the abyss of despair   作:佐谷莢

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第六十二唱——暴かれても暴かれても、進まねばならぬは己

 

 

 

「瘴気の毒性を真似て作られたものとされる毒ガス、でしたか。送り込んだ間諜(スパイ)を確実に殺すため、現地で雇ったという傭兵どもの口封じのため、単に開発中の兵器の試用とも諸説様々ですが。すぐにでも治療にかかれば、ここまで悪化するものではなかったでしょうに」

「──それどころではなかったもので」

 

 壊滅し、瘴気とそれに苦しみ抜いた骸がそこかしこを転がる古戦場になってしまった屋敷から逃れて、戦場となってしまったホドから脱出するべく祖父──ペールの伝を頼りセントビナーを目指してと、とにかく目まぐるしかったことは覚えている。

 当時は多少身体に異常があろうと誰の心に傷があろうと、まず生き延びることを優先していた。

 二人の異性恐怖症も、瘴気蝕害(インテルナルオーガン)に酷似した疾患も、対処が後回しになってしまったのはどうしようもないことだったのだ。

 

「私が気にしているのはそこではありません。あなたは毒ガスの餌食になったのに、何故あなたの弟君は無傷なのですか?」

 

 そんなの決まってる。体を張って守ったからだ。剣の主の命ずるままに。

 

「……そんなこと知ってどうするんです。あなたにとってはどうでもいいことのはず」

「やはり庇ったのですね。結果として彼は無事に、あなたは瘴気蝕害(インテルナルオーガン)を負った……なんて愚かなことを」

 

 なんとか宥めたはずの感情が再びぐつぐつと煮え始める。

 彼に理解が及ぶわけもないのだ。まともに聞くべきものではないと無意識が警告を発するものの、スィンにとっては戯言のそれが心をかき乱していく。

 

「ですからもはや、あの男に(かしず)く必要はないのですよ」

「必要?」

「彼はあなたの弟だと、この度判明したのですから、当然でしょう。弟に仕える姉などどこの世界にいると言うのです」

「ここにいる、でいいです」

 

 どこの世界にいるのかと聞かれたから、答えただけだというのに。

 彼は口角に泡すら張り付けてそれを諌めてきた。

 

「いけません! あのブリュンヒルドが没落貴族の従者になど! それだけで私はもう、はらわたが煮えくり返るような思いをしたというのに!」

 

 それは奇遇なことである。現在スィンはこの言動によってはらわたが煮えくり返る思いをしているところだった。

 しかし、それをそのまま表に出すのは憚られる。これ以上スィンの弱点を教えてやるわけにはいかない。

 

「……必要に迫られて意図的に創った仮想人格に夢を見るのは勝手ですがね。その、没落貴族の従者の方が本業なのですから、ケチをつけられましても」

「本業だと思い込んでいるだけです。あなたは彼の姉なのですよ」

「あなたの話が本当なら、本当だとしても生まれた順番だけなら、でしょう」

 

 姉だの弟だの連呼されて、頭がクラクラしてきた。

 己の根幹がぐらつく感覚がはっきりと意識できる。

 

「ネイス博士がこだわっていらっしゃるのは、シア・ブリュンヒルドという名の仮想人格です。あなたこそ、現実を直視しなければ」

「仮想人格と口ではいえど、あなたの一部分であるはずです!」

 

 ちくしょう否定ができねえ。

 黙らせるつもりが逆に二の句を封じられ、スィンは大きくため息をついた。

 

「なんですかそのため息は!」

「──戯れ言ですね。耳に入れるに値しない。聞くだけ時間の無駄でした」

 

 よくよく考えてみれば、姉だの弟だの。現時点ではディストが好き勝手言っているだけに過ぎない。調べた甲斐とか抜かしていた気がするから、根拠はあるのだろうが。その調査結果とディストさえ亡き者にしてしまえば、真相は闇の中、だ。後は祖父ペールがどれだけ事情に通じているかだが、再会したときに確認すればいい。

 今の時点でスィンが動揺することなど何もない。

 半ば自己洗脳じみた理屈を持ってして、腹違い兄弟設定は嘘から出た真、という驚愕の事実について考えるのはやめた。

 

「──やはり、信じませんか」

「信じる信じない以前の問題です。それがたとえ事実であったとしても、私はそれを理由に成すべきことを見失ったりしない」

 

 頑として揺るがないスィンを見て、何を思ったのか。

 ディストはやれやれと首を振った。

 

「説得は無駄……となると、あなたの体には従属印が施されている可能性が高くなりました」

「従属……印?」

 

 体に刻むことで身体強化を図る強化譜陣は数あれど、そんなものは聞いたことがない。

 繰り返すことで詳細を促したスィンは、その前代未聞の効果を聞いて仰天した。

 

「特定の人間の血液を用いて体表皮に譜陣を刻むことで、その血の持ち主に絶対服従を強いる術式です。あなたはそれによって、あの男を主だと錯覚しているだけなのです」

「はあ!?」

「知らないのも無理はありません。どうあってもあなたには確認できない場所にあるはずですから」

 

 確かに、腕のみならずこの体には、身体強化含む様々な譜陣が刻まれている。

 その中に、従属印なるものがあるというのか。ならばこれまでスィンがしてきたことは──

 

「まだ確認こそしていませんが、きっとあるはずです。探し出して除去すれば、あなたも目を覚ますはず!」

「鼻息荒げて脱がそうとしてんじゃねえよ! 目ン玉くりぬくぞコラァ!」

 

 考えている場合ではない。迫るディストに迎撃せんとして、文字通り手も足もでない状況であったことを思い出す。

 戒めに虚しく阻まれて、蹴倒す予定だったディストの手は易々と白衣のボタンにかかった。

 

「い、嫌ッ、やめて……!」

 

 ひっくり返ったような声が飛び出て、思わず口を閉ざす。

 おそらくだが主が見ているのだ。情けない姿は晒せない。

 

「やめろっつってんだろうが、聞けよ推定童貞! 禿予備軍!」

「さて、こちらの肌着も外さないことには……鋏はどこでしたかね」

「その、従属印があったとして、刺青の除去なんかお前できるのかよ! どうせ焼き潰すしかできねーだろうが!」

「何を仰いますか。該当部位の皮を剥ぐ、(やすり)で削り取る、色素を上塗りして──私の血を使って私に隷属させる等、方法はいくらでもありますとも」

「全部嫌だっ!」

「どんな麻酔を使っても効きの悪いあなたでは確かに不安でしょうが……まず有無を確認しないことには話が進みませんからね」

 

 白衣のボタンはすでに機能を果たさず、ディストは大きめの断ち切り鋏を装備している。動けないなりに暴れていたスィンは、ひんやりした感触に動くのをやめた。

 立ち回りには障害になりうるためサラシで巻いて固定してあるその場所に、鋏の切っ先があてがわれたからだ。

 しゃきり、音を立てて鋏が鳴った。

 

「……っ!」

「ククッ、好きなだけ喚きなさい。泣こうが喚こうが助けは「わかったっ、そうするっ」

 

 そんなことは百も承知である。自分の身を危険に晒すだけだとわかりきっていても、止められるものではなかった。

 

「ネーレイース、力を貸して! 泣き女(バンシィ)達の悲哀の歌を、この声に!」

 

 意味のない戯言とは到底思えないその言葉に、手を止めて訝しんだディストが見たもの。

 それは、まるで空気が詰め込まれたように膨らむ、スィンの胸部だった。

 

「──っ」

 

 かちゃん、と音を立てて、断ち切り鋏は床を転がった。限界まで空気を搾り出したせいか、肺に引きつるような痛みが走る。

 感情のままに放った悲鳴はディストの悲鳴もかき消して、意識も断ち切ったようだ。眼前には仰向けになって失神しているマッドサイエンティストの姿がある。

 ──通常なら、どれだけ高音であろうと、ただ大音量を聴かされたところで人間はそうそう失神なぞしない。それを可能としたのは、第七音素集合体ローレライの眷属、ネーレイースの力を借りて放った悲鳴だ。代償として喉を酷使するし、自身の鼓膜すら危うくなる。

 カラカラになってしまった喉に唾を送り込み、そのせいで咳き込んでいる間に。唐突に扉が開いたかと思うと、誰かが入室してきた。

 当たり前である。ディストにブザーを鳴らす暇こそ与えなかったが、スィン自身がブザーに匹敵する悲鳴を上げてしまったのだ。何かあったのかと、誰かが様子見に来ないわけがなかった。

 白衣がはだけられ、鋏のせいで切れ目が入ってしまったサラシも緩んでいるこの姿を見られるのは業腹だが、どうしようもない。目を醒ましたてで混乱していた先ほどではあるまいし、安易に秘術:借姿形成を使うのは躊躇われる。

 入ってきたその姿を見て、スィンは驚愕のまま呟いた。

 

「……ラルゴ」

「やはりお前か」

 

 ノックすらなく扉から窮屈そうに現れたのは、神託の盾(オラクル)騎士団第一師団師団長ラルゴ搖士だった。岩から彫り上げたような強面に豪快な髭。手にした大鎌を見て、「人の首を容易に刎ねる手練」の正体を知る。

 確かに彼の豪腕と得物ならば、それは可能だろう。

 

「ディストに手を出されそうになって応戦した、といったところか。今の悲鳴は」

 

 詳細は大分違うが、スィンにとっては似たようなものである。否定はしない。そしてそれどころでもない。

 はだけた胸を隠すべく、スィンは無言で体をよじっている最中だった。戒めのせいで完全に背中を向けることこそできないが、それでも何もしないわけにはいかない。

 その様子を見てか、ラルゴは小さくため息をついた。

 

「自信過剰だ、俺は鶏がらみたいな小娘に興味はない。そうでなくても、総長の女に手は出さん」

「私の都合なのでっ、気にしなくていいですよっ」

 

 しかしラルゴは気にしたようで。体ごと明後日の方角を向こうと努力していたスィンは、ばさりと何かを投げつけられて動くのをやめた。

 白くて大きな布地──備え付けの寝台に敷かれていたシーツを投げつけられたのだと知る。

 ラルゴはといえば、昏倒したディストの襟首を掴んでシーツのなくなった寝台へ放っていた。

 見かけのわりに紳士でフェミニストなところは、変わっていないらしい。

 

「……ありがとう」

「捕まえて縛り上げた挙句、薬をぶち込んだ奴の仲間に言うことじゃねえな」

「私の都合なので気にしなくていいですよ」

 

 血の上っていた頬から赤みが消える。

 人間としての尊厳が保たれて落ち着いたスィンは、ラルゴによるもっともな意見を屁理屈で返していた。

 

「しかし、まさかもう気づくとはな。最低でもバチカルに着くまで目覚めんと思っていたが」

「ええおかげさまで。最っ低の目覚めでしたけれども」

「ディストが注射を何本も打っては捨てていたからな。見ているこちらが不安になるほどに」

 

 ラルゴが示す先、屑篭の中には使用済みのアンプルが折り重なって捨てられている。頭こそはっきりしているが、未だ体に感覚が戻ってこないのは、これが影響してのことなのか。

 スィンが今更のように自分の体を心配していると、不意にラルゴが腕を伸ばしてきた。白衣の袖を掴まれたかと思うと、そのまま引きずり下ろされる。

 露になった腕には生々しい注射痕がいくつも刻まれているが、ラルゴがそれを気にした様子はない。

 

「……腕に支障はないようだな」

「腕?」

「タルタロスで坊主を庇っただろう。傷物になっていたら総長がなんと言うか」

 

 なんというか、随分昔のことのように思える。ラルゴは随分小心者になってしまったようだ。

 そんなことを心配しなくても、ヴァンとてきっと覚えていない。何せスィン自身がすっかり忘れていたのだから。

 

「切り口が鋭かったので、くっつくのも早かったですよ」

 

 実際は確か、怪我を気にしている場合ではないのと、ルークを庇った傷なんか残しておきたくなくて、見回りと称して一行から離れた際に癒しの譜歌を使った気がする。

 実際のところ傷は深かったが、上記の理由で大事には至らなかった。

 

「カースロットは残っている……か」

 

 腕を掴まれて確認されるも、やはり感覚自体が鈍い。恐怖こそあるが、表に出すほどでもなかった。

 そのことに、ラルゴは訝しげにしている。

 

「男嫌いは治ったのか?」

「それだったらどんなによかったことか」

 

 薬の影響であることを素直に話すも、何故か納得したような気配はない。

 それどころか、彼はとんでもないことを抜かしてのけた。

 

死霊使い(ネクロマンサー)に乗り換えたわけではないのだな」

「!?」

 

 なんでそうなる。詳細を聞いてみたいような、しかし聞いたら盛大な自爆が待っていそうな。

 二の句を告げられないスィンの内情を知ってか知らずか、ラルゴは言葉を続けた。

 

間諜(スパイ)を通じてお前たちの動向は把握していたが、あまり気持ちのいいものではなかったぞ。あのブリュンヒルドが誰かにへりくだる姿など」

「……ブリュンヒルドとしての活動は常に主席総長にへりくだる姿だったはずだし、私がどなたにお仕えしようと関係ないでしょう。それにしても、鼠はできるだけ潰してきたのに取り残しがありましたか……」

 

 旅する中で、おかしな視線を感じたことは多々あった。その都度、心優しい仲間達限定で知られないよう処理していたつもりだったのだが……それでも彼に内情が知られる程度には見逃していたことになる。

 

「優秀な間諜(スパイ)に覚えはなかったのか? 特務師団に所属する者達だぞ」

「当時のご用命は使い捨ての駒を作れとのことでしたので。まだ生きていたとは思いもよりませんでした」

 

 ディストといい、ラルゴといい。これはスィンを惑わせる作戦なのだろうか。彼らに今更何か言われたところで、スィンがガイを裏切るわけもないことは、わかっているだろうに。

 この言動がヴァンの指示によるものではないという可能性が高くなってきた。

 

「やはり素直に下る気はないか」

「それは選択肢として存在しません。処刑されてしまう人もいるわけですし、我が主もそんなことは望んでいないはず」

「キムラスカの未来を担う二人が死ねば、お前たちの故郷を奪った国の人間どもはいずれ総崩れとなるだろう。死霊使い(ネクロマンサー)とて、これまでの行いの報いを受けるだけだ。何の異議がある」

「……異議ありだらけで一体どれから突っ込めばよろしいやら。大分考え方がブッ飛んできましたね」

 

 預言(スコア)成就だけを願う大詠師の影響かと揶揄すれば、ラルゴは不快さも露に叫んだ。

 

「そのようなことがあるものか! 話を逸らそうとするな」

「あ、気づかれた。とはいえ、あなたのご理解など必要ではなし。ただの疑問にタダで答えてやるほど私はおひとよしではありませんもので」

「そうか。では貴様の主とやらの首を持ってこよう。それと引き換えようではないか」

「……二人が死んで、私の大切なものが戻ってくるわけではない。死霊使い(ネクロマンサー)に関しても、それは同じこと」

 

 たとえラルゴが一歩たりとも動こうとしなくても、それを引き合いに出されてはたまらない。スィンは素直に理由を語った。

 

「それだけか」

「すべてに絶望したあなた方とは違うんです。これ以上何を語ろうとも、あなたは理解も納得もしないでしょう」

 

 正確にはできないし、させられない。だが、その絶望に引きずられるわけにもいかなかった。

 

「あなた方が何をしようと、私は前を向いて進みます。呼びかけられても振り返らない。振り返るわけにはいかない」

「……そう、だな。お前を変えることができるとしたら、総長の他にはいない。俺のするべきことではなかった」

 

 ここで、懐柔を諦めたのだろうか。彼は初めてスィンに背を向けた。

 何がしたかったのかいまいちわからない。手は出さないと言っていたし、挑発だけでもしておくべきか。

 

「黒獅子ラルゴともあろうお方が、随分生ぬるいことを仰っておいでで。裏切り者は切り捨てる主義かとばかり」

「貴様の身に何かあれば、総長とて人だ。少なからず揺らぐ。裏切った貴様をどうするかは、総長が決めることだ」

 

 想像するだに恐ろしい事態である。何せ彼は、スィンの弱点を知り尽くしているのだ。それを回避するためにも、やはりラルゴにはさっさと立ち去ってもらわなければ。

 そのためには不愉快にさせて、怒らせるのがいいだろう。

 

「虎の威を借る狐を前に、虎の視線が気になってまごまごする獅子ですか。想像すると結構笑える図ですね」

「……」

「まあ、今の私は狐じゃなくてまな板の上の鯉──丸焼きにされて切り分ける準備が整った豚みたいなものですが。それに食らいつけないなんて、とんだチキンですね」

 

 獅子なのに(チキン)とはこれ如何に。

 とはいえ、ラルゴを怒らせるのは容易ではない。

 これがアッシュなら容易くて、ディストなら難しくなくて、リグレットなら割と楽勝なのだが。

 ヴァンやラルゴあたりとなると地雷を踏み抜けば大変なことになるし、地雷を使わないとなると二人とも落ち着いたいい大人であるため、イラつかせるのが精々である。

 シンクは知らない。アリエッタは相当難しい。何故なら彼女は、怒る前に泣き出すからだ。

 とはいえ今回は、イラつかせるだけでも十分とスィンは踏んでいた。

 

「……何のつもりだ?」

「手は出さないと仰っていたので、腹いせに怒らせるだけ怒らせてみようかな、と」

 

 不愉快にはなったらしく、ラルゴは眉を歪ませてスィンを睨んでいる。しかし、それに怯むスィンではない。

 もっともらしくて腹立たしく、何も考えていないような一言を吐けば、彼はおもむろにスィンの眼前へとやってきた。

 地雷は絶対に踏んでいないが、やり過ぎただろうか。だとしたら、随分短気になったものである。

 おもむろに拳を握ったかと思うと、その拳に、はあっと息を吹きかける。

 これは。

 

「歯を食いしばれ」

 

 ガン! 

 

 言葉と共に鉄拳はスィンの頭へと突き刺さり、とっさに閉ざした目蓋の裏で火花が散った。

 

「痛ぃっ……た~……」

「この程度なら問題ないはずだ」

 

 たんこぶを調べているのだろうか、未だ衝撃が残る頭を撫でくり回される。

 その後に彼は、未だ失神状態を継続しているディストに向き直った。

 

「ディスト、起きろ。よもや主人をほったらかして逃げはせんと思うが、ブリュンヒルドをこのままにはしておけん」

 

 流石元同僚。よくわかっていらっしゃる。しかしディストの返事は、寝ぼけた調子で盲信する師の名を呟くばかりだった。

 埒があかないと思ったのだろうか。彼は業を煮やしたようにディストを担いで退室していった。

 

「……ラッキー」

 

 元からディストに用事があったのか、もうディストが余計なちょっかいを出さないようにか。とにかく好都合だ。

 バタンと閉まった扉から足音が遠ざかっていくのを確認して、スィンはさっそく行動を起こした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディストを担いだラルゴが、扉の向こうに消える。

 たっぷり間を取って、画面の中のスィンは大きく息をついた。

 

『脳筋で助かったー』

 

 何気に失礼なことを呟きながら、両手を拘束する手錠を見上げている。所謂万歳の状態で固められ、一見彼女に成す術はない。

 

「ガイ。彼女に手錠抜けの心得は?」

「いや……」

「そういえば、スィンは以前教会に閉じ込められた時に鍵のかけられた扉を開けてみせたことがありましたわ」

「鍵開けはできるんだけどな……あれじゃあ」

 

 ごきっ。

 

 突如として異音が響く。

 生々しいその音を耳にして一同が目にしたものは、かけられたシーツを噛みしめて涙目になりながらも、手錠から解放された片手を見やるスィンだった。

 手錠痕の残る手首はこれまでに至る過程で作った擦過傷が痛々しく、親指だけが脱力しているように見える。

 

「親指を触っていたと思ったら、引き抜くようにしていたわ」

「それから無理やり手錠から引きずり出してた。すげぇ痛そう……」

「痛そうじゃなくて、すんごい痛いと思うよ、声抑えないとバレちゃうくらい」

 

 未だ手錠で固定された手が、故意に脱臼させた親指全体を包むように持ち、勢いよく壁へ押し付ける。音を立てないように突き指させた親指は、解放された瞬間から滑らかに動いた。

 その手が髪の中へ潜り込み、何の変哲もないヘアピンを取り出す。口と自由な手でピンを変形させ、あらかじめ把握していたらしい手錠の錠前へとそれを押し込んだ。

 一連の動作に一切の淀みはない。

 

「どこの特殊部隊の方ですか。あなたの従者……いえ、お姉さんは」

「……ダアトで五年間軍人やってたからな。ヴァンの手伝い程度だとか言ってたけど、多分そこで習得したと思うんだが」

「総長のお手伝いって、それ相当軽く言ってるよ。特務師団の初代師団長だったんだから」

 

『!?』

 

「と、特務師団長!?」

「特務師団って表沙汰にできない任務ばっかりだから、その訓練で何ができるようになっても不思議じゃないんだけどさ」

 

 特務師団と聞きつけて、ナタリアがハッとしたようにアニスへ視線をやった。

 ダアトでスィンが何をしていたのか、ほとんど知らないガイが詳細を尋ねかけて、すげなく断られる。

 

「特務師団とは、確かアッシュの」

「そう。鮮血のアッシュは二代目特務師団長。こんな若造が団長なのが不満なら蹴落とすようにって、いなくなるちょっと前に発破かけてたっけ」

「アニス。スィンはダアトで……」

「わたしが知ってるのは、シア・ブリュンヒルドが特務師団の設立者で二年前に何の前触れもなく辞めちゃったってことだけだよ。わたしはその頃士官学校に通ってたから、当時の教団の内情はほとんど知らないの」

神託の盾(オラクル)騎士団では軍則として、退役軍人は在籍中の行い一切の秘匿を義務付けられているの。スィンがあなたに何も話さないのは、多分そのためだわ」

 

『……立てない?』

 

 そんな呟きを耳にし、再び画面を見やる。手錠の解錠に成功し、足枷からいつの間にか解放されているのだが。何故か彼女は座り込んだまま、立ち上がる気配がない。

 自分で言っていて不思議そうに足を見ていたスィンは、はじかれたように顔を上げた。

 視線の先には、先ほどラルゴに示された屑篭がある。

 動かぬ足を引きずるように匍匐状態で屑篭の傍まで移動した彼女は、中のアンプルのひとつを手探りで摘み上げた。

 

『……てとろど……これ毒薬じゃん』

 

 死ななくてよかった、と独りごちながら、興味をなくしたようにアンプルを放り出している。

 転がるアンプルに貼りついたラベルをじっくりと見つめて、ナタリアは書かれている文字を読み上げた。

 

「テトロドトキシン、と書かれていますわ」

「まごうことなき毒薬ですね。鎮痛剤として使われる例がないわけではありませんが」

 

 まるでその言葉が聞こえたかのように、唐突にスィンは床にうずくまった。

 上体を支えていた腕が再び体を持ち上げようとするも、その腕はぶるぶると震えており、なかなか収まらない。

 

『っ』

 

 思い通りにならない腕を厭うように、顔を歪ませたスィンは自らの腕を屑篭の中へ勢いよく突っ込んだ。使用済みのアンプルがいくつも放り込まれた屑篭だ。引き抜かれたその腕には差し込んだ際の接触で破砕したと思われる硝子の破片が、出血に伴い幾つも張りついている。

 ただ、それまで意思に反していた腕が、疼痛のせいなのか震えが収まっていた。

 

『……もう、治らないのかな』

 

 思わず呟いた一言を自分で否定するように首を振り、再び匍匐で移動を始める。

 移動した先は、先ほどディストが書類の束を置き去りにした机だ。可動式の椅子に四苦八苦しながらよじ登り、机上の書類を手探りで手にして床に寝そべるようにする。

 放り出すようにして並べられた書類を目にするべく、一同が画面へと集った。

 

「ユリア再誕計画、誕生番号(バースナンバー)87?」

「特異点:虹彩異色緋藍。右心臓。出産後七日目、寝返りの失敗により呼吸停止のちに死亡を確認……これは、スィンの誕生記録なのでしょうか」

 

 特徴が同じとはいえ、死亡したとされる嬰児が何故彼女なのか。

 疑問をもらすアニスに、ジェイドはディストと同じ見解を述べた。黙してそれらを見つめていたスィンは、報告書の作成者名に指を滑らせている。

 

『やっぱりあの人なんだ。製造期日は……ND1990? 日付が抜けてる……』

 

 その表情に陰が差したかと思うと、その一枚が丁寧に畳まれた。

 白衣のポケットに忍ばせたかと思えば、幾つかの書類を選定してぞんざいに別の場所へ収納している。

 それ以外は十把一絡げにまとめていた。

 

「なあ。右端の書類に適合率94.7%とか書いてあったけど」

「適合率?」

「他に何か書いてありましたか?」

「振動数がどーとか……」

 

 それが判明したユリアの振動数と比較した結果であるとは想像し難い。

 画面の中のスィンは、まとめた書類を収束させた第五音素(フィフスフォニム)で焼却処分してしまっている。真実は永遠に葬られたはずだった。

 そして、部屋の中央に置かれた音機関にも這いよりにかかる。

 傍に置かれていた整備用の工具箱を開き、数多の工具を駆使して──スィンは瞬く間に件の譜業をバラバラにしてしまった。

 正確には外観はそのまま、内臓部は徹底的に分解されて、ロッカーの中や引き出しの中に押し込まれていく。

 

「大佐。あれって何の譜業なんですか?」

「スィンにとってそのままだと都合が悪い譜業であることは間違いなさそうですが……」

 

 音機関に精通しているわけではないジェイドに、正体はわからない。

 ガイもさっぱりだと口にしながらも、音機関を分解するスィンの手元を見つめていた。

 

「……ガイ。音機関いじれて羨ましいとか言わないよな」

「い、いや。何の音機関なのかなと」

 

『ガイラルディア様。聞こえますか?』

 

 突如として話しかけられ、彼はびくりと肩を震わせた。

 画面の中のスィンは送信機を見つけたのか、正確に画面真正面を向いている。但しその瞳はかっちりと閉じられ、座り込んだままの足元には譜陣がぼんやりと明滅していた。

 元より返事が聞けるものと思っていないようで、彼女は驚くべき事項をさらりと告げている。

 

『僕、逃げますね。この船乗っ取るの難しそうなんで』

 

「って、おい! ガイ置いて逃げる気かよ!」

 

『現状維持は却下、合流しても多分無意味。こんな状態ではシージャックも難しい。不甲斐ない従者で申し訳ありません』

 

 ぺこ、と画面の中のスィンが手をついて頭を下げる。

 座り込んでいることもあって、まるで土下座しているかのようだった。

 

「逃げるのは構わないが、ここは海のど真ん中だ。足が動かないと言っていたし、一体どうやって逃げるつもりなんだ」

 

『ご不満ですか? 今ばかりは否と言われても聞けません、どうかお聞き入れください。右ポケットにお入れしたものがある限り、必ずあなたの元へ戻ります』

 

 あくまで一方通行であるらしく、彼女に疑問は届いていない。ガイはポケットに手を突っ込んでロケットがあることに今驚いている。再び一礼し、初めて眼を開いて。スィンが腕を伸ばした所作をすると同時に、画面から光が失われた。

 後はただ、覗き込むようにしていた面々をぼんやりと写すのみ。

 

「大丈夫かな……」

「ええ。スィンの脱走でノエルに何かされないといいのですが」

 

 非常にありえる話だから困る。そして一同とて、彼女達の心配だけをしている余裕はない。

 船がバチカルを目指して、着々と進みゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スィンとて、ノエルのことを忘れていたわけではない。

 探索の秘術を用いて一同の姿を確認した折、彼女の姿がないことは把握している。おそらくはダアトにいるという予想のもと、スィンはアッシュとの交信を図っていた。

 

『アッシュ。今大丈夫?』

『シアか……問題ない』

『こっちの状況わかる? あのね』

『導師から話は聞いた……今バチカルに向かっている』

 

 彼が迷いなく一行を助けようとしていると知り、スィンは内心で胸を撫で下ろしていた。

 ナタリアを助けるついでとしか考えていなくても構わない、問題なんかない。

 

『ダアトにノエルって女の子いないかな。助けてあげてほしいんだけど』

『アルビオールの操縦士のことなら、もう片はつけた……俺から繋ぐことはできないのか』

『この現象が突発的なものだから、可能性はなくはない。でもその前に、僕から繋げることもできなくなるかもね』

 

 ノエルのことは彼を信じる。スィンが逃げればガイの身が危ないと脅されはしたが、彼とて曲がりなりにもヴァンから連行命令が下されているはずだ。

 安易に殺されることはおろか、下手な手出しも有事──抵抗したとかそういうことがなければ、危険性は低い。

 

『そっちの状況は……』

『死者は零、ナタリアは無事。僕はこれから単身バチカルへ向かう。頭痛つらいよね、バチカルで落ち合おう』

『あ、おい!』

 

 以前の様子を思い出し、必要事項を手短に告げて制止も聞かずに切る。スィンとてまだ、行わねばならないことがあるのだ。

 薬の影響でままならないこの体を動かせるようにすること、バチカルへの具体的な移動手段を用意すること。

 何でもないことのように言い切ったのだから、実行しなければ。

 どれだけ気の進まないことでも……成功が見込めなくても。

 

「ウンディーネ。母なる海の化身、海原の乙女を束ねる者、あの……力を貸して」

 

 要らない呟きを混ぜてしまったが、あちらは気にしなかったようだ。

 ──最近力を借りたのは、フーブラス川を渡ったとき。

 ルークの我が儘を叶えるために、本来譜術の扱えないマリィベルの体で無理やり協力を要請した。

 今考えれば無茶をしたと思う。

 想像よりずっと重かったルークを担ぐために、安全に川を渡るためにと異なる意識集合体二柱より同時に、力を借りていたのだから。

 呼びかけに応えるように、譜陣が展開する。海を連想させる蒼の色が、幻想的な輝きをその場へ召喚した。

 

『久しき哉、ユリア・ジュエ』

 

 音なき声が、鼓膜ではなく脳裏に響く。

 以前と同じように、スィンはそれを否定した。

 

「違いますユリアではありません」

 

 原初の出会いは、およそ二十の年月を遡る。

 確か水練中にドジを踏んで溺れた際に助けてもらったものとスィンは記憶していた。そのときも確かユリア呼ばわりされて、違うと主張したら姿を消され。以降助力を乞えば、非常に小さいことになら応じてくれるようになった。

 しかし、今回ばかりはそうもいかない。海を通じて陸地まで運んでほしいなど、とても応じてくれるとは思えない。

 だからこそ、呼んだ。

 大海原の真っ只中なら可能だろうと、はっきりしない根拠半分、駄目元半分で。

 再びユリアと呼ばれてつい反射的に否定してしまったが、これで姿を消されたら困ったでは済まないが、幸いにもそんなことはなかった。

 輝きを伴う人影は不鮮明なまま、くぐもった人の声を発した。

 

『汝の言葉に偽りを感知した。流れる時の中で、真を知ったか』

「でも私は、ユリアではないのです。少なくともあなたの──第四音素集合体ウンディーネの呼ぶ者ではない。我が名はスィン。スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハ。今一度、あなたに助力を乞う」

 

 考えてみれば一度たりとも、彼女──女声であったための仮呼称──に名乗ったことはない。すると。

 

『スィンフレデリカ・シアン……それが汝の、現世の名か』

「いや、現世とか前世とかの話ではなくてですね。私とユリア・ジュエは別人……」

『その認識は正しくはないが、些細なこと。ささやかな手助けではなく、我らの力を再び必要とするならば、我らは求めよう』

 

 我らのって何。再びってどういうこと。求めるって何を。

 それら全てを尋ねることができないほどに、スィンの精神は磨耗していた。具体的に言うならば頭痛がひどい。

 まるでユリアの記憶を見せつけられる前後のように、苛む頭痛は思考回路を蝕んでいく。

 

「求め……る? 対価ですか」

『対価という言葉は相応しくない。契約という言葉が望ましい』

「契、約……あなたは私に何を望むのですか。私に、叶えられることなのですか」

 

 相手は第四音素集合体──創生歴時代には精霊と崇められていた存在だ。

 そんな存在が望むことを、果たして人の身たるスィンに可能なことなのか。

 

『我らは、汝に。蒔いた種の刈り取りを──現世より預言(スコア)の消滅を望む』

 

 蒔いた種とは、ユリアが詠んだ預言(スコア)を指しているのだろうか。言外に責任を取れと言われたところで、今のスィンに取れるわけもないのに──

 それがわかっていて尚、優先するべき事態がある。

 途方もない契約内容だと知りながら、スィンは承諾を口にした。

 

「私が生きている限り、を消滅させることに全力を費やします。優先することはできかねますが」

 

 先程嘘を見破ってみせた相手に、偽りは通じない。

 この返答に不満があるのなら彼女はさっさと姿をくらまして、二度と呼びかけに応じることはないだろう。

 対して、彼女は。

 

『その心ある限り、我は再び汝の(しもべ)たらんことを誓おう』

 

 人影が、何かを差し出してきた。意識集合体が握手を……? 

 いぶかりながらも応えて、ぎょっとする。

 ウンディーネの手らしきそれに触れた瞬間、差し出した手に違和感を覚えたのだ。

 気づけば、彼女の手の感触はない。そっと手を引き戻すと、指のひとつに針金がまきついていた。

 正確には、針金に見紛うほど細い金属じみた糸に、判読しかねるほど細かい譜が刻み込まれた代物が指に絡みついている。

 

「……これは?」

『本来、汝の作り出したソーサラーリングが望ましいが、ないものは仕方ない。新たなる契約の証だ。我らと契約を交わす度、それは新たな譜を刻む』

 

 不意に、彼女が動いた。未だに立てないスィンの傍へ、何を動かすでもなく近寄る。

 ぼんやりとした人の形から何か伸びてきたかと思うと、突如としてはっきりとした形が生まれた。

 大きな魚の尻尾によく似たその形が、スィンの投げ出された足をひと撫でする。

 

「!」

 

 譜を唱えるでも何もなく行われた行為だったが。

 それだけで、スィンの体調は一新した。

 

「……立てる」

『我らは命を害することを拒む。それさえ除外されるなら、我らが力、存分に(ふる)うが良い。かつて汝がそうしたように──』

 

 最後の快復はサービスだったのだろうか。彼女はそう言い残して、薄れゆく輝きと共に消えた。

 思うことは多々あるが、頭痛が治まったとはいえ、今はそれをするべきではない。難題は図らずも解けた。後は行動をするだけだ。

 力の入るようになった足で立ち上がり、船窓を開け放つ。

 残念なことに船窓は丸く小さな換気用のもので、今のスィンでは肩やら胸がつかえて通れない。

 ──出口がない。ならば作らねば、道は拓けない。

 腹部を意識してコンタミネーションを用い、取り出したのは──秘術、借姿形成の術式固定に使っていた、禍々しい気配を放つ魔剣である。

 ダアトの教会にいくつもあった、開かずの間を探索した際にちょろまかしたものだが、不気味なその様相を無視して余りある優れた譜術武器であったため、固定の要はこっちにしようと一応許可をもらって自分のものにした経緯があった。

 

「このようなものが現存していたとは……すぐに処分しなさい」

 

 当時言われたのはこの言葉だが、処分するならば私物化しても問題ない、と判断させてもらった次第である。

 これまで術式固定に使っていたため、そして血桜もあったため、使用を考えたこともなかったのだが──実際に振るってみて驚く。

 小型の斧にも似た片刃は、船窓を音もなく破壊してしまったのだ。

 鋼鉄で補強されている船窓の枠をバターのように切り取れた辺り、感動を通り越してうすら寒い。

 この刃、敵に向けたら一体どういうことになるのか──

 

「……考えるのは、後」

 

 一回り大きくした船窓からくぐり抜けるようにして、体を船体の外へ出す。

 白衣の裾がスカートのようにはためく最中、少しでも脱出痕の発見が遅れるよう最低限のカモフラージュは施した。

 

「ウンディーネ。海を通じて、僕をバチカルへ運んでおくれ」

『承知した』

 

 波間が緩やかに踊る大海原へ身を投げる。祈りに通じて集った第四音素(フォースフォニム)はスィンを包み込み、海中へ音もなく引き入れた。

 水の中にいながら濡れない、ひんやりとした水の感触を楽しみながら進んで──このままでは呼吸ができないことを知り海面へ浮上する。

 バチカルどころか島影もない。

 先はまだまだ遠かった。

 

 

 

 

 

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