the abyss of despair   作:佐谷莢

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第二十二唱——道行は波乱に満ち

 

 

 

 

 

 その頃。スィンはというと、今は使われていない──というより使用禁止の天空客車を見ていた。

 人通りが寂しい上に、誰かが間違って使わないよう、いつも見張りの兵士がいる。

 あくびでもしているのか、兜の口にあたる辺りに手をかざしている兵士の目から死角の場所で、彼女はフォンスロットを開きながら天を仰いでいた。

 

 忘我状態の中で見るのは、いつも正夢である。どのような選択をしようと必ずその道へたどり着く、天空を巡りし星が見た夢の欠片──

 

「──」

 

 ぱち、と眼を開けば、手の中に不規則な形をした水晶のような物体が転がっている。

 その辺に棄てれば迷惑極まりないそれを持ったまま、声がしたほうを覗き込んだ。

 見れば、黄金色の髪を肩辺りで揃え、身軽な衣装に身を包んだ少女が見張りの兵士に何事かを言っている。言われた兵士は首を傾げながらも、鎧を鳴らして立ち去った。

 弓を携え、矢筒を背負った少女の顔がほころぶ。少し戸惑ったように天空客車を作動させると、彼女は一人で廃工場へ行ってしまった。

 それを見送り、スィンは天空客車の乗り口まで行って手に持っていたものを放り投げる。

 放り投げられた不透明な結晶体は、陽光を浴びてきらきら輝きながら重力に引かれ──スィンの構えた譜銃の的となり、粉々に砕け散った。

 譜石を消滅させることは、できない。第七音素(セブンスフォニム)に還そうとしても、一度人が取り入れているからなのか、スィンのやり方が悪いのか、譜石が消えるところなどついぞ拝んだことはなかった。

 しかしこれなら、消滅とはいかなくても詠まれた内容はきっと判読不可能だろう。

 

「──スィン!」

 

 振り返れば、すっかり見慣れてしまった一団が、ガイの案内を経て乗り場に到着したところだった。

 

「どうでしたか? ミヤギ先生のお話は」

「なかなか面白かったですよ」

 

 参考になりました、と言うジェイドに引き続き、一同自分の感じた感想を口にしている。

 

「そういえば、いつもここにいる兵士がいないな。追っ払ったのか?」

「兵士? なんで?」

 

 知らないのだから当たり前だが、それを問うルークに立ち入り禁止なんだよ、とガイが答えた。

 

「──どうでしょうね。僕が来たときには、どこかに行くところでしたよ」

 

 含み笑いを浮かべて先を促すスィンに首を傾げながら、一行は長年整備されずに古ぼけた天空客車に乗り込んだ。

 キィキィきしみながら、わずかな風にも大きく揺れるゴンドラの乗り心地にルークが喚き、アニスが黄色い声を上げて彼に抱きつき、結果バランスが悪くなって客車が斜めになるというハプニングが発生したものの、一行は無事に工場跡へたどり着いた。

 

「──っあー、死ぬかと思ったぜ……」

 

 わずかに顔を青くして乗り場の手すりに寄りかかるルークの腕を、スィンが掴んで引き寄せる。

 

「っぅお!? 何しやが──!」

 

 古び錆びつき老朽化していた手すりが、十七歳青年の体重を受け、あっさり奈落へ旅立った。

 元手すりによる地面への激突音は、聞こえない。

 

「もうずいぶん前に閉鎖された工場ですから、色んなものが老朽化しています。お気をつけて」

 

 バチカルから一歩も出ていないのに死んだらシャレになりませんよ、と告げるスィンに、ルークは思い切り怒鳴りつけた。

 

「そーゆーことは早く言えっ!」

「失礼しました」

 

 しれっとした表情で先を歩むスィンの隣──一定距離が開いている──に立ち、ガイがなるほどな、と呟いた。

 

「確かに、ここなら誰にも気取られず出られるな」

「どういうことだよ?」

 

 ルークの問いを受け、一行の中でおそらくバチカルのことを一番よく知る兄妹が交互に話す。

 

「バチカルが譜石の落下跡だってのは知ってるな」

「ここから奥へ進んで行くと、落下の衝撃でできた自然の壁を突き抜けられるんです」

 

 それを聞き、ジェイド、ティア両人が、納得がいったというように頷いた。

 

「なるほど、工場跡なら……」

「──排水を流す施設がある」

「そういうこと。ここの排水設備はもう死んでるが、通ることはできるはずだ」

 

 非常口もあるから、とスィンが言おうとして。

 柔らかな女性の声が聞こえる。

 

「まあ。あなたたち、詳しいのね」

 

 聞き覚えがないようであるような、その声の発生源を向き、スィン以外の全員が驚愕をあらわとした。

 一同の視線の先には、先ほどスィンが目にした、金髪の少女が優雅にたたずんでいる。

 にっこりと微笑んでいた顔が、どこか見下すような目つきへ変わった。

 

「見つけましたわ」

 

 少女──ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアはゆっくりと一行へ歩み寄る。

 

「なんだ、おまえ。そんなカッコでどうしてこんなトコに……」

 

 もっとも疑問にして一行最大の関心事だったが、ナタリアはなぜか胸を張って言い切った。

 

「決まってますわ。宿敵同士が和平を結ぶという大事な時に、王女のわたくしが出て行かなくてどうしますの」

「……アホか、おまえ。外の世界はお姫様がのほほんとしてられる世界じゃないんだよ。下手したら、魔物だけじゃなくて人間とも戦うんだぞ」

 

 彼がこのように説明するのは、いきなり放り出された世界の中で彼が一番思い知ったことだからだろう。

 しかしナタリアは、イマイチわかっていないのかそれとも本気なのか、よくわからない表現をもってそれをやり過ごした。

 

「わたくしだって三年前、ケセドニア北部の戦で慰問に出かけたことがありますもの。覚悟はできていますわ」

「慰問と実際の戦いは違うしぃ、お姫様は足手まといになるから残られた方がいいと思いま~すv」

「失礼ながら、同感です」

 

 明らかにそれ以外のことを意識しているアニスに、アニスの言動は失礼だと知りながら自分も同意見だと進言するティア。更にガイが説得を試みるが、まったくの無駄だった。

 

「ナタリア様。城へ、お戻りになった方が……」

「お黙りなさい! わたくしはランバルディア流アーチェリーのマスターランクですわ。それに、治癒師としての学問も修めました! その頭の悪そうな神託の盾(オラクル)や無愛想な神託の盾(オラクル)より役に立つはずですわ」

 

 悪口雑言を受けて当然のごとく、アニスがかぶっていた猫を脱いだ。目尻はすでに限界まで吊り上っている。

 

「……何よ、この高慢女!」

「下品ですわね。浅学が滲んでいてよ」

「呆れたお姫様だわ……」

 

 思い上がりもいいところである。

 一番彼女の扱いに慣れていると思われるスィンを見るが、彼女はそっぽを向いて我関せず、といった姿勢のままだ。

 

「これは面白くなってきましたねぇ」

「……だから女は怖いんだよ」

 

 後ろで好き勝手を言い連ねている男どもを当てにならないと判断したか、ルークはきっぱりはっきり言い切った。

 

「何でもいいから、ついてくんな!」

 

 それを受け、ナタリアは含み笑いを浮かべてルークの眼前に立った。

 なにやらひそひそ話しかけ、狼狽した様子のルークへ追い討ちをかけるようにナタリアが腰に手をやる。途端、ルークは彼女の腕を掴んで隅へ連れて行った。

 内緒話を続ける二人を見ながら、ジェイドはスィンに振り返る。

 

「まさかとは思いますが、あなたの手引きではありませんよね?」

「どうしてそうなるんです?」

 

 心底不快そうに答える彼女に違和感を抱きながら、それでも、とジェイドは続けた。

 

「彼女がここへ来ていたことには気づいていましたね」

「僕が見ている前で兵士を追い払って、天空客車に乗っていましたよ」

 

 なるほど、と短い会話が終了した後で、ルークはナタリアを伴って戻ってきた。

 

「ナタリアに、来てもらうことにした」

 

 仲間たちからとても冷たい視線で迎えられ、ルークは軽くたじろいでいる。

 

「よろしくお願いしますわ」

 

 どこまで面の皮が厚いのか、ナタリアはにっこり微笑んでいた。

 もっとも、上流社会の人間にとって腹芸は必要不可欠なスキルなのだから、この程度朝飯前なのだろうが。

 

「……ルーク。見損なったわ」

 

 ティアから心底呆れられたのが痛かったのか、あるいは自分でもそう思ったのか。彼はとにかく喚いた。

 

「う……うるせーなっ! とにかく親善大使は俺だ! 俺の言うことは絶対だ! いいな!」

 

 これには心底呆れたらしく、誰も何かの反応を示そうとはしない。と、ナタリアが思いついた、というように胸の前で手を合わせた。

 

「あ、そうですわ。今後わたくしに敬語はやめて下さい。名前も呼び捨てること。そうしないと王女だとばれてしまうかもしれませんから」

 

 よろしいですわね? という問いが発せられる前に。

 

「──では、ひと段落ついたようなのでそろそろ参りましょうか」

 

 ついにナタリアと言葉を交わさなかったスィンが、軽く肩をすくめて歩き始めた。

 

「おまえはいいのかよ?」

「──僕の知るナタリア様は、言い出したことを曲げるような方ではありませんので。ルーク様が許可されたなら、とやかく言いません」

 

 こちらです、という表向き何の変化も見られないスィンの後を歩きながら、ティアがガイに聞いている。

 

「どうしたのかしら」

「……あいつは、一度ナタリア様誘拐未遂で追放処分くらってるんだよ。一時的なもんだったから追放が解けた後また戻ってきたんだけど、周囲からあんまりいい顔されなくてさ。で、今はルークの誘拐疑われて、その汚名を返上するために同行したのに、ナタリア様がついてくるとなるともう──」

「なるほど。前科とはそういうことでしたか」

 

 ガイの話を聞いていたジェイドが、納得したように頷いた。

 同じく、彼の話を聞いていたらしいナタリアが先頭にいるスィンへ駆け寄っていく。

 

「──スィン」

「何か?」

「あの……怒っていますか?」

 

 おずおずと、先ほどまでの彼女と比べてえらくしおれている様子のナタリアに、どのような心境なのかいまいちわからないスィン。

 両者のやり取りに、外野は固唾を呑んで見守った。

 

「もう二度とバチカルへ足を踏み入れられないかと思って厭うているだけです」

「……再び私の誘拐嫌疑を思ってのことでしたら、心配には及びません。もう二度と、あのような暴挙は許さないと断言いたしますわ!」

 

 言動に変化は見られないが、ひどく冷めた眼で対応するスィンを見て、アニスがさらに詳しい説明を求めた。

 

「──七年前。ナタリア様たっての希望で、こっそり港へ連れて行ったらしい。海を見に行っただけだったんだが、当時はルークの誘拐騒動で周りがピリピリしてたからな。すぐに見つかって、ナタリア様は五日間の謹慎。その間にスィンは誘拐未遂犯にされて、五年間のバチカル追放を言い渡された」

 

 という会話の最中にも、二人の問答は終焉を迎えている。

 

「……この際、過去のことは忘れておきます。ですが、あなたの目の前にいるのはもうあなたの傍仕えではありません。私はルーク様の護衛を優先させます。ご自分の身は、ご自分でお守りください」

「そのことなら大丈夫ですわ。ガイがおりますもの」

「俺ですか!?」

 

 突然自分を引き合いに出され、そしてナタリアに詰め寄られ、彼は顔面蒼白になって飛び退った。

 

「なんですの、その態度! 紳士が淑女を守るのは当然ではありませんか!」

「そ、そりゃなるたけお守りしますが、傍に張り付いて護衛するのは無理……!」

「なんて情けない人なの! 何を思ってスィンがあなたを慕っているのかわかりませんわ。あなたときたら……」

 

 突然、誰かが咳き込んだ。わざとではなさそうに思える咳に発信源を見れば、スィンが口元に手を当てている。

 

「──個人的な希望ですが、あまり長居したい場所ではないので……」

「い、いけない。そういえばあなたは、疾患を患っていたのでしたわね」

 

 さあ、参りましょう! と先頭を歩いていたスィンを抜かし、ナタリアは王女らしからぬ早さで歩き始めた。

 スィンの言うことはもっともであったため、一行は先を行くナタリアとスィンに先導される形で工場内を進む。

 

「……先、行きますね」

 

 寂れた工場内を進むにつれ、スィンはミュウを招きよせると軽やかに走り去った。

 それを見たナタリアが、もともと早足だったのを更に早めて続こうとする。

 そこでルークのストップがかかった。

 

「おい! ナタリア! もう少しゆっくり歩けよ!」

「なんですの? もう疲れましたの? だらしないことですわねぇ」

 

 現婚約者から鼻で笑われ、そんなつもりではないにもかかわらず、ルークは思わず言い訳している。

 

「そ、そんなじゃねぇよっ!」

 

 その横では、メンバーの中で最も若年のアニスが呆れたように、もしくは疲れたようにため息をついていた。

 

「……うはー。お姫様のくせに何、この体力馬鹿」

「何か仰いました?」

「べっつにー」

 

 あまり真面目とは言えないアニスの態度が気に障ったのか、もしくは本気でそう考えているのか。

 ナタリアは腰に手を当てて、遅れ気味の一行をどやしている。

 

「導師イオンが拐わされたのですよ。それに私たちは、苦しんでいる人々のために、少しでも急がなければなりません。現にスィンたちは大きく先を進んでいるではありませんか。違っていまして?」

 

 間違ってはいない。だが、スィンは斥候のために先行しているのであって、もしかしたら彼女の知る道は使えずに引き返すかもしれないのだ。無理に追いつくことはない。

 

「確かにその通りだけど、この辺りは暗いから、少し慎重に進んだほうがいいと思うわ」

「あら。スィンはよくてわたくし達はいけませんの?」

「あいつは俺たちの中で一番夜目が利くんだよ」

 

 ミュウも連れていますからね、とジェイドが引き継ぐ。

 彼女がミュウを連れて行ったのはそこかしこに設置された音素灯に進める、という印の明かりをつけるためであるが、あまり事実に変わらない。

 

「そうですよ、ナタリア様。スィンのことはかまいませんので、もう少しゆっくり歩きませんか?」

「ガイ! わたくしのことは呼び捨てにしなさいと言った筈です」

「おっと。そうでした。失礼……ではなくて、悪かったな」

 

 ガイの口調を聞きとがめ叱責を下した彼女を増長させまいと、ジェイドが「ナタリア」と諭すように言った。

 

「この七人で旅する以上、あなた一人に皆が合わせるのは不自然です。少なくともこの場では、あなたは王族という身分を棄てている訳ですからね」

「……確かにそうですわね。ごめんなさい」

 

 ジェイドの言うことはもっともだと判断したのか、彼女はルークとは大違いの素直さで謝った。

 心底意外だったのか、アニスがいらないことを呟いている。

 

「あれ、案外素直」

「いちいちうるさいですわよ」

 

 やはり、あまり仲がいいとはいえない二人のやりとりに前途多難を想像したか、ティアが嘆息した。

 

「ふぅ……」

「やー、皆さん。理解が深まったようですね。よかったよかった」

「……どこがだよ。サムイっつーの」

 

 どこか白々しくまとめているジェイドに、疲れた様子のルークが突っ込みを入れている。

 そのとき、天井近くからカンカンカン、と鉄の梁を踏むような音がしてきた。音は次第に大きくなり、「しっかり掴まって」という声がする。

 直後、空気を切り裂いてスィンが降ってきた。

 

「みゅっ!」

 

 ナタリアと一行の境に着地したスィンは、肩から転がり落ちそうになっているミュウを支え、床に降ろしてやっている。

 

「どうです、進めそうですか?」

「はい。運搬用の天空客車も作動するし、問題はなさそうです。ちょっと変なものがいたけど」

 

 変なもの? とルークが首を傾げる前に、ミュウがぴょんぴょん跳ねながら報告した。

 

「梁の上を走ってたら、大っきな蜘蛛がいたんですの! ミュウとスィンさんが火を吹いたら逃げ出したですの、驚いたですの~!」

「「火を吹いたぁ~!?」」

 

 驚くべきはそこではないのだが、ミュウの言葉がよっぽど衝撃的だったのか。

 ルーク、ティア、アニス三名は視線をスィンに集中させた。なお、ガイは呆れたように半眼になっている。

 

「っつーことは何か、おまえ。ブタザルみたいに口から火を……」

「……お目にかけましょうか?」

 

 慌てて否定するかと思えば、スィンはにやりと笑って人差し指を立てた。

 誰も止めないところを見ると、真相が知りたいらしい。

 ナタリアを下がらせて、スィンは指先に第五音素(フィフスフォニム)を結集させた。

 

「一番スィン・セシル。火を吹きます!」

 

 水筒とは違う水袋の中身をあおり、炎を灯した指を口の前にやり、思いっきり吹く。

 結果、ミュウのものよりは断然劣るものの、ごおおおぉーっ、と火柱が出現した。

 

「「おお~っ!」」

「って、コラコラ!」

 

 突然始まった宴会芸に、ルーク、アニス、ナタリアが感嘆しているものの、ガイに制止され早々にやめる。

 

「お前な! こんなところで芸なんか披露するなよ、早く出たいんだろ?」

「おっしゃるとおりですが、少し気になることが……」

 

 ミュウもやるですの! と炎を吐き出しかけるミュウをあわてて止めている面々を横目に、スィンは声をひそめて囁いた。

 

「なんか、外のほうから変な地響きが聞こえてきたんです。タルタロスのものと似てたような気がして……もっとも、陸艦が動いているだけかもしれませんが」

「ほう。外にタルタロスがあるのかもしれないんですか」

 

 場違いなまでに明るい声が背中から聞こえてきて、スィンは軽く息を呑んだ。

 振り返れば、そこにはマルクトの死霊使い(ネクロマンサー)が微笑を浮かべて頷いている。

 

「まあ、まったく関係ないキムラスカの陸艦かもしれませんので、とりあえずここを抜けることを優先しましょう」

 

 頷くセシル兄妹を確認し、彼は一行に進むことを促した。

 音素灯をつけてきたためスィンが先導する意味はなく、ルークの護衛をガイに任せ、しんがりへと回る。

 それまでしんがりを務めていた青い軍服の背中が目の前にある。その背中に、スィンがそうっ、と手を伸ばした。

 もう少しで手が触れる。そこで、弾かれたように腕を引っ込めた。

 もう一度。深呼吸をしながら手を伸ばしていく。ちょん、と中指の爪の先が軍服に触れ、静電気を浴びたように腕が戻ってきた。

 たったこれだけのことなのに、額を軽く拭えば、しっとりと手が濡れている。

 意味の成さない汗を手巾で拭き、再度腕を伸ばして──

 

「……何をしているのか聞いてもよろしいですか?」

 

 いきなりジェイドが立ち止まり、にこにこ笑いながら後ろを向いた。

 とっさのことに反応できず、スィンはジェイドに思いきりぶつかっている。

 

「──っをわぁっ!」

 

 思いっきり飛び跳ねるスィンを楽しそうに見ながら、用事でもあるんですか? と彼は何食わぬ顔で首を傾けている。

 

「よっ、用事があったら声かけてます! ヴァン謡将くらいの人ならなんとか慣れたから、こっそり大佐で慣れようとしただけです!」

「水臭いですねー。それならそうと言ってくだされば、いくらでも抱きしめて差し上げるのに」

「そう言うと思ったから内緒にしようとしたのにー!」

 

 満面の笑顔で、腕を広げて迫ってくるジェイドにスィンは走って逃げた。

 

「いいの、ほうっておいて?」

 

 必死で逃げているスィンを眼で追いながらティアが訊くが、ガイもナタリアも複雑そうに見守るだけだ。

 

「かばってやりたいのは山々だが……」

「本当にスィンを思うなら、多少強引でも見過ごしたほうがいいのかもしれません……」

「じゃあガイも、スィンに負けないように鍛えないと!」

 

 ふと便乗された言葉に見やれば、アニスが妙な笑みを浮かべてガイに迫っている。

 

「い、いや、俺は……」

「スィンは、主席総長くらいの人なら平気になったんでしょ? ならガイも、せめて自分よりは若い女の子に慣れないと♪」

 

 ガイの女性恐怖症は、スィンのものと比較にならないくらい重症だ。

 アニスに近寄られただけで及び腰になっているのでは、今すぐの改善は難しい。

 じりじり、と少女から間合いを計っているガイ、未だに大佐から逃げ続けるスィン。それをハラハラしながら見守っているナタリア。

 蚊帳の外に置かれたルークとティアは珍しくそろってため息をついた。

 

 

 

 

 

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