「あら」
車両に入ってきたのは、1人の少女でありました。
少女は不思議そうに首を傾げました。自分は今まで雨の中を走っていたに違いないのになぜ列車の中にいるんだろう。それも、ごとごとごとごと、走り続けている列車なのでした。車室の中は青いビロードを張った座席が並び、壁面はネズミ色のワニスが塗られていまして、それは彼女からすればどこか懐かしい、古い時代の映画でしか見たことがないような内装なのでした。
「変ね、何かしらここ」
自分が通学する路線の電車にこのような奇妙な車両はありません。また何かに巻き込まれてしまったのだろうか、そう思ってスカートを探るも、ここ数日は恐ろしくて肌身離さず持ち歩いていたスマフォがありませんでした。濡れそぼった布が肌に吸い付きました。少女は顔をしかめました。スカートも、シャツも、首に巻いたネクタイも、髪の先まで漏れなくじんわりと濡れ果てていました。
「きれいだわ」
自分がどこにいるのか知りたくて窓の外を覗き込めば、そこは黒い空をキャンバスに、砂金の袋をばら撒いたような、しかもその金の粒が大小様々で、遠いのや近いのやでいっぱいで、しかもそいつらはちらちらと灯ったり震えたりなんかもして、見つめているだけで意識が吸い込まれそうな有様でした。
濡れた髪の気持ち悪さも忘れて少女が窓を眺めていると、鐘のような声に話しかけられました。
「この列車は銀河の中を走っているのですよ」
声の主は座席の背もたれに隠れていて、窓の外に気を取られていた少女の視線の反対側に、少女の目から逃げるように座っていました。
鐘の声は、年若い少年のもののようでした。
少女が振り返れば、濡れたように真っ黒な上着を着た、背の高い少年がいました。細い背筋をピンとさせて、その長い足をゆるりと組んで座っていたのでした。
少女は戸惑いました。
こちらを見つめる少年の目に宿る暖かさがどうにも具合が悪いのです。
「どこかで会ったことがあったかしら?」
「いえ、いえ」
少年はゆるりと首を振りました。
「ただ、人が乗ってくれたことが嬉しくてつい笑ったのです」
車両には少年以外誰もいませんでした。ただ列車の足音がごとごとと静かに響くだけの車両は、静寂よりも静かに感じられました。窓の外にも人の営みが感じられないからでしょう。
「どうぞ座ってください、旅をされてきたのなら、立っているのも辛いでしょう」
少年は笑みを向けながら、向かい合う席へと少女を誘いました。
「でも私濡れているわ。座ると席を汚しちゃう」
「大丈夫ですよ。この列車は汚れないし壊れない。先も船で沈んだ人が座っていたけれど、ちっとも濡れていないでしょう?」
言葉の意味が少女にはわかりませんでした。しかし汚れないというならと、彼女は濡れた指を座席で拭って見ると、泥も水滴も座席には付きませんでした。座席に着くまでの間にすうっと、水滴も泥もみながみな灰色に光って蒸発してしまうのでした。
「どういう仕組みなの?」
「仕組みなんてありません。規則で決まっているんです。椅子を汚してはいけない、ものは大事に使わないといけない。みんなその規則を守っているんです」
「不思議ね」
不思議であってもこれなら気兼ねなく座れることは確かでした。少女は濡れた髪をかきあげながら少年の斜め向かいに座りました。
「なんだかあなたとは初めて会った気がしないわ」
「僕も」
2人は互いを見つめ合いました。その瞳に宿る輝きが、どこか懐かしい色合いを帯びて見えました。それをどこで見たのか、少女はしばらく思い出せそうもなくて、うぬうぬと腕を組んで悩みました。
少年はポケットのハンカチを少女に渡しました。少女はそれで顔を拭いました。
「でも、あなたの名前を私は知らない。それが不思議なの。あなたの名前を知らないのが不自然とまで感じる」
少女は遠回しに少年の名前を尋ねました。
「僕もです。あなたの名前を知らないことが、どうにももどかしくてソワソワする」
思わず、とばかりに2人は微笑み合いました。
「私はケイコ」
「僕はカムパネルラ」
2人は名乗り合いました。ああ、確かにそんな名前だった、なんて、初めて聞いた名前に既視感を2人は覚えました。
二人は互いの顔を眺めながら、しばし列車の音に身を委ねていました。
「こういうこと、前にもあったわ」
「こういうこと?」
一頻り銀河の流れを楽しんでから、ケイコは口を開きました。
そうなの、とケイコはうなづいて、
「初めて会ったのに既に知り合いだったような。出会いを覚えていないのにいつの間にか親友と思っていた感じ。それとも何度も会っていたのに初対面のような気持ち」
「ふうん? それは不思議だねえ」
「ううん。今思うと不思議なことでもなかったわ」
ケイコは窓の外に視線を逸らしました。
「私は学校に行きながら幾つもアルバイトしていて、クラスのことなんてほとんど視界に入っていなかったの。クラスの子たちの会話がなんだか私には別世界のように見えていて」
「別世界? 同じ教室にいたのでしょう?」
「おかしな話よね。この列車のほうがずっと別世界のはずなのに」
ふう、とケイコは息を吐きました。
「自分とか弟妹のことでいっぱいいっぱいで、それしか意識になくて、それ以外のことは視界には入っていても私の視界じゃなかった。テレビで見て知っているけれど知り合いではないみたいな。きっと私にとってクラスメイトはテレビの芸能人だったの」
「他人事、ということなのかなあ」
「そんな感じね。でもだからこそ、私を親友と呼んでくれたあの子が大事だった。とても優しい子だったの」
ケイコは膝を見つめたまま、薄らと、でも柔らかく笑いました。
「あの子は、なんだかあなたに似てるわ」
「へぇ。どんな人なんだい、君の友人は」
「クラスの中心で、皆の憧れだったわ。勉強ができて、運動もすごくて、いつもキラキラした素敵な笑顔で、でもどこか遠くを見てて、本当は皆に優しい」
「すごい人がいるんだねえ。そんなすごい人と似ていると言われるとなんだか面映いねえ」
カムパネルラは頬を赤くして笑いました。
「その友人は一緒ではないのかい?」
「いないと思うわ。途中まで、2人でずいぶん走ったのだけれど、私は追いつけなかった。あの子は先に行ってくれた」
「先?」
「うん。まっすぐに進んでくれたはずだわ。最後まで見れなかったけど」
信じている、とケイコは言いました。その言葉とは裏腹に、彼女の口調は沈んでいました。
「どこだったかしら。東京の高校に通っていたのだけれど、そうよ、グアムに行くはずだったの」
「グアム?」
「南の島よ。でも飛行機が事故に遭って、どこと言っていたかしら、クラスの男子が言っていたの。ここは北マリアナ諸島じゃないかって。グアムよりは北だけど、日本よりずっと南の無人島だって」
「日本なら知ってるよ。英国みたいな東の島国だ。地球儀で見たことあるよ」
カムパネルラは年相応の幼さを見せながら、キラキラとした目でケイコを見つめました。
「日本だってイタリアよりずいぶんと南寄りだったと思うけど」
「ええ、そうね。緯度でいえば確かローマが函館あたりだって地理の先生が言ってたわ。つまり、日本の一番北側がローマくらいてことかしら。そこからずっと南にある島に漂着したの」
へえへえ、とカムパネルラは感心した風に笑いました。
「ああ、だから君はこんなところから乗り込んでしまったんだねえ」
「こんなところ?」
「この列車の終点は、ほらごらん」
カムパネルラは窓から身を乗り出して、列車の後方を指差しました。ケイコは一つ隣の窓から同じく顔を覗かせました。
「あそこに大きな十字架が見えるだろう? サザンクロスの駅なのだ。あそこが本当はこの銀河鉄道の終点なんだ」
「終点を過ぎてしまったの? だから私たち以外にお客さんがいないのね」
「僕も、ジョバンニも、沈んだ船のお客も、みんな北の海から乗り込んだのです。だのに君は南の島から乗ったという。だからサザンクロスを通り過ぎてしまったんだねえ。おかしな乗客がいたものだって僕は思っていたんだよ」
「これからどこに行くのかしら、この列車は。私たちを乗せたまま終電を過ぎて」
「あそこだよ」
カムパネルラは窓の外を指さしました。その先を辿れば、遠くにきれいな野原が見えました。ぼんやりとした白い光を纏う霧で覆われていて、その中に薄らと人の列が見えました。
「きれいな野原ね」
「そうだねえ、きれいだねえ。おかしなことにね、初めてあそこを見たときに、あまりにもきれい過ぎて、あの野原が本当の天上なんだと思い違いをしてしまったんだ」
「そう言われてみたら、そう見えなくもないわ。でも、あそこが天上でないなら、何であんなにきれいなのかしら、何があそこにあるのかしら」
「お母さんがあそこにいるんだ」
カムパネルラは弾むように、その鐘のように響く声で言いました。
「お母さんのいるところが本当の天上だと思っていたんだけれど、そうではなくて、あそこは天上に行く前にお母さんが僕を待ってくれている場所なんだ」
そこにカムパネルラの母親がいるのなら、きっと病死した自分の母もいるのだろうとケイコには思えました。
「あそこは待合室なのかしら」
「そうかもしれない。皆、一緒に天上に行く相手を待っているのかもしれない」
「でも、あそこにお母さんはいるなら、そこが私の本当の天上かもしれない」
「なるほど。じゃあ僕はあそこでジョバンニを待ってもいいかもしれないねえ」
「私は弟と、妹と、カレンを待たないといけないわ」
ケイコの瞳が潤みました。カムパネルラの目がわずかに細まりました。
「弟妹がいたんだねえ」
「ええ、可愛い双子なの。小学生で、なのにお掃除も洗濯も完璧にやってくれるの。きっと泣いてしまうわ。どこかの施設に入ることになるのかしら。それにカレンは、どうなったのかしら」
「どうって?」
ケイコは逡巡しました。カレンとの思い出を、いくらカレンに似ているとはいえ初対面の少年に語流べきか迷ったのです。でもそれを教えることにしたのは、自分たちの絆を誰かに伝えたかったからでした。
隠すような後めたいことなんて何もない、自分は人に誇れる良いことをしたのだと胸を張りたかったのでした。
「敵がいて、クラスメイトが何人も殺されたの。本当はもっと複雑だけど、ともかく私とカレンは敵の元に向かっていた。雨の中、敵の攻撃から庇いあって、あと少しってところで鉄砲水に襲われて、カレンが川に落ちかけたの」
「それでどうなったの?」
「咄嗟だったわ。気付いたら手が伸びて、カレンを引き揚げて、その反動で私が流されて」
それは友を救った素晴らしい話のはずでした。しかしそれを語るケイコの口調はどんどん陰鬱になっていきました。
スカートを握る手が震えました。涙がその手の甲を濡らしました。
「わからないの。弟も妹もまだ幼いのに、それでも私はカレンを助けることを選んだ。クラスの中で異物だった私を、現実につなぎとめてくれる唯一の繋がりだったから。あの子のためなら身を挺しても惜しくないって。なのに今私は不安なの。本当は私は許されないことをしたんじゃないかって」
「僕もそうでした」
震える声を遮るように穏やかな鐘の声が響きました。
「僕も不安でした。きっと僕を許してくれると、信じることしかできませんでした」
カムパネルラは首を振りました。ケイコを見据えるその瞳は驚くほど静かでした。
「僕も友人を救おうと川に飛び込み、そのまま沈みました。お父さんはまだ生きていて、男手一つで育ててくれました。一番の親友とは疎遠になって、会話もままならなくなっていました。やりたいことも、やり残したこともたくさんありました。
それでもそれが正しいことだと信じるしかありませんでした。お母さんもきっと許してくれると」
カムパネルラの瞳にも、ケイコのように涙が浮かびました。
「正しいことをしたと、信じるしかなかったのです。だけれど心の奥底には不安がありました。信じることは、どうしたって100にはならないのです。どうしたって届かないのです。だから僕は苦しかったのです。99と100の間の暗闇で僕は泣いていたのです」
「信頼が足りないということ?」
いいえ、とカムパネルラは首を振りました。
「例えば敬虔な基督教信者でも。毎日お祈りを欠かさず、安息日には礼拝を欠かさず聖書の全てを暗唱できても。自分の財産を全て寄付し、日々人を助け、戒律を一度も破ったことがなくても。それでも信じることは100に届かない。死んだことがないのですから、死んだ後どうなるかを100信じることができないのです」
「だから怯えていました。自分は天上に至れないのではないかと。そもそも天上などないのではないかと。人の生は、死後地獄に落ちるかもしれない怖れと寄り添う牢獄なのです。そして今も。天上へと進む列車に乗っていてすら、僕は怖かった」
「地獄に行くかもしれないから?」
「許されないかもしれないから」
カムパネルラは苦々しく笑いました。それはとても大人びた表情で、ケイコは実は彼が自分より年上なのではないかと疑いました。
「天上に行けることは、僕はいいことをしたことの証左です。本当にいいことをしたらそれが本当の幸いであるのだと、だからお母さんも僕を許してくれると、僕は信じたかったのです。でも本当の幸いがなんなのか、僕はわかりませんでした」
カムパネルラが視線を車窓へと向けました。カレンもそれに倣えば汽車は相変わらず燐光の川辺を進んでいました。幻燈のような野原の中に、大小様々な三角標が立ち並んでいました。ちょうど今汽車の前方から迫るのは、ちょうど牡牛座の形に並んでいるのでした。
「人のために進むことが本当に幸いなのかわからないのです。本当の幸いってなんだろう。ずっとそう考えていました。先生は言いました。いろいろな喜びも悲しみも、全ては天上に至るための神様の思し召しだと」
ケイコはなんとも言えず、ただカムパネルラを見つめました。汽車の音だけが耳に残りました。
「ところで、蠍座を見たことはありますか?」
突然にカムパネルラは問いました。
「プラネタリウムでなら、昔お母さんに連れて行ってもらったわ」
「今窓から見える三角標は牡牛座の形をしています。その対の位置にあるのが蠍座です。さそりの胸に灯る赤は炎の色なのだそうです」
「炎?」
ええ、とカムパネルラは頷きました。
「次に死ぬのなら孤独に死ぬのではなくみんなの幸いのために私の体を使ってほしいと、神様にお願いしたのだそうです。おかげでさそりの体は赤く燃えて、夜闇を照らす灯火となっていつまでも燃えるようになったのだと」
「死んでも燃やされ続けるのね。日本では罪を浄化するまで罪人を焼き続ける煉獄というものがあるそうだけど、そのさそりはそんなに悪いことをしたのかしら」
「燃やされる痛みについて考えたことがなかったけれど、それはもしかしたらさそりの罪を浄化しているのかもしれない。他人のために生きなかった罪」
「それはそんなに重い罪なの? 神様の判断基準ってずいぶん偏ってない? 人のために進むことが幸いなら、どうしてさそりは灼かれないといけないのかしら」
ケイコは溜め息を吐きました。
「羨ましいわ」
「さそりが?」
「あなたが」
カムパネルラは首を傾げました。
「うん。あなたがとても羨ましい。あなたは自分が正しいことをしたのだと信じている」
「そんなことはないよ」
「でも、じゃあ、どうして笑ってられるの? とても穏やかな、嬉しそうな顔してるわ。不安じゃないの? この身を焦がすような辛くて苦しい不安があなたにはないの?」
「不安はありません」
少年は胸を張って、誇らしげに言いました。
「なぜなら僕はこの目で見たからです。ジョバンニが立ち上がるところを見ることができたのです。そのとき僕は本当に安堵したのです。ジョバンニは立ち方を知ったのです」
「あなたが助けたの? だから」
「いいえ、いいえ」
カムパネルラはゆっくりとケイコの言葉を否定しました。
「僕は何もしていません。僕は天上に導かれる列車の乗客で、生きているジョバンニにかける言葉なんて何一つ持ち合わせていませんでした。僕はただ彼を信じて、すがり付くかれが立ち方を思い出すのを待っただけです。本当は抱きしめたかった。頑張れと声をかけたかった。でもそれは僕の役割ではなくて、だから彼は自分でプレシオスの鎖を解いたのです」
カムパネルラはケイコの目を見据えて言いました。
「信じきれないのでしょう」
「信じる?」
「君の親友が、あの後もまっすぐに君を置いて進んでくれたかどうか」
ケイコはしばし考え、そして遠慮がちに頷きました。
「そうかもしれない。信じなきゃダメなのに、カレンを疑うなんてダメなのに、それでも不安が消えてくれないの」
「悲しみに囚われた人は前に進めない。もしかしたら、自分が死んだら君の親友は立ち止まってしまうかもしれないと」
「弟や妹は、私を許してくれるかしら。カレンを助けた私を褒めてくれるかしら。カレンは死んだ私を許してくれるかしら。前に行ってくれるかしら」
ケイコは身を震わせながら両手の指を組んで祈るように言いました。どうか許してほしいとそれは懇願のようでもありました。行って、と。最後にカレンに伝えたつもりでした。それが本当に伝わっていたのか、ケイコにはわかりませんでした。
「わからない。君がいなくなって、幼い弟妹はこれから泣きながら暮らすことになるかもしれない。辛い人生を歩むことになるかもしれない。それでもきっと、全てがその子たちの幸いへの思し召しだ」
「私の死も?」
「死も、辛い出来事も。あなたと共に過ごした喜びも。全てが彼らの糧となって幸いに至る道しるべになる」
カムパネルラは微笑みました。窓にはたくさんの渡り鳥が汽車と並走してました。渡り鳥はどれも白く淡く輝いていて、そうかと思えばふと矛先を上げてあっという間に空高く舞い上がって行きました。
「誰かの幸いのために進むことが本当の幸いだと思っていました。だからザネリを助けました。お母さんも許してくれると信じました。でも今になって僕は思うのです。ジョバンニが立ってくれたときの安堵こそ、本当の幸いではないかと」
ケイコは顔を上げてカムパネルラを見つめました。彼の瞳には今までより一掃の喜びが讃えられていました。
「誰かの幸いのために進むのではなく、誰かの幸いとともに進むことこそ本当の幸せなのではないかと、ジョバンニに教えてもらったのです」
死ねば孤独だと思っていました。カムパネルラは言いました。
「だから信じるしかないのだと。正しいことをした自分は一番の幸いだと、だからみんな許してくれると。そう信じるしかなかったのです。ですがジョバンニは立ち上がってくれました。プレシオスの鎖を解いてくれました。解いて、1人己の人生を進んでいく。僕たちは2度と会うことはないでしょう。それでも、僕は1人ではなくなったのです。ジョバンニは僕を糧にして立ち、進んでくれるのですから」
ケイコは呆けたようにカムパネルラをただただ見つめました。窓の外から聞こえてきた賛美歌もケイコの耳には入らず、ただカムパネルラの言葉を待っていました。森の奥から黄金色の風に乗って届くオーケストラを傍に、カムパネルラは口を開きました。
「僕たちが本当に正しかったのかはわからない。多くの人を悲しませた僕はもしかしたら間違っているのかもしれない。それでもジョバンニは彼を信じた僕の前で立ち上がってくれた。それならきっとみなも立ち上がってくれる。お父さんも、ザネリも、僕にまつわる悲しみも喜びも共に」
よかったわね、とケイコは言いました。
「あなたのおかげで立ち上がれたのなら、ジョバンニさんが進む限り、あなたは一人じゃないのね」
「そうですね。僕は死んでなお一人ではないのです。僕を糧として進んでくれる限り、僕はずっとジョバンニと共にある。そのジョバンニも誰かと出会い、喜びと悲しみを与えあって誰かの糧となる。血肉とした僕と共に誰かの本当の幸いへの道標となる。その誰かもまた別の誰かにと、星の数ほどある出会いの全てが繋がっている。僕は死んでも一人になれない。これ以上の幸いがあるでしょうか」
ケイコが震える唇を懸命に動かして言いました。
「出会いも別れも、みんな幸いにつながっている」
「死んだら孤独になるのだと思っていました。でも僕たちは死んでも一人になれないのです。ずっと繋がっている。プレシオスのように見えない鎖で繋がっている。死のうと、消えようと」
「カレンは」
ぽつりとケイコの口から言葉がこぼれました。
「私は、カレンが進むための糧となれたかしら。あの子たちは立ち直れるかしら」
極限の状態でした。無人島で殺し合いを強制されて、それでもキレイであり続けた自分の親友は、目の前でクラスメイトが流されて、それでも前に進んでくれただろうかと、ケイコは思いました。弟妹が強く生きてくれるだろうかと思いました。自分との思い出を糧に幸いへと進んでくれるだろうかと思いました。
ありがとう
唐突に、ケイコの耳にそんな言葉が届きました。
聞こえるはずのない声でした。でもそれは森から響くオーケストラの調に乗って、微かにケイコの元に届きました。激しい雨と風と濁流に紛れて、本来耳に届くはずのないそれは、何者かの思し召しか、ケイコの元に届けられたのでした。
「そっか」
その一言でケイコは納得したのでした。
「人は死ぬわ」
「そうだね」
「必ず死ぬ」
「そうだね」
「誰かの血肉になって」
「そうだね」
「私はみんなの糧になっていた」
「そうだね」
「だったらみんなには、ありがとうって言って欲しい」
人は必ず死ぬ。
だけれど、あなたの人生は続く。
あなたの血肉になって。
だから別れの言葉は「さようなら」じゃなくて。
ありがとうであるべきだ。
ありがとう
「どういたしまして、カレン」
汽車が徐々に徐々に足を止めました。長い長い汽車ですので、止まるのには時間がかかるのでした。黄色い帽子をかぶった男が旗を振って汽車に何か合図をしました。先ほど見た白いもやがかった野原に汽車は入っていきました。
野原の隅をカムパネルラは指差しました。
その隣にはケイコの母親もおりました。
列車の中に、燈台看守の声が響きました。汽車はここでしばらく休ませなければならないのでした。