the abyss of despair   作:佐谷莢

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第百二十唱——沈みゆくは、冥界の深奥と名づけられし艦艇

 

 

 

 一行を乗せたタルタロスが、全速力をもって航行する。

 総員──タルタロスの操縦経験者たちの尽力をもって安定航行が可能となり、慌しい出港からようやく一息ついたとき。

 一同の視線は口元に手布を押し当てたスィンへと向かった。

 

「スィン、色々聞きたいことがあるんだが……まずはこいつだ」

 

 口火を切ったのはガイ。

 彼は、アッシュ経由で渡されたロケットを彼女に差し出した。

 スィンは無言で、ロケットを受け取っている。

 

「その口はどうした?」

「ちょっと……弾みで、噛み切ってしまって」

 

 ナタリアにも促され、口元から布を外した。

 形のいい唇には痛々しい傷があり、未だに出血は止まっていない。

 治癒術をかけてもらえば傷跡すら残らない程度のものだが、果たしてこれを弾みで済ませられるものか否か。

 それを尋ねようとはせず、ナタリアは治癒術を行使した。

 

「スィン、ところでシェリダンはどうなったんだ?」

「そうだわ! 教官が追いついてきたから、もしかしたらと思っていたのだけれど……」

 

 リグレット出現により、彼らの心は随分乱れているらしい。

 彼らの憂いを払うべく、スィンはひとつ息をついて答弁をした。

 

「シェリダンは無事です。僕が確認した限り、死者は出ていません。あの後すぐにキムラスカ兵が来てくれたし、だけど、イエモンさんが……」

「! イエモンさんが、どうしたんだ!?」

「まさか流れ弾を受けて……!」

「ぎっくり腰を起こしたようで」

 

 ほぼ全員が脱力する中、当時の状況を説明していく。

 説明を受けて、ルークが耐え切れなくなったように抗議を上げた。

 

「ビビらせんな、あほ!」

「でも、スィンが間に合ってよかったよ。アストンさんもヘンケンさんもキャシーさんも、私たちの盾になろうとしてたんだ」

 

 今度はスィンが、港での状況を聞く番である。

 港に辿り着いたとき、彼らは譜業の催眠煙幕を用いて兵士たちを無力化していたこと。

 スィンを待つか、置いていくか。一行の中で議論が勃発したそのとき、ヴァンが現われたのだという。

 

「まさか御大自ら出てくるとはな……よほど、地殻停止は都合が悪いらしい」

 

 ヴァンの相手をしていたら、到底間に合わない。

 共に現われたスピノザの姿を見て、い組は自分たちが障害物になる、と一行の盾となったというのだ。

 そして、スィンは譜歌を使いヴァンに斬りかかって……失敗している。

 事の次第を知ったスィンは、がっくりと項垂れた。

 

「……絶好の、タイミングだったのに。仕留められなかった……」

「気にすることないわ。結果的に犠牲者なしで、ここまで全員で来ることができたんだもの。ここまでは、ほぼ理想的と言っても過言じゃない」

 

 妙に明るいティアの言葉が、スィンの鼓膜に響き渡る。

 珍しいのと同時に、その言葉は何よりも励ましになった。

 しかし、大きめのため息は止められそうにない。

 何度か深呼吸に見せかけたため息だったが、それは唐突に止まった。

 

「──そのため息は、ヴァンを仕留めそこなったことに対する自分への怒りですか? それとも、安堵ですか?」

 

 話の輪には加わらず、先ほどから一人で黙々とタルタロスの操縦を行っていたジェイドが、ボソリと呟くように言ったのである。

 久々に自分へ向けられた、彼の言葉。

 しかし、今のスィンにそれを気にかける余裕はなかった。

 席を立ち上がり、口元を押さえてふらふらと甲板へ続く扉へ向かう。

 

「スィン?」

「……ちょっと、酔ったみたい、です」

 

 ピタリと停止してガイに答える暇も有らばこそ、スィンは脱兎の勢いで甲板へと消えていった。

 嫌な沈黙が漂う。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぷはっ、えほっ……!」

 

 項垂れていたせいなのだろうか。

 胃の内容物を盛大に海原へ撒き散らしながら、スィンは苦悶に顔を歪めていた。

 気持ち悪い、だけではない。せいせいしない、というのはもちろんあるが、頭が痛いような気がする。

 片腕が妙に疼き、彼女は患部を軽く撫で擦った。

 最近吐き出すのに慣れてきたせいなのか、気持ち悪くてたまらない、吐きたくても吐けないという状態へ移行する前にすっきりすることができるようになってきた。

 こんな技能要らないと思いつつも、身についてしまったものはしょうがない。

 甲板から首だけ出した状態で、スィンは柵にもたれかかった。

 冷たい風が、火照った頬に心地いい。

 気持ちが落ち着いてくると、ジェイドの言葉が脳裏に響く。

 

『──そのため息は、ヴァンを仕留めそこなったことに対する自分への怒りですか? それとも、安堵ですか?』

「……」

 

 見抜かれている。

 流石は死霊使い(ネクロマンサー)と思うべきか、あるいは仲間たちも気付いていてあえて言わなかっただけだったのか。

 答えを出すとすれば、質問そのものを肯定するしかない。

 スィンはヴァンを仕留めそこなって落ち込んだと同時に、彼を殺さずにすんだことを安堵したのだから。

 ひょっとしたら、ティアも同じなのかもしれない。無意識だとは思うが、そう勘ぐっても仕方ないほどに、彼女の口調は明るかった。

 コツコツと、誰かの足音が聞こえる。

 誰かがスィンの様子でも見に来たのか、ふと後ろを振り返って。

 

「!」

 

 驚きで見張られた眼が、一瞬の瞬きと共に通常の状態へと戻る。

 歩み寄ってきたのは、それまでタルタロスの航行を調整していたジェイドその人だった。

 先ほどの言葉で仲間たちから批難を浴び、無理やりスィンのもとへと行かざるをえなかったのだろうか。

 甲板へやってきたのは彼の意思ではない表れか、その顔に普段の笑みはなく、切れ長の瞳は険しく見えた。

 それにしても、今彼と二人きりにされても困る。

 気まずいのもそうだし、ジェイドがスィンを避けているのもそうだし、そして何より彼からの謝罪など聞きたくない。

 小さく息をついて、とにかく甲板から離れようとジェイドとすれ違うように歩き始めた。

 

「少し前から、様子がおかしいと思っていましたが」

 

 突如として話しかけられ、思わず立ち止まる。

 立ち位置はちょうどすれ違う辺り、真横にジェイドは立っていた。

 彼は先ほどまでスィンがいた辺りを見つめたまま、微動だにしない。

 

「まさか──してるんですか?」

 

 決定的なその一言は、タルタロスに打ち付けられた波間に消えた。

 しかし、その言葉は至近距離にいたスィンに、しっかりと届いている。

 しばらくは、何の反応もなかった。両者共に身動きすらしない。

 いつまで経っても、何の返事も得られないことに苛立ちを覚えたジェイドが振り返る。

 

「答えられないということは、その可能性が──!」

 

 声を荒げようとして、その息が詰まる。

 真紅の瞳に映っていたのは、呆けたようにジェイドを見つめ続けるスィンの姿だった。

 感情という感情が抜け落ちたような、何が起こっているのかまるでわかっていない、ただ呆然とした瞳。

 

「……スィン?」

 

 色違いの瞳が、呼びかけに反応したかのようにひとつ、瞬く。

 ひとつ、またひとつと瞬きを繰り返したその眼は、ようやく通常と呼ばれる程度のものへと変化した。

 

「否定も肯定も、できません」

 

 正気を取り戻したその眼が、陰を落とす。

 押し殺すようなその返事を受けて、ジェイドはずれてもいない眼鏡の位置を直した。

 

「身に覚えはある、ということですか」

「あなたには関係ないことです」

「関係ないわけがないでしょう」

 

 もう用は済んだと言わんばかりに歩みを再開したスィンの肩を掴み、強引に向き直させる。

 腕力では叶わないとわかっているために抵抗こそないが、協力的な態度とは言いがたい。

 

「そんな人間に、私が同行を許すとでも?」

「僕はそもそもあなたの許可が必要とは思っていない」

「私は、そうでしょうね。このことをガイが知ったら、彼は何とあなたに命じるでしょうか」

「あくまで可能性に過ぎません。憶測を事実が如く、告げ口のように告げる気ですか」

 

 真紅の瞳が緋色と藍の瞳を、緋色と藍の眼が真紅の眼を険しい視線で見据える。

 恋人のように、好敵手のように、仇を追い続けた復讐者のように互いを見据えあう無言の対峙はしばらく続いた。

 やがて、ゆっくりと。

 先に視線をそらしたのは、スィンだった。

 

「……もし、可能性が現実のものだったとしたら。あなたはどうするというのですか?」

「引きずり出します。到底放置しておける問題ではない」

 

 珍しく息巻いて即答した彼を、珍獣でも眺めるような眼で見やり。

 今度こそスィンは、甲板を立ち去った。

 艦橋(ブリッジ)へは戻らず、広い船内をあてどなく歩き回りながらも先ほどの言葉が耳を離れない。

 知らず、自らの腹を撫で擦る。

 今しがたの症状は船酔いと決定できるものの、ケセドニアでの原因不明な体調不良がまさか、という可能性を生み出していた。

 最近体が重くなったり、だるいと感じることがなかったかといえば、肯定だ。

 しかしそれは体内を巣食う病巣のせいであったはず。

 けして、そんなことは──

 甲板及び、周囲を一望できる見張り台に到達する。

 冷たい海風が吹き荒れる中、スィンは思考の渦の囚われたまま身動きひとつしなかった。

 もしも、そうだとしたら──

 どうするべきなんだろう。どうすれば、いいんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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