どこへ行こう、と考えている訳ではなかった。
逃げるならジョウトだろう。ただ、老いぼれ犬がそれを読んでいない筈はない。しばらくはカントーに潜伏して、期を見てジョウトへ向かうべきだ。
そんなことは大して考えずとも浮かんできた。だからどの町に潜伏するかに意識を回すべきだろうが、サカキはただ足の向くままに歩いてきた。
空はもうとっくに雲が戻り、日差しを和らげている。ニドキングの手当ても既に終えた。疲労は癒えていないだろうが、野生ポケモンを蹴散らすぐらいならば造作もないだろう。
「強い相手だったなぁ、ニドキング」
時折、モンスターボール越しに声をかける。ニドキングも、対等な条件での敗北を味わったのは何年も前のことなのだ。思うところはあるだろう。
人と擦れ違った。サカキの顔を見て、その虫取り少年は大きな声で挨拶をした。トキワの子供だ。自分がいつの間にか街道へ戻ってきたことに、サカキは気付いた。
ぽつぽつと人の姿が見え始めた。サカキへ声をかけてくる人間もいる。大抵トキワの住人で、一定の尊重を見せつつも口調は親しげだった。
「しかしサカキさん、こんなところで何を?ニビへでも行かれるんですか?」
「そうか。この先はトキワの森でしたね」
「まさか、何も考えずに?」
「たまにはね。近頃、デスクワークで出不精になってしまって」
「なるほど、それで散歩ですか」
「せっかくだし、森まで行ってみるかな」
「良いと思いますよ。森は今、ちょうど過ごしやすい季節で」
そう言って笑う男に別れを告げ、歩みを進めた。どうせどこへ行こうとは決めてなかったのだ。トキワの森へ向かって、気が向けばそのままニビまで行ってもいい。その先のことは、ニビに着いてから考えることもできる。
太陽はそろそろ傾いてきたところだった。風は相変わらず吹いていて、日が落ちれば多少肌寒いかもしれない。構いはしなかった。寒ければ、身を震わせればいいのだ。
トキワの森に入った。日差しは疎らになり、木々が戦いでいた。人の気配はない。森の息遣いだけが静かに足元を流れていた。
どこかに身を潜め、いつかジョウトに逃れたとして、そこで何をするのだろうか。
考えて浮かんでくることでもない、という気はした。逃亡生活でも強さは物を言うだろう。旅の経験はあり、人里離れた場所で寝起きすることにも抵抗はない。だから野垂れ死ぬことはないだろうが、新しいことを一から始めることもできはしないだろう。
無為の、ただ一人の人間としての人生。そんなことを束の間思い浮かべて、それからサカキは失笑した。我ながら甘美な妄想をしたものだ。
囲まれていた。当たり前のことだった。自分はロケット団の首領なのだ。安穏な逃亡生活など、許される筈もない。
気配は次々と湧き出してきた。百人は優に超えている。正面から、よく見知った男が歩いてきた。
「やあ、マチス」
「まったく、堂々と歩いてきやがって。あんたらしいぜ、サカキ」
「よく包囲できたな。自分で言うのもなんだが、私は気配には鋭い方だ」
「知ってるよ。民間人に擬態したうえで、半径一キロ以上の距離からじわじわ詰めた。いくらあんたでも気付くのは遅れるだろうよ」
「無関係な人間を巻き込んでいないだろうな」
「極秘作戦だよ。国にも極秘のな。あんたはただ行方不明になる。目撃者なんか出さないさ」
「そうか。安心したよ」
マチスが横を向いた。
「あんたが黒幕だったとはな。知ってりゃ、こんな面倒な仕事は受けなかったんだが」
「私はむしろ、君が居てくれて嬉しいがね。戦い甲斐がある」
「馬鹿を言うなよ。まともに勝負するつもりなんてこっちにゃない。ただなぶり殺しにするだけさ。ニドキングは平気でも、人間まで地面タイプってことはないからな」
「電気タイプの精鋭か。同盟軍の特殊部隊だな」
マチスの背後から、軍服を着た男達が姿を現した。サカキの後ろにも姿を見せている。サカキの感知できる範囲にいるのは、本当に軍人だけのようだ。
政府がいくら弱腰とはいえ、特殊部隊が百人規模で作戦行動を取ることを許可はしないだろう。
「同盟軍側の独断か。世間に知られれば大問題になるぞ」
「無駄な心配さ。十分後にはいつも通りのトキワの森に戻ってる。ちょっと荒れてるがね」
「本気で言っているようだな」
「ニドキング一匹でいつまでもあんたを守ってられる訳がねえだろう」
「鈍っているんじゃないか、マチス。君らしくない失態だぞ」
「なにを」
言い掛けたマチスが口をつぐんだ。地が揺れていた。
「まさか」
「いずれ、誰かが私を狙ってくることはわかっていたんだ。まさか、何の備えもないと思ったか?」
「総員撃て、やれっ」
電撃。ニドキングがボールから飛び出し、瞬時に五つを打ち消した。抜けてきた二つをサカキは自分で躱した。後ろからも四つ。ニドキングが反転して消し、サカキも地面を横へと飛んだ。外れた電撃が木に直撃し、不愉快な音とともに幹を叩き折った。
嫌な直感に導かれて、サカキはもう一つ横へ飛んだ。脇腹を衝撃が抉っていった。『ソニックブーム』。マチスが電撃の影を縫うように撃ってきたものだ。血が噴き出してきた。すぐに死ぬようなものではないが、浅くもない。サカキは傷口に手を当てた。
マチスのレアコイルが、サカキに狙いを定めている。焦りはなかった。既に、下まで来ている。
レアコイルが吹き飛んだ。その下からニドクインが顔を覗かせ、もう一度地面に潜ってサカキの元までやってきた。
サカキを囲むように次々土が盛り上がっていく。そこからポケモン達が、一斉に飛び出した。
ニドクイン。ゴローニャ。ダグトリオ。ガラガラ。サイドン。
そのどれもが、サカキが信頼を置く手持ち達だ。
「フルパーティーだと」
「トキワ周辺に潜伏させていた。甘かったな、マチス。私を消すのなら、海の上にでも誘い出すべきだった」
「あのガキとの勝負は手を抜いていたのか」
「全力だったさ。君ならわかる筈だ」
ニドクインが心配そうにサカキの側へやってきた。脇腹からは血が流れ続けている。
特殊部隊を殲滅するのが先か、それともサカキの力が尽きるのが先か。そういう勝負になりそうだった。
「ああクソ、やっぱり引き受けるんじゃなかった」
マチスは毒づくと、後ろの軍人達へ顔を向けた。
「人間だと思うな。災害か何かを相手取るつもりでやれ」
「はっ」
サカキは周囲を見回した。前後左右、軍人達に囲まれている。全員が殺気だっていて、僅かな隙にも電撃を撃ち込もうという構えだ。そして、この間にもその数をどんどん増やしていた。
全てを諦めた途端に、素晴らしい戦いが二つ続けてサカキを襲ってきた。人生は儘ならないものだ。こういう巡り合わせが、これからもあるのだろうか。あるいはこれが、最後の機会なのか。
ニドキングがちらりとサカキを見、脇腹から流れる血へ目をやった。らしくなく、心配をしているようだ。
「いつだったか、お互いの死に目には立ち会わないと約束しただろう。お前の目の前では、俺は死なんよ」
サカキは微笑んだ。あれは、シオンタウンへ向かう途中だったか。あの時も旅をしている気分になっていたものだ。
呆れたように前を向いたニドキングが、一切の躊躇なく地面を踏み抜いた。地面が抉られ、木々が倒れた。亀裂がニドキングを中心に縦横に走っていく。脇腹の痛みを無視しながら、サカキはその亀裂の先へ目をやった。
「総員待避」
マチスが叫んでいる。ニドキングが両手を握り合わせ、高々と振り上げた。周囲から放たれた電撃を、ニドクイン達が軽々と掻き消している。
勝敗は読めない。それこそが、戦いだった。サカキはニドキングへ、ある一点を指示した。ニドキングが両手を振り下ろす。衝撃とともに地が裂けていった。
自分以外頼るもののない、無重力の世界。生きていた。サカキは笑いながら、ニドキングの背へ飛び乗った。