the abyss of despair   作:佐谷莢

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第百三十二唱——知らされる事実に、選択は狭まり

 

 

 

 

 

 

 

 

「嫌だなあ……」

 

 最後のセフィロト、ロニール雪山のパッセージリングへ赴く。

 それにあたってかの山の情報を得るため、地元民であり知事であるネフリーに話を聞きに行くと聞いて。スィンは思わず本音をぶちまけた。

 他一同は驚くしかない。

 

「何かありましたかしら?」

「ケテルブルクに行ったのは、今まで二回くらいしかなかったはずだけど……」

「タルタロスの修理のときと、スピノザを追い掛けてたときか」

 

 それは一同揃ってかの地へ赴いた際の話である。

 所縁の人間絡みで訪問した際──大昔の話だが、スィンはネフリーその人につっかかったことがあった。

 

 確か、「お前の兄はどこだ連れてこい母さんブチ殺しやがってお前もそうしてやろうか」こんな感じだった気がする。

 

 一同はスピノザを追って、スィンは手紙に挑発される形でこの地を来訪した際も、確か彼女とすれ違った。

 今でもはっきり思い起こせる。

 あの驚いた顔、間違いなく彼女もまたスィンの顔を見忘れてはいないだろう。

 

「お前、ネフリーさんになら会ったことあるだろ」

「あの時はあの時です。今とは事情が違います」

 

 タルタロス修理時は、まだ一同に正体を明かしていなかったがため今とは違う顔──マリィベルの姿だった。

 確か彼女はスィンの眼を見て少し動揺していたようだが、それを指摘するのは礼を失するとでも思ったのか、何事もなく済んだのだが。

 ますます見えない話に首を傾げる面々の中で、アニスだけがジト眼でスィンを見やっていた。

 ジェイドに至っては興味がないのか、会話に入ってこない。

 

「決まってるじゃん。大佐、こんなに嫌がってるんだからダメですよ。スィンのこと、お嫁さん候補だなんて紹介しちゃあ」

「あー……そういうことか」

 

 実際は違うけどもうそれでいいや。

 事実を語ることは億劫で尚且つ躊躇いがあったスィンは、それを否定しなかった。

 これで自信過剰だとジェイドに思わせることができたら、見損なわせることができたら──今よりも更に嫌われることができたら、それはそれで御の字だろう。

 しかし彼は、その手の感情を外へ出すことはなかった。

 

「まさか本気で来ないつもりはありませんよね?」

「お墓参りしてきていいですかね。その後知事邸へ向かいますので」

 

 そしてスィンは一人、ケテルブルクの外れへ来ていた。

 墓参りは──墓の手入れなら、済ませてきた。

 如何に彼女の遺したものが何もない形骸的な場所で、定期的な手入れの痕跡が見えても、雪だらけなのは見ていて忍びなかったから。

 町外れ、何もない場所。

 草木のひとつも見当たらず、ただただ雪に覆われた銀世界。遠くには万年雪を冠する山脈が連なっているのが見える。

 あのどれかひとつがロニール雪山のはずだ。

 これより赴くであろう場所から目を離して、再び視線を一点に留める。

 ここは、彼女の命が潰えた場所。

 レプリカを産み落とす代償として、彼女を構成する何もかもが失われた場所。

 

「久しぶり。こないだはバタバタしたけど、ごめんね。今日ももう行くわ」

 

 ケテルブルクを訪問した際は必ず立ち寄るこの場所で、スィンは座したまま語りかけていた。

 虚空に目を泳がせて一人語るその姿は、間違いなく気の触れた人間に見えることだろう。

 

「ああ、でもひとつだけ。ジェイドと結婚するかもしれないの。まだそう決まったわけじゃないけど。人生ってホント、何があるかわかんないね。お母さん、賛成? 反対?」

 

 当然のことながら返事は無い。

 山脈より吹き下ろす寒風が吹きすさぶばかりだ。それでもスィンは、風花散る虚空に向かって微笑んでいた。

 

「おじいちゃんも、なんて言うかな? これからどうなるのか、本当にわからないけど。はっきりしたら報告に来るから。それじゃ」

 

 立ち上がり、きびすを返して歩き出す。

 防寒着に張り付く雪の欠片を払いながら知事邸を目指した。

 今頃彼らはオズボーン子爵から──ジェイドの妹から、ロニール雪山に関する情報を仕入れているところだろうか。

 以前ジェイドに連れられてやってきた知事邸が見えた。

 とはいえ、スィンはネフリーに挨拶をするつもりはない。このまま外で待機し、出てきた彼らと合流する腹積もりだ。

 しかし、目論みは儚く崩れて消える。

 なぜなら、突如として知事邸の玄関口が開いたかと思うと、ネフリーその人が出てきたからだ。

 如何にスィンが寒いと連呼しながら買い込んだ防寒着でモコモコに着脹れていても、覚えがあったのだろう。

 彼女は血相を変えて、背後にいたジェイドをかばった。

 

「ネフリー? どうしました?」

 

 よく見れば、彼らはちょうどお暇を告げるところだったのだろう。見送りにきて、ちょうどばったり出会ってしまった、といったところか。

 間が悪いことこの上ないが、下手に口を開くとややこしいことになりそうで困る。

 彼女のことはジェイドにお任せするとして、スィンは兄妹の後ろにいた一同に尋ねた。

 

「首尾は如何でしたか?」

「なんか、ディストが倒れてケテルブルクホテルにいるらしいんだ。これから情報を聞き出そうと」

 

 ディストが、倒れて。ケテルブルクホテルに。

 

「大佐、ネフリーさんに事情を教えてあげてください。ケテルブルクホテルに行きます」

 

 有無を言わさず、誰の声に耳を貸すことなく。スィンは駆け足でその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さぞや混乱しているであろうネフリーにジェイドを足止めさせ、スィンはディストが搬送されたというホテルの一室にて足を止めていた。

 何のことは無い。知事の名を出し、倒れたと聞いてお見舞いに来た、と支配人に告げただけで、部屋の場所は割れた。

 一切警戒されなかったことから恋人か何かと勘違いされたかもしれないが、些細なことである。

 鍵もかかっていない扉を開ければ、知事の好意によるものか。

 そこそこ広く高級感漂う部屋の中、広い寝台の上でディストは横たわっていた。

 

「むにゃ……待ってよ、ジェイド……」

 

 子供の頃の夢でも見ているのだろうか、何も彼と夢の中で追いかけっこなんかしなくても。

 とにかく、眠っているならばとスィンは早速行動を起こした。

 体と膝をくの字に曲げ、腕は胸の前で折りたたまれている──まるで胎児のよう──寝姿に蹴りを入れる。

 彼は潰れた豚のような悲鳴を上げて寝台から落下した。

 

「ふごおっ!」

 

 眼鏡は外されてサイドテーブルに置かれたままだ。

 顔を打ったところで惨劇には至らない。

 

「思い返せば、お前にゃ煮え湯を飲まされてばっかりだよ」

 

 ダアトでは飛行譜石をとられて、バチカルではおかしな薬をシンクら経由で引っかけられ、再びダアトでは意図せずジェイドをけしかけて指環の形した譜業で嫌がらせされて。

 そろそろ何かお返しをするべきだ。

 うんうん唸りながら体を起こそうとしているディストを捨て置き、部屋に備え付けの湯沸かしで熱湯を作りにかかる。

 後は沸騰を待つばかりになってから、スィンはディストを見下ろした。

 

「ネビリム先生っ!」

「違わぁっ!」

 

 寝ぼけでもしているのか、眼鏡がないせいか。スィンを一目見て彼は、がばっ、と腕を広げて抱きつきに来た。

 即座に足の裏を使って迎撃する。

 彼は狙ったかのように後頭部を打って不気味な呻き声を放った。

 一方、サイドテーブルは衝撃を受けてディストの眼鏡を放り出している。

 床に転がったそれを探り当て、ディストは再びスィンを見た。

 

「なんだ、シアでしたか。まだ生きていたのですね」

 

 なんだとはご挨拶である。

 夢と現実がごっちゃにでもなっているのか、先生の方がよかったと肩を落とすディストに再び蹴りを入れかけて、とある音を聞く。

 湯が沸いたと知らせるブザーを聞いて、スィンは湯気を吹く湯沸かしを手に取った。

 しゅんしゅんと音を立てて熱湯の存在を主張するそれをずい、とディストに差しだす。

 

「な、なんですか」

「沢山煮え湯を飲ませてくれやがったお礼ださあ受け取れ」

「だからって本当に熱湯を飲ませようとしないでください! やり口がジェイドそっくりですよ、まったく!」

 

 その言葉にスィンが怯んだところで、カサカサというかシャカシャカというか、昆虫を連想させる動きをもってして、ディストは寝台へ上がり込んだ。

 そのまま、嫌みなのか皮肉なのかよくわからない台詞を吐く。

 

「この地は、今のあなたには相当きついはずですが」

「はあ?」

 

 一度は呼びだした分際で何を抜かしていらっしゃるのか。それにしても意味深な言葉だ。

 何の事かと尋ね返して、スィンは固まってしまった。

 

「──に、この土地の気候はさぞつらかろうと言ったのです」

 

 確かに言い放たれた言葉だが、なぜか耳がとある単語だけを拒絶する。

 しかし耳が拒絶しても、意識はその単語が何を示すのかは理解していて。

 否定し倒してその認識を改めさせるべくとか、何故それを知っているのか問い質す必要性を考えるよりも早く。

 

 まずい。口を封じなければ。

 

 スィンはまずそれを思った。

 

「その様子。やはり彼らには隠したままですか」

 

 頭をかち割れば話は早い。しかし、手元には沸かしたての熱湯がある。

 無理やり飲ませて口腔食道火傷のついでに、咽頭火傷で一時的にでも声を失ってはくれないだろうか……? 

 あまりぐずぐずしていては、足止めを解除した一同がやってくる。そうなる前に事を済ませたい。

 問題はどのようにして、嫌がるだろうディストにこれを飲ませるべきだろうか。

 

「あなたの技術と根性には感服します。凡人ならとっくにバレている時期でしょう」

 

 あれから試してわかったことだが、スィンは異性恐怖症を克服していない。

 ジェイドだけが平気になっただけで、相変わらず自分より年が上の男性に接触することはできないのだ。

 正確には、素手で触れるのが怖い、だが……

 特定の人間が平気になったことは、あまり目新しい事例ではない。何故ならば祖父であるペールには、まったく抵抗がないのだ。

 こちらは、いつまで怖がっていていつから平気になったのか、覚えていない。

 とにかく、残念ながらディストに対してどうやっても力尽くで飲ませることはできない。

 さてどうしたものかと、スィンがふとディストを見やると。

 

「こうして見ても、さっぱりわかりませんね。本当に──しているのですか?」

 

 続いた言葉を聞きつけて、スィンは手にしていた湯沸かしを投げつけていた。

 たっぷりと熱湯を蓄えた湯沸かしは、放物線を描いて激突する。

 手元が狂ったのか、投げ慣れていないせいか、狙ったはずのディストではなく壁へ。

 結構な騒音が耳元で響いたはずなのに、彼は珍しく泰然としていた。わずかに熱湯の飛沫でも浴びたのか、眉を顰めて髪を払っている。

 

「ふん、怒りましたか? そんな感情的になっては隠せるものも隠せませ「お前に話しかけた僕がバカだった」

 

 最早にべもない。

 いつになくディストが辛辣であることにも気付かぬまま、スィンは備え付けの椅子を振り上げた。

 これは予想外だったのか、彼は慌てたように両手を上げた。

 

「待て、待て待ちなさい!」

「嫌だ」

「先生の作品が壊れてもいいのですか!?」

 

 ──彼は一体何を言っているのだろうか。

 上着の内を探り、椅子を振りかぶったままのスィンへ差しだされたもの。

 それは小箱に収まった指環だった。

 地金には石竹色がかっており、非常に緻密な彫刻が施されている。そして、三日月の台座にはそれを満月にせんとはめ込まれた緋色の石。

 かつてスィンに贈られたチャネリングを可能とする指環と同じ型、石と材質だけが違う代物だった。

 いつかディストがチャネリングを使ったのは、この小さな譜業を用いてのことだろう。

 それを確認して、スィンは手にした椅子を彼に投げつけた。

 

「なぁっ!?」

「……お前の作品じゃなかったのか。こんな精巧な譜業」

 

 椅子からわが身を守ろうとしたディストが小箱を取り落としたところで、それを回収する。

 彼は椅子を寝台の脇にやってから、ズレた眼鏡を直していた。

 何故だかジェイドの姿と重なる。

 

「いいえ、先生の作品です。マルクト軍の情報部が押収したものを回収したんですよ」

 

 確かに、かつての事件で彼女が死亡した時に関連する資料は軍によって押収されたと聞く。詳細は不明だが、何かしら重要と思われる研究をしていたためだろう。

 でなければ、個人の遺産を軍が接収する意味が見いだせない。

 

「あなたの誕生に合わせて、先生が開発したものです。あなたの瞳と同じ色でしょう? チャネリングの発生装置にして接続器(コネクタ)にしたのは、いつかあなたとの連絡を取り合えるようになれたら、と夢想していたようですよ」

「……!」

 

 想いが、溢れていく。

 死者の遺した念に囚われてはいけないとわかっていながら、スィンは手にした小箱を抱きしめるようにしていた。

 こみあげるものを他人に見せるものかと抑え込み、気を落ち着けてからディストを睨む。

 

「……だったらよかったね、とかいうオチの、お前の創作じゃねーだろうな」

「ジェイドだったら残酷な嘘のひとつやふたつも吐くかもしれませんが、先生に関することで私は嘘偽りを口にする気はありません」

 

 ならば何故知っているのかを問いただせば、指環を盗んだついでに彼女の遺した日記帳も拝借してきたのだという。

 かなり立派な犯罪だが、今言及するべきはそこではない。

 

「……その証拠は」

「喉から手が出るほど欲しいでしょう? しかし、持ってきてはいません。あなたは間違いなく力づくで奪っていくでしょうから。この二つを差し上げますから、日記は我慢しなさい」

 

 ディストにしては洞察力が鋭いと褒めざるを得ない。この場にあると判れば、スィンは間違いなく彼を殺してでも奪い取っていただろう。

 ディストはまるで勝ち誇ったかのように、日記の在り処は口が裂けても話さない、とペラペラ語っている。

 確かに欲しいし、何なら本当に口を裂いてやることも厭わないのだが、それどころではなかった。何故なら。

 

「ジェイドで思い出しましたが、彼と結婚したところでカーティス家の財産は当主夫婦の管轄ですよ。ジェイドは養子なのですから」

「だろうね」

 

 何故この話を知っているのかも、聞きたくない。どうせ皇帝が手を回した結果だろう。

 平和条約締結の席の後で疲れていたのだろうが、あんなヨタ話を頭から信じるなど。

 よほど皇帝は、ジェイドを失いたくないと見える。

 

「おや。何故いきなりそんな話をするのかは聞かないのですね」

「聞きたくねー「まあそう言わず。帝都では話題持ちきりですよ。あの死霊使い(ネクロマンサー)がついに花嫁を定めたと。しかしその相手は名誉と財産目当ての没落貴族。カーティス家は大慌てで彼の正妻となる家柄の娘を探しているとか」

 

 ゴシップ感漂う面白そうな話である。

 カーティス家の対応を聞いた時点で、ふと気になった事柄を尋ねた。

 

「……マルクト、重婚ありだったかな。正妻と妾って法的にはどんな扱いだっけ」

「先代皇帝から法律が変わっていなければ可能でしょう。彼には側室が十五人ほどいたわけですからね」

 

 ただ、それは先代の行いを良く思っていない現皇帝が何もしていなければの話。

 しかも、今は丁度ジェイドの結婚話が一方的に持ち上がっている。とっくの昔に法改正されている可能性は高かった。

 考えようによってはジェイドを無理やり妻帯者にしてやれるが、些細な嫌がらせにしかならない。

 嫁ぐ理由が皇帝に彼との確執を口出しさせないこと、そしてガルディオス家再興の礎にカーティス家と繋がりができれば、少なからずマイナスにはならないだろうと思っていた。

 しかし、情報が操作され市井で噂になっていて、更にカーティス家も対応策を講じている。

 このような状況と天秤にかけるとなれば。

 

「……そっか」

 

 却下の一言につきた。

 この無責任な噂は決して間違ってはいないのだ。

 面子を重んじる貴族達はカーティス家と共にガルディオス家を忌避する可能性が高い。それはガルディオス家にとって、間違いなくマイナスの要素となる。

 この時点で、スィンの中での選択肢は消えた。

 ジェイドに嫁ぐこと、皇帝の後宮に入ること──どのような形であれ、マルクトに所属するということ。

 スィンがいることで醜聞のタネになってしまうなら。ガルディオス家にとって不利な条件をもたらしてしまうのなら、そもそも根本から今後の見通しは立て直すべきだ。

 もともと選択肢は少なかった。残された案はたったひとつだけだが、それを選ばざるを得ない。

 これからゆっくり覚悟を固め、腹をくくるとして、まずは現状の解決である。

 あと考えるべきは、口封じだけなのだが。

 

「どうしました? ジェイドとの結婚を思い直しましたか?」

 

 嫌みったらしく揶揄を吐くその口をとりあえず引き裂いてやりたい。

 しかし冷静に考えれば、単なる口封じをしたところで一番大事なところ──ロニール雪山の情報が手には要らない。

 ここは一度、頭を冷やす必要がありそうだ。

 

「……」

「ん、何ですか?」

「その荒ぶる心に安らかな深淵を」

 

 第一音素譜歌を奏で、ディストを平和的に昏倒させて部屋を出る。

 閉めた扉に背を預けて、スィンはずるずると腰を下ろした。

 膝を抱えようとして、あえなく挫折する。だらりと足を投げ出して、視線を宙にさまよわせた。

 

 ──痛い。

 

 腹部が、心臓が、肺が、どこが原因なのか判別しかねるほどに。

 長年のことで慣れているはずの発作が、ここ最近で我慢できないほどに強くなっている。

 雫となって流れる汗を拭い、荒くなっていく息を留めるようにスィンは荷袋から大瓶を取り出した。

 蓋をこじ開け、直接口をつけて中の錠剤を流し込む。

 咀嚼した錠剤の中身は顔をしかめてしまうくらい苦いもののはずが、今や何の味もしない。舌が壊れてしまったのかもしれないが、些細なことだ。

 痛んだものに気付けなくなるのはつらいことだが、これからくくるべき腹のことを考えれば大事の前の小事。

 毒味ができなくなったことを如何にして自然に申告するか、悩むのは今後でいい。

 ふかふかの絨毯は足音を自然に消すが、それが普通に歩いているもの、ましてや数人のものであれば多少は聞き取れる。

 大瓶をしまい、肺の空気を入れ替える勢いで深呼吸して。スィンは意図的にうなだれた。

 ──今彼の姿を認めてしまったら、泣きだすか切りかかるか、あるいは両方ともか。間違いなく感情を抑えられないだろう。

 そんな無様は主にさらせないし、彼に本音を知られたくない。

 

「スィン!?」

 

 主の声にも反応せず、ただ足音がやってくるのを待つ。

 手前で立ち止まったのだろうか、やってきた足は一人分だけだった。

 軍靴にくるまれ、踵同士がきちりと揃った足。

 

「ディストなら中にいます」

 

 ジェイドが何か言いかけたことを知りながら、スィンは被せるように告げて、立ち上がった。

 扉から、ジェイドから離れようとして阻まれる。

 

「ディストに何を吹きこまれました?」

 

 開口一番の質問に答えるでもなく、スィンはそれを取り出した。

 三日月型の台座を満月にせんと蒼の石が取り付けられた、指環。

 

「覚えていますか? ダアトで送りつけられたこの譜業。ディストの作品ではなかったそうで」

 

 ジェイドの表情はもちろんわからない。返事など聞こうともしないで、スィンはふたつめを取り出した。

 同型の、緋色の石がついた指環を。

 

「彼女……ネビリム女史の作品らしくて。仕掛けてくれたお礼とロニール雪山の情報を聞き出そうとしたら、そう言われて」

「……信じたのですか? 証拠もないのに」

「彼女に関することで嘘偽りを口にしないそうですよ」

 

 それだけではないと、日記の存在も淡々と明かす。

 ジェイドの言葉はいちいちもっともだ。全てはディストの発言に基づくものなのだから。

 それでも、「ネビリム先生」を盲信する彼の言葉を、日記の存在をスィンは信じたかった。

 

「ここへは持ってきていないそうです。軍に突き出して身体検査すればわかることでしょう」

 

 全部終わったらダアトへ家探しに行かないと、と締めくくり、スィンはゆっくりと肩にかかるジェイドの手を外した。

 幸いにも抵抗はない。

 そのことに安堵しながらジェイドに背を向けて、彼女はようやく顔を上げた。

 遠巻きにしている他一同と、一人突出した形の主がいる。

 

「ロニール雪山の方、お願いしますね。出るまでには、いつもの通り振る舞えるようにしておきますので」

 

 主に一礼し、彼を含めた一同にはロビーにいると伝え。スィンはゆっくりとその場から歩み去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロビーにある適当な長椅子を陣取り、書き物をして待つこと、しばし。

 遠くからイボイノシシのような断末魔がした。

 おそらくはジェイドがディストから情報を引き出そうとして、手段を選ばなかった結果の副産物だろう。

 そして、ネフリーに呼ばせたか自分で呼んだのか、憲兵──マルクト軍兵士が現れたことでホテル内ロビーが更にざわめく。

 ホテル側には話を通していなかったのか、戸惑いが顔に出ている従業員が兵士とやりとりしかけて。

 ディストへの尋問が終わったのだろう。一行が姿を現した。

 

「ああ、ご苦労。六神将のディストは中だ。直ちに連行しろ」

 

 敬礼でもって答える兵士に、更に留意事項を告げていく。

 

「多少痛めつけておいたが、油断はしないように。それと……」

「あちこち怖がられている訳が、わかった気がする……」

 

 などと呼ばれているのは伊達でも酔狂でもないはずだ。

 ルークの発言に気を取られるでもなく、主からロニール雪山の情報を伝え聞く。

 

「すぐ出発するが、いけるな?」

「はい。問題ありません」

 

 主の様子を見る限り、ディストから仕入れたのはロニール雪山に関する情報だけのようだ。

 それでも一応、先程の断末魔について、そして会話について聞く。

 それによればディストと直接会話したのはジェイドのみで、雪山の情報は彼から伝え聞いたものだという。

 と、いうことは。ジェイドの質問によっては彼だけが他の情報を得ていることになるのか。

 そのことにそこはかとなく戦々恐々としながら身支度──最低限の防寒具を身に着けていると、兵士にディスト捕獲の引き継ぎを終えたらしいジェイドが視線を寄越してきた。

 それには真っ向から応える。変に挙動不審を見せれば、そこから痛いところを突かれていくだろう。

 どれだけ探られてもつらい腹ばかりでも、ここは虚勢を張らなければ。

 しかし、そんな心配を嘲笑うかのように、彼は顔ごとスィンの視線から逃げた。

 

「……?」

 

 ただ様子を伺っただけ、なのだろうか。

 ジェイドはそのまま雪山へ同行するイオンを心配するアニスや一同とのやりとりに参加している。

 ディストからどんな情報を得たのか気になるが、先程のことを何も触れられないことはとりあえず安心してよいことだろう。

 ふう、と胸を撫で下ろして、スィンは首にマフラーを巻きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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