時雨は夕立の背中に違和感を持った。だが見慣れた背中との違いを見つけられずに気のせいだと首を振る直前、夕立の背中が消えた。接触寸前ですれ違った夕立の回頭に反応できたのも、夕立に何が起きたのか理解できたのも、牽制のタイミングを伺っていた吹雪だけだった。
「夕立――」
減速して振り返るが、白露型の機関出力を超えて遠ざかる背中に届いているとは思えなかった。その背中を吹雪が追い抜き、指示を叫ぶ。
「夕立ちゃんは私に任せて、全艦進行方向を維持!最大戦速で離脱して!」
声は確かに聞こえた。反撃に出るには挟撃を抜け正面から向き合うべきなのは分かっている。しかし、意識が夕立に引かれる。ここで離れれば二度と会えない気がして。
急激な状況の変化により思考が止まった艦隊は、先頭の白露をはじめ全艦が吹雪の後を追う形となる。
――艦隊の隊列は乱れ、指揮系統は完全に失われた。
吹雪は背後の機関音で僚艦の動きを理解した。起きうることだとは思っていた。最善ではないが、最悪の状況でもない。息を吐き迫りくる魚雷に意識を戻す。軽巡から牽制ではなく殺意を持って放たれたそれは散り広がることなく吹雪の前面を制圧する。迎撃のために掲げていた機銃を下ろし水面を踏み出した。並んで放たれた魚雷が磁気信管である限り存在する反応領域の隙間、脚一本分の生存領域へ。
両脚での航行を前提とした推進器を無視した体勢がバランスを崩す。推進力も浮力も損なった足元を操り魚雷が背後に過ぎるまで勢い任せに駆け抜ける。
安全圏となった瞬間に両脚を付き最大限に機関を回す。夕立に追いつくために前傾になりながらも機銃だけは背後の魚雷に向けて放つ。
吹雪と時雨の間で一斉に爆発した魚雷は水柱と変わり、二人を分断する。夕立につられた艦隊の動きが強制的に止められた空隙に、吹雪は通信と声で指示を出す。
「白露ちゃん!敵駆逐艦隊の撃破を優先して!」
それだけで吹雪は今度こそ完全に意識を前のみに向ける。
完全な想定外により隊列が乱れた。それは確かにミスだ。だが、一瞬の間さえあれば艦隊は立て直せる。吹雪はそう確信していた。この部隊の実力を、白露型一番艦の指揮能力を。ならば最悪など起きるはずがない。
魚雷により発生した大波に乗り加速する。一度相手の予想を上回る加速をしてしまえばあとは簡単だ。実際よりも遅い動きを想定して放たれた偏差射撃は吹雪の背後に落ちる。その波をとらえ続ければいい。
駆逐艦の機関出力以上の速度で迫っても夕立の接敵を止めることは叶わなかった。手から直接放たれた魚雷の爆発音が聞こえる。深海棲艦と見まがう鈍い光、従来の艤装を無視した戦闘手段、自らの負傷を介さず敵の殲滅を遂行する姿。吹雪はその姿を知っていた。忘れるわけがなかった。届かぬところに行ってしまうその姿を。
周囲の深海棲艦をほとんど無視して夕立に迫る。近づく影を敵と認識した夕立が主砲を向ける。それでも必死に手を伸ばした。こめかみを掠る砲弾に意識を持っていかれそうになりながら必死に懐に飛び込む。
「夕立ちゃん!」
やっと、やっと届いた――!
何もすることができなかったかつての自分の幻影ごと夕立を抱きしめた瞬間――
全身の悪寒が現実を告げた。
肩越しに爆発した魚雷が吹雪と夕立を引き離す。脳が揺さぶられ朦朧とする意識の中、額から流れる血が目に入る前にぬぐいながら己を叱責する。
当たり前だ。触れられただけで打開できるわけがない。
気持ちで、気持ちだけで変えられるなら――
目の前の暗い光に呑まれて沈んでいった仲間たちを思い出す。その景色が滲み吹雪を包む。刹那に消えたその灯りは変える。身に纏った艤装を、運命を。
頬を伝う血潮の熱が脳を冷ます。体の軽さにも兵装の変化にも動揺はない。その力の源も使い方も初めからあるかのように受け入れる。
複数の深海棲艦。目の前の夕立と連携するのが最適だが夕立の行動は敵にもなりうる。それ以前に至近距離で魚雷を放つ夕立の負傷は戦闘継続を困難にしていた。それでも止まることはないだろう。この海域すべての艦を沈め、自ら沈むまで。
夕立の行動を制限しながら可能な限り早く深海棲艦を駆逐する。
できない――なんて聞いてくれる人はもういない。
魚雷の装填音が無機質に響く。静かに発射管を後方に弾く。
できるか――なんて問の先に成せたことはない。
残弾すべてを込めた機銃を左右に向ける。
できる―――それは決意でも祈りでもなく、義務だ。
両腕で構えた主砲を目の前に掲げる。
そのために吹雪はここにいる――
「私がみんなを護るんだから!」
動き始める世界で、すべての兵装を解き放った。