考えた。実感が湧いてこなかったのだ。以前負けた時がどうだったのかも、あまり思い出せない。実感などなかった、という気がする。

 レッドがリザードンをボールへ戻した。横たわっていたからか、レッドのモンスターボールは酷く汚れてくすんでいた。サカキはグラスクロスを取り出し、レッドへ渡した。

 

「君に譲ろう。ボールを磨きたいと思った時に使えばいい。使い古しで申し訳ないが、品質は保証する」

 

 ボールへグラスクロスが当てられる。くすんだ色が拭い去られ、紅白が鮮やかに照り輝いた。レッドが衒いのない驚きを、それから笑顔を浮かべた。どこまでも純真な姿だった。

 

「君は」

 

 無意識に口が開いた。レッドがボールを仕舞い、グラスクロスをポケットへ入れた。

 

「君は何にでも成れるだろうな。それだけの力があればチャンピオンにも四天王にも、勿論ジムリーダーにも成れる」

 

 何を言おうとしているのだ。サカキは自分自身に戸惑った。考えがある訳ではない。言葉が勝手に口を衝いていた。

 

「競技者だけではない。強さはそれだけでカリスマ性でもあるからだ。君にその気があればタレントにだって成れるだろう。政治の世界に進出もできるかもしれない。自警団にも、軍人にも、悪の組織の首領にだって成れる。君の力はそれだけの選択を可能にする筈だ」

 

 言葉が途切れた。レッドの瞳の中に、サカキが映っている。嫌というほどに、それがよく見えた。

 

「ポケモントレーナーでいてくれないか。ただの、ポケモントレーナーで」

 

 何を言っているのだ。また、そう思った。この少年は無限の可能性を秘めている。名誉や栄光に満ちた未来を間違いなく掴み取れるだろう。それを全て台無しにしてしまいかねないことを、サカキは言っていた。

 訂正するべきだ。それがわかっていても、言葉は喉につっかえたように出てこなかった。

 レッドが困惑していた。ただそれは、当たり前のことを殊更言われたことへの困惑に見えた。それから、控え目に頷いた。

 不意に、サカキの胸の内を何かが満たした。願いが聞き入れられた歓喜などとはまるで違う。這いつくばりたくなるような、胸を掻き毟りたくなるような、言葉にならない声を口の端から漏らしたくなるような、そんな衝動だ。止めどなく湧き上がるそれら全てを、サカキは目蓋の裏に呑み込んだ。

 敗北か。ニドキングの入ったボールを軽く撫でる。自分の指先に郷愁が籠っている気がした。

 

「礼は言わないでおこう。私を捕まえるかね?」

 

「いえ。警察じゃないですから」

 

「そうか。そうだな。ならば、私は行くとしよう」

 

「また、戦えますか?」

 

「いや。残念だが、もう会うことはないだろう。良い勝負だった。今日の戦いを私は生涯忘れまい。さらばだ、ポケモントレーナーのレッド」

 

 歩きだす。風のある日だった。レッドの横を通り過ぎてから、サカキは空に目をやった。戦いの余波で雲は散り、青々とした層が幾重にも広がっていた。空の果てまで、見透けてしまいそうな青だった。何もない空。

 

「さようなら」

 

 声が追ってきた。サカキは足を止めず、振り向きもしなかった。

 

「さようなら、ポケモントレーナーのサカキさん」

 

 応えずに、サカキはただ空を見ながら歩いた。どこまで行っても、何もない空だった。それでも、歩き続ければやがて散っていった雲が見えてくるだろう。

 雲が見えてきたら、ニドキングの手当てをしよう。そう思った。

 それまでは、ただ歩いていたかった。短くとも、旅のように。

 

 

 

 

 





本編はこれで終了です
非常に時間がかかってしまったのですが、見てくださる方々のおかげで完結まで漕ぎ着けました。ありがとうございました
世間や登場人物のその後をざっくりと描いた話を蛇足として三つ、明日投稿します。全て合わせても一万文字程度ですのでよろしければ
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