ぱちぱちっ、とたき火が爆ぜた。
デオ峠を越え、明日にはアクゼリュスへ着くだろうと予定を立つ。
傍目には妙に急いているルークをガイがなだめ、スィンが言いくるめ、一行は野営をしていた。
その準備中のこと。
ちらちらと、ナタリアが視線を送ってくる。それに気づいたスィンは、集めてきた薪を置いて彼女に話しかけた。
「ナタリア様、何かありましたか?」
「あの、スィン。実は、馬車に乗ったせいか、体が痛くて。少し診てもらえませんこと?」
これまで散々歩いてきたのは平気なのに、何故馬車に乗って体が痛くなるのか。
不思議に思う素振りもなく、スィンは訳知り顔で頷いた。
「ああ。あの馬車、あまり上等なものではありませんでしたからね。結構揺れましたし、お尻痛いですか」
「スィ、スィン!? あなたの正直なところ、私は好ましく思っておりますけれども、それは大きな声で言うことじゃありませんわ!」
「なるほど、ナタリアはお姫様だもんね。粗末な馬車はお尻が合わないんだ」
アニスのからかいに近い同情にナタリアは顔を赤くしながらも、否定はしない。
王女という立場上、ナタリアが乗る馬車は専用のものがある。スィンも同乗したことがあるのだが、キムラスカの技術の粋がこれでもかと詰められた馬車だった。敷き詰められたクッションの上質さもあり、揺れをあまり意識させるものではなかったのである。
あれに慣れているのでは、体のあちこちが痛くなろうと不思議はない。
「いいですよ。じゃあ、そちらの敷布で横になってください」
「ええ」
断られると思っていたのかもしれない。ナタリアはほっと息をつくと、いそいそとスィンが示した敷布に寝そべった。
手を清めて傍らに座ったスィンは、ナタリアの背中を中心に手のひらで撫で回すような仕草を繰り返している。
その頃、野営の準備を終えた面々が何をしているのかと集まりつつあった。野営の話が決まった時点でふてくされ、遠くに見えるアクゼリュスを見下ろせる位置で動かないルーク以外が。
「スィンは按摩の心得があるんですか?」
「心得というほどしっかりしたものでは無いです。マッサージのやり方は知らないし。ナタリア様はこっちのほうがお好みというだけで」
「だって、マッサージはオイルやパウダーを使うせいで終わった後の湯あみが手間ですもの。終わった後はポカポカしますけれど、あまり疲れはとれませんし。スィンのやり方なら、着替えずともできますわ。それに」
ナタリアの身体の状態を確かめつつ、スィンは
調整した微弱な雷気を対象の肉体に注ぐことで、血行促進、疲労回復、痛覚の鈍化などを促すことができる。
そして──これを応用すれば、被施術者に抵抗すら許さず死をもたらすことも。
スィンがこれを身につけたのは、ナタリアのためではないし、按摩の技術向上のためでもない。
そんなことも知らずに、ナタリアは無邪気にスィンを誉めた。
「スィンは、すごく上手いんですのよ。全然痛くしないのです」
「按摩なら、多少は痛みを伴うものでは?」
「城に勤める専門師のやり方は、そうですわね。力任せにぎゅうぎゅう押してきますわ。痣が残ったこともあるくらいですもの。でもスィンは力加減がわかっているといいますか、苦しくないし、終わった後は何というか、すっきりしますわ」
当然である。
そこを痛気持ちいいと錯覚させるか、単に痛く苦しいと思わせてしまうか、プロならば腕の見せ所であるはずだが。
「ではナタリア様。いつものように長ーく息を吐いてくださいね」
「わかりましたわ」
スィンのやり方をよく知っているナタリアは、素直に指示を聞いて、大きく息を吐き出した。僅かながら緊張がほどけた筋肉の按摩を手順通り行い、尻を中心に腰、背中の凝りを解消していく。
道中これといって何も訴えてこなかったが、やはり慣れない旅路。ナタリアの身体は全体的に疲労が溜まっており、スィンはそのままブーツを脱がして、足の按摩を始めていた。
「あっ!」
「……」
「そ、そこですわ、ああ、心地いい」
「はい」
「……」
「ナタリア様、寝ちゃダメですよ。夜眠れなくなってしまいます」
「……」
「ナタリア様」
返事はない。彼女はうつ伏せになったまま、すぅすぅと寝息を立てている。
いつものように起こそうとして、ここは王城ではないからいいか、と留まった。
「寝ちゃったの?」
「うん。割といつものこと」
「マッサージしてそのまま寝ちゃうって、スィン。本当に凄腕じゃない? 開業したら儲かるかも!」
「女性限定になっちゃうけどね。寝落ちはナタリア様の癖になってるだけかも。だから、終わったらすっきりしてるんじゃないかなって思ってる」
眠っているナタリアから少し離れて、見学していた一同のもとへ行く。
「僕としては、寝られると侍従長にバレるからやめてくれっていつも言ってるんだけどね」
「ああ、あの侍従長お前のこと嫌いだもんな。お前のことっていうか、貴族以外か。平民が姫様のお身体に触れるなどけしからん! って喚いてたっけな」
「お身体に触れないと、按摩どころか基本的なお世話ができないんですけどねー」
普通の貴族女性なら香油や何やかやを使ったマッサージで十分なところ。ナタリアは生まれつき筋肉量多め、更に弓術を嗜んでいるため、マッサージでは物足りないと感じるようだ。
だからスィンの方がいい、と言い募るナタリアにそれならば、と侍従長は按摩を施せる身内を専門職として城に招いた。しかし一度その身内の施術を受けたナタリアは、スィンの方が巧みだと言って以降敬遠している。
そんな背景もあって、侍従長は自分を嫌っているのだとスィンは締めくくった。
「えー、そんなコネ採用、許されちゃうの?」
「それだけ侍従長は偉い人なんだよ。嫁き遅れの口が臭くてうるさいババアだなあとは思ってるけど、悪い人じゃないし、無能でもない。身元がしっかりした人を使いたいと思うのは、防犯上間違ってないと思うよ」
「……スィンも、その人のことは嫌いなのね」
「別に嫌いではないよ。ただ、視界に入ると不快になるだけ」
「それは十分嫌いの範疇だよ……」
時刻は深夜となり、現在はジェイドが見張りについている。
他の誰もが寝息を立てていることを確認して、スィンはむっくりと起き上がった。
「──まだ交代の時間ではありませんよ?」
「そんなことは百も承知です」
どこか一本調子なスィンの声音に何を感じ取ったのか、彼は読んでいた本をパタン、と閉じる。一方でスィンは、ごそごそと自分の荷袋を漁っていた。
発作止めを取り出すのかと思いきや、背負い袋の中からは一抱えもある奇妙な円筒形の箱が現れる。
その箱を手に、彼女はジェイドの傍にやってきた。わざわざ彼の前に陣取り、箱を置く。
「これ、何か知ってます?」
「……なぜこのようなものをお持ちで」
それの正体に気づき、ジェイドは嫌悪に顔を歪めて詰問した。
スィンの携える木製の丸い箱は、首桶と呼ばれるもの。中央にはキムラスカ製であることを示すかのように、紋章が彫り込まれている。
「僕、これにあなたの首を入れるよう命じられました」
ジェイドの眼がわずかに見開かれる。が、すぐ表向き何でもないような顔になって尋ねた。
「……なぜです?」
「察しはつくでしょう? 和平の使者にして皇帝の懐刀と名高い
雄弁すぎるその言葉に、ジェイドは眉を歪ませてスィンを見る。
「それがキムラスカの意思なのですか?」
「失敗して当然、成功すればラッキー程度の賭けだったと思いますよ。キムラスカの総意かどうかは、分かりかねます」
これを命じたのが誰なのかは知らないが、護衛従者が務まる程度の元メイドに
ふと、スィンは視線だけでナタリアを見た。
「信じるかどうかはあなたに任せますが、ナタリア様は無関係です。少なくとも、このことには」
ジェイドへ視線を戻せば、彼はいぶかしげにスィンを凝視している。
「……わざわざ私に話してくださった理由は? これを話した上で、私を殺せるとでも?」
「ためしてみましょうか」
この距離ならば逃しようもない。
にっこりと笑みを浮かべて。素早く膝立ちになったスィンは血桜を抜いた。
血相を変えて虚空から槍を取り出したジェイドだったが、わかりきっていた反応である。槍は一般的にリーチのある武器だが、その分懐に入られると弱い。
それでも素早く繰り出された穂先を弾いて、ジェイドの首に切っ先をつきつけた。
槍の穂先はすぐにスィンへ向けられているが、その穂先がスィンをえぐるより早く、彼の喉笛は貫かれるだろう。
「……だから言ったじゃあないですか。気を許さないほうがいい、って」
寂しげに呟いたスィンは、改めて血桜を握りなおした。その手は、ほんのわずかにも震えていない。
「なるほど……道中での異性恐怖症克服は、このときのために訓練したものだったんですか」
「いいえ。あれは正真正銘、純粋に治したかったから」
いくら慣れたとはいえ、これで治るなら長年の苦労はない。限界は実にあっさりと訪れた。
切っ先が緩やかに引かれたかと思うと、震える手から血桜が零れ落ちる。
長刀を地面に転がし、身を引こうとするものの。予想と反して彼はスィンを逃がさなかった。
「……なんで、す?」
心底意外そうにスィンは尋ねている。取り繕ってはいるが、語尾は震えて聞き取りずらい。
「まだ答えを聞いていませんよ。ついでですから、絶好の機会に私を殺さなかった理由も答えてください」
がたがた震えている腕をしっかりと握り、ジェイドは回答を促した。
「……けっこう悩みました。このまま黙してアクゼリュスへ向かい、救援が終わってあなたの気が抜けてからでも問題ないと思ってたんですけど」
浮かんできた額の汗を腕でぬぐい、スィンはごくりと唾を嚥下している
「ケセドニアで寄越された書簡に、密命はわざと失敗して、
「……それで、殺さなかった理由は?」
「僕。あなたのこと結構気になっているものでして」
オアシスで見せた妖しい笑みが、再びスィンの口元に刻まれる。
一瞬緩んだ手から逃れたスィンは転がった血桜を拾い上げ、鞘に戻した。
「なーんていうのは、まあ冗談として。明日が山場でしょうに、無駄に体力使うわけにはいかないでしょう?」
首桶を蹴って、たき火にくべて尋ねれば、彼はいつものものと違うように思える笑みを浮かべている。
「私をからかうとは、それなりの覚悟があってのことと解釈してよろしいんですね?」
「いい大人が目くじら立てないでくださいよ、この程度で」
にこにこ微笑みながら迫ってくるジェイドに、微笑みながらも冷や汗をかくスィンが抜刀の体勢でじりじり後退った。
「──まあいいでしょう。かわりとして見張りの代替をお願いしますよ」
首桶がめらめら燃えていくのを確認してか、ジェイドは毛布に包まるとスィンに背を向けた。
どうせ本気で寝はしないだろうが、それでも一応許してもらえたようなので、よしとする。
ふぅっ、と軽く息をついて、スィンもまた自分のいた位置へ戻った。
……全ては、明日。
そんなわけで。スィンがバチカルで請け負った密命はそういう内容のものでした。
ただしケセドニアで受け取った書簡は、ヴァンがマルクト領事館に預けたもの。キムラスカから送られてきたものではありません。