一人一部屋という贅沢な個室をあてがわれ、スィンは早々に休んでいた。
皆の──というか、妙に過保護なジェイドの手前、普段通りに振舞っていたつもりだが、そろそろ限界に達しつつある。
どのくらい限界かと言えば、「眠いから」という理由で夕食をパスしたくらいか。実際には激しい嘔吐感に苛まれて、とても食事などできる状態ではなくなっている。
体を投げ出した寝台の上で深呼吸を繰り返し、どうにか鎮めようとするも効き目はない。
何かがおかしいと、スィンはいぶかしがっていた。
発作の一部かと思って薬を飲んだのに、まったく効いていない。否、一応発作そのものは収まったが、このどうしようもない嘔吐感と減っているはずなのに張った腹と、サラシが痛くてたまらない胸は何なのか。
サラシは外して、腹は無視できても、この嘔吐感だけはどうにもできない。ただ胸のむかつきが収まるまで、胃の内容物を吐き続けるしかなかった。
今しがた洗面所に駆け込んだばかりだと思っていたのに、まだ喉の辺りで何かが蠢いている。
全身ににじみ出る脂汗が冷え始め、寒い。シーツに包まろうと腕を伸ばしたところで、限界が訪れた。
「うっ……!」
こんなこともあろうかと、ユニットバスから拝借した洗面器に伏せる。
苦い液体が喉の奥からごぼりと音を立てた。口の中が酸っぱい。鼻の奥が鉄錆びくさい。
おそらく内容物が打ち止めになったため、胃液が出てきたのだろう。鉄錆びの臭いは、弱った胃壁が悲鳴を上げているためか。
異臭のする洗面器をどうにかすべく、体を起こし、立ち上がった。途端にまとわりつく立ちくらみを振り払い、洗面所へと向かう。
どうにかすべきことを終えて寝台で脱力したその時。
ふと、廊下を歩く足音が気になった。
何となく耳を澄ませる。足音はスィンの部屋の前を通り過ぎてから、向かって右側の辺りで止まった。
コツコツ、という控えめなノック、それから扉の開く音がして、パタリと閉ざしたような音が続く。
……隣は確か、ルークだったと思うのだが……
好奇心が体調不良に勝ち、スィンは体を起こしてコップを手に取った。
壁に張り付いて、押し付けたコップに耳を押し当てる。
『どうしたの? 深刻な顔で話があるなんて……』
──ルークの部屋を訪ねたのは、誰あろうティアだった。
お約束のように下世話な想像が脳裏をちらつくものの、迎えるルークの声は真剣そのものである。
『ああ……。瘴気のことなんだ』
コト、と何かを置くような音が聞こえた。入室したティアに椅子を薦めたのだろうか。
『瘴気に害があるって事はわかってるけど、具体的なことは知らないから、すげぇ気になってて』
キシ、と何かがきしむ音が聞こえた。ルークが寝台に腰掛けたのか。
『……まさか今日明日にもみんなが死んじまうなんてことには……』
『以前話したことがあると思うけど、長時間大量に吸わなければさして害はないわ。それでもずっとこのままなら、次世代には人口が八割は減っていると思う』
答えを聞いて、ルークが鋭く息を呑んだのがはっきりと伝わってきた。
『……くそ! 外殻を降下させても、これじゃあ意味がない』
『だから平和条約の中に瘴気の共同研究が含まれているんじゃない』
一人焦るルークを、ティアが静かになだめる。
しかし、彼は搾り出すような声で独白した。
『……わかってる。だけど、俺……俺の超振動は瘴気を分解することもできないなんて……なんか腹が立つんだよ。全部……俺が招いたことなのに……』
しばしの沈黙。
なんと答えるべきかティアが迷っているのか、それとも何か、動きがあったのか。
ただ隣室からの会話を盗み聞きしているだけのスィンに、それ以上のことはわからない。
『しっかりして。できることから始めるって、あなたは言ったでしょう? 一人の人間にできることって、きっと些細なことだわ。でも人は、お互いに協力しあえる』
ティアの声は優しかった。
幼子を諭すように、傲慢を持ちながら気付いてしまった心の傷を、柔らかく癒すように。
どちらにしても、普段自分の感情を意図的に隠そうとするきらいのあるティアには珍しい。
もちろんその声音に込められた力は、ルークを少なからず癒していた。
真意が伝わったかどうかは、不明だが。
『私……私たちがいるわ』
『……うん。ごめんな。へたれなこと言って』
一瞬の間。きっとティアは、首を振ったのだろう。
『ううん。……じゃあ、私行くわね。お休みなさい』
『お休み。……ありがとう』
パタン、と扉が閉まる音がした。
知らず息を殺していたスィンは、ふぅっと大きく息を吐いて耳に装備していたコップを転がす。
二人の話で、身も心も落ち着いたのだろうか、嘔吐感は綺麗さっぱり失せている。
しかし、空いてるはずの腹はいまだ張ったままだ。胸の変調も、収まったわけではない。
──などと考えてみても、心底苦しむルークの声は耳元から消えてはくれなかった。
人は生まれ落ちて生き続けることそのものが罪である。命を食らって生きる生き物が、同族であれなんであれ命を奪ったことを落ち込むのは偽善でしかない。
そう教え込まれているスィンに彼の苦しみを理解することは、本当の意味では不可能だろう。
自分のしたことで後悔を、痛みを覚えるということならそれこそ痛いほど理解できるが。
護れなかったもの、奪い取ったもの。そして失われたもの。
沢山のものがこの手からすり抜け、奈落の底へと落ちていった。
落ちたものがどうなったのか。確かめたことはない。
深淵を見つめる時、深淵もまたこちらを見つめている。引きずり込まれるわけにはいかない。
少なくともスィンには、奪うことはやめられない。だから、護るのだ。
全てを護りそして選ぶのは英雄に、賢王にふさわしく、彼らのみ選ぶことが許された選択肢なのだから。
英雄ではない者は、届くところに手を伸ばす。どうあがいても届かないところなど、知ったことではない。
気にかければ、その時──己を滅ぼすことになる。
体調不良から気をそらすために、つらつらと、考えても仕方がないことをこねくり回す思考が、ふと停止した。
ふと鼻をくすぐった、かぐわしいはずの匂い。
しかし、どういうわけかそれは──
「っ……ぐ!」
そのまま垂れ流したい欲求を、どうにか人間としての尊厳が押し留める。
歩くこともままならない体が、匍匐全身でようやく目的の場所へと到達した。
「げほっ、うぇっ」
胃は蠕動して、内容物を吐き出したがる。
しかし、幾度もの嘔吐で出すものを出し尽くしていたスィンは、なけなしの胃液を出しただけですぐに倒れこんでいた。
先ほどのようなことになってはたまらないと、反射的に嗅覚を遮断する。
鼻を摘んで寝台に突っ伏したスィンの耳に、コンコンッ、というノックが響いた。
こちとら「眠いから」という理由で夕食を辞退した身だ。普通に寝ていてもこの程度の音なら眼を醒ますだろうが、現状が現状なだけに誰かと会う気がしない。
そうこうしているうちに、足音がして会話が始まった。
『あれ、大佐にナタリア? どうしたの』
『スィンが結局夕食を摂っていないようなので、夜食をと──』
『大佐とわたくしで作りましたのよ』
『……これ、リゾット? なんでまた』
『調べたところ、
……ジェイドとナタリアがいたところを、アニスが通りかかったというところか。
『でも、スィン寝てるんじゃないですか?』
『そのときは仕方がありません。この出来立てあっつあつを漏斗で流し込みます。食道管火傷で爽やかに目覚めてくれますよ』
何気に恐ろしいことをさらりと言い放つジェイド・カーティス大佐三十五歳。
『その前にどうやって入りましょうか?』
『連れが部屋から出てこない、とでも何とでも言えば、合鍵の類は……』
押し込みをかけられてはたまらないと、スィンは気だるい体をどうにか起こした。
窓は開けているが、人間が幾度か嘔吐を繰り返したのだ。異臭がしないわけがない。
と、いうわけで。
スィンは荷袋から取り出した香水瓶を、勢いよく床に叩きつけた。瓶はもろくも砕け散り、甲高い音と共に柑橘系の香りが臭いほど周囲に充満する。
室外にも聞こえたらしく、外の会話は面白いほどぴたり、と停止した。
少しして、少々乱暴なノックが続く。
「スィン!? どうしましたの、スィン!?」
「……ナタリア?」
いけしゃあしゃあと尋ねつつ、ほんの少し扉を開けた。
「何やら妙な音が響きましたが……」
「香水瓶を割ってしまって」
扉を完全に開放して、中の惨状を確認させる。
「で、何か用ですか?」
「そうですわ。スィン、夕飯はまだでしょう? わたくしと大佐で作りました」
召し上がれ、と暖かな湯気を上げる皿を差し出され、受け取る。
鼻で息をしないよう務め、とりあえず受け取った。
「……大佐、毒物混入はしてませんよね」
「安心なさい。妙なものが入っているなら、ナタリアが見咎めているはずですから」
しかし、この若年寄なら箱入り王女の目を盗んでなんやかやと入れていそうな気がする。
「皿は洗って荷袋に戻しておいてくださいね」
「ありがとうございます」
喋りながら鼻を使わない呼吸に苦しくなったため、スィンは早々に部屋へと引っ込んだ。正直二重の意味で食べたくなかったが、何も食べないのはかえって体に悪い。
とりあえずは後片付けをするべく、柑橘類の芳香漂う瓶に手を伸ばす。
通常は臭い、とまで思う匂い。それがなぜ咳き込むでもなく平気なのか。
このときスィンは嗅覚がマヒした、程度にしか考えていなかった。
それよりも、なによりも。
「明日、かぁ……」
きっと荒れるであろう平和条約締結を憂い、スィンはひとつ、長いため息をついた。
翌日。
睡眠をとったからなのか、そもそも夢だったのか。
スィンの体調はけろりと回復していた。
ただし、夢ではない証拠として香水の瓶は割れており、洗浄済みの皿は立てかけて乾かしてある。
「……?」
昨夜はあれほど苦しめられた嘔吐感もなければ、めまいも立ちくらみもなく、ただ少々腹が張っているような気がする程度か。
自分のことながら首を傾げつつもロビーへ赴けば、すでに全員が集合している。
「珍しいですね、スィンがこんなに遅いなんて」
イオンの言葉を笑ってごまかしていると、不意に外へと通じる扉が開いた。
赤い飛行服を纏った少女は、ロビーにたむろする一同を見つけてぺこりと頭を下げている。
誰かが小さく「あ」と呟いた。
「おはようございます」
「ノエル!」
昨日、一人両国首脳たちをエスコートすべく出発した年若いアルビオールのパイロットは、微笑を伴ってハキハキと報告している。
「お帰り! 伯父上たちは?」
「無事、ユリアシティにお送りしました。少し早くこちらに着きましたので、一足先にアスター殿もお連れしておきました」
仕事の速さもさることながら、その内容にナタリアが「まあ!」と声を上げた。
「それではあなた、全然休んでいないのでは?」
しかし、ノエルはフルフルッと首を振ってこともなげに言ってのける。
「いえ、大丈夫です。ご心配なく。ちゃんと隙を見て休んでいますから」
「ご苦労様です」
イオンの──ローレライ教団最高指導者の労いを受けて、彼女は小さく会釈した。
「恐縮です。では、私はアルビオールで待機していますので!」
軽快に去っていくその後姿を見送るまでもなく、ジェイドはくるり、と一同を見回した。
「さて、私たちもユリアシティに向かいましょうか」
「……ああ、いよいよだな」
頷いたガイの呟きは、どこか尋常でない雰囲気が見え隠れしている。
スィンから見れば、何かやらかす気満々だが、あえてそれを問いただすつもりはなかった。
想像がつくということもあるが、こればかりは、スィンが何を言ったところでどうにもならないだろう。
──今までは、自分の身を盾にしてでも護ればいい、護るだけでいいと思っていた。でも主は、自分が体を張った分だけ気分を害する。無茶をするなと怒りを見せる。
それなら、気取られないよう気張ればいい。不可能ではないはずだ。
これから先、いつまで主の傍にいることができるのか、わからない。自分がいなくなったそのとき、主はどうなるのか。
ならば自立を促せばいい。自分がいなくなったとき、主を護るのは主自身であればいい。
それらの点を踏まえて、スィンがこれからするべきことがある。
まずは、これから彼がしようとすることをあえて止めないこと。
少なくともスィンは、思うこと多々あって様々なことをガイに隠してきた。
情報の一欠片は、彼にどのような自立を促すのだろう。
今は、ただ。刻が流れてゆくのを待つ。