the abyss of despair   作:佐谷莢

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第百九唱——安らぎを求めて彷徨う心は漸(ようや)く闇と巡りあった

 

 

 

 

 

 

 

 

 明くる朝。

 各自それぞれの休息を取り、一人二人と起き出してきた頃。どうしても現れない人間が一人いた。

 

「あいつ、まだ昨日のことひきずって……」

「私ちょっと見てくるよ!」

 

 苦い顔をするガイをさておき、珍しく自発的にアニスが動いたのは、いつもの胡散臭い笑顔をどこかへ置き忘れているジェイドがいるからなのか。あるいはどこか憂いを帯びているイオンの気を紛らわそうとしてなのか。

 しかし、彼女はスィンを伴うことなく、一人で戻ってきた。

 

「どうしたの?」

「ん、えっと。あのね……」

 

 妙な顔つきで戻ってきたアニスにティアが尋ねるも、彼女は口ごもりつつ、ちらちらとジェイドを見やっている。

 

「……まさか、大佐がいるから起きたくない、と言っているわけではありませんわよね?」

「いくらスィンの見た目が大佐ばりに若くてもそれはないよぅ。なんかね、大佐に来てほしいって……」

「!」

 

 昨夜のような雰囲気が、漂い始める。

 名指しされたジェイドはといえば、軽く眉尻を下げて今日、初めて他人と会話した。

 

「とうとう、私を殺す気になったのでしょうか」

「そんなのパッと見じゃあわかりませんよ。でも、変なんですよね。本人はシーツに包まったまま顔を見せないし……あ、嫌ならほっといてくれって言ってましたけど」

「やれやれ。私を指名とは……無事帰ってこれるといいのですが」

 

 ひどく懐かしいような軽口を叩いて、ジェイドは無言で歩き出している。どうやらスィンのところへ行くつもりらしい。

 それを確認して、アニスはちょこまかとその後を追い始めた。

 

「おい、アニス……」

「何よう。ルークは気にならないの? それに、スィンは大佐と二人っきりにしてくれ、なんて言ってないもん」

 

 確かに、スィンがジェイドにどんな話をするのか、非常に気になることではある。

 かくして、残りのメンバーは慣れない忍び足の末に女性用仮眠室の隣室──男性用仮眠室の薄い壁にコップを押し付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 コンコンコン

 

「……スィン、私です。入りますよ?」

 

 かちゃりと音を立てて、ジェイドは女性用仮眠室に足を踏み入れた。

 

「……おはようございます」

 

 部屋から奥、窓のすぐ近くに、シーツに包まった塊が転がっている。

 顔も見たくないのか、と。近寄ってシーツを剥ぎ取ってやりたいという衝動に駆られながらも、ジェイドはその場に足を止めた。

 

「ご用件は……」

 

 なんですか、と言いかけ、止まる。

 なぜなら、シーツの塊からにょきり、と細長い何かが生えた、その面妖さに驚いたからだ。

 沈殿した色素は薄く、形の歪んだ刺青に覆われた奇妙なオブジェにも似た腕は、けだるそうに自分を包むシーツを剥ぎ取っている。

 包まれていたそれを見て、ジェイドは軽く目をそらした。

 

「昨夜のアルコールが効きましたか?」

「かもしれないし、単に効果が消失したのかもしれない。それ自体は、喜ばしいことなのですが……」

 

 シーツの中にあったのは、幼児化する以前のスィン、本人であった。

 雪色の長髪も、左右色違いの瞳も、痩せ気味とはいえ、なよやかな肢体も、なんら変わりない。

 ジェイドが目をそらしたのは、一重に彼女が何も身に着けていなかったからだ。

 

「着替えるために私を呼んだのですか? 相応の礼は覚悟してください」

「朝っぱらから爽やかにシモネタは勘弁してください。これは自分でどうにかしますから、風邪薬を処方してほしいんです」

 

 ばさりと音を立てて、再びスィンがシーツに包まる。

 それを機にジェイドは初めてスィンの容態が普通でないことに気がついた。

 シーツがなくなったとき、思わず扇情的な上半身に眼がいって気付かなかったが、スィンの顔が大分赤い。一応断ってから額に触れると、確かに発熱していた。

 

「他に何か症状は?」

「あの薬を被ったときと同じく、全身が痛いです。発熱と頭痛、視界が定まらないのと、あと意識がいまいちはっきりしません」

「そうですね。正気のあなたなら、私にこんな無防備な姿をさらしたりはしなかったでしょう」

 

 試しにチクリと嫌味を吐いてみるものの、自分の状態を告げるので精一杯だったのか、スィンの反応は薄い。

 脈を計るも不安定、呼吸もけして穏やかとは言えない。

 しかし。

 

「気持ちはわかりますが、これは風邪ではありませんよ。肉体の急激な変化についていけなくて、脳が混乱してるんでしょうね」

「……でも、前はこんなこと、なかった……」

「私は製作者(ディスト)ではないので断言できませんが、以前がそういった薬の効用であったのに対し、今回はおそらくアルコール摂取による偶然の解毒です。様々な副作用が現れているものと推測できますよ」

 

 それでも、悪戯に熱を上げるのはよくないと、ジェイドは氷嚢を持ってきてスィンの額に宛てがった。彼女は心地良さそうに吐息を零している。

 

「食欲はありますか?」

「ないです」

 

 会話終了。スィンは寝たまま、ジェイドはその傍らに座ったまま、沈黙を余儀なくされている。

 ふと、ジェイドのほうが口を開いた。

 

「……今度こそは、堪忍袋の緒が切れたものと思っていたのですが」

 

 言わずもがな、ピオニーによるスィン処刑紛いの話である。

 

「──確かに腹が立たなかったわけではありませんし、大佐が関係してないわけでもありませんが、あなたに八つ当たりしても仕方がない」

「しかし、この後はどうするのです? 平和条約締結では顔を合わせないようにすることができても、ガイがマルクトの貴族であることを陛下はご存知です。この先一生、あの人と関わらずガイの傍で生きていくのは難しいですよ」

「どうもこうも、ないでしょう」

 

 氷嚢を持ち上げ、下敷きにされていた目蓋が開いた。色違いの瞳が、覗き込むジェイドの顔を映す。

 

「平和条約で機会があったら、顔を合わせて事実をお伝えしないと」

「しかし……」

「安心してください、お膳立ても協力も求めません。そもそもこのことで大佐を……誰かを頼りにしようとは、思いません」

 

 瞳が、悲しげにひそめられた。

 口を開きかけたジェイドを制して、スィンの独白が続く。

 

「陛下が大佐の身を案じて僕を殺そうと思うなら……あなたに協力させるわけには、いかないじゃないですか」

「……私が今の状況に納得している、あるいは自力で切り抜けると陛下を説得すれば、丸く納まる話だと思いませんか」

 

 客観的に状況だけを見つめれば、そうなるだろう。

 ピオニーはスィンがジェイドを殺すものと考えて行動を起こした。

 発端たるジェイドが防波堤となれば、それで終わるようにも思える。

 しかし、それはあくまで状況を外側から見た者の見解でしかない。

 スィンはゆっくりと首を振った。

 

「どんなに頑張ったって、丸くなんて収まらない。あなたがどんな風に説得に当たったところで、陛下が本気で納得しない限りは逆効果です。あなたが強制されている、と勘ぐるくらいはするでしょう。これ以上問題をややこしくしたくない」

「なら、どうするつもりなのです」

 

 そのものずばりを問われ、閉口する。

 まったく考えていないわけではないが、正直にそれを口にすることはできない。

 

「……お話しできません」

「考えていないからですか? それとも、答えがないからですか?」

「あなたの口から陛下の耳に入っても困る。とにかくこの件に関して、もう口出ししないでください。ここから先は、僕と陛下の問題であるはずです」

 

 対策が何もないと偽りを言うのはたやすい。

 しかしそう告げたところで、興味さえあればどこまでも突っ込んでくるジェイドを受け流す自信がなかった。

 沈黙が渦巻く。納得しかねるように返事を寄越さないジェイドを、スィンは瞬きすることなく、いつまでも見つめていた。

 やがて、ジェイドが根負けしたように嘆息する。

 

「……その認識にはいささか不満を感じますが、本当によろしいのですね?」

「必要性を感じた際は、容赦なく支援を求めます。できることなら、あなたの力を借りることなく、すんなりと事を運びたい」

「その意見には同意します。あなたに、真の意味での平穏が訪れることを祈っていますよ」

 

 何の気なしに言ったジェイドの言葉を、スィンはひどく驚いたように反応していた。

 

「……大佐も、祈るんですね」

「ええ。ユリアにではなく、私の愛してやまない戦女神に」

「古代イスパニア神話ですか? またマイナーな……」

 

 呆れたように眉をひそめるスィンを見下ろして、ジェイドはひどく深いため息をついている。

 

「やれやれ。鈍いヒトですねぇ、面白くもない」

「へ? 戦女神って、古代イスパニア神話じゃ……」

 

 氷嚢を持ち上げていた手が取られ、氷嚢の重みが目蓋を直撃した。

「ふにゅう」気の抜けた悲鳴を洩らすスィンの手を、壊さないよう、しかし逃げられないようにぎゅっと握り締める。

 

「どこまでも気高く、はるか高みを見据える愛しい私の女神が、いつの日か、我が元へと降り立ち──自らの幸せを抱きしめてくれるよう、万感の思いを込めて祈りますよ」

 

 息を呑み、強張ったスィンの手に接吻を落とした。

 直後、じたばたと暴れる手を解放してやれば彼女は全力を尽くして起き上がり、じりじりと尻で後退っている。

 シーツをまとって壁に背を預ける彼女は、自分の体を抱きしめるように縮こまっていた。

 

「寒っ! それ、神話の勇者が戦女神にコクった時のくっさい台詞……!」

「おや、寒いのですか。暖めてあげましょうか?」

「いらんわ! あー、また聞いちゃった。そんなのディストだけで十分だってのに……」

 

 また、という言葉に反応したジェイドは、まだロクに動けないスィンに詰め寄る。

 逃げようとするその体を閉じ込めるよう、わざと音を立てて壁に手のひらを押し付けた。

 

「……すると、何か? 同じようなことを、あれがあなたに言ったとでも?」

「何を静かにキレてるんですか。ディストと同じことしたから、人間として恥じてるんですか」

「はっはっは、おしゃべりなお口ですね。どれ、まずは黙らせますか」

 

 壁に押し付けた手が、そのままスィンの顔を挟み込む。

 頬を引きつらせてその手をはがそうとスィンがやっきになっているのを眺めながら、ジェイドはゆっくりと顔を近づけた。

 

「ちょ、ちょっと……!」

 

 左右色の違う瞳が困惑をあらわとし、挟まれた頬が熱とは関係なく朱に染まる。

 しかしその瞳は閉ざされることなく、ジェイドの手を拒絶する腕も、力が入っていない。

 

「──ああ。そういえばこれは邪魔ですね」

 

 言うなり、ジェイドはおもむろに眼鏡を外してしまった。

 胸のポケットにしまい、改めてスィンの顔を両の手で優しく包み込む。

 

「これでいいですか? いいですね」

「そ……じゃな……からかうのも、いい加減に……」

 

 ゆっくり、じっくり、まるでいたぶるようにジェイドは顔を寄せてゆく。

 その見慣れぬ素顔に否応なく惹きつけられながら、スィンはこのとき、どうにか自分の顔を固定する手を外した。

 しかし。そのままその手を放り出して逃げようとはしていない。

 体が正常な状態へ戻りつつあるために強制的な安静を促しているのか。

 それとも。これが今の、彼女の意志か。

 

「からかってなどいませんよ。そして、私が何を考えているのかを、わからないとは言わせません。伝えきれることではありませんが、伝える努力を怠ったつもりもない」

 

 ジェイドもまた、スィンを押さえるようなことはせず、ただ掴まれた手を放置している。

 未だスィンは掴んだ手首を離さず、自分から握り締めていた。

 

「そろそろ……あなたの心が知りたい」

 

 鼻先が触れ合うほど距離を詰め、ジェイドはスィンの眼を覗き込んだ。

 そのまま、心を覗かれているのではと思い違えてしまうほどに、紅玉の眼は真剣で──今まで見たことがないほど、優しかった。

 おそらくもう二度と見ることができないだろう慈愛に満ちた紅い瞳を、陶然と見つめる。見つめた先に瞳の中の譜を見つけて、我に返った。

 

 ──馬鹿げている、茶番だ。

 

 母親を殺した相手に口説かれて、ときめいている。受け入れてしまえば、そういった関係になってしまえば、二人きりの時間が増えれば──いつだって傷をつけられるし、殺せる、などと。

 そんな誘惑を振り払うべく、スィンはゆっくりと瞳を伏せた。

 そのまま、力なく首を横に振る。少しずつ手の力を抜いていき、ジェイドの両腕を解放した。

 

「……戯言は酔った時に言うものです。昨晩は、結構深く嗜まれたんですかね」

 

 腕を組むように交差した腕が、ギュッと自分の体を抱きしめる。

 小さな小さな呟きが、殺しきれなかった呟きは、一番聞かせてはならない人に届いてしまった。

 

「……苦しめられるのに。なんでそれができないの……?」

 

 まるっきり自問自答の独り言に、ジェイドは眉をしかめて──口に出しかけた言葉を噤んだ。

 しかし、これしか手はないのだ。彼女が、ジェイドを、何の抵抗もなく殺せるようになるためには──

 

「──やれやれ。おしゃべりなだけではなく天邪鬼でもありましたか、その口は」

 

 怪訝そうに瞳を上げたスィンが、音を立てて固まった。

 自由になった両手。いつのまにかグローブを外したジェイドが、彼女の唇をなぞっている。

 もう片方の手は、がっちりとスィンの後頭部を捕まえていた。

 

「やっぱり塞いでしまいましょう」

「ひえっ! ちょっと、待っ……!」

 

 迫る禁断の果実から顔を背けたスィンが、体を強張らせる。

 顔を背けた拍子にがら空きになった首筋へ、ジェイドが悠々と顔を埋めた。

 その頭を掴んで引き剥がそうとするも、その力は弱い。隠しようもない熱い吐息が、ジェイドの髪の一房を揺らした。

 後頭部から離れた手が、するするとシーツの中にもぐりこむ。手探りでまさぐったスィンの体は汗ばんでおり、しっとりとした肌の感触を覚えた。

 唇をなぞっていた手が脱力しつつあるスィンの肩を抱き、支える。

 それに半ばもたれかかるようにしていたスィンだったが、シーツの中にもぐりこんだその手に気付いてハッと我に返った。

 

「いやっ!」

 

 渾身の力を込めてジェイドの胸板を突き飛ばす。

 ロクに力も入っていなかったが、彼は何を思ったのかそのまま素直に突き飛ばされた。

 ようやく解放された己の体を抱きしめ、スィンはなんとも言えない顔で起き上がるジェイドを眺めている。

 突き飛ばされて体を打ったというのに、彼はくすくすと笑みながら身軽に起き上がった。

 

「可愛い悲鳴だ。あなたも、こんな声を出すことがあるんですね」

「やかましい!」

 

 そっぽを向いて氷嚢に手を伸ばす。

 

「恐怖症が私に働かなくなったということは、大変喜ばしいことです」

 

 すっかりすねてそっぽを向く彼女に、ジェイドはゆっくりと後ろから抱きついた。

 

「ぎゃああ!」

「今更演技しても無駄です。これまで私が触れればあなたの肌は必ずトリハダが立っていましたが、今はそれがない。今まで配慮していた分を取り返すつもりですので、覚悟してください──年寄りは、頑固な生き物ですから」

 

 寝起きでくしゃくしゃになった髪を戯れに梳き、その一房を手にとって口付ける。

 有限実行とばかり、本当に好き勝手をはじめたジェイドを、スィンは無言で振り払った。

 

「なんですか?」

「──き、着替え、ます。から、外に出てください」

「手伝ってあげましょう」

「……」

 

 氷点下の瞳でジェイドを見やったスィンの手が、虚空にかざされる。

 次の瞬間、彼は突如両脇を抱えられ強制的に扉まで引きずられた。

 

「おや」

 

 これ以上引きずられては叶わないと、ジェイドが腰を上げる。

 立ち上がったジェイドの腕をしっかりと掴み、扉を開いたのはかなり見覚えのある背中だった。

 そのまま、ジェイドが空蝉によって扉の外へと押し出される。

 その様子を横目で見、スィンは頭痛のする頭を押さえて巨大なため息をついていた。

 

「そりゃ治そうとは思ってたけどさ……まさか本当に、大佐が平気になるとは」

 

 

 

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