「朝雲…!」
朝潮が脚をふらつかせながら駆け寄ってくる。服も破け、傷も見える。それでも、頑なな姉に大きな怪我がないことに安堵する。応えるために支えられながらも立ち上がる。霞が朝潮を追い抜き、ようやくバランスをとった不安定な体に抱きついたせいで倒れかけるが、しっかりと支えられた。
「…ごめんね、私ひどいこと言って…」
後ろから静かに頭を撫でる朝潮を見て分かった気がした。霞には彼女なりの苦しみも葛藤もあって、それはただ生きていた自分よりずっと大変で、だからこそ生きていて良かったと思えた。
朝潮に重ねる形で伸ばした手は霞に乱暴に払われた。
「番号は下でも私のほうが先輩なんだから…」
「なによ」
行き場がなくなり下げた手ごと抱きなおされた感触を受け止め、ようやく自分の頬に涙が流れていたことに気づいた。
まだ足りなかった。霞が顔をうずめてぐしゃぐしゃに泣いているなら、後輩はもっと泣いていいはずだ。
息ができなくなるほど声を上げてあふれた涙がようやく止まったとき、朝潮と目が合った。久しぶりに見た気がした微笑みに、鼻水をすすりながら精いっぱいの笑顔で応えた。
「…ただいま」
「テートクー!がんばりましたヨー!ほめてくだサーイ!」
執務室の扉を跳ね開けながら飛び込んだ。が、いつもは正面にいるはずの白瀬が見えない。
「テートクー?ドコですカー?」
体全体を回しながら探すと、応接室のソファーで倒れている白瀬が見えた。心配になり覗き込んだが、ただ寝ているだけのようだ。休むことなく指示を出し続けていたのだから当然なのだが、おそらく鳳翔がかけていったであろうブラケットを見て頬が膨らむ。
「テートクがほめてくれるまで動きませんヨー!」
隣に座り込んで白瀬を見る。
「早くおきてくだサー…イ…」
その寝顔が安らかで、ずっと見ていたいと思いながら、金剛の意識もゆっくりと降りていった。
朝、いつもの習慣で散歩に出かけた。来た事のない鎮守府の敷地内は見慣れた鎮守府と大きな違いがなくとも新鮮だった。昨日の夜はみな遅くまで騒いでいた分、朝早いはずの鎮守府が静かだった。外様には関係のない話だが。
「…叢雲ちゃん、っぽい?」
「ぽい、じゃないわよ」
静けさをどこか懐かしんでいたところに背後から声をかけられ少し不機嫌になる。それを見て遠慮がちだった立ち姿がさらに縮こまる。それでも夕立は一呼吸開けてから続ける。
「その、叢雲ちゃんの…改二って――」
「さっさと言いなさいよ」
「か、改二って、どうやってやったらいいか教えてほしい、っぽい…」
――ああ、そうか
叢雲は海での夕立を思い出し合点する。
「あんた、深海棲艦化したのね」
何気なくその名を口にした叢雲に夕立は目を見開いて答える。おそらく吹雪は夕立にそこまで告げてないのだろう。そしてそれでも叢雲が何を言ってるのか分かってしまう。
伏し目に戻った夕立を見て、自分を恐れているのではないことを悟る。目の前の彼女は己の内側のなにかを恐れ、それでも克服するすべを求めて叢雲に声をかけた。であるなら、叢雲の答えは決まっている。
「…その、夕立もみんなの力になりたくて――」
「やめときなさい」
立ち止まる夕立に叢雲も立ち止まる。残念ながら、吹雪ほど甘くはない。
「誰かのため、なんて理由ならね。改二はある程度解析も進められてるけど、深海棲艦化については全くと言っていいほど分かってないわ。なんでか分かる?」
首だけ振り返り、答えを待つつもりのない問いかけの答えを告げる。
「みんな死んでるからよ」
再び表情がこわばる夕立を見て再び歩き出す。もう夕立はついてこない。
夕立の感覚は正しい。改二と深海棲艦化は対のようなものだ。深海に触れるものだけが改二へと至れるのだろう。だが、改二が唯一の解決法ではない。
改二など夢見ずに逃げればいい。死地からも恐怖からも。深海棲艦化を起こしている以上、いくらでも言い訳はある。
「助かった命を大切にしなさい。自分の命がなによりも大切なのは誇るべきことで、とても幸運なことなんだから」
親切心で告げた言葉を置いて角を曲がった。
「あ、叢雲ちゃん」
しばらくたって、能天気な声を今度は正面からかけられた。この鎮守府で声をかけてくるのは本来この1人しかいない。
「あらためまして、久しぶりだね」
「吹雪、あんたこんなところにいたのね」
ふと昨日の繰り返しと気づいて顔をしかめるが吹雪は気にする様子がない。
「うん、叢雲ちゃんと別々になってからいろいろ移ってたんだけどね」
「ここじゃ教官みたいなことやってるみたいじゃない。まともに航行もできなかったのに、えらくなったものね」
とげのある言い方になってしまったが、吹雪は照れ臭そうに頭をかく。
「えへへ…なんかみんな尊敬とかしてくれないけど」
「それは無理ね。身の程を知りなさい」
大げさに落ち込む吹雪は急に背筋を伸ばす。忙しいものだ。
「そうだ!夕立ちゃん見なかった?」
意外と面倒見の良い吹雪に、自らの背後を左寄りに指さす。別用があるならこれ以上話すこともないだろうとすれ違おうとする。
「気をつけなさい。あの子、沈みかねないわよ」
どこまで意図を理解したのか分からないが、吹雪はおずおずとうなずく。叢雲の背中を見て思い出したかのように最後に尋ねてきた。
「ねえ、叢雲ちゃんはどこの艦隊にいたの?」
「言っても分からないわ」
一瞬の間が空いた。その空白のうちに手が無意識に固く握られたのを自覚する。
「――何もない、小さな島よ」