the abyss of despair   作:佐谷莢

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第四十一唱——まみえるは、己が歩みし道々の標

 

 

 

 

 ──それは、ルグニカの大地が視認できる海域へ差しかかったときのことだった。

 それまで通常通り航行していたタルタロスが突然凄まじい衝撃を受け、機体が激しく揺らいだのである。

 

「きゃあっ!」

「沈んじゃうの?」

 

 ナタリアが悲鳴を上げて身をすくませ、アニスが不安そうに周囲を見た。

 

「見てきます」

「俺も行く。音機関の修理なら、多少手伝えるからな……スィン、手伝え!」

「はい!」

 

 ジェイドに引き続きガイ、そしてナタリアを支えていたスィンが後を追う。残された一同は言い知れない不安を漂わせ、事態を見守った。

 

「ご主人様。ボクは泳げないですの……」

「……知ってるよ。大丈夫。沈みゃあしないって」

 

 中でも、水の中に放り込まれる恐怖が最大と思われるミュウに、ルークは慣れない気遣いを見せる。そこへジェイドが艦橋(ブリッジ)へ駆け戻ってきた。

 

「機関部をやられましたが、二人が応急処置をしてくれて、何とか動きそうです」

 

 どうですか? と伝声管で呼びかければ、すぐに二人の音声が伝わってくる。

 

『一時的なモンだ。できればどこかの港で修理したいな』

『それより進路を変えないと! まだ機雷が漂ってきてます!』

 

 外を見ているらしく、ガイのものよりは遠いスィンの言葉に、早急なルート変更が促される。えっと、とティアが素早く地図を思い浮かべた。

 

「ここからだと、停泊可能な港で一番近いのはケテルブルク港です」

「じゃあ、そこへ行こう。いいだろジェイド」

「……まあ……」

 

 ルークに同意を求められ、しょうがないですねとでも言いたげな、微妙そうなジェイドの声音に続き、ガイがスィンの表情を懸念している。

 

『どうした? アッシュじゃあるまいし、眉間に皴が寄ってるぞ』

『……いえ別に』

 

 苦しくもジェイドと同じような反応になってしまったことに苦笑したのだろうか、ふっ、という呼気が零れた。

 応急措置の確認をしているガイの補佐を勤めつつも。スィンの脳裏からは、あの真っ白な街の面影がなかなか消えてくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこもかしこも雪に覆われた港へ入る。

 魔界とは違った意味で別世界のようなケテルブルクの光景を見入っていると、見慣れぬ船を警戒してかマルクトの兵士が下船した一行に歩み寄ってきた。

 

「失礼。旅券と船籍を確認したい」

 

 兵士の言葉に、ジェイドが一歩前へ進み出る。彼の着る軍服に気を取られていた兵士だったが、その名乗りには眼を丸くした。

 

「私はマルクト帝国軍第三師団所属、ジェイド・カーティス大佐だ」

「し……失礼しました。しかし大佐はアクゼリュスで……」

 

 彼の言い草からして、死んだということになっているらしい。それを察しただろうに、彼は態度を小揺るぎもさせず、淡々と方便を並べ立てる。

 

「それについては極秘事項だ。任務遂行中、船の機関部が故障したので立ち寄った。事情説明は知事のオズボーン子爵へ行う。艦内の臨検は自由にして構わない」

「了解しました。街までご案内しましょうか?」

 

 一応納得したらしい兵士の申し出を、しかし彼は断った。

 

「いや、結構だ。私はここ出身なのでな。地理はわかっている」

「わかりました。それでは、失礼します」

 

 立ち去る兵士の背を見送って、ルークは意外そうに呟いている。

 

「へー、ジェイドってここの生まれなんだ」

「……まあ、ね」

 

 どこか含みのある微笑で答えたジェイドは、スィンの質問を受け振り返った。

 

「修理はどうするんです?」

「それも知事に報告して、頼みましょう」

 

 ……ここの出身とはいえ、一軍人に知事が協力するなど、通常考えれば少しありえないような話の気はするが。そこはジェイドが口車で何とかするだろうと、一行は特に気を止めなかったらしい。

 

「よし、じゃあケテルブルクへ急ごう」

 

 その一言で、彼らはジェイドの先行により兵士が用意してくれたと思われる雪上馬車に乗り込んだ。一面に広がる白の世界に感嘆を零しながら、ケテルブルクへ入る。

 入って眼前のカジノにアニスがふらふらっと引き寄せられたり、イオンによる『ケテルブルクの輩出せし二人の天才』ジェイドとディストの関係、更にはトクナガの出生が明らかになったり。

 

「寒いー」

「寒いですのー」

「砂漠でやってたみたいに、外套をあっためればいいんじゃない?」

第五音素(フィフスフォニム)は微調整が難しいの。前試作品を試したときに低温火傷した。あと、こういうところだと原動力の設定がしにくい」

「冷気じゃダメなのか?」

「反発し合う属性の転換は効率が悪い。それに、移動したり戦ったりした後は必ずしも寒いわけじゃないから、その調整もしなきゃいけない。難しすぎて諦めた」

「その辺りの話を詳しく聞いてみたいところですね。スィン、温めて差し上げますので、こちらにどうぞ」

「ぎゃー!」

 

 ミュウと二人で寒いと連呼していたスィンが、ジェイドのちょっかいから逃げようと思わずナタリアの背中に隠れ、軍人と姫という珍しいツーショットが発生したり、と数々の珍事を引き起こしながらも、一行は知事邸前へたどり着いた。

 何らかの手続きが必要かと思われたが、ジェイドはそれらしい事柄を一切省いて、ずんずん知事の執務室前へ歩いていってしまう。

 使用人らしい人間もちらほらいたにもかかわらず止められなかった理由は、執務室にノックはしても返事を待たずして入室したジェイドを見ての知事の一言で判明した。

 

(知事って、この人かあ)

 

「……お兄さん!?」

「お兄さん!? え!? マジ!?」

 

 驚く一同の胸の内を代弁したのはルークである。

 確かに顔立ちや髪色、印象を見比べるとよく似ているのだが、彼と血を分けた兄弟など想像できなくて当然だ。やはり日頃の行いは重要である。

 驚愕に固まる彼らをまったく顧みることなく、ジェイドはにこやかに、そして驚くべき再会の挨拶を取った。

 

「やあ、ネフリー。久しぶりですね。あなたの結婚式以来ですか?」

 

 が、そこはやはり生まれたそのときから知り合う間柄。彼の微笑に惑わされる彼女ではなかった。

 

「お兄さん! どうなっているの!? アクゼリュスで亡くなったって……」

「実はですねぇ……」

 

 長くなりますよ、と前置きを告げてから、一連の出来事──端折った部分は膨大であったにもかかわらず、前置き通りになった──を語る。兄の言葉を一言一句、終始質問なども挟まず聞いていた彼女だったが、話が終わってふう、とため息をついた。

 

「……なんだか途方もない話だけれど、無事で何よりだわ。念のためタルタロスを点検させるから、補給が済み次第ピオニー様にお会いしてね」

 

 とても心配しておられたわ、と気遣わしげに伝えれば、ジェイドはいつもの笑みをたたえている。

 

「おや、私は死んだと思われているのでは」

「お兄さんが生きてると信じているのは、ピオニー様だけよ」

 

 そしてネフリーは兄ではなく、一行全員と向き直った。スィンは一応両眼を見られないよう、ガイの背中に隠れてやり過ごした。

 

「皆さんも、出発の準備ができるまでしばらくお待ちください。この街は観光の名所ですから、危険はないと思いますわ。宿をお取りしておきます。ゆっくりお休みください」

 

 事務的ではあるが、とある人物とは似ても似つかない微笑みに見送られ、来たときと同じようにジェイドを先頭に一行が退室する。

 最後尾を歩くルークがネフリーに囁きかけれられているのを、スィンは小耳の端に留めておいた。

 

『すみませんが、お話がありますので後ほどお一人でいらしてください』

 

(……ふぅん)

 

 おそらくは、ルークがレプリカであることを聞いてのことだと思われる。彼に何を期待しているのかはわからないが、彼女とルークの接点といったらひとつしかない。

 知事邸からやはりジェイドの案内で宿先へ向かう際。知事邸の奥に面した豪邸を眼にしてアニスの足が止まる。

 そのつぶらな瞳がきらりん☆と輝いた。さながら獲物を狙う子猫のように。

 

「は~。すっごいお屋敷v ここの人と結婚した~いv」

 

 うっとりと体をよじらせるアニスに、ジェイドはとても朗らかな微笑を浮かべた。

 

「確かまだ独身でしたよ。三十は過ぎてますが」

「え、もしかしてここ大佐の家とか? だったら大佐でもいいなぁv」

 

 彼相手に猫かぶりは無駄だとは認識しているらしく、直球ストレートに言い切ったアニスに、ジェイドはにこにこと面相を崩さないまま、きっちり拒んでいる。

 

「そうだとしてもお断りです。でもここの持ち主なら喜ぶかもしれませんよ。女性ならなんでもいい人ですから」

 

 どうも誰なのかを詳しく知っているらしいジェイドに、アニスが断られたのも忘れて誰何した。

 

「誰ですか」

「ピオニー陛下です」

「ひゃっほー♪ 玉の輿ぃv」

 

 玉の輿とか、そんなレベルではないような気もするが、今のアニスにそんな常識的な意見は通らない。

 

「皇帝は、首都の生まれじゃないのか?」

「王位継承の争いで子供の頃、この街に追いやられたんだってさ」

「ええ、そうです。ここはその時のお屋敷ですよ」

 

 ルークの問いにスィンがあっさりと答え、ジェイドがまたも眼鏡を光らせている。ピオニー陛下に関する話題が続き、彼の初恋の人が判明したところで、一行は一際目立つホテルに到着していた。

 

「知事から承っています。ごゆっくりどうぞ」

 

 フロントでジェイドが手続きを取っていたところ、ついに決心したのか。ルークがひどい棒読みで、かつわざとらしく頭へ手をやっている。

 

「あ、俺ネフリーさんトコに忘れ物した。行ってくる」

「俺も行こうか?」

 

 申し出たガイを思いとどまらせるように、ルークはわざと意地悪く言った。

 

「ネフリーさん、女だぞ」

「美人を見るのは好きだ」

 

 隠すことなどなにもない、といった風情で胸を張ってすら言い切った彼に、女性陣が呆れたように言う。

 

「ガイも男性ですものね……」

「年上の人妻だよ~?」

「や、違うぞ! 変な意味じゃなくて……」

 

 狼狽する彼に、スィンは「ガイ兄様」と、とどめの一言を放った。

 

「な、なんだ?」

「まさかとは思いますが『眼鏡っ娘』というのがお好みなんですか? だったら大佐の顔で我慢しといてください。ご兄弟だから似てますよ」

「なんでそうなるんだっ!」

 

 と、話が完全に脱線したところで、ルークの足元のミュウがピョン、と跳ねる。

 

「ご主人様、ボクも行くですの」

「あーもう、うぜぇって! 俺一人でいいよ!」

 

 癇癪を起こした風を装ったルークが行き、なおかつジェイドが部屋へ向かったのを確認してから。スィンは観光という名目で外へ出た。

 一定距離を保ち、ルークの後を尾けて、わき道をそれる。

 マルクトの現皇帝が育った屋敷を横切り、とある一角のフェンスに背を預けて、スィンは探索の譜術を発動させた。

 ほどなくして、会話だけが伝わってくる。

 

『すみません。あなたがレプリカだと聞いて、どうしても兄のことを話しておかなければと思ったんです』

『……なんの話ですか』

『兄が何故、フォミクリーの技術を生み出したのか……です』

 

 興味深い話だった。しかしスィンはこれを盗み聞いて、少なくとも平静ではいられない事態に陥ることになる。

 

『今でも覚えています。あれは私が不注意で、大切にしていた人形を壊してしまった日のことです。その時兄は、フォミクリーの元になる譜術を編み出して、人形の複製──レプリカを作ってくれたんです。兄が九歳の時でした』

『し……信じられねぇ……』

『そうですよね。でも本当です。普通なら同じ人形を買うのに、兄は複製を作った。その発想が普通じゃないと思いました』

『普通じゃないって、そんな言い方……』

『……今でこそ優しげにしていますが、子供の頃の兄は、悪魔でしたわ。大人でも難しい譜術を使いこなし、害のない魔物たちまでも残虐に殺して楽しんでいた。兄には、生き物の死が理解できなかったんです』

『そんな風には見えないけど……』

『兄を変えたのはネビリム先生です』

 

 ぴく、とスィンの肩が震えた。

 

『ネビリム先生は第七音素(セブンスフォニム)を使える治療師でした。兄は第七音素(セブンスフォニム)が使えないので、先生を尊敬していたんです。そして悲劇が起こった。第七音素(セブンスフォニム)を使おうとして、兄は誤って制御不能の譜術を発動させたんです。兄の術はネビリム先生を害し、家を焼きました』

『殺しちまったのか!?』

『その時は辛うじて生きていました。兄は今にも息絶えそうな先生を見て考えたのです。今ならレプリカが作れる。そうすれば、ネビリム先生は助かる』

『!!』

『兄はネビリム先生の情報を抜き、レプリカを作成した。でも誕生したレプリカは、ただの化け物でした』

『本物のネビリムさんは?』

『亡くなりました』

 

 頬が一瞬熱くなり、すぐに冷たい何かが通り過ぎる。

 

『その後兄は才能を買われ、軍の名家であるカーティス家へ養子に迎えられました。多分兄は、より整った環境で先生を生き返らせるための勉強がしたかったんだと思います』

『……でも今は、生物レプリカをやめさせた。どうして?』

『ピオニー様のおかげです。恐れ多いことですが、ピオニー様は兄の親友ですから』

『そうか……』

『でも本当のところ、兄は今でもネビリム先生を復活させたいと思っているような気がするんです』

『そんなこと、ないと思うけどな』

『そうですね。杞憂かもしれない。それでも私は、あなたが兄の抑止力になってくれたらと思っているんです。話が長くなってしまいましたね。聞いてくださって、ありがとうございました』

 

「う……」

 

 う? 

 

 第三音素(サードフォニム)を通じての音声ではなく、自分の耳でしっかり聞こえたその言葉にスィンは覚醒した。

 そして自分が顔を覆って、泣いていたことに気づく。顔を覆っていた手をどけ、そっと顔を上げた。

 視線の先には、細身にサングラスのような眼鏡をかけた、優男風なおかっぱ頭の男がいる。

 右目をこすりながらその男を見ると、彼は「ひっ!」と及び腰になり、「わあああっ!」と悲鳴を上げて逃げていってしまった。

 いぶかしがりながら、右目にかぶさりかかっていた髪を見て、びくり、と硬直する。

 

 色が、視界の大半を占める雪のように白い。

 

 感傷的になりすぎて術が解けたのか、そんな馬鹿な。という彼女の推測はやはり間違っていた。

 これだけ寒いにもかかわらず、大量にかいていた汗のせいで、身体が芯から冷えている。冷たすぎるほどだ。身体に影響を及ぼす生体譜術は死亡すると効力を失うため、と思われた。

 汗を拭き取り、スィン・セシルの姿を取り戻し、男性を追跡する。雪に足を取られているのか、まだ視認できる位置だ。追いついたところで何かをするつもりはなかったが、一応彼が何をするのかを確認しておきたかった。

 

「ジェイド、大変だっ!」

 

 そして男性はケテルブルクホテルに駆け込んでいく。まさか、と思いながら、用心してもうひとつの出入り口へ回り込み、聞き耳を立てた。

 

「どうしたんです?」

「で、でた。でたんだよ……」

「でた、って、何が?」

「ネビリム先生が、いたんだよ!」

「「!!」」

 

(あっちゃー……ジェイドの知り合いだったかー)

 

 聞き覚えがある応対者たちに思わず額に手を当てながら、それでも聞き耳は続ける。

 

「……おかしな冗談はやめてください」

「本当だ! 別に疲れてないし幻覚でもない! けど本当にいたんだよ。先生が、自分家の跡のところにいて、こう顔を覆って、『返して……』って、泣いてたみたいで……」

 

『返して』

 

 確かに、無意識のうちに呟いた言葉に似たような単語はある。が、最初の一文字と文字数しか合っていない。

 とっさに記憶を操作して言葉を組み合わせてしまった人間の想像力とは、えてしてすごいものである。

 

「間違いない、あれは先生の幽霊だ! ちょっと髪が長すぎるような気がしたけど、ぼーっと光ってたし……」

 

 それたぶん使用中の譜術、譜陣の光。

 言い募る男性に対し不快感をあらわとするジェイドとそれをなだめるルーク、そして騒ぎに気づいた一行までもが集まってきたのを耳にして、スィンはそれ以上の聞き耳をやめ、広場へと向かった。

 ほとぼりが醒めるまで逃走を図ろうという魂胆である。

 広場では子供たちが両チーム平等に投石器を使っての雪合戦を繰り広げていた。片隅のベンチに座ってそれをボーッ、と眺める。

 

 えらいことをしてしまった。

 

 それ以上雪合戦を眺める気にもなれず、探索の秘術でケテルブルクホテルロビーの様子を見る。

 とりあえず騒ぎを沈静化したらしく、喧騒はなかった。代わりに、ジェイドとルークが密談を交わしている。

 

『……ときにルーク。ネフリーから話を聞きましたね』

『……き、聞いてない』

 

 音声のみであるが、ルークの挙動が怪しさ大爆発であることが目に浮かぶようだった。

 

『悪い子ですね。嘘をつくなんて』

『……う……なんでバレたんだ』

 

 当たり前である。

 

『まあいいでしょう。言っておきますが、私はもう先生の復活は望んでいません』

『ホントか? ホントにか?』

『……理由はあなたが一番よく知っているでしょう』

 

 彼の声はひどく苦々しかった。

 

『私はネビリム先生に許しを請いたいんです。自分が楽になるために。でもレプリカには過去の記憶はない。許してくれようがない』

『ジェイド……』

『私は一生過去の罪に苛まれて生きるんです』

『罪って……ネビリム先生を殺しちまったことか?』

『そうですね……人が死ぬなんて大したことではないと思っていた自分、かもしれません』

『俺……俺だって、レプリカを作れる力があったら、同じことしたと思う……』

『やれやれ。なぐさめようとしていますか? いささか的外れですが、まあ……気持ちだけいただいておきます』

 

 ここでジェイドは声のトーンを変え、いつもより気持ち悪戯っぽい声になる。おそらくは、意識的に。

 

『それより、このことは誰にも言ってはいけませんよ。いいですか?』

『……わかった』

『約束しましたよ』

 

 そろそろ限界だった。ぷつ、と術は唐突に断絶し、雪合戦に精を出す子供たちの歓声が耳朶を姦しく打つ。

 

 ──決めた。

 

 立ち上がり、広場を後にして当初の目的地を目指す。今すぐ向かえばジェイドとエンカウントはしないはずだ。

 力の限り握っていた拳を解けば、手のひらに食い込んでいた爪は緋色に染まっていた。

 それが終わったら、今日は──否、今夜は──

 指先に付着した己の血液を舐め、不味い鉄錆の味に嫌悪する。ざくざくと雪の道を踏みながら、スィンは街外れへ歩み去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。スィンがロビーに姿を見せると、フロントの前には全員が集合していた。

 やっと来たか、と彼女を見やったルークの表情が凍りつく。

 彼女の目はひどく充血し、額に手を当てたまま挨拶もなく無言でフロントに鍵を提出したのだ。

 

「……だから早めに切り上げなさいと言ったのに」

 

 一目で異常がわかるスィンに一同が眼を丸くした中、ジェイドは呆れたように呟いた。

 

「……もーしわけな……い」

「い、一体何が……?」

「自分の限界を見極め損ねて二日酔いになっているだけです。放っておいてあげなさい」

 

 それを聞き、全員が呆れながらも納得する中、ガイだけがいぶかしげに彼女を見やる。

 確かに眼は充血しているが、それは二日酔いの症状ではない。彼女は泣き上戸ではないし、第一足取りがしっかりしすぎている。

 額に手を当てているものの頭が痛そうな素振りは見せないし、ジェイドは知らないが、彼女は底なしといっていいほど酒に強いのだ。悪酔いしたところを見たこともないし、次の日に持ち込むような体質でもない。

 ガイの視線に気づいて顔を上げたスィンは、困ったように微笑んだ。本当に二日酔いなら、他人の視線に気づけるほどの余裕はない。

 何かあったのだ。酒豪たる彼女がこの状況下で酒精の恩恵を望み、結果それが叶わず徹夜してしまったほどの何かが。

 

「ありがとうございました」

 

 ジェイドが手続きをしている間にそれを聞こうとして、ホテルのドアをくぐってきた人物に気を取られる。

 

「タルタロスの点検が終わりました。いつでも出発できますわ」

 

 にこやかにそう告げたのは、ネフリー・オズボーン子爵にして、ケテルブルクの知事だった。

 

「──さあ、それじゃグランコクマに向かおうか」

 

 眼を隠すようにしているスィンに事情は後で聞こうと決め、ガイが先を促す。

 

「ええ。一刻も早く、セントビナーの崩落の危険を皇帝陛下にお知らせしないと」

「そうですわね。まずはローテルロー橋に急ぎましょう」

 

 橋の名を耳にし、アニスは待ち受ける苦労を思ってのため息をついた。

 

「はぁ……その後は徒歩か……ねぇ大佐~♪ 疲れたらおんぶして~v」

「お断りします。年のせいか体の節々が痛むんですよ」

 

 少女のおねだりを爽やかに却下し、それに、と続ける。

 

「グランコクマへ行くには、橋から北東に進んだ先にあるテオルの森を越える必要があります。私のような年寄りには辛いですよ。若い皆さんが私の盾となって先陣を切ってくれないとv」

「……よく言うよ……」

 

 呆れたようなスィンの呟きに心中だけで同意して、ルークはさて、と呟いた。

 

「そうと決まればのんびりしちゃいられないな。行こうぜ! みんな」

 

 そして色々な意味を込めて、目の前に知事に頭を下げる。

 

「それじゃネフリーさん、お世話になりました」

「皆さんもお元気で。お兄さん、陛下に宜しくお伝えしてね」

 

 ところで、とネフリーは一行の後ろを見た。

 

「あなたたち、どうしたの?」

 

 見れば、ロビーの一角に据えられたバーの前で、従業員たちが何やら集まっている。

 彼らの視線の先には、酒樽が三つほど封を切られ、転がっていた。

 

「あ、これは……その」

「業者が空樽を持ってきたのかしら」

 

 それなら正式な処罰を、と歩み寄ってくるネフリーに、彼らはとんでもないとばかり首を振る。

 

「ち、違います! 昨夜来られた女性のお客様がこれをお一人で飲み干されましたので、何があったのかという話をしていただけで……」

「へ!?」

 

 驚愕して酒樽を見る。大きさとしては手足をたためばアニスがすっぽり入れるほどの容量をそなえた樽だ。それが三つも。

 これを飲み干した? 女が? 

 ふと思い立ち、ルークはスィンを見やった。

 

「まさか……」

 

 ルークの視線を受け、更に一同の視線を受けたスィンが軽く冷や汗を流す。

 しばしの沈黙の後、彼女は「あはは……」とあきらめたように笑って、眼を隠していた手を外した。

 

「バレちゃった♪」

「やっぱお前なのかよ!」

 

 従業員たちの表情で真相を知ったルークが、呆れ顔で突っ込んだ。

 

「スィン、そんな大量に飲んでは体に悪いですわ! それにお金は……」

「……かなり違う気がするけど、そんなお金よくあったね?」

 

 アニスの問いに、スィンはにっこり笑って一点を指した。一番近くにいたティアが歩み寄って、その先に張られた内容を読む。

 

「『ただいまキャンペーン中。一時間以内に地酒の大樽を飲みきった方、無料。間に合わなかった方、酔いつぶれた方は料金徴収、不正が発覚した場合は更に罰金』……っていうことは、三時間で三つ……!」

 

 思わずその光景を想像して戦慄に身を震わせるティアの後ろで、ジェイドが呆れたように驚愕のまなざしを向けられても苦笑を絶やさないスィンを見た。

 

「ケテルブルクの地酒といえば、かなり度が高いことで知られているはずですが」

「ええ。流石ケテルブルク銘酒『初恋は檸檬の味』ロニール雪山の万年雪を解かして使用しているだけあって、とても咽喉越し爽やかでしたよ♪」

 

 どこか外れた感想を述べている彼女に、イオンがぽつりと呟いている。

 

「なるほど。こういう方を『うわばみ』というんですね」

「イオン様、ビンゴです……」

 

 と、スィンが称号『うわばみでザル』をイオンから贈られるという珍事の後に、一行はようやっとケテルブルクを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ネビリム先生関連辺り まあバレバレって感じもしますけど……正体暴露はも少し先です。
ケテルブルクの地酒銘は、ピオニーの初恋にかけてます。たぶん。
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