the abyss of despair   作:佐谷莢

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第百二十二唱——死闘≒私闘

 

 

 

「……やっと堕ちたか」

 

 妙に軽い、しんどそうなシンクの声が響く。

 その言い草に誰もが反応を返せないほど、場の雰囲気は固く緊張に包まれていた。

 

「い、イオン様、こっちに」

 

 掴んでいたスィンの腕を外させ、アニスがイオンを避難させるも、反応はなく。

 その手には、とうとう抜き身になった血桜が握られ、敵と相対している際と何ら変わりない。

 痛いほどの沈黙が、タルタロスの甲板に満ちていく。

 ──そっと。ガイが、空気を震わせることを恐れるように囁いた。

 

「……旦那。スィンには絶対近寄るな。可能な限り離れて闘ってくれ」

「だ……め……

 にがさ……ない」

 

 とろけた飴のように粘ついた声が、ジェイドの耳に注ぎ込まれる。

 怖気が走るほどに甘く、鬱々としたそれは間違いなくスィンのものだった。

 ジェイドとスィンの距離は、彼を庇うようにして立つガイ、そして意図こそないが仲間達がいることによってそれなりに離れている。

 その場所から耳元に囁くなど、到底──

 

「!」

「つか、まえ、た」

 

 細く、しなやかな腕が唐突に現れる。

 瞬く間にそれは、ジェイドの首に絡みついた。

 腕の持ち主はまるでジェイドの背中にしがみつくように彼の胴へ足を巻きつけている。

 当然ジェイドは振りほどこうとしているものの、彼を締め上げる手足はなかなか離れない。

 

「大佐!」

「ど、どゆこと? スィン、じゃない、よね……」

 

 血桜を手にしたスィンは、一歩たりともその場から足を動かしていない。

 にも関わらず、彼女の姿をした誰かがいきなりジェイドを背後から強襲した形だ。

 

「空蝉、だったか……くそっ!」

 

 スィンと相対していたガイがきびすを返してジェイドの元へ走る。彼がその場を離れたことで、スィン本人もまたゆらり、と足を踏み出した。

 瞳の焦点はぼやけたまま、組み付かれてもがくジェイドに向かって。

 彼だけを見ていたその視界が、唐突に遮られる。

 

「ルーク!」

「わかってる! どうにか足止め……うおおっ!」

 

 抜き身の血桜が、ルークの顔面を貫かんと迫る。

 どうにか回避したルークだったが、どういうことなのか。

 あっさり矛先を変えたスィンは、そのままルークに襲いかかった。

 

「くっ!」

「……ふぅん。お前にも、散々な目に遭わされてきたんだね」

 

 虚ろな目のまま、足取りもたどたどしく、まるで棒切れを振り回すかのようにスィンは刃を叩きつけてくる。

 それは非常に稚拙な攻撃ではあったが、カースロットに操られている影響なのか。その一撃は非常に重く、ルークが避けた先は穴だらけになった床、見るも無残に破壊された備品が転がっている。

 受け損ねれば、ただではすまない。さりとて、安易に反撃もできず、ともすれば受ける剣ごと叩き斬られかねない。

 それに耐えるルークを眺めて、スィンの記憶をサルベージしたらしいシンクは、面白そうにその過去を並べ立てた。

 

「気味が悪いって罵って、給料泥棒って石投げて、ぷっ、ヴァンに擦り寄る雌猫呼ばわり? んで、旅の間は我が侭三昧、か。恨みがない方がオカシイかもね。むしろ、何で今まで怒ったりしなかったかな。お前のことなんか、余程どうでもよかったのかね」

「ぐっ!」

「年々ファブレ公爵に似てきて、顔の皮剥いでやりたかった? そんなに似てるかな……って、これはアッシュへの憎しみか。顔が同じだからかな。恨みつらみが混ざってぐちゃぐちゃになってるよ」

 

 カースロットを行使する代償なのか。シンク自体が攻撃を仕掛けてくる気配はない。

 その代わりとばかり、彼は口撃の手を緩めなかった。

 

「高価い壷割って、こいつになすりつけたのか。とんだクズだね」

「何の話なんだよ。そんなことしてねーっつーの!」

「ん? これもアッシュのか。顔が同じだからわかんなかったよ」

「……!」

「まあ、お前らへの恨みはファブレ公爵が根源にあるんだ。どっちがどっちかなんて、それこそどうでもいいんだろうけどね」

 

 ルークのコンプレックスでもある、レプリカのことも絡めて罵倒しにかかる。

 シンクが集中しきっていないことも関係してか、操られているスィン自身は鈍重で、普段ガイと肩を並べて戦う姿とは似ても似つかない。

 ふらふらとおぼつかない足取りで、ただ単調に。

 その様子からは信じられないほどの力で、ルークに斬りかかるのみだ。

 

「くそっ!」

 

 一方で、ガイは空蝉に取り付かれたジェイドの元へと到達していた。

 

「やめろっ!」

 

 攻撃を受けたと感知すれば、空蝉は消える。

 以前聞き出したその情報に基づき、ジェイドの首を絞め続ける空蝉に攻撃を仕掛けた。

 しかし。

 

「……な」

 

 万一のことを考えて、柄頭で殴りかかったガイの手が、止められる。

 何も持っておらず、彼の首を絞めていたはずのその手にはいつの間にか一振りの剣が握られており、ガイの攻撃を捌いたためだ。

 握られていたのは、ガイにも覚えのある代物。

 かつて彼女の姿を偽るがため、術式媒体として使用していた異形の剣だった。

 有する乾いた血液の色が、否応もなく不吉な未来を彷彿とさせる。

 

「……ね」

 

 ぼんやりとした声音が、空蝉から発せられる。

 攻撃を受けたはずみでジェイドの背から降りた空蝉は、のろのろと魔剣を構えた。

 

「し……ね。

 おかあさんの、

 かたき……」

「スィン、目を覚ませ。お前はそんなこと望んでなかっただろ!」

「そん……なこと、ない。

 ずっと、こうしたかった。

 ずっと、ころしたかった。

 ずっと、我慢してた……」

 

 攻撃を仕掛けた時点で、ガイはジェイドを自分の後ろへと庇い、空蝉とは引き離すようにしている。

 そのまま彼を避難させようとして、阻まれた。

 何の躊躇もなく、ガイへ斬りかかったスィンによって。

 

「っ……な!?」

 

 戦線を離れてイオンの護衛に徹しているアニスが、おののくような口調で呟いた。

 

「スィンが……ガイに攻撃するなんて……」

「カースロットは理性を麻痺させます。早くシンクの制御下から外さないと、彼女は本当にジェイドを……!」

 

 暴走する彼女の暴挙からどうにか逃れたガイは、硬直を余儀なくされる。

 防衛に使用した彼の得物が、刃を受けたその場所から寸断されたのを見て。

 

「ねえ。

 しんで?」

 

 あまりのことに立ちすくむガイを押しのけるように、空蝉はジェイドに詰め寄った。

 術者の精神を反映させたかのような、濁った瞳にジェイドだけを映して。

 

「お母さんに、謝ってきて。

 そしたらもう何もしない。

 あなたが、何をしようと。

 したいことするといいよ。

 だからさ、逝ってきてよ。

 できないとは言わせない」

 

 このような事態に陥らなければ、一生涯語られることはなかっただろう、スィンの本音。

 感情乏しく声音こそ平坦だが、それは理性が麻痺しているからこそで。

 恨み骨髄を真っ向から聞かされ、ジェイドは。

 

「……」

 

 言葉もなく、その手に長槍を手にしていた。

 その穂先がゆっくりと、他ならぬ彼自身の首を指す。

 それを眼にして、スィンの顔をそのまま模した空蝉の口元がぐにゃりと歪んだ。

 まごうことなき、笑みの形に。

 

「もう恨まなくてよくなる。

 もう憎まなくてよくなる。

 もう妬まなくてよくなる。

 もう悲しまなくて、いい。

 もう苦しまずに済むんだ。

 早く、はやく、は「黙れ!」

 

 我に返ったガイが、手元に残った柄を放り出してジェイドの腕を掴んだ。

 空蝉に反応はない。ガイの挙動は気にも留めないで、ただただジェイドを見つめるばかりだ。

 

「死者は何も思わない……何をしたって死んだ奴が何か思ったりすることはないって、言ってたじゃないか!」

「死んだ後のことなんて。

 死んだ人しか知らない。

 そう信じたかっただけ」

 

 歪んで締まらない不気味な笑みを浮かべたまま、詰問をかわす。

 そのまま。彼女は再び刃を向けた。

 正気でないことはわかりきっている。これが彼女自身でないこともわかっている。

 スィンそっくりの空蝉は、狂気に浸された瞳が焦点をなくして、ひずんだ口元は泡を飛ばして聞くに堪えない奇声を放った。

 

「し、ね・しー、ねっ。きゃはははぁっ!」

「スィン! もうやめろ、やめてくれっ!」

 

 そこへ。

 

「ルーク!」

「やめてくださいませ、スィン!」

 

 悲鳴じみたナタリアの制止が飛ぶ。

 見やれば、とうとうルークを追い詰めたスィン、彼女の前に立ちはだかるナタリアの姿がある。

 ルークの手に武器はなく、吹き飛ばされて壁に叩きつけられたような風情だ。外傷こそ見えないが意識があるかも怪しく、ぴくりとも動かない。

 彼の元にティアが駆け寄り、治癒術を施していく。

 その二人を庇うように、弓を放り出したナタリアは大きく両手を広げた。

 

「スィン、目を覚ましなさい! 大佐を許せ、とは言いません。しかし、彼を斬るということは、これまであなたが思いとどまってきたその時間をすべて無に帰すということなのですよ。本当にそれで良いのですか!」

「……」

 

 ナタリアの言葉を聞いていたかも怪しいスィンは、棒立ちしたまま動かない。

 よもや彼女の説得が功を奏したのか……

 その幻想を砕いたのは、他ならぬ元凶・シンクの苛立ったような声だった。

 

「これだけ深く侵してやったのに、カースロットの支配さえ跳ね除けるのか。本当に厄介だね、従属印ってヤツは」

「え……」

「何すっとぼけてんのさ。ネタは上がってるんだよ。『主』の血液を用いて刺青を施し、絶対服従を強いる秘術。ホドが滅びて失伝したから、こいつが最後の被験者なんだろ。ほら、もう一人のこいつも消えちゃった。お前の命令のせいだよ」

 

 忌々しげに吐き捨て、再び術の集中に取り掛かる。

 術の行使を受けて、なのか。

 スィンはそれまで引き締めていた唇を解いて何事かを呟いた。

 

「……天光満つるところに我はあり」

 

 突如として血桜を納めたスィンの真下に光が走り、俗に譜陣と呼ばれる円形の幾何学模様が描かれる。

 これまでジェイドと同道を共にしてきた一同は声を失い、逆にシンクは耳障りな笑声を放った。

 淡々と、スィンは詠唱を紡いでいる。

 

「あはははっ! 驚いたよ、ヴァンの女はこんなのまで使えるんだ!」

「黄泉の門開くところに、汝あり」

 

 譜陣は次々と生まれ、術者たるスィンを取り巻いて極大過ぎる威力より術者を護る結界が出来上がった。

 あと数秒で、ジェイドの奥の手でもある譜術は完成する。

 ティアによる譜歌の守護は間に合わないと判断したジェイドが、一同に散りつつも伏せるよう指示をしかけたその時。

 その場にいる誰もが、聞きなれない詠唱を聴いた。

 

「天の風琴は奏者たる我を欲し、冥界の霊柩は贄たる汝を欲し」

「……え?」

運命(さだめ)を告げる審判の銅鑼より、その響きもて万象を揺るがす」

 

 ジェイドの扱うそれよりも遥かに長い詠唱式はスィンの、見慣れない手振り身振りによって編みこまれていく。

 その場の誰もが事態を飲み込めず唖然としていたその時、ティアはジェイドの目配せを受けて譜歌の詠唱を始めていた。

 

「これは……旦那の詠唱と、似てるけど違う……」

「違うなんてもんじゃないよ! 譜力がこんなに集まって……制御できるわけないじゃん、術者もろとも吹き飛ばされちゃうよ!」

 

 譜術のことはまったくわからないガイも、周囲の空気が異常であることに気付いている。そのことをポツリともらせば、過剰反応したアニスが脅えたように叫んだ。

 当事者たるスィンに届けとばかりの金切り声だったが、耳に入れた様子さえわからない。

 

「其の衝撃は奏でる我を鼓舞し、凄惨なる旋律に汝は嘆き脅え」

 

 ただ狂気を瞳に宿し、淡々と文言を唱えるだけだった。

 その様子は、言葉での説得が手遅れを通り越していることをまざまざと示している。

 

「……おそらくこれは、元祖に位置する譜術の類でしょうね」

「ジェイド! 何を呑気な……」

「私の……軍人の使う譜術は、主に戦闘で使用されるため多少威力を落としてでも詠唱を省略が徹底されています。威力は落ちますがそのほうが身体に負担が軽いし、即効性を求められるので、それは治癒術にも反映されたと聞いています」

 

 パーティ全滅の危機に陥った今、どこまでも冷静に分析を始めたジェイドを。ナタリアがたしなめた。

 しかしジェイドの言葉は止まらず、その紅い瞳は片時も彼女から外れていない。

 

「悠久の刻──踊る紫電に我歓喜し、降り注ぐ裁きの雨は汝を撃つ」

「元祖の譜術は、戦闘ではなく儀式等に活用されていたため詠唱時間も威力も桁違いだと言われています。私はインディグネイションの存在を、すでに縮められた詠唱式で知りましたから……こちらが本来の、術なのでしょうね」

 

 その瞳は、どこか陶然としたものを内包していて。

 スィンもまた、その瞳をじっと見つめているように見えた。

 その眼差しは憎しみも、何もなく。

 ただじっと、相手を観察するような眼だった。

 

「こなた天光満つるところより、かなた黄泉の門開くところに生じて滅ぼさん」

 

 そして、術式は完成を向かえる。

 

「響け、終焉の音──」

 

 ティアの唱えた最後の旋律は、轟音によってかき消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳をつんざくような轟音が、直視すれば失明も危ぶまれる閃光と共に鳴り響く。

 それはさながら、運命の銅鑼にも似て。確かに万象をゆるがして去った。

 ティアの譜歌が功を奏したのか、身体に異常はない。それを確認して、ジェイド・カーティスはゆっくりと起き上がった。

 

「……何が、どうなっちゃったの……」

 

 次に起き上がったのは、我が身で蓋をするかのようにイオンをかばっていたアニスである。

 ティアの結界がなくなったことにより、通常のサイズに戻されていたトクナガがむっくりと巨大化した。

 反射的に身を伏せていた一同も、なんとか凌いだことを知って次々と起き上がる。

 

「スィン!」

 

 雷がタルタロスの機関部を貫いたのか、周囲はうっすらと煙が立ち込めていた。

 それをジェイドが譜術によって散らした先、見えたのは。

 

「……っ」

 

 棒立ちするシンクの腹に血桜を突き立てた、スィンの姿だった。

 轟音と閃光によって、一時的に集中力をなくしたシンクの隙を縫うように理性を取り戻したスィンが、無我夢中で刺した──事実がわからない今、そう解釈するしかなかった。

 

「まったく……油断のならない……」

 

 激痛にだろう、口元を震わせるシンクが力なくスィンを蹴る。

 まるで人形のように倒れたスィンの手元は、鮮やかな真紅に染められていた。

 慌ててガイが走り寄り確認をするも、彼女に外傷はない。

 

「どういうことだ?」

「指先か手のひら全体の毛細血管を損傷したようですね。先ほどの譜術の使用で、過度な負荷がかかったのでしょう」

 

 並みの術士が使えば、全身の血管を破裂させて死に至ってもおかしくなかった。それを、彼女はこれだけの損傷に抑えている。

 譜術士としての訓練を受けていない彼女が示したそれは、生来の素質か、才能か。

 致命傷を負ったシンクにカースロットの制御は不可能と見て、それでも不意討ちに備えて軍人であるティアにスィンの治癒を任せる。

 一方、深々と突き刺さった血桜を引き抜いたシンクは、その反動で仮面を取り落としていた。

 放り投げられた血桜と仮面が、乾いた音を立ててタルタロスの甲板を転がる。

 その素顔を一目見て、一同の大半は驚愕を示した。

 

「お……おまえ……」

「嘘……イオン様が二人……!?」

 

 ──そう。偶然か必然か、暴かれたシンクの素顔は、髪型こそ異なるものの、ローレライ教団最高指導者、導師イオンそのものだった。

 

「……くっ」

「やっぱり……あなたも、導師のレプリカなのですね」

 

 腹を押さえて苦しそうに呻くシンクに、イオンは呟くように言った。

 聞き流せないその言葉を問い質したのは、アニスではなくガイである。

 

「おい! あなたも……ってどういうことだ!」

 

 その言葉に、彼は躊躇を隠さずもはっきりと、真実を告げた。

 

「……はい。僕は導師イオンの七番目──最後のレプリカですから」

 

 その告白に過剰反応を示したのは、同じ手法で造られたであろうルークと、そして。

 

「レプリカ!? おまえが!?」

「嘘……。だって、イオン様……」

 

 一同の中でもっとも長く彼と接してきた、守護役のアニスであった。

 

「すみませんアニス。僕は誕生して、まだ二年程しかたっていません」

「二年って、私がイオン様付きの導師守護役(フォンマスターガーディアン)になった頃……まさかアリエッタを解任したのは、あなたに……過去の記憶がないから?」

「ええ。あの時被験者(オリジナル)イオンは病で死に直面していた。でも跡継ぎがいなかったので、モースとヴァンがフォミクリーを使用したんです」

 

 語られた言葉を噛み砕くように、事の次第を推理するアニスに、イオンは苦しげに肯定する。

 イオンが今抱えているであろう罪悪感すら贅沢だといわんばかりに、シンクは呪詛にも似た言葉を紡いだ。

 

「……おまえは一番被験者(オリジナル)に近い能力を持っていた。ボクたち屑と違ってね」

「そんな……屑だなんて……」

「屑さ。能力が劣化していたから、生きながらザレッホ火山の火口へ投げ捨てられたんだ」

 

 彼は気付いているのだろうか。

 その感情が、俗に嫉妬と呼ばれるものであることに。

 

「ゴミなんだよ……代用品にすらならない、レプリカなんて……」

「……そんな! レプリカだろうと、俺たちは確かに生きてるのに」

 

 自嘲的なその言葉を、同じ存在として似たようなことを考えたことが無いとは言えないルークが否定する。

 しかしシンクは、それをあっさりと払いのけた。

 

「必要とされてるレプリカのご託は、聞きたくないね」

 

 その姿は、愛する婚約者がいながら一同と馴れ合うことを拒絶した、一人の青年とも重なって見える。

 

「そんな風に言わないで、一緒にここを脱出しましょう! 僕らは同じじゃないですか」

「イオン様!」

 

 アニスの制止も聞かず、イオンはシンクへ歩み寄った。

 あまり見かけることのなかった積極さでシンクへと手を伸ばす。

 しかし、救済であるはずだったその手を、シンクは音高く払うことで明確な拒絶を示した。

 

「違うね」

 

 アニスの険しい目、イオンの困惑に満ちた視線すら相手にせず、ゆっくりと後退る。

 シンクの背にあるはずの鉄柵は、スィンの放った譜術によって跡形もなく吹き飛ばされていた。

 

「ボクが生きているのは、ヴァンが僕を利用するためだ。結局……使い道のある奴だけが、お情けで息をしてるってことさ……」

 

 自嘲めいたその呟きが、遺言であることを誰が想像できたのか。

 何の躊躇もなく、シンクはその身体を地核の奥底へと突き落とした。

 誰も止められなかったその姿を、導師イオンのレプリカだと告白した少年は、呆然と見送っている。

 やがて、彼の異常に気づいたアニスがおそるおそる、彼の傍へと歩み寄った。

 

「……イオン様、泣かないでください」

「僕は泣いていませんよ」

「でも、涙が……」

 

 何を言っているのか、不思議そうに自分の守護役を見つめた少年が、軽く自分の目元を拭う。

 指先に付着した雫を見て、彼は意表をつかれたように静かな驚愕を見せた。

 

「……本当だ」

「兄弟を亡くしたようなものですもの……」

 

 兄弟はいなくとも、幼少時母を亡くした経験のあるナタリアは身内を亡くす不幸を知っている。

 しかし痛ましげなその声にも、イオンは反応を見せなかった。

 

「そうか……僕は悲しかったんですね……泣いたのは生まれて初めてです」

 

 そして次に呟かれたその言葉を、その場の誰が聞きとがめることができただろうか。

 

「そうか……そうだったのか……僕は大変な思い違いを……」

 

 彼の発した呟きを知ってか知らずか。一同を現実へと呼び覚ましたのは、ジェイドの声だった。

 

「いけません。もう時間がない」

「だが譜陣はシンクに消されてるぜ」

 

 そう。脱出の補助出力となる特殊な技法を用いたであろう譜陣は、どのような手段を使ってか見事に消えている。そのくせ、甲板に傷はない。

 しかしジェイドは、これまでのやりとりを猶予にか、脱出の案を考えついていた。

 

「私が描きます。ただ、これほどの規模だとかなりの集中力がいる」

 

 そのジェイドが、ルークとティアに協力を求めている。

 それまでスィンの治癒に集中していたティアが、ガイにその身柄を預けようとしたそのとき。

 彼女に近づいた人物がいた。

 

「イオン……」

「今回、このような事態を招いたのは僕のせいです。以前ガイを解呪した際、衰弱の激しい僕を気遣って、スィンはそのうち解呪してくれればいい、と言ってくれました。でも僕は、旅による疲労を理由にそれを先延ばしにしてしまった」

 

 力なくガイにもたれかかり、脱力したスィンの腕に手をかざす。

 

「……シンクの生存が確認できない以上、二度とカースロットによって操られることはないでしょうが……名残が残っていないと断言できませんから。今この場で解呪を試みます」

「……わかった、頼む。無理はするなよ」

 

 小さく頷き、イオンが集中を始める。

 その向こうでジェイドが、ルークとティアに何やかやと指示を出す。

 その声を遠くに聞きながら。

 スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハは揺らいだ意識を手放した。

 

 

 

 

 

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