ランニングは、欠かしたことがない。
今でこそ人対人のスポーツと化した節があるが、トレーナーの本分はルールもなにもない野生の戦いの中にある。体力がないのは致命的だった。キクコでさえ、たまの帰省には歩いてイワヤマトンネルを抜けるという。
ジムの若者にも、体力で劣らないし劣るつもりもない。歳だから仕方ない、という考え方もある。しかしそれは、やがて負けることそのものすら肯定しかねないとサカキは思っていた。
トキワの森の手前で折り返す。コースはいつも決まっていた。走るペースはバラバラで、ダッシュをしばらく繰り返してみたり、小走り程度で数キロ進んだりする。ペースを変えることを繰り返すと、自分の余力がどれほどかを見誤ったりするのだ。ポケモンの余力を、どんな状況でも確実に見極める。それはトレーナーに必要な能力で、そのためにはまず自分の余力を見極められるようになるべきだった。息も絶え絶えになるほど全力を尽くし、それでいてトキワジムに到着する時間を誤差三十秒以内に収める。いつ頃からか、サカキはそんなことができるようになった。ポケモンの力を引き出せていると感じるようになったのも同じ頃だ。
トキワシティに戻ってきた。ジムには向かわず、西へと走る。八割の力で走り続け、二十二番道路へと入ったところで、早歩き程度に速さを落とした。躰への負荷は軽くなったが、直前の疾走で息は激しく乱れている。走りながら腕や脚の疲労を確かめた。呼吸の激しさがそのまま消耗に直結する訳ではないのだ。
思ったよりも、疲労は軽かった。人工池まで全力で走っても保つだろう。
「あら、サカキさん」
ウォーキングをしていた中年女性が声をあげた。トキワの住民で、名前の思い出せない程度の間柄だ。ジムリーダーには、よくあることだった。
「もう、暗くなりますよ」
「本当は走るつもりだったんだけどねえ。疲れちゃって」
「なに、運動をしようというだけ立派なものです」
「そう言ってもらえると嬉しいですねえ」
「ところで、どの辺りまで?」
「道が左に曲がる辺りですよ。そこから折り返そうかと」
女性が答えた場所までは、まだ距離があった。ウォーキングのペースでは、トキワに帰りつくのは夜中になるだろう。空の真ん中はもう暗く、遠くトキワの森の上に夕焼けの紅が走り抜けるのが見えているだけだ。セキエイ高原に遮られて、西日の当たらない二十二番道路は、既に方々が薄暗くなっている。
「私はそろそろペースを上げます。貴女はこの辺りで折り返した方がいいですな」
「そうですかねえ?」
「女性が出歩くには、些か危険な時間になりますよ」
「あらまあ。でも、ちょっと心配しすぎでは?ほら、カントーは治安がいいじゃないですか。同盟軍もいますし」
「良からぬ組織の噂も、最近は聞くようになりましたよ」
「ロケット団でしたかしら?うーん。でもやっぱり、平気だと思いますわ」
「まあ、お気をつけ下さい」
サカキが足を速めると、女性はあっという間に見えなくなった。少しずつ速度を上げ、曲がり道を抜けたところで一気に回転を上げた。ほとんど全力疾走だ。目的の人工池まで、保てるのか。保てる。そう判断した。判断したのならば、後は実行するだけである。ポケモンに命令できて、自分の躰に命令できない筈がない。
呼吸を止めた。人工池。サカキがトレーニングのために作らせたもので、畔には休憩スペースも取ってある。そこまで、駆け抜けた。到着した時には、顔を上げることさえ苦しくなっていた。それがどこか、快感でもある。
「ニドキング、行け」
呼吸が整ってくると、サカキはニドキングをボールから出した。ちょっと頷いたニドキングが、池の中央に向かって進んでいく。広いが深さはなく、真ん中まで行ってようやくニドキングの顔が浸かる程度だ。
サカキはベンチに腰掛けると、グラスを拭くのに使われるクロスを取り出した。そっとモンスターボールに当てる。乱暴に擦ることはしなかった。少し当てると、ペンライトで照らし、また別の場所を磨く。塗料や自動型のブラシは一度も使ったことがない。昔からできるだけ綺麗な布を用い、ジムリーダーとなって生活に余裕ができてからは、高品質のクロスを取り寄せている。
なぜモンスターボールを磨くのか、サカキ自身にもはっきりとした答えはなかった。汚れを落とすぐらいは誰でもやるが、ここまで拘るトレーナーは自分以外には知らない。綺麗に磨きすぎたからか、若年の時には新米と勘違いされることもあったほどだ。
光沢が出始めた。ここから更に磨くと、どこかで光は鈍くなる。鈍く、しかし決して光が途切れることはない。そうなったモンスターボールには、どこか風格さえ漂うのだ。
不意に、水柱が上がった。ニドキングだ。
サカキやワタルは、時に災害級とも称された。この間のエキシビションでは、主催が予算をかけて造り上げたという対戦会場をものの十分で壊滅させた。鍛え上げられたポケモンの技とは、そういうものである。
トキワジムは地下に衝撃吸収の構造を拵えることで、サカキのポケモン達の技にも耐えられるようになっている。それでも『じしん』などを使えば表層は酷いことになるのだ。
再び水柱が上がった。一度目のものよりも高く、そしてサカキの足元にも揺れが来た。踏ん張りの効かない水中でなお、ニドキングの『じしん』はこれだけの力を持つ。
ボールにクロスを当てる。北の空には、もう紅は残っていなかった。夜がもうそこまで来ている。
「カントーは治安がいい。だから大丈夫、か」
なんとなく、女性の言葉を思い出した。
平和である。それは、間違いがなかった。山吹組のようなヤクザや、ロケット団のような犯罪組織があっても、人々の危機意識にはどこか漫然とした安心があった。
同盟軍がいるからだ。その圧倒的な武力は、古くは恐怖と反発を呼んだ。しかし今、地下に潜んだ活動家達以外の多くの人間が、同盟軍を安心の素材としていた。そして、同盟軍の存在する日常を受け入れた。自分達が無力な存在であることすらも、同盟軍がもたらす安寧とともに許容した。
カントーのトレーナーを世界最強にしたい。記者に語った言葉に、嘘はなかった。そのために必要なのは、支配の下にある安寧ではなく、呼吸さえ苦しくなるほどの自由だ。
同盟軍に拮抗するほどの、悪の組織。そんな存在があれば、人々は選択を強いられることになる。誰も守ってくれない世界で震えているか、それとも強くなるかだ。
強くなる。カントーの人間には、それだけの意思がある筈だ。そして、力を得た人間は戦いを始める。その相手が同盟軍ならば、ロケット団が先陣を切ればいい。ロケット団を相手にするというなら、カントーの人々と同盟軍を相手に国盗り戦でも始めればいい。どう転んでもいいと、サカキは本気で思っていた。戦いは、誰かを強くするからだ。
今日一番の高さの、水柱が上がった。立ち上った波と共に、強烈な揺れが陸地に届いた。サカキは、特に踏ん張ることもなく立っていた。地面タイプのエキスパートが、地震で慌てていては話にならない。揺れが収まった頃、こちらに泳いでくるニドキングが見えた。
モンスターボールを月に翳してみた。鈍く、しかしはっきりと、月光を照り返している。
◇
「もう一度、言ってみろ」
顔を真っ赤にしているのは、ズバットを使う団員だった。クリードという名前であることは、名簿で確認している。クリードの後ろにいる九人も、似たような表情をしていた。全員、フミツキが選んだオツキミ山部隊の戦闘要員である。
「ですから、走ってくださいと言いました。誰かが走れなくなるまでです」
フミツキの返答は、彼らを更に怒らせたようだった。クリードが一歩前へ出てくる。明らかに威圧しようという動きだったが、誰も止めなかった。
「俺達はポケモントレーナーだ。わかるか?馬車馬じゃねえ」
「当然です」
「じゃあなんで、俺達が走らされなきゃならねえ?」
「逮捕者を出さないよう、支配人に命令されています」
支配人の名前は効いたようで、彼らの勢いが一瞬衰えた。
「そのためには、全員が団結して動く必要があります。部隊の移動速度も統一しなければなりません」
「それで?」
「最も足が遅く、体力のない団員。その人に合わせないといけない、ということです」
「おい、その間抜けは、まさかお前じゃないだろうな?」
「ですから、私も走ります」
そう言って、フミツキは上着を脱いだ。運動用のノースリーブシャツに、短パンとレギンス。シューズの紐を締め直し、ストレッチを始める。男達は、露骨に気勢を削がれていた。女相手に居丈高になることもあれば、奇妙に紳士を気取ったりする。フミツキの経験上、互いに詳しくない面子が集まると、取り敢えず表面を取り繕う人間が多かった。
アジトのトレーニング場である。走り出したフミツキの後ろを男達はなんとなくという感じで付いてきた。十周する頃、一人が遅れ始めた。振り返ったフミツキと目が合う。クリード。フミツキがちょっと笑うと、顔を真っ赤にしながら速度を上げてきた。そのまま横に並んでくる。
「おい、今、何分だ?」
「二十分」
「馬鹿言うな。もう、三十分は、走ってる」
「まだまだですよ」
「クソが。鍛えて、やがったな。お前」
「人並みには」
タマムシには、ほどほどの勉学とほどほどの就職を求めてやってきたのだ。それほど打ち込める訳もなく、空いた時間にするような趣味はトレーナーとしてのそれしか知らなかった。目的などなくても、走れば勝手に躰が体力を付ける。
クリードの呼吸が荒い。それでも、横並びの形は変わらなかった。後続の方が遅れ出している。
「ペースを落とした方がいいと思います」
「お前の、貧相なケツなんぞ、見たかないね」
「そう悪くないと、自分では思ってるんですけどね」
ロケット団も大概、男所帯である。この程度の話題なら、顔色も変えずに返せるようになった。
「ボスの秘書なんか、大したもんだったさ。俺は、たまらなかったね」
自分でも知らぬまま、フミツキはむっとしたらしかった。クリードが笑みを深めるのを、フミツキは無視した。
「最前線には、私が立つことになります。私と並ぶなら、そういうことになりますよ」
「俺のズバットで、前線に立つ、っていうのかよ」
「怖いですか?」
言いながら、怖い、とフミツキは思った。タケシには勝てない。選抜した十名全てでかかっても、勝負にもならないだろう。それほどに、ジムリーダーと一般トレーナーの間は隔絶していた。
「怖いに決まってるだろ」
思わず、横を見た。クリードは走ることに精一杯で、フミツキの視線に気付いた様子もなかった。
「勝てる訳のない奴が、この世にはいくらでもいる。それが当たり前なんだ」
「じゃ、なんで勝負するんですか?」
「馬鹿を言うな。勝てないからって逃げて、なにがトレーナーだ」
言ったきり、クリードは走ることに専念し始めた。
フミツキはまだ余裕があった。ペースを上げる。後ろはさらに遅れたが、クリードはそれでも付いてきた。
ペースを上げる。それでも、クリードは振り切れない。苛立ちのようなものが、フミツキを襲った。
「負けず嫌いなんだな、おい」
クリードの言葉は、はっきりとフミツキの琴線に触れた。駆ける。一瞬追い縋ろうとしたクリードが、あっという間に後方に遠ざかっていった。距離で言えば、タマムシから七番道路を抜けるぐらいの距離を走っている。ポケモンならともかく、トレーナーの体力としては圧巻だった。
負けず嫌いという顔を、している筈はなかった。
精々苦しいか苦しくないかの瀬戸際だろう。それは、フミツキにはよくわかった。今の自分は、人に見せられる顔ではない。色々な意味でだ。鏡がない。それは、救いだった。
誰かが転倒した。最後尾の人間で、フミツキだけなら気付きもしなかっただろう。気付いたのは、フミツキに追い付こうと必死だったクリードである。ストップウォッチを、止めた。
「どうするんだ、おい」
「先頭に。撤退の際は、後続が入れ替わりに補佐します」
「つまり、俺達だな」
頷いた。遅れた団員を中心に、人が集まっている。あそこが、実戦では主戦場になる。フミツキはもう一度、頒布の地図と目の前を見比べた。遅れたのが誰かということは、気にしなかった。
HGSSは未プレイで、LPLEは流しでクリアしました。なのでアポロの存在をすっかり忘れていました。今さらアポロを出すのもあれなので、クリードと名前を変えて出すことにします。アポロ・クリードです。大して重要なキャラではないので、忘れてもらっても大丈夫です。
ロッキーは1と2が好きです。