the abyss of despair   作:佐谷莢

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第百六唱——見届けることもなく、頁はめくられる

 

 

 

 

 

 

 全部集まった。

 スィンがそう確信したのは、意図的に停電させてからしばらく経ってからのことである。

 闇討ちで集めた分に加え、動けない囚人達から奪った分を回収し、カンタビレを置いてきた辺りに放棄されていたズタ袋を回収し。

 灯りを持った兵士達をやり過ごして数えなおすこと三回。間違いなく、演習場内にいた囚人全員からバッジを奪ったことを確認して……途方にくれる。

 これで求められた条件は満たしたわけだが、このあとはどうしよう。

 本来、監視役がそれを確認して特別罰則は終了するのだろうが、カンタビレはどこにもいなかった。

 その辺りをうろつく兵士群に申告する? しかし、先程出くわしそうになった時は問答無用で攻撃されたのだ。

 大方、非常事態として囚人全員を処刑することにでもしたのだろうが……

 さてどうしたものかと、立ち止まっていると。

 

「いたぞ!」

「囲め! 今度こそ逃がすな!」

 

 兵士達の灯りに捕まったわけでもないのに、なんで捕捉されたのだろう。やはりこのバッジは、発信機に類する何かがくっついているのだろうか。

 逃げ回って自力で入り口を探して脱出したかったが。やはりそれでは正規に罰則終了とはならないだろう。

 灯りに照らされるより早く、これにて打ち止めとなる空蝉を作り上げる。黒外套を羽織らせたところで、まばゆい光が向けられた。

 携帯用の音素灯か何かと思っていたが、彼らはそれらしいものを何も携えていない。

 その手に持つのは譜術媒体で、その先端に譜術製の光を宿している。その光の強さから譜術抑制の結界は機能停止していると思われたが、カンタビレは他者を害する類の譜術限定と言っていた。

 周囲は明るくても、真実は今尚闇の中、だ。

 兵士は続々集まりつつある。蹴散らせないほどではないが、明らかに囚人ではない彼らに手を出して難癖つけられるのは御免だった。

 そもそも此度の騒動はジェイドに──皇帝の懐刀にしてマルクト帝国軍第三師団師団長にちょっかいを出したところから始まる。

 彼絡みの茶番なんか一度だけでよい。どこまでも彼はスィンを、スィンは彼を不幸にしかしないのだから。

 とにかくこの件に関してはこの場できっちりと決着をつけるべく、一定の距離を取りつつスィンたちを囲む兵士達を睥睨する。

 空蝉の背中に立ち、スィン自身の目と空蝉の視界を交互に働かせて。

 やがて、ヴォルトの干渉が外れたのか、あるいは単純に復旧したのか。闇に包まれていた演習場内にぽつぽつと光が戻ってきた。

 それに伴って、状況もよりはっきり見えてくる。

 スィン達を包囲するのは、やはりマルクト軍に所属する兵士達だった。出で立ちから仕官クラスは見受けられない。

 譜術媒体を持つ者が大半だが、槍や剣を持つ者もおり、その切っ先は例外なくスィン達に向けられている。

 ただその距離は一定を保ったもので、ためしに空蝉に踏み出させてみたところ、まるで見えない壁でもあるかのように兵士達は後退した。

 このまま問答無用で串刺し、あるいは四方八方から譜術乱打されるのかと思えば、どうも違う様子。

 何を企んでいるのかを見極めるべく、黙して立ち尽くす。

 空蝉は棒状に穂先を取り付けただけの簡素な槍を携えたまま、プチスィンは持っていたズタ袋を足元に置く。空蝉の所持する一枚を除いてバッジ総てを詰め込んだズタ袋は立ち回りの邪魔だ。

 途端。地面が振動したような気がした。

 

「!」

 

 否、気のせいではない。

 急激に譜力が収束したかと思うと、足元に亀裂が入り始め──

 

「──大地の咆哮。其は怒れる、地龍の爪牙」

 

 聞いたことのある詠唱が、スィンの耳朶を打った。

 しかし動揺している暇はない。もし、かの人の譜術ならば、今から全力で回避行動を取っても負傷は避けられない──よくても、空蝉は余波をくらって消滅してしまう。

 最悪、空蝉を庇っての負傷覚悟でその場からの離脱を図って。

 

「!?」

 

 驚愕した。

 発生したはずの地割れは非常に小規模で、立ち上るはずの衝撃もほんの一瞬足元を爆発させた程度で。以前見たものとは比べ物にならないくらい、その威力は低かった。

 無事回避は成功したし、その拍子に突きつけられていた穂先や切っ先で怪我をしたとか、そういうこともない。

 逃れた拍子に槍を振り回して牽制したから、包囲が少し乱れたくらいか。

 

「──炸裂する力よ」

 

 スィンが無傷であることなど気に留めた様子もなく、圧縮された譜力が音もなく破裂する。

 これも、咄嗟に身を伏せただけで回避した。正確には、できた。本来の威力なら、伏せただけで回避できるはずもない。もろとも吹き飛ばされていたはずだ。

 ジェイドの封印術(アンチフォンスロット)は彼の手によって解かれているはず。それも大分前に。

 それだけ譜術抑制結界は強力なのか、あるいは術者はジェイドの声だけそっくりさんで、当人が放ったものではないのか。

 とにかく、直撃したところで痛手はなさそうとはいえ、このまま嬲られるのはたまったものではない。

 

「……ええーっと。バッジ全部集めましたよー」

 

 返事はない。詠唱こそ聞こえなくなったが、包囲する兵士達に動きはない。

 めげずに、続ける。

 

「バッジを総て集めて、最後の独りになればお咎めなしになるんじゃなかったんですかー」

「それは、規則通り条件を満たした囚人に約束されたものだ! 監視役の将校を害した貴様に適用されるものではない!」

「そんなの不可抗力です! 流れ弾なんかどうしろっていうんですか、監視役を何が何でも護らなくちゃいけないなんて、規則にはありませんでした!」

 

 ジェイドの声ではない、兵士の咎めに対して全力で抗議する。

 そういうことになりそうだと踏んではいたが、事実をねじ曲げられてはたまらない。

 

「大体、カンタビレのアレは銃創のはず。私は銃を拾ってないし、大体やるならちゃんと、脳天ぶっ飛ばしますって!」

「大真面目にエグいことぶっこいてんじゃないよっ!」

 

 ざわ、と兵士達から動揺の気配が漏れる。

 ジェイドの声にもそれ以外の声にも静かだったのに、これは彼らにとって予想外の出来事なのか。

 声をした方を注視すれば、カンタビレが足を引きずりながら包囲網に割り込もうとして、止められている。

 足から血を流している辺り、まだ治療を受けていないのか。

 

「カンタビレ、見てるこっちが痛いですよ。早いところ治療を受けた方が「余計なお世話だ、あんたは黙ってな! ともあれ、ブリュンヒルドは条件を満たしたと言っているんだ。まずは確認! 事実ならしかるべき処置を、この場を逃れるための嘘っぱちなら非常事態発生の対処通り、対象殲滅でいいだろ!」

 

 やっぱりそういうことだったか。

 誰も彼も皆殺しとは、一国家に所属する軍隊の所行とは思えない蛮行である。対象が死刑囚だから、致し方ないのかもしれないが。

 一応カンタビレの指示通り、黙って事の成り行きを見守るが──雲行きは怪しい。

 カンタビレの命令に従おうとする者が、誰もいないのだ。

 それに気づかない彼女ではない。剣呑にして盛大な舌打ちをしている。

 

「こっちが入りたてだからって、なめやがって! 後で命令違反扱いにしてやる!」

 

 鼻息荒く自ら動こうとするも、やはり包囲網に割り入ることはできない。

 そんな彼女の様子もあって、兵士達のざわめきは一向にやまなかった。

 

「危害を加えられた監視役本人が何を言っているんだ?」

「元同僚らしいから、庇ってるんだろ。あのきっつい将校殿にも意外に優しい一面が……」

「なんだってこんな薄汚い女狐を庇わなきゃならないんだい! あたしは己の職務を全うしているだけだ、上の命令で右往左往しかできないヘボ兵士風情が。妄言垂れ流すんじゃないよ!」

 

 ざわめきの一部を耳ざとく聞きつけたカンタビレが威勢よく吠え立て、外側の包囲網が気圧されたように一部崩れる。

 そこで、駆けつけた兵士が三人がかりで彼女を止めた。出で立ちが通常の兵士のものと異なる。救護兵だろうか。

 

「落ち着いてください、将校。傷に障ります」

「将校を害した輩は規定に乗っ取り処分しますので……」

「何が規定だ! あいつはあたしを傷つけてなんか」

 

 カンタビレがそれを言い終えるよりも早く。

 もみ合いになったかと思うと、彼女は三人の兵士によって担ぎ上げられていた。

 暴れているようだが、負傷のこともある。とても抜け出せそうにはない。

 

「離せ、このっ!」

「お、お達者で、カンタビレ。ご家族によろしくどうぞ。あと、お大事に」

 

 どうやら、ここで彼女はここで退場のようだ。聞こえるかどうかわからないが、一応お別れだけ言っておく。

 自分を担ぎ上げた兵士へか、はたまた薄汚い女狐へか。

 引き続き何かを喚きながらフレームアウトするカンタビレを見送るまでもなく、視線を戻した。

 再び、前衛に立つ際は後ろから聞こえてくる詠唱が唱えられた。

 それが結ばれるより早く、牽制する。

 

「こんなしょっぱい譜術で、まさか仕留められると思ってませんよね?」

「──」

 

 返事はない。しかし、構わず続ける。

 詠唱は途切れたからだ。

 

「あくまで私に非がある体裁にしますか。やってもいないことを認めることはできませんが、冥土の土産に教えてほしいものです。生き残りをかけたこの罰則において、何故死刑囚達は徒党を組んで行動していたのかを」

 

 別にスィンとて、そんなことが本気で知りたいわけではない。大体予想はつくし、それを確かめたところで得るものは何もない。

 ただ今は、少しでも時間がほしかった。

 この場を切り抜けるためにはどうすればいいのか、どうするべきなのか。それを探るために時間が。

 それまでひたすら譜術の詠唱を重ねていた声が、僅かな沈黙を挟んで、初めてスィンに声をかけた。

 

「簡単です。あなたを死んだ時点で生き残った者、全員を無罪とする。そのように発令しましたので」

 

 カンタビレに知らされていなかったのか、あるいは知っていて言わなかったのか。

 どちらでもいいが、自分の推測が的中していたことは内心でがっくりしておく。

 そこへ、唐突に包囲網が割れた。

 それまで人垣で見えなかったその姿が、スィン達へ歩み寄ってきたことでようやくはっきりとなる。

 その身の位を示す軍服は一兵士のものと一線を画し、眼鏡をかけた真紅の双眸がこちらに向けられているが、目つきはどこまでも険しい。

 その姿を前にして、スィンは思わず声を上げた。

 

「大佐……!」

「ようやく、あなたを始末することができます」

「はいっ?」

「目障りでした。実力も及ばぬあなたに身辺をちょろちょろされて。成り行きで行動を共にしたことを後悔するほどに」

 

 何を言っているのかちょっと分かりかねるが、会話を成立させないことには聞きたいことも聞けないだろう。

 

「……左様ですかー。ざまあみろ、いい気味だ、もっと後悔しろ。ところでどうやって」

「街中の刃傷沙汰はご法度ですからね。この場のあなたは死刑宣告を受けた囚人と同等。なんら問題はない」

「お話が見えないんですが。顔の左右にくっついているそれは飾りかなんかですかね」

「さあ、覚悟を決めなさい。今まで法の名の下に見逃してきましたが、本日が年貢の納めどき。我が槍の露となって消えるのです」

 

 人の話など一切聞かず、まるで台本を読むかのように朗々と告げて。

 そして彼は、その穂先をスィンへ──空蝉へと突きつけた。

 通常後衛に甘んじ、七番目を除く総ての音素(フォニム)を操っての殲滅戦を得手とは聞くが、その手に持つ槍はけして飾りでもこけおどしではない。

 組み手に近いものだったとはいえ、スィンは体でそれをよく知っている。

 知っているからこそ、その際とはかけ離れた姿で、格好良く槍を構えるジェイドが非常に滑稽で。

 

「……ぷっ」

 

 気づけばスィンは、空蝉同様彼を指差して爆笑していた。

 無邪気に笑い転げるスィン達を前に、流石というべきか。

 彼は眉すら動かさない。

 

「ダメ、お腹痛い。あははは……殺される前にしんじゃいそー」

「……己の死を前に、発狂しましたか」

「きゃははは……だって、ぷふっ、そんな大真面目に死刑宣告して、その構えも格好良すぎ……くくっ、ああもう、おっかしい」

 

 ひとしきり笑って、こらえる必要がなくなるまで、気の済むまで腹の底から笑って。

 場を凍りつかせて憮然としているジェイドを前に、浮かんだ生理的な涙を拭う。

 思う存分笑ったスィンは、空蝉の影に隠れて二十七歳の自分の声を発した。

 せっかく空蝉自身が話せるようになったところだが、大笑いの影響で精神が波打っていて、集中するのが難しい。

 もちろん、空蝉本人が話しているかのように口だけ動かして。

 

「で、あなた誰ですか。どうやって大佐の外見を装備していらっしゃるので」

 

 当然のことながら、か。眼前のジェイドは蔑んだような目をした。

 否、実際蔑んでいるのだろう。

 

「何を仰っているの理解しかねますね」

「そんならもう少しわかりやすく。どうやって譜眼をお外しに? 目玉をくりぬいて新しいの入れたとか言わないでくださいね。笑い死にしますよ、本当に」

 

 返事はない。本当に笑い死ねと思っているのかもしれないが、そうしてやるわけにはいかない。

 表向き表情が凍っているように見えるジェイドを前にして、挙げ連ねた。

 

「コンタミネーションが使えないから槍を握りっぱなしなんですね。格好悪っ。譜眼がない上に譜術制限がかかっているからあんな、ショボい威力の譜術しか使えないと。やっぱり格好悪っ。あと大佐の眼鏡はお手製だから、そんな普通のは持ってないと思いますよ。確かに見た目はそれっぽいですけど。で、どちらさまなんですかね。『見てくれだけ』大佐のそっくりさん」

「し、知った風な口を……」

「ありゃま、会話しちゃうんですか。本人ならまず間違いなく吹き飛ばしにくるのに。敵の軽口に乗じてやりこめようってんならまだしも、まともに聞き入れてあまつさえ怒り出すなんて。だんだん化けの皮がはがれてきましたね。あともうちょっとでしょうか」

 

 眦を吊り上げ、槍を振るうジェイドを空蝉と持たせた槍で迎え撃つ。

 怒りを露とした珍しいその顔に見入ることなく、ただ突き出された槍の穂先をはじいた。

 返す刀で殴り倒そうとして……やめる。

 彼の偽者に苦痛を与えても、虚しいだけだ。その代わり。

 

「っ!」

「確定ですね。あの死霊使い(ネクロマンサー)が、槍の扱いなんかちょこっとかじった程度の私に競り負けるなんて、いくらなんでもありえない」

 

 絡めとり、跳ね上げた槍がくるくると宙を舞う。

 落ちてきたそれがジェイドの使うものと非常に似通っている──しかし、見かけに反してかなり軽い──ことを確かめて、ぽいっと脇へ捨てた。

 

「そろそろ名乗ったらいかがです。大佐の劣化コピー。頑なに名乗らないなら、本物への嫌味を込めてハイドログロシュラライトガーネットとお呼びしますが」

「ハイドロ……?」

「大佐に化けるならせめて知能もコピーしといてくださいよ。その顔でそんな不思議そうにするなんて、ほんっとマヌケにしか見えない。本物にあったらついうっかり馬鹿にしてしまいそう。ハイドログロシュラライトガーネットも知らないんですか? ジェイドなのにー」

「なんだと!」

 

 その顔でその声でそんな、からかわれたルークかアッシュのような反応を返さないでほしい。

 そんな感想からふと、怒気の練られたその声音に少年のような響きが含まれていたことに気づく。

 ジェイドを凝視してみると、どこかしら動くたびに細部がブレているような、仔細を確認できない点が見え隠れしていた。

 幻術、それも声までごまかす高等技術のようだ。しかし如何せん、化ける相手が悪すぎた。

 

「で、ハイドログロシュラライトガーネットはどなたなんですかね? 大佐を馬鹿にされて怒り出す辺り、大佐の関係者なんでしょうけど。えーと、稚児の方ですか?」

「な、何を言って」

「部下、従者、後輩、友達、研究者仲間、親の知り合い、ただの知り合い、飲み仲間、後は……お子さん。実子でも養子でも。さあどれだ」

「どれも違う!」

 

 やはりか。

 上げ連ねた大佐との関係、ではない。

 感情を高ぶらせて否定を声高に叫ぶジェイドが、やはりブレて見える。表情だけではなく、今度はその立ち居振る舞いそのものが歪んで見えた。

 術者が動揺している影響と見るのが、自然だった。

 あと一押しで、文字通り化けの皮は剥がれるだろうか。

 

「この中のどれでもない……となると。追っかけとか出待ちをする人。ファンの方ですかね」

「弟子だ! お前が殺そうと企てた、カーティス大佐の!」

 

 最早ジェイドの口真似すらしていない。見破られたことで無意味と断じたか、気づけば青い軍服姿はどこにもいなかった。

 それまでジェイドが立っていた場所には、一人の青年が批難的な目をスィンに向けている。

 軍服を着ているわけでもなければ兵士の姿でもない、さりとて何かの制服も着ていない。

 その出で立ちは、まさしく一般的な市民のものだった。

 

「ハイドログロシュラライトガーネットは大佐のお弟子さんでしたか。あのおっさんは見たところ専門知識も何もなさそうな民間人にどんな教えを授けていらっしゃるのですか?」

「ハイドロなんとかじゃない、カシムだ! 大佐をおっさん呼ばわりするな、この真似女!」

「三十五歳は立派なおっさんだからそれは無理です」

 

 先程槍を放棄させたため、相手は無手。

 見たところ武器を隠し持っている様子もないにつき、スィンは自分の槍を手放すと同時に口撃を開始していた。

 

「して、私がどちら様の真似をしていると」

「大佐のことに決まってるだろうが! その慇懃無礼さ、落ち着き払った態度、敬語! リスペクトのつもりか、気持ち悪いんだよ!」

「皮肉と嫌味も追加しといてください。お師匠様が気持ち悪いなんて、酷いお弟子さんもいたもんですね」

「そういう意味じゃない!」

「最も、真似した覚えはありませんけど。お弟子さんということは、あの若年寄のうざくてねちこくていやみったらしいお喋りに愛想よくお相手しないといけないんですよね。カリカリするのも仕方ないですか。同情します」

 

 そうなのだとしたら、この過剰反応も初めからなんか怒りっぽかったのも説明はつく。

 ご苦労様な話だった。

 しかしカシムなる青年は、まったくピンときた様子もなかった。正確には見せなかった。

 

「いや、別にそんなことは……」

「そうですか。確かにそんなことはどうでもいいです。問題は、大佐のお弟子さんが何か御用ですか? 私は特別罰則における勝利条件を満たしました。規定違反はそちらの言いがかり。カンタビレの銃創と彼女自身の記憶が証明してくださいます」

 

 目にすればどうしても心乱れるジェイドの幻を暴くために、要らない努力をしてしまった。

 幻がなくなっても包囲網を形成する兵士達に動揺はなかったにつき、この青年が彼らをまとめているものとして話を持ちかける。

 とはいえ、彼はジェイドの弟子を名乗った。次に何を言い出すのかは、予想するに難くなかったが。

 

「何か御用だって? 決まってる。大佐の命を狙う輩を──女狐を野放しになんかできるわけないだろ!」

「別に殺そうとはしてません。今は」

「今はってなんだよ!」

「今は今。彼にしかできないこと。彼が成すべきこと。総てが総て解決するまでは、生きていてくださらないと困ります」

 

 そう。今現在、彼にこの世から退場してもらっては不利益にしかならない。文字通り世界の損失だ。

 利益を無理やり挙げるなら、スィンを筆頭に、彼を恨み存在を邪魔に思う連中が喜ぶだけか。

 釣り合わないどころの話ではない。

 

「それに今大佐が死んだら、どんな理由だろうと私のせいになるでしょう」

 

 そうなれば……そうなったとして、スィンだけの罪で済めば何の文句もないのだが、多分そうはならない。

 マルクト皇帝の懐刀を殺めた者の主に、どんな影響を及ぼすのか。及ぼしてしまうのか。

 考えたくなかった。

 最悪のシナリオしか、考え付かないから。

 

「そんなわけです。今は殺さない。事態が落ち着くまでおあずけくらっときます。密命だったとはいえ、こんなくだらない茶番に巻き込まれてしまったことですし……いい加減戻らないと雷を落とされてしまいます」

「大佐がお前の心配なんかするものか!」

「あっ、そうですね。割と願い下げです」

 

 大佐にではなくて主からの叱責を厭うているわけだが、無駄口は叩かないことにしておく。

 件の皇帝には間違いなく知られているだろうが、みだりに主の存在とスィン自身の関係をひけらかすのはよくない。

 少なくとも目の前の民間人は、スィンに敵意と警戒心を持っている。従者の尻拭いを主にかぶせるなんて、従者失格もいいところだ。

 いつだってとばっちりを被るのは、当人でない近しい誰か。

 

「大体、お前は何者なんだ!」

「名乗るほどの者ではありません。ちょっと前まではキムラスカ・ランバルディア王家第三王位継承者たるファブレ公爵家ご子息の護衛従者してました。今はクビになっています」

 

 ガイのことを積極的には明かしたくない、さりとて仲間達を全面的に壁……人身御供にするわけにもいかない。

 あれもこれも選びたいスィンとしては、どうしてもこのような物言いになる。

 一方、言い分を聞いてカシムは鼻で笑った。

 

神託の盾(オラクル)騎士団の主席総長の女をやっていた奴が、どうやってキムラスカ王家縁の人間に近づけるんだ」

「そこはそれ。人と人との繋がりを大事にした結果というやつです」

縁故(コネ)じゃないか。そうやって人に取り入って、寄生虫のように生きてきたんだな。恥知らず!」

 

 この暴言は感情によるものか、はたまたスィンを怒らせようと意図的に放っているものなのか。

 会話そのものにはほぼ取り合わず、この先に待ち受ける、あるいは誘導された先の展開を探っていたスィンは弾かれたように自分が捨てた槍を拾っていた。

 気合も高らかに突っ込んできた、一兵士の突撃を受けて。

 

「会話で気を引いて、後ろから刺しにくる戦法ですか。ちょっと詰めが甘かったですね」

 

 穂先で切っ先をくじるように止め、つんのめったところで足を払い転ばせる。

 取り落とした剣を蹴って鼻先に穂先を突きつければ、鉄砲玉にされた兵士は小さく呻いて両手をあげた。

 

「こっそり刺すなら声も足音も消さなければ。あなたも大佐のお弟子さんなんですか?」

「じ、自分達は第三師団に所属する者だ!」

「タルタロスに乗らなかった大佐の部下達、ですかね。大佐……師団長にいなくなられたら、困りますか」

 

 死霊使い(ネクロマンサー)と畏れられていながら、いや、いるからだろうか。どっかの死神とはえらい違いである。

 短絡的に彼を亡き者とすれば、主に害が及ぶだけではない。

 少なくともここにいる彼らを悲しませ、恨みを持たせ、それは延々と連なる負の連鎖を未来永劫紡ぐことになる。

 そんなものの発端を編むわけにはいかないと、感情に流されぬ決意を新たにしても。

 

「それでお前は、どうして大佐を狙う。大佐に何の恨みがあるって言うんだ!」

 

 理性はあっさりと押し流されて。

 感情の津波は、身体すらも揺るがせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……陛下」

 

 絶対零度に近い声音が、妙に寒々しく謁見の間に響く。

 

「……なんだ」

「何故カシムを演習場に入れたんです。一般人の入場はおろか、軍本部に入ることも許されないはずが、特例をお認めになった理由は?」

 

 じろり、と愛用の槍を弄びながら詰問するジェイドの視線は、空になった玉座の背もたれを貫通しないばかりに鋭い。

 対して、ジェイド及び一行、特にガイやナタリアの冷たい視線から逃れるように玉座の後ろへ隠れたピオニーは、そのまま質問に答えている。

 

「どこからともなく、お前の命が狙われていることを聞きつけてきてな。ぜひ自分も作戦に加えてほしい、って志願してきたんだよ。加わるために、死刑を科されるような凶悪犯罪起こすこともいとわない、って直訴してきやがったから、本当にそんな事件起こされても困るってんで特別に参加させた」

「その程度の脅しで特例を認めないでください」

 

 おそらく、わざと情報を洩らしたのだろう。

 カシム個人のことをピオニーが知っていたかどうかは定かでないが、ジェイドに弟子入りをせがむ傍若無人にして命知らずな人間の存在を、親友たる彼が知らないわけがない。

 そのとき。意を決したかのように、ナタリアが一歩、進み出た。

 

「聡明なマルクト皇帝陛下が、戦時中における緊急措置を知らないとは思えません。スィンがマルクト軍の制服を着用したのは、一重にわたくしたちの行動に支障をきたさないためですわ! お願いです、どうか仮借措置をお取りくださいませ!」

「──それはできない」

 

 敵対国の王女が、恥も外聞もなく敵国の皇帝に従者の許しを乞う。

 わからないわけでもなかろうに、堂々と頼み込むナタリアの胆力に内心で驚きながらも、ピオニーはそれを却下した。

 

「奴はガイラルディアの従者であるはずだ。あなたに関係あることでもないだろう」

「ピオニー陛下。スィンはガイの従者だというだけではありません。わたくしの大切な友、かけがえのない仲間なのです」

「これは驚いた。腹に一物持っていたであろうガイラルディアの従者を、キムラスカの姫たるあなたがかばうのか」

 

 突如として展開される、スィンを巡ってのやり取りに一同がハラハラと見守る中、ナタリアはなんら恥じることはない、といった風情でピオニーを見つめている。

 そらすことに良心が痛むほど、純粋な眼差しがそこにあった。

 

「スィンは、ガイの傍にいるためだけに恨み持つキムラスカに何もしないまま、わたくしにもルークにもよく仕えてくださいました。スィンが、あなたの思うような見境のない復讐者でしたら、王位継承者であるわたくしやルークは当の昔に殺されていたでしょう」

 

 スィンやガイの正体を知って以降、口にされることはけしてなかった覆しようもない事実があらわとなる。どこか心苦しげに、ガイはその様子を見つめていた。

 当事者であった彼の心境は、計り知れないものがある。

 

「あなたやルークがこれまで殺されなかったからといって、奴がこれからも何もしないとは限らない。現にジェイドは、政治的な理由も相まって奴の襲撃に遭っている。結果として最悪の事態は回避されているが、次も同じ結果とは限らないだろう。──実際に殺されてからでは遅いんだ」

「だからといって……!」

 

 不快さも露にピオニーへくってかかろうとしたナタリアが、ぴたりとその口を噤む。

 音響装置から聞こえてきた、久しく聞いていなかった咳を耳にして。

 

 

 

 

 

 唐突に、濁った咳が、場に響く。

 聞く者を不快にも不安にもさせる咳はやむことなく、俯き気味だった少女は口を覆いながら膝をついてしまった。

 口元こそ見えないが、その手から滲むように赤い雫が滴り落ちる。

 うずくまるようにして苦しそうに咳を繰り返す小さな背中を、いたわるようにさする手があった。

 

「な、なんだ?」

「特殊疾患を患っていましてね。場の空気に耐えられなかったのだしょう」

 

 プチスィンがまとう白と黒の華美なスカートから手巾を取り出し、口元にあてがう。

 そのまま抱き上げて、婉然と微笑みかけた。

 

「伝染る類の病なら、大佐に罹らせようと計画します。そんなヨゴレを見るような目をしないでください」

「こ、この外道! 苦しむ子供を使ってそんなことを企むなんて」

「その子供をバイキン扱いするなんて、外道はどっちですか。嘆かわしい。まあ死霊使い(ネクロマンサー)の弟子と部下達なら、そのくらいでないとついていけませんか」

 

 事実、包囲網もカシム自身も、プチスィンが発作を起こした時点で距離を取っている。

 そのことを認めながら少女を抱き直すと、その腕から降りようとしていたプチスィン──オリジナルは再び咳をした。

 その背中を、やさしく撫でる。

 

「……あなたも。何も、知らないのですね」

「知るわけないだろ! 大佐を恨む連中は確かにいるさ、軍人なんだからな! 何かご大層な理由があるのかと思えば……馬鹿馬鹿しい。お前の身勝手な感情で大佐を煩わせるな!」

 

 耳が痛い。

 間違いなくスィンは、極めて個人的な感情をもって彼に影響を及ぼしている。

 どれだけ責めようが何をしようが、たとえ彼を殺したところで何も解決しない、ただの感情で。

 

「……」

「何故何も言わない、弁解しない? まさか本当だからグウの音も出ないのか?」

真偽(それ)を尋ねるべきはあなたのお師匠様であって、私にお答えする義理はありません。大佐から聞き難いなら皇帝陛下へどうぞ。陛下は確執の真実をご承知です。軍に所属せぬあなたを此処へ招いたのですから、ものを尋ねるくらい、わけないでしょう」

 

 ──吐き気が、おさまらない。

 オリジナルが持病の発作に苦しんでいる影響だろうか。あるいはジェイドとの仲を勘ぐられて、吐き気を催すくらい不快になっているのだろうか。

 空蝉として顕現し、一度自我を露にしてオリジナルの拒否反応を見た彼女は以降、おとなしく制御に従っていたのだが……術者の緊急事態となれば致し方ないだろう。

 オリジナルはとっくに異変に気づいているだろうが、発作が収まるまでは何もできないはずだ。

 それを待っていたら、事態は好転どころか最悪の方向へ転がり出すだろう。

 

「……暴走しているから、こういう真似もできるんですよ?」

 

 こそりと囁きかけるも、オリジナルに反応はない。

 ゼイゼイと苦しそうに、濁った咳と息継ぎを繰り返すばかりだ。

 埒が明かないと、空蝉と称される彼女は言葉を紡いだ。

 

「私が大佐を殺害せんと企てていること。今後を鑑みて今は生かして差し上げること。理由はともかく現状の理解はできたでしょう」

「何を堂々と殺害予告してるんだ!」

「よってたかって言いがかりまでつけて私を殺そうとしてるくせに。どの口が抜かすんですか」

 

 チャネリングで制御されているからこそ覗きこめた、オリジナルの真意を反映させる形で。

 

「……あなたが護って差し上げればよいでしょう」

「!!」

「タイムリミットは世界が落ち着くそのときまで。それまでに、あなたが大佐を、護りたい人を、護れるようになればいい」

 

 事態の収束を待ってジェイドの殺害を実行すること。それはスィンにとって、不可能なことだと自覚している。

 何せスィンにも、タイムリミットがあるのだから。

 この混迷する世界が平和になるまでにかかる年月とスィンに遺された時間。天秤にかけるまでもない。

 医師から告げられたことが絶対だとまでは思っていなくても、それでも。

 

「……そんなまどろっこしいことをしなくても、今この場でお前を亡きものとしてしまえば!」

「話し合いを放棄するんですね。この野蛮人。そんな短絡的で死霊使い(ネクロマンサー)の弟子を名乗るとは片腹痛い」

「うるさい! まだちゃんと認めてもらってないだけだ!」

「なんだ自称でしたか。そうですよね。ジェイドのことぜんっぜん知らないみたいですし。変だなあとは思っていました」

「だ、黙れ女狐! 知った風な口で、お前こそ大佐を語るな!」

「私は女狐ではありません。どっちかというと狸顔だと思ってます」

「確かに垂れ目気味──そんなことはどうでもいい! 大佐を呼び捨てにするな!」

 

 自称弟子であることを見破ってしまったせいだろうか。

 顔を真っ赤にして地団駄を踏み始めたカシムを前に、空蝉はそれを眺めるしかなかった。

 このままでは堂々巡りもいいところである。無為に時が過ぎれば、オリジナルは発作から自然快復するだろう。最早咳も落ち着き、今は深呼吸を繰り返して息を整えている。

 しかしオリジナルが快復したところで、この場から脱出する手立ては──

 ひらりと。何かが視界の端にちらついた。

 蒼く鮮やかな色合いに視線を寄せて、知らず肩が震える。

 一羽の、特徴的な大型の蝶。

 青色ゴルゴンホド揚羽を模した空蝉が、可憐な支脈の羽を震わせるその様に、空蝉が気を取られていた。次の瞬間。

 

「今だ! 一斉にかかれ!」

 

 足元からパチパチッと、音がした。

 眼前のカシムも、包囲する兵士達も。

 皆一様にカンタビレも履いていた絶縁体製の軍靴を装備しているのを見れば嫌でも勘ぐらざるをえない。

 会話、不意打ち、挑発などで気を引いて結界の作用を用い、スィンが電撃の餌食になったところでトドメを刺す。

 何せ今のスィンは死刑囚と同じ身分。殺してしまえば何とでもなると、皇帝は考えたのだろうか。

 しかし、そんな思惑に乗ってやるわけにはいかない。

 先はもう見えているのだ。すでに見えているその場所に到達するまで、そう簡単に諦めるわけにはいかない。

 どれだけジェイドが大切か知らないが、スィンの命が喪われたところで悲しむ人もいるのだから。

 発作の収まったプチスィンがまず行ったのは、殺到する兵士達から、放出される第三音素(サードフォニム)の気配から逃れることだった。

 何を思ったのか、再び暴走した空蝉が自分を抱えたまま体を丸めたのを無視して、ソーサラーリングをなぞる。

 

「三界を流浪する旅人よ。流転を好む天空の支配者、天空を踊りし雨の友。シルフ、ヴォルト。汝らの力を此処に示せ」

 

 それまで放置していたズタ袋を回収、空蝉と共に宙を舞う。

 置き土産に、最後の煙幕弾を投下して。

 

「うわあっ!?」

「ゴホッゴホッ……目が……」

 

 突然のことで両目を覆っているカシム、煙幕の範囲内で右往左往する兵士達、触れれば感電間違いなしの第三音素(サードフォニム)を放出する床を置き去りに、ユニセロスウイングで事前に特定していた出口を目指す。

 霧もなくなった今、空蝉が連中の気を引いていた間に演習場の出入り口を探すことは、そう難しいことではなかった。

 

「──暴走して、よかったでしょう?」

「結果的には。でも、改善が必要です」

「それまでしばらく封印、ね。さよなら、オリジナル」

 

 チャネリングで繋がっているせいで考えていることは筒抜けだからか、彼女もまたスィンであるからか。抵抗もなく未練も見せず、空蝉と名づけられたレプリカは音もなく消滅した。

 プチスィンにしがみついていた荷物が一部なくなったことで、風切る速さが一段と増す。

 

 ──さあ、帰ろう。

 

 主の御許へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……フリングス少将」

 

 カンタビレが退場した時点で、監視装置は一兵士の持つものへと切り替えられている。

 煙幕によってそれがまったくの役立たずと化したそのときに。沈黙が振りきたる謁見の間に、感情を持たないガイの声が響いた。

 

「な、なんですか?」

「今すぐ俺を、スィンのいる場所まで連れて行ってください」

 

 口調だけを聞けば通常とそう大差ない。しかし、彼は抜き身の片刃剣を握りしめつつ、フリングスに迫っていた。

 断れば『ずんばらりん』も辞さない構えだ。

 頼まれた当人はといえば、困ったようにガイとピオニーを交互に見ている。

 身の安全のためにも連れて行きたいところだが、それを皇帝が許すか否か。

 それをフリングスが口に出すよりも前に、愛用の槍を自身の腕へ収納したジェイドがガイを押し留めた。

 

「私が知っています。少将を脅さないように」

 

 では行きましょうとばかりに振られたジェイドの手振りに、一行が黙って従う中。

 彼はくるりとピオニーに向き直った。

 

「それでは陛下、またの機会に」

「お、おい、ジェ──」

「失礼します」

 

 呼び止める声を捨て置き、いささか乱暴に謁見の間を辞する。

 一行はいつになく早足のジェイドに従って宮殿の外へ出た。

 

「……スィン、大丈夫かなあ」

「煙幕でどうにか切り抜けたと俺は信じてる」

 

 小さな小さなアニスの呟きを耳ざとく聞きつけて、それでもガイは預かっていたスィンの荷袋から発作止めを探していた。

 以前のやり取りもさながら、スィンはジェイドを通じた皇帝との確執を間違いなく自覚している。

 となれば、自分がいることによる悪影響をガイに向けられることを良しとはしないだろう。だからこそ、非常に不自然な発言を繰り返したと思われる。

 今頃兵士たちを出し抜いて、演習場からの脱出を試みているはずだ。

 いくら何でも、見た目七、八歳の少女がマルクト軍本部をうろつくのは怪しい。フォローに行かなければ。

 誰も事の詳細を尋ねない辺り、察しているのか、今聞いても無駄だと悟っているのか。

 無言のジェイドに従うようにして向かった先。一行は、前方の扉より現れた小さな影を目撃した。

 ひどく消耗した様子の少女である。その手には大きく膨らんだズタ袋と、黒い外套が携えられていた。

 大きく息をついた少女が、顔を上げる。気配の在り様か、あるいはああ見えてまったく気を抜いていないのか。

 少女はすぐに一行の姿を認めた。

 

「……ガイラルディア様、みんな……」

 

 間違いなく、プチスィン──本物のスィンである。

 愛らしいゴシックロリータの衣装は汚れてしまっているものの、大きな負傷の類は見受けられない。

 

「スィ──ぐぅえっ!」

「気持ちはわかりますが、話は後です」

「違う、そうじゃない! スィン、発作は!? 薬飲んだ方が……!」

「……?」

 

 感極まって駆け出しかけたガイの襟首を掴んで止めたのは、ジェイドであった。

 その手を振り払って荷袋──発作止めは見つけられなかったらしい──を差し出している。

 一方、すべてを監視されていたことを知らないスィンは、口元を乱暴に拭ってから荷袋を受け取っていた。

 色の違う瞳は、ジェイドでも主たるガイでもなく、小さな聖獣だけを見つめている。

 

「あ、ありがとうございます。大丈夫ですよ──ミュウ、ありがと。たくさん助けてもらったよ」

 

 会釈でガイの横をすり抜けて、ルークの足元にしゃがみこむ。

 ソーサラーリングと引き換えに手にしたロケットペンダントを胸へ押し当てるように握り締め、大きく息をついた。

 それも束の間。切り替えるようにぐっと顔を上げて、ルークを見る。

 

「和平条約の交渉はどうなったの?」

「あ、ああ。無事済んだ。場所はユリアシティに決まったからで、これから飛行譜石を──」

「話は後だと言っているでしょう」

 

 珍しく苛々とした調子を隠さず、ジェイドが会話に割り込む。

 彼を目にして、スィンは弾かれたように首を捻じ曲げていた。

 まるで、彼を視界から追い出すかのように。

 

「──」

「大佐、あの。話せば長くなるんですが、連行されたあの後にですね……」

「その話ならばこちらも把握しています」

 

 しかし、それはほんの一瞬のこと。すぐにジェイドを正面から見上げて、その目を見つめている。

 彼に関わるそのことで殺されかけた直後とは思えぬ胆力だった。

 苦々しい表情を隠さないまま見返してくるジェイドの視線にか、その返答にか。

 戸惑ったように沈黙した彼女は、気を取り直したように抱えていたズタ袋を持ち上げた。

 片手間に、黒外套に取り付けられたバッジも外している。

 

「じゃあ、これを」

「貸してください」

 

 差し出されたそれをひょいと取り、ジェイドは突如現れた集団をちらちら見ている兵士を捕まえた。

 

「君。カンタビレ女史に届け物を頼む」

「あ……はい」

 

 あっけにとられている兵士をやはり捨て置いて、一同は迅速にマルクト軍本部から市街へ戻っていった。

 不審な人影が見えないことを確認して、スィンがくるりとジェイドを振り仰ぐ。

 

「飛行譜石を取り戻すんですね。お次はダアトですか?」

「──ええ。そうなります」

「問題はディストがダアトにいるかどうかですよね。僕としては是非一発殴っておきたいんですけど」

「……」

 

 何気なく言葉を交わすその様子にも、皇帝が言っていたような確執があるとは到底思えない。

 態度も口調も、スィンが他の仲間と対するものをそう変わりはないのだ。強いて言えば、スィンがやや彼と距離をとっているところか。

 しかし彼女の抱える精神的な疾患を思えば、特筆すべき内容ではない。

 仲間たちから複雑な視線を向けられていることに戸惑いながら、スィンは隣を歩く主の言葉を耳に捕らえていた。

 

「にしても、無事で良かった。ある意味で、ディストに感謝しないとならないな」

「……そ、ですね」

 

 結果論ではあるが、スィンがこの姿であることが幸いして今彼女は生きているのだ。

 ろくでもない薬をひっかけられたと思っていたが、匙ほどの役には立ったということか。

 眉間に縦皺ができそうなのを、意識して押さえ込む。

 不快感をあらわにするのは置いといて、スィンは目下気になっていたことを口にした。

 

「ところで、なんで僕があそこにいるってわかったんです? フリングス少将もいなかったのに。確かにミュウはあそこに来たけど……」

「ああ、それは「スィン」

 

 この様子からして、彼女は監視されていたことを知らない。

 何の気なしに答えようとしたルークを遮って、ジェイドは重い口を開いた。

 

「先に言っておきます。私たちは謁見の間で、あなたが何をしていたのかを監視していました。それに連なり、あなたと陛下の確執、それに伴う原因も……陛下の口から、明かされています」

 

 やはり意外だったようで、前半を聞いたスィンは大きく眼を見開いている。

 しかし後半を聞いて、その眼は鋭く細まった。まるで天敵を前にした、野生動物のように。

 

「……詳細は?」

「いえ、概要だけです。詳しくはあなたから聞けと、陛下は逃げていました」

「そう、ですか」

 

 それだけ答え、歩く足はそのまま、スィンは口を閉ざした。

 うつむきがちであるために、何を考えているのか、どんな表情をしているのか、それがわからない。

 

 ──フウ。

 

 小さなため息をついて、スィンは不意に顔を上げた。

 何かを決意したような、言うなれば開き直ったような、そんな表情をしている。

 様子をうかがっていた一行を見上げ、彼女は「──さて」と呟いた。

 

「どなたから、何を尋ねます?」

 

 

 

 




 ハイドログロシュラライトガーネットについて。

ありていに言えば翡翠(ジェード)の贋物のことです。画像検索をするとものの見事に翡翠ソックリ。
透明度が高いものは非常に希少ですが存在はするとのこと。
原作において誰もがやろうともしなかった「譜眼」を自力で施そうと挑戦して見事自爆したというくだりもありますし、ある意味「希少」な人だということでぴったりかなと。
英語読みなので「ハイドログロッシュラーガーネット」の表記もありましたが、長すぎるし語感も良くないということでこちらにしてみました。
ハイドログロシュラライトガーネットのほうが長い、というツッコミは不要です。よく存じております。
ともあれ、グロッシュラー・ガーネットは南アフリカヒスイまたはトランスバール・ヒスイという誤称で販売されていることがありますので、翡翠をお求めの方はご注意を。
名前は翡翠でも、緑色のガーネットらしいので。
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