ND2019、イフリートリデーカン、レム、23の日
雪は際限なくちらつき、視界も良好とはお世辞にも言えない中。一同を載せたアルビオールは、アブソーブゲートへと到達した。
天空へそそり立つようなオブジェを取り巻くように、世界の空を巡った
ケテルブルクより更に北、ラジエイトゲートに並んで世界の果てとも称される場所だ。気温は低く生物の生存はより難しいようで、周囲に魔物らしい影もない。
光景を目にしたミュウは、苦手な気温のことも忘れて感嘆するように呟いた。
「すごい
「ここは最大セフィロトの一つ。プラネットストームを生んでいる、アブソーブゲートですからね」
惑星の天井を覆う音譜帯に吹きつけることで世界中に膨大なエネルギーを巡らせ、偶発的に
これまでも
ジェイドに続いて、一同がアルビオールのタラップを下っていく。ふとそこで、ガイは見送りのためにアルビオールから降りてきた少女に振り返った。
これまで操縦士としてアルビオールと共に一同の力になってくれた、ノエル。
「ノエルは、ここに一人で残るのか。毎度のことだが心細くはないのかい?」
普段ならばアニス辺りに茶化されかねない、紳士的な気遣いである。
肯定されても同行はしかねるはずだが、心細いと返ってきたら彼はどのように対処するつもりなのか。あるいは、スィンにこの場へ残るよう命じるかもしれない。
しかし少女は、微笑みすら浮かべてそれを否定した。
「ありがとうございます。でも、私なら大丈夫です。私はここで、皆さんのご無事を祈っています。お気をつけて!」
「ありがとう。行ってくるよ!」
小さく頷いて、ルークは雪が敷き詰められた道に足を踏み出した。
オブジェの根元、ポツンと光る入り口はぽっかりとその口を開いている。
「まあ、ここがアブソーブゲートですの?」
警戒しているのか、彼女にしてはゆっくりとした足取りでナタリアは周囲を見回している。
ナタリアのみならず、一同はこれまでパッセージリングを目指して各地のセフィロトに据えられた神殿を巡ってきたが、この場所は一線を画していた。
それもそのはず。
「プラネットストームが吸いこまれてる……きらきら光ってるのは……」
「
音機関のためか、あるいはその整備士を慮ってのことか、何かしらの措置が施されているのだろう。内部の気温は一定を保たれており、凍りつくような外気とは比べ物にならない。
静謐で足音すらどこまでも響くような空間を、踏破しにかかる。
静けさが破られたのは、大地がぶるりと身震いしたその時だった。
『主どの~。気をつけろ~』
音なき声の警告──おそらくはノームの声を受けて、誰よりも早く警戒にあたる。
しんがりを歩いていたスィンは、通路の外を見ながら歩くアニスの足元に発生した違和感を見逃さなかった。
「アニスっ!」
「はぅあ!?」
まるで宙に浮いているかのような印象の通路の外縁部を歩く少女に駆け寄り、その手を掴む。
力一杯引き寄せた結果、尻もちをつく勢いでバランスを崩したアニスだったが、文句は出ない。
つぶらな瞳は限界まで見開かれ、それまで自分が歩いていた通路──今は影も形もない足場だった場所を見つめている。そのまま歩いていれば、間違いなくアニスは落下しているものと思われた。
ちらと見下ろした通路の外は、底がないのではと錯覚しかねないほどに霞んで見える。
「うぉっとと……危なかった……」
「外殻大地が限界に近付いているのかしら」
今まで幾度も地震に遭遇してきたが、頻度は目に見えて増えている。足場が崩れたのは老朽化によるものか、地震の激しさを物語るものか。
どちらにしても、どちらであっても。
「……急ぎましょう。このまま世界を滅亡させるわけには参りませんわ」
ナタリアの言葉に誰ともなく頷きあい、先へ向かわんとする。
それに続こうとして。
「うひゃあっ!」
珍妙な悲鳴が響き渡った。
「スィン?」
「ちょっとアニス、どこ触ってるのさ!」
先行く一同が振り返れば、そこには腹を抱えて少女に食ってかかるスィンと、手を払われた形で棒立ちするアニスがいる。
「だって、今。スィン、おなかすごく……」
「で、出っ張ってるって言いたいの!? そこまでドン引かれるほどじゃないよ、ほら!」
耳まで赤くしながら、宙にさまようその手を取って腹に押し当てる。
途端、アニスは。
「……あ、あれぇ?」
「ほら、そんなに驚くほど出てないでしょ!」
「うーん、あたしの勘違いかなあ?」
首を捻るアニスに意地悪! と口を尖らせて。
ここでスィンが、一同の視線に気づいた。
「締まんねーなあ……」
「おーい、行くぞー」
「す、すいません……ほら、アニスも!」
「ゴメンゴメン~……ん~?」
いまいち締まらないコントじみたやりとりを経て、一同は着実にアブソーブゲートの最奥へと突き進みつつあった。
罠らしい罠こそない。しかし侵入者避けなのか。様々な手順を正当に踏まなければ、道は拓けない。
それまで一丸となって、あるいは手分けして順調に進んでいた一同だったが、ふとルークが呟いた。
「どこまで降りるんだろうな……」
「プラネットストームがここに収束しているということは、少なくとも外殻大地を抜けるところまでは続いているはずよ」
ユリアシティからセフィロト──吹き上げる
あるいはアクゼリュスが崩落し、瘴気に満ちた泥のような海に放り出された記憶か。
どちらにしても、数字で示せばうんざりするような距離であることは明白だった。
「外殻大地を抜けるまで……」
「パッセージリングがどの位置にあるかにもよるけど、道のりが長いことは間違いないわ」
だから慎重に進もうとティアが締めくくるも、それだけでは駄目だとジェイドが被せる。
「とはいえ、あまり時間がありませんからね。慎重かつ迅速に、ってところですかね」
そんなわけですから、とジェイドは後ろを振り返った。
視線の先には、先程の件でスィンの腹に興味を示して巻き尺を取りだしたナタリアと、頑として胴回りの測定を拒否するスィンの姿がある。
「遊んでないで、早めに行きましょうか」
「誰も遊んでなんかいません!」
「その通りですわ。わたくしは真剣に、スィンのお腹に興味が……」
「王女にあるまじきフェテッシュな発言はお控えくださいませ、ナタリア殿下!」
最近は滅多に聞くことがなかった侍女らしい発言に、ナタリアは目をぱちくりと瞬かせた。
その隙をついたのか。元傍仕えだったスィンは、元主の携える小型の巻き尺を奪い取り、荷袋に放り込もうとした。
そこで「みゅっ!」と荷袋にいたミュウの悲鳴が上がる。
それを聞きつけて、スィンはミュウを取りだした後に巻き尺を荷袋の奥底へしまい込んだ。
「みゅ~? 何がどうしたんですの?」
「……ちょっとね」
再び荷袋に収まるミュウが、半分だけ顔を出して小首を傾げる。
その愛らしい仕草に人知れずときめくティアに、荷袋ごとチーグルを渡そうとして。
『主どの~まただ~』
再び、ノームののんびりとして警告が聞こえた。
振動は大気を震わせ、次いで足元を危うくさせる。
「今度はでかいぞ!」
「気をつけろ、地面が……!?」
ルークの、ガイの警告を聞きながら差し出しかけたミュウと荷袋を押し付けるようにして、眼前のティアを突き飛ばす。
咄嗟にできたことなど、それだけしかなかった。
「きゃあ!!」
がらがらと音を立てて、盛大に床が崩壊する。
その残骸もろとも宙に放り出されたスィンは、上階に残ったルークとティアを、ナタリアと共に通路の中途に降り立ったガイを確かに認めた。
「スィンっ!」
伸ばした腕──指先が、ひっかかったような気がする。否、指の先が触れただけかもしれない。
伸ばされた手に掴まることができず、伸ばした腕で掴むことができず。あっという間に視界から、互いの姿が消える。
硬直するガイの足元に、かつんっ、と硬質な音が響いた。
胡桃大のロケットペンダント。最早分断は避けられないと確信したスィンが投擲したものだ。
重力に身を委ねて落下するに従い、霞がかっていた奥底がくっきりと見えるようになってきた。
地震に伴い崩れたのか、不自然に途絶えた通路にどうにか這い上がるアニスと、それを引き上げるジェイドにスィンを回収する術などはない。
「母なる抱擁に覚えるは安寧……」
♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──
このまま叩きつけられて潰れたカエルのようになるのは御免と、フォースフィールド・サンクチュアリを展開する。
スィン自身を包むようにして起動した結界は、スィンの足が地につくと同時に効果を発揮し、一切の衝撃は発生することもなく無に帰された。
「大丈夫かー!?」
見上げれば、遥か上空に身を乗り出して怒鳴るガイがどうにか視認できる。視界の端ではアニスとジェイドが、こちらの様子を伺っているのが見て取れた。
危ないからやめてくれ、落ちても受け止められないと内心で呟きつつ、手を振って健在を示せば、立ち上がったガイが上階を仰ぎ見て、何らかのやりとりを交わしている。
現状の合流は不可能だ。おそらく、各々このまま進んで最深部で合流を図ろうということになるのだろうが……
ガイの挙動をそのまま見つめていたスィンだったがふと、視界の端で何かが動いたことに気付いた。
見ればアニスが大仰な仕草でのけぞり、何事かを喚いている。動作から地団太を踏んだ後、ジェイドに何かを訴えているようだが、それが何を示すものなのか、スィンにはわからない。
そうこうしている内に上階、おそらくはルークとのやりとりを終えたガイが再びスィンを見下ろした。
その顔が引きつったことも、距離が災いしてスィンに気付く術はない。
「馬鹿! 何やってんだ、逃げろ!」
「!」
気付けなかった。油断しているつもりはなかったのだが。
察知し損ねた自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、今更振り返る。
そこには、ロニール雪山のパッセージリングにて垣間見たばかりの顔──ヴァンデスデルカが佇んでいた。
太陽の下ではなく、和えかな燐光の元で判然としないが、何となく顔色が悪い。白を基調とした軍服の上からではわかりにくいが、それとなくやつれているような風情がある。
得物である大剣を手にしているものの、覇気はなかった。
「……来たか」
「あなたが呼びつけたようなものです」
柄に手をかけ、いつ仕掛けられても反応できるよう臨戦態勢に入る。
それにしても、正気とは思えない行動だった。侵入者を察知して、だろうが。パッセージリングから離れるとは。
この場所からそれほどパッセージリングから離れていないのだろうか。だとしたら、ヴァンがここにいる今が好機。
今の内にルークがパッセージリングへ辿りつけば──!
「すぐに行く! 戦うなよ!」
「!」
主の声が、脳裏に響く。
ナタリアからも何か言われたようだが、まったく耳には届かない。
逃げる。どこへ? 単純に距離を取って、引き返すように主と合流する?
主に、助けを求めるのか。
戦うな。
ここで仕留めれば、ルークは師匠を、主は兄貴分を、ティアは実の兄を、手に掛けずに済む。
考えただけで、胸ではなく、頭が締め付けられるように痛んだ。
思考を阻害する頭痛を意識的に無視して、改めてヴァンを見る。
吹き抜けに空中回廊のような通路が交錯する空間を見上げるその姿は、剣を携えているとは思えないほど無防備で。
今ならばもしや、と思わずにはいられない。
しかしその前に、伝えなければ。
動揺させる手段と思われてもいい。最低だと、どんな罵倒をされても構わない。
この場所へ来る前に、覚悟だけはしてきた。
「アッシュ……ではないな」
「ラジエイトゲートへ向かっています。誰かさんがパッセージリングをいじくりさえしなければ、彼はあなたを討つために単身この場所へ来たかもしれない。アテが外れちゃいましたね」
無駄だと、彼がこんな安っぽい挑発に乗るわけがないと知りながら口を動かす。
遥か上階にいるルークを確認したらしいヴァンは、失笑を零した。
「向かわせた、の間違いだろう。外殻大地が限界を迎えていることを、奴に知る術はない」
「そう思いたければ、ご自由に。あなたの弟子達は、あなたが思う以上に優秀ですよ」
一体どうしたことだろうと、内心で首を傾げる。
頭痛が収まらない。ぶつけたわけでもないのに。体調は依然として悪いが、頭痛に直結するようなものではない。
ただ、この痛みには覚えがあった。
大分前に、あれは確かケセドニアで──
「ここに至るまでに、何度奴を操った? 連中には何も語らず、裏で手を回した? ……全ては、お前を野放しにした私の失策だがな」
「……その全て、必要だったこと、です」
思い出せない。頭が痛い。
「弟子達、と言ったな。まさかあのレプリカを指しているのか?」
「他に誰か、いらっしゃるので」
こんなことを話したいんじゃない。
それでもこれは、ヴァンをこの場へ足止めし、動揺を引き出せる。
絶え間ない痛みに思考は鈍ったまま、ぶちまげた。
「もともとルークは、ローレライの同位体は、二人の予定だったのですから」
「……何を、言っている?」
「バニシングツインってご存知ですか?」
双子を身ごもった後、ごく初期に一方が消滅し双子ではなくなる現象。これといった原因はなく、胎内に吸収される形での流産にあたる。
「シュザンヌ様は、双子を出産してお亡くなりになるはずでした。ファブレ公爵奥方は病弱だがご健在、そのご子息は一人だと聞いた時から、世界の行く先は
この事実を──ファブレ公爵子息が二人であるはずだったことを知るのは、今や奥方のみであるはずだ。当時の主治医、彼女の
息を呑んで絶句するヴァンを見つめたまま、その心の内を推し量る。
彼はその手のひらで、踊っているに過ぎなかった。
「あのレプリカは、歪みにすらなかったと……いうのか」
「歪みどころか足りないパーツでしたよ。殺しておけばまた何か違ったのかも知れませんが、あなたは歯牙にもかけなかった」
アッシュを味方につけるための要素。
かつて彼は、ルークをそう揶揄した。
「そのレプリカに世界を丸ごと開け渡そうとしているくせに、よく言ったもんですね。あなたがそんなだから、収まるべくして収まってこの結果です」
当時のスィンにとって
「ロニール雪山で、あなたに忠実な部下達は雪崩に巻き込まれて帰らず。後はあなただけ。あなたの妨害さえ突破してしまえば、最早そちらに手立てはない」
啖呵を切り、一息つく。
ただしゃべっているだけで息が切れることがあるのだと、場違いに驚いた。
体が、思った以上に損耗している。
しかしそのおかげで、ヴァンの足止めをより自然な形で引き延ばせていた。
とはいえ、それもここまで。いかにこのアブソーブゲートにこもりきりで体調悪そうなヴァンでも、そろそろスィンの思惑に気付く頃だ。
となれば、パッセージリングのところに戻るのは確実。その際スィンに背中を見せるのか、スィンを始末して戻ろうとするか。
前者ならば遠慮なくその背中を撃つし、後者ならば応戦。何が何でも勝つつもりはないが、何があっても負ける気はない。
どちらにしても主の命令に背いてしまうが、収まらない頭痛に体調不良に伴う身体能力低下を考えると、たとえ無傷で合流したところで、大して役には立てないだろう。
ただでさえ、大分前から泣いて叫んで、膝から崩れ落ちてしまいそうな精神状態にある。
それら感情を抑えているのは主のみならず、みっともないところを他人に見せたくない見栄張りと、全部終わってからでもそれはできると理性が常時なだめすかしているためだ。
主の命令に背くこと。己を顧みなかったこと。
それが文字通り命取りになることを、このときはまだ誰も知らない。
「それとも? 今この状況に陥って尚、逆転の目があるとでも……」
「時間稼ぎか」
想定した通り、彼はスィンの目論みをあっさりと看破した。
背を向けるか。向かってくるか。最早戯言に付き合う気もないか。くるりとその背中がスィンに晒され──
「あれ?」
なかった。
何を思ったのだろうか。一度身を翻したヴァンは、再びスィンと相対した。
思い直して始末に来たのか。しかし、あっさりやられてやるわけにはいかない。少しでも時間を稼がないことには──
意表を突かれたところで、すでにスィンは柄を握っている。間合いに入ってきたが最後、一太刀浴びせることは可能だった。
もちろんそれで、すべてのカタがつくはずもない。そしてあのヴァンが、スィンの手の内のほとんどを知る彼が、のこのこ近づいてきてくれるなら、だが。
一歩、ヴァンの足が踏み出される。そのままの歩幅ならあと三歩で、迎撃どころか先手もとれる──
ぴたりと、足が止まる。剣を持たないその手が、懐へもぐりこんだ。
投擲武器、目くらまし、あるいはハッタリ。
どれであっても、最早この対峙している距離が有利に働くとは限らない。ならば今、片手が忙しそうな今、手疵のひとつでも負わせれば、あるいは。
疼くような痛みは変わらず頭を締め付けるが、堪えて。崩れるはずもない最下層の床を蹴り、一足飛びで間合いを詰める。
激突する勢いで迫り、抜き放った血桜の緋い刃が足を狙うと見せかけて逆袈裟にふるわれた、次の瞬間。
硬質な音立てて、刃は停止を余議なくされた。
「!?」
肉を裂き骨に食い込んだ感覚ではない。もっと硬いもの、鉄でも斬りつけたような──
懐に潜り込んでいたはずの手が何かを携えて、刃を止めている。
その手に持つのが何なのか、スィンが視認するよりも早く。
パチンと、小気味よい音が響いた。
「っ!」
指の先から体の芯まで、貫かれるような衝撃が走る。
脱力した手から血桜が離れて、音を立てて床を転がった。
「……こ、れ」
「意識を奪うまでには至らぬか」
体のどこにも力が入らない。
へたり込むスィンが見たのは、ヴァンの手から放り出された譜業だった。
「でぃ……す、と……の」
「微量の
一条の疵が刻まれたスタンガン。
ヴァンはこれで凶刃を凌ぎ、その上で血桜の刃を介して電撃を見舞ったことになる。
「な……で、こ、れ……」
「毒も薬も効かないお前に唯一、絶対的な効果を示したもの。そう言われて機嫌取りに押し付けられたようなものだ。まさかこのような形で使うことになるとはな」
髪の焦げる嫌な臭いがする。咳きこみかけて、鼻の奥に濃い鉄錆の臭いが生じた。
感電したことでどこかの粘膜が焼け焦げたのか。それとも発作を起こしただけか。
「……っ」
胸倉を掴まれ、強制的に起こされる。
苦しかったのは、ほんの一瞬のこと。
「!」
まるで遊び飽きた玩具を放り投げるかのような、そんな調子で放り投げられた。
痺れは未だスィンの体を支配している。
ろくに受け身も取れず、床へ叩きつけられ──
ない。
「!?」
ふわ、と僅かな浮遊感のち、景色が一変する。
それまで、パッセージリングを目指していたはずなのに。
投げられた勢いで仰向けになったスィンの目には、パッセージリングそのものが映っていた。
「……ヴォ……ル、ト」
どうにか首を捻じ曲げて確認すれば、すぐそばには転送陣が淡い明滅を繰り返している。
ダアト教会の導師私室に直結する転送陣と同一のものに見えるが、合言葉を必要としない辺り、同じものではないだろう。
とにかくこの芋虫と変わらない状態を何とかするべく、スィンは意識集合体に呼びかけた。
「
『……心得た』
回らぬ舌でどうにか、流し込まれた電撃の残滓を体外へ排出し、自力で体を起こす。
転送陣が一際強く光り、ヴァンが姿を現したのは直後のことだった。
痺れこそなくなっているが、本調子には程遠い。そして何より、ヴァンの隙をつくため、
スィンは起こしかけた体を力なく崩した。あたかも、麻痺が癒えないままであるかのように。
「くぅ……」
「あがくな。大人しくしていろ」
助けを待て。どこか嘲笑を含みながら、ヴァンはそう言った。
「主……いや。
「!?」
誰!? 主はわかるけど、
スィンはどうにか、それを言葉とするのを抑えた。
「不思議そうな顔をするな。とぼけても無駄だ。それとも、
真面目に混乱しかけて、なんだそのことか、と気が抜ける。そういえば誤解したままだった。否定したところで、何もならない。且つ、痺れたフリが露見してしまう。
目をそらし、黙したまま。絶え間なく頭を締め付ける頭痛に耐えるべく唇を噛んで。
ひたすら、ヴァンの出方を窺った。
そこで。思いもよらない事態に、スィンは思わず声を出すところだった。
「体は許したのか?」
ブチブチッ、と糸の千切れる音が。カラコロ、と硬質で小さなものが。床に散らばる。
外套の身ごろを力任せに暴いたヴァンが、そのまま被服の合わせまで剥いだ。
「……っ!」
「怖いか。結局私は、お前の
常の習慣として、スィンは必ず胸部にサラシを巻くようにしている。それが解かれたならば、間違いなく悲鳴を上げて逃れようと半狂乱になって暴れていただろう。
幸か不幸か最後の砦は奪われず、どうにか理性を保っていた。
人を半裸に剥いて何をしているのかと思えば、情痕を探しているようで。首から鎖骨にかけて、じろじろと眺め回している。
助けに来てほしいような来てほしくないような。傍から見れば誤解しか生まない状況だった。
スィンは仰向け。ヴァンはその上。
覆いかぶさるように彼はスィンの身体を撫でまわし、一見黙ってそれを受け入れている、など。
しかしこれは、千戴一隅の
話さなければならない事柄を、絶好のタイミングで語れるのだ。
「ヴァ、ン」
「なん……」
身体をまさぐる手を取って、四苦八苦しながら身を起こす。大きくてごつごつした、色黒の手を自分の腹に当てさせた。
そのまま言葉もなく、秘術を解除する。
浮かび上がり、直後砕けた譜陣にヴァンが気を取られている間に片手を後ろへ隠し、コンタミネーションを用いて棒手裏剣を握りしめた。
「な……!」
「結婚してなきゃ、子を設けるべきではない。その行為をしたのは、君以外に覚えはない」
単なる肥満ではありえないほどに、そこだけが膨らんだ下腹部。
明らかにたじろいだヴァンの手を逃がさずに、そのまま言葉を重ねた。
「驚いたよね。一緒になってから、あんなに頑張ったのに。状況が流転して子がいなかったのは幸いだったと思ったくらいなのに。今になって」
どっくん、どっくん、と。
ヒトの胎内に収まる小ささでありながらはっきりと、心臓は主張している。
彼らが生きているということを。
「わかるかな? 心臓がふたつある。この中には二人いる。診てもらった時にそう言われた」
すでに末期となった
早い内に決断──スィンの身体のために二人を諦めた方がいいと諭されたものの。仲間達への、主にガイとジェイドの発覚を恐れて、スィンは二人の鼓動が途絶えるまではと、先延ばしにした。
それでは子供達どころか母体もただでは済まないという警告には、ただ耳を塞いで。
子が宿ってから成熟するまで、十分な月日が経ったとはいえない。しかし双子であったために、腹が膨れるのはあっという間であった。
布を巻いて固定しても焼け石に水、秘術を駆使してどうにかこうにか、この日まで凌いできた所存である。
術式を固定したわけではないにつき、ふとしたことで集中は途切れて元に戻っていた。
道中におけるアニスの驚愕は、けして気のせいなどではない。
「このような身体で、ここまで……!」
「今更だ! 心配してます、って顔するな! レプリカ情報さえあれば、僕らのことなんかどうでもいいくせに!」
「そ、そんなことは。そんな、つもりは──!」
ヴァンがこのことを知らないという情報に、間違いはなかった。口止めして正解だ。
現に彼は、こんなにも取り乱し、動揺を露わとしている。
「このことがなくたって、知ってるだろ! 僕に時間がないことくらい! 病に侵されて無様に看取られるくらいなら、この子達と一緒に、最期まで……!」
気が高ぶって錯乱している。ヴァンの目からは、間違いなくそう映っているはずだ。
興奮しているかのように、更に声を荒げてヴァンに掴みかかる。後ろ手に隠した棒手裏剣を、改めて握り直した。
「シア、落ち着け。腹の子に障る……「妊娠してるってわかった途端取り乱しやがって! さっきまでの余裕はどこ行った、脂汗浮かべてうろたえてんじゃねーよ!」
握った拳で、眼前の胸板を強く打つ。
同じように、棒手裏剣を握り込んだ拳で駄々っ子のように叩いたのと、予想外の痛みにヴァンがその場を飛びのいたのはほぼ同時だった。
切っ先がほぼ埋まった棒手裏剣が抜け、命の雫が粒状になって宙を舞う。
左胸、癇癪を起こした風に見せかけてその場所を正確に狙って仕掛けたスィンのあざとさに、ヴァンは戦慄を覚えていた。
あと僅か、飛びのくのが遅く、深く刺さっていたなら。
あの角度からは間違いなく肋骨をくぐり抜けて錐形の切っ先は心臓まで届いていた。
追撃は──ない。
意図してのことか、腹が煩わしくて機敏に動けないのか。
垂れ気味の目を吊り上げて、怒りと批難を込めた眼差しが心臓ではなく、ヴァンの心をえぐりにかかる。
「逃げんな、ド卑怯者! 孕ませといて、孕ませるようなことしといて自分だけケツまくってんじゃ……!」
口汚く喚き罵る唇から、鋭く息が飲み込まれる。
しゃっくりを我慢するように呼吸を止めたスィンは、やがて苦悶に顔を歪めて口を覆った。濁った咳が勢いを殺されて、指の隙間からけして少量ではない喀血が滴り落ちる。
胸元のサラシを赤く染めたスィンは、浅い呼吸を繰り返してその場にうずくまった。
──本当に、発作を起こして苦しんでいるのか。弱ったフリをして、だまし討ちを目論んでいるのか。
これまで発作を起こしても、「大丈夫」としか言わなかった。苦しむ素振りは発作を起こした時だけ、ほんの一瞬。
普段はまるで健常者のように振る舞ってきたスィンの姿しか、ヴァンは知らない。
病状が進行して、耐えられるものではなくなったのか。
「痛い……苦しい……っ」
効かぬ薬、効かぬ麻酔。
目覚ましい効果も何もない、ただ病の進行を遅らせるだけの治療に文句ひとつ言うでもなく。
何があろうとも弱音を吐かなかった彼女が、苦悶を露わとしている。
「……死にたく、ない……!」
止まらない喀血と共に搾り出されたのは、この上もなく悲痛な祈り。
それを耳にしてヴァンは、思わずその傍らに膝をついた。
彼は気づいただろうか。未だ手放されない棒手裏剣が、ぎゅうっと音を立てて握り直されたことを。
「シア……」
「ヴァンっ!」
バネ仕掛けを思わせる機敏さで身体を跳ね起こしたスィンが、肉薄する。
心臓では仕留めきれないと思ったのか。切っ先はヴァンの首を狙い、まるで吸い込まれるように──
二人が交錯するよりも早く。くぐもった破裂音が、辺りをこだました。
アブソーブゲート深奥、パッセージリング。
安置されたその空間の手前で合流を果たし、踏み込んだ一同が見たもの。
それは、赤黒く、しとどに濡れた床だった。
滂沱として広がる血潮に身を沈め、スィンが倒れ伏している。
頭を割られているのだろうか。雪の色だった髪は床を濡らすその色とまだらに染まり、面影もない。だらりと投げ出された四肢はぴくりとも動かず、血溜まりに浸かっているも同然のはずだが、身じろぎひとつ、ない。
されるがまま、ヴァンの手によって床に口づけていたスィンが起き上がる。
自身が吐き出したと思われる命の雫で口元は色づき、対照的に顔の色は血の気を失って青白く。
重たげな目蓋から覗いた色違いの瞳に、一切の光はなかった。
「いやああっ!」
それを目にしたナタリアの口から、甲高い悲鳴が上がる。
自分が見ているものを否定するように首を振り、そのまま膝から崩れ落ちた。
床に張り付いてしまった足も、自らが抱く肩も。がたがたと、震えている。
「……う」
傍らに跪くヴァンが、一同がいることなどお構いなしにスィンの髪を梳くようにかきあげた。
破損した頭蓋が露わになり、その拍子にずるっ、と指に絡まる髪が抜ける。
「……なるほど。そういうこと、か」
己の指に絡みつく毛髪に、抜けた髪の先に付着する肉塊に恐れる風情もなく、膝に乗せていたスィンの頭をそっと床に置く。
ごろりと動いた頭部から何かが零れ、それをまともに見てしまったアニスは口元を抑えて顔を背けた。
「……うそ、だよな」
再び伏したスィンから一切目が離せないガイが、足を一歩踏み出して、よろける。
不用意に近寄るなとルークが袖を引いたためだが、彼が意に介することはなかった。
「なあ。そんなところで寝そべってる場合じゃないだろ?」
彼とて、スィンが今どのような状態にあるのか、わからないわけではない。
理解できないのではなく、したくないのは明白だった。
分断されたのはつい先程、何も変わらない普段通りの姿だったというのに。
あの時合流さえ出来ていれば、ありえなかった未来が。
今や肉塊と変わらないという事実を、受け入れ難いのだろう。
「早く、起きろよ。立てよ、スィン。スィン──」
「そのまま狂うか?」
水を打ったように、場が静寂に包まれる。
狂気さえ伺わせるガイの声を止めたのは、他ならぬヴァンだった。
「いくら主の命令であろうとも、こうなってしまえばもう動きはしない。従属印も、すでにその働きを失っている」
「……あなたが、破壊したのですか? スィンを正気に戻すために、ガイの従者であるという盲目的な認識を、外すために」
「兄さん……なんて、ことを」
青い顔でうずくまってしまったアニス、とても交戦できる状態ではないナタリアを手振りでティアに任せて、ジェイドが問う。
ヴァンはゆっくりと首を振った。
「そんなことが出来るのならば、当の昔にやっている。従属印がその効力を失うのは、被施術者と使用された血の持ち主が死んだ時のみに限られるそうだ。ディストが自発的に調べていたようだが、そんな都合のよい方法は存在しなかった」
「ならばなぜ、スィンは「ホドがその大地ごと消滅していなければ、また何か違ったかもしれんがな」
ホドが滅びた──崩落という形で消滅したのは、マルクトの政治的な陰謀によるものである。
少なからず関与していたジェイドに、二の句は告げられない。
「
「そうだな。聞かせてもらおう。何故お前がここにいる?」
『ア……シュ……』
『!?』
浮かぶように沈むように意識はたゆたう。
『な、なんだ。終わった、のか?』
『ご……め……』
『どうしたんだ。よく聞こえな……『さ、ょ……な……』
何もかもを奪った仇敵の子。
何もかもを、奪ってやった。
奪った後で罪悪感があって。
罪滅ぼしにもならないけど。
少年に正面から向き合った。
憎んで愛したその声に別れを告げて。
心は沈む。深く昏い、奈落の底へと。
「──ィンさん! スィンさんっ!」
剣戟が、金物の交わる甲高い音が幾度となく奏でられる。
時折、
「どうしちゃったですの、起きてほしいですのっ!」
荷袋に隠れていたがため、やりとりを知らないミュウがいつの間にか、骸の傍でカン高い声を張り上げている。
その所行は誰もが知ることとなるが、誰も傍に寄ることはできない。
「うおおおっ!」
前線にて、ガイはひとりヴァンに対し怒りを叩きつけるように剣を振るう。その戦いぶりは勇猛でありながら蛮勇、防御をなくして勢いに代えてしまったかのように、荒い。
放っておけば返り討ちになりかねないほどに、捨て鉢だった。
ルークはそんな彼の補佐につき、ジェイドは後方にて譜術による援護。ティアは動けない二人を護りながら戦況を見守っている。
しかし、頭に血が上ったガイが突出しすぎていた。前のめりに突っかかっては足元をすくわれ、何度も危うくなっている。
その度にルークは慣れないフォローに走り、一度距離を取らせては、またガイが猪突猛進に攻撃を仕掛けて。
そんな戦いの、最中のことだった。
当然、ルークは彼をいさめている。しかしその言葉は、衝撃によって遮られた。
「おまえ、こんな時に何やっ「スィンさん!? 今、今なんて言ったですの!?」
「!?」
誰もの手が、足が、詠唱が止まる。
あまりの衝撃に固まってしまったガイはヴァンの斬撃を受け損ねて、盛大に床へ叩きつけられた。
「ぐはっ……!」
「ガイ!」
誰かさんではあるまいし、ミュウがこんな悪質な嘘をつくわけもない。
その場にいる誰もの目が、横たわるスィンとミュウに注目し──
唐突に。悲鳴と、肉を引き裂き、血飛沫がまき散らされる音がした。
「ぐっ、あぁっ!?」
「……す……キ、だら……ケ」
一拍置いて、これは夢ではないと告げるように。鉄錆びの臭いが散らばり、赤黒い床に更なる赤を塗りたくる。
激痛に苛まれながらも振りかえったヴァンが見たもの。
それは、先程ガイが手放した剣を握るスィンの姿だった。正確にはスィンの姿をかたどった人の形──空蝉、である。
ざんばらの髪が俯いた顔を隠し、剣から伝う雫はその手を濡らしもせずに、そのまま床を打つ。
次の瞬間。カシャンと音を立てて、剣は取り落とされた。身動き一つせず、その姿は見る間にぼやけて、やがて音もなく消滅する。
ヴァンは呆けた目でスィンを──倒れ伏したままの彼女を、見つめていた。
信じられないと、別の意味で現実を受け入れ難い、と。
「生きている……のか?」
ふらふらと、失血に足取りを危うくさせたまま。ヴァンは無防備にスィンの元へかがみ込んだ。
「ミュウっ、こっちへ!」
「下がれ、早く!」
その間に、二人の傍を離れたティアがルークに、ガイに治癒を施していく。
ティアに次いで呼びつけたルークに従い、ミュウは短い手足を駆使して退避した。
ヴァンは気にも留めない。
反応する素振りもないまま、妻であった彼女を見つめ、その首に手を当てている。
「何故……」
スィンは動かない。
言葉を発するどころか、閉じた目蓋を震わせることも、しない。
──先程まで、確かにその眼は。開かれて、光を無くしていたというのに。
「スィンから離れろ、ヴァンっ!」
ヴァンの血に濡れる愛剣を手繰り寄せるも、蓄積したガイの負傷は完治していない。それどころか、それまでの無茶な戦い方が災いし、未だ立つこともままならなかった。
しかし、今。ヴァンが呆然自失となっている今、絶好の機会であることは確か。
今を逃して仕留める機会などないと、ジェイドは詠唱を──
「やめてくれ! スィンに当たっちまう!」
「!」
未だ立てぬガイが足にしがみついたことで、中断を余儀なくされる。
スィンの生存は絶望的を通り越しているのは確か。せめて遺体を傷つけたくないとしても、まずはヴァンを仕留めないことにはどうにもならない。
そのことを説いても、今の彼は逆上するだけだろう。スィンの惨状を目にした彼に、普段の冷静さはない。
それがわかっていても、そう諭したくなるのは、ジェイドもまた彼女の死に影響されているのか。
「ぐ……!」
ごほ、と苦しげに咳きこむ音がする。
聞く者を不安に駆りたてる濁った咳。
まさかと見やった先にいたのは。
「……共に、ゆこう。今だけでいい。お前達と、いさせてくれ」
致命傷を負い、血を吐きながらも。
脱力しきったスィンを抱え上げた、ヴァンの姿だった。
ぽたぽたと床を打つ雫は、スィンのものなのか、ヴァンのものなのか。判然としない。
激痛と失血にふらつく身体を支えていた大剣が放棄され、まるで境界のように床に突き立つ。
死者と生者を区分けするかのように。
スィンをだきあげたヴァンの歩む先は、断崖──地核へ続く、奈落への入り口だった。
「やめろぉっ! スィンを離せ、連れていくな!」
喚くように制止を叫ぶガイに一瞥をくれるでもなく、腕の中で眠るスィンを見つめたまま。
彼は足を踏み出した。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
良かったらエピローグも読んでやってください。