the abyss of despair   作:佐谷莢

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第六十三唱——交差する意思、通わぬ心

 

 

 

 漆黒の闇夜に包まれ、連絡船はひっそりとバチカル港へ接岸した。

 王都と呼ばれるだけあって、下町(スラム)が存在しないバチカルの治安は良い。

 深夜の街は静まり返り、普段よりも多い巡回の兵士が行き交う中、催眠ガスによって眠らされた一行は着々と城へ運ばれるはずだった。

 

「……なんだ? 昇降機が作動しないぞ。故障か?」

「おい、誰か音機関技師を呼んで来い!」

「今は帰宅、しかも就寝中では……」

「叩き起こせ!」

 

 彼らとしては、こっそりとナタリア・ルークを処刑したかったのだろうが、そうはさせない。

 ウンディーネと交渉し、単身バチカルまで運んでもらった。そこまでは良かったのだが、未だバチカルへ向かっている最中だというアッシュと合流できていない。

 その腹いせに、もとい時間稼ぎにと、タチの悪い罠をこっそりと全ての昇降機に仕掛けさせてもらった。

 現在はゆっくりとだが、早朝の時間帯に入りつつある。

 あの罠を解除するには少なくとも朝までかかるから、彼らが連行されているのを見てどよめく民衆に『ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア王女殿下と第三王位継承者ルーク・フォン・ファブレが無実の罪を着せられ、処刑されそうになっている』という話をばら撒いてやるのだ。

 そんなわけでそれまでは。

 

「……誰かいるのか?」

「……」

 

 無一文の上に白衣という、単なる通行人を名乗るにはあまりに特異な格好。その上白いから目立つという姿で、巡回する兵士から隠れなければいけない。

 見つかったら今すぐピンチというわけではないが、面倒すぎることが起こる。

 

「気のせいか?」

 

 本音としては兵士を一人見繕って、身包み剥いでから城に潜入できれば一番いいのだが、眠らせた兵士をどこに置いておくのかが問題だ。

 それにこの方法では、アッシュと合流できずじまいになってしまう可能性が高い。

 いっそのこと、港から離れて廃工場の入り口で夜を明かしてしまおうかと考えた矢先。

 

「そこの不審人物! 止まれ!」

 

 一瞬自分のことかと考えたスィンだったが、そもそも彼女は身動きを取っていない。

 狭い路地からそっと様子を探れば、特殊な修練によって養われた夜目が、ささやかな捕り物劇を映し出した。

 がしゃがしゃと鎧を鳴らしながら追いかけるは、先ほどスィンに気づきかけた巡回中の兵士。

 そして追いかけられているのは──

 

「ウルシー、いい機会だ。速く走る練習をしろ」

「ヨークこそ、その鼠をどうにかするでガス。いっそのこと剥製にするでガス!」

 

 漆黒の翼、ノワールの腰巾着と噂される男二人であった。今度は一体、何を企んでいるのだろう。とはいえ、積極的に関わりたいわけではない。

 逃げ切るなり捕まるなりして、このまま巡回の兵士を一人減らしてもらおうと考えて、スィンは漆黒の天を仰いだ。

 彼らがスィンの潜む路地へ侵入してきたからである。

 

「「あっ!」」

「烈破掌!」

 

 当然のことながら腰巾着達はスィンの存在に気づき、二人して立ち止まって指先をつきつけてくる始末。半ば自棄になりながら掌底を突き出し、圧縮した闘気の解放によって二人同時に吹き飛ばす。

 曲りなりにも大の男二人分によるユニゾンアタックを受けて、追ってきた兵士は。

 

「うおっ!?」

 

 不意打ちを受けてその場に転倒している。纏う鎧が災いして素早く起き上がれない兵士を蹴打でうつ伏せにし、奪った斧槍(ハルバード)で後頭部を殴りつけた。

 当身には程遠いが、頭を揺らされたショックでしばらくは動けないはず。

 鎧を剥いでまで兵士の気絶を確認する気にはなれない。事態の発覚を少しでも遅らせるために路地裏に引き込む。

 そのまま立ち去ろうとしたスィンの白衣の裾を、掴む者がいた。

 

「離せ。でなければ蹴る」

「待て、蹴るな。俺達は漆黒の翼だ」

 

 一体何を言っているのだろうと思案して、薄暗いからとりあえず名乗ったのだろうという結論に至る。

 

「そう。前は世話になった。今急いでるから」

「俺たちはアッシュの旦那に雇われて、あんたを探しに来たんでやス」

 

 ウルシーと呼ばれていただろうか。特徴的な髭面の小男の言葉を聞いて、スィンは再び天を仰いだ。

 彼らに真偽を問うつもりはない。本人に聞くのが一番手っ取り早いだろう。

 

『……アッシュー』

『シアか、どこにいる?』

『バチカル港付近。漆黒の翼に、協力を仰いだ?』

『ああ。二人と合流したのか……何かあったのか?』

『いや別に何も』

 

 彼は、スィンと──正確にはシア・ブリュンヒルドと漆黒の翼間における確執を知らない。

 一体どんな経緯があってこんなことになっているのか知らないが──いや、今知る必要はない。

 兎にも角にもアッシュとも合流せんと、スィンは後でね、と呟くようにして交信を断絶した。

 

「どうかしたのか」

「どうもしない。アッシュがいるのは何処」

 

 漆黒の翼に手を貸してもらわなければならない。この事態が自己嫌悪を招いているだけである。それを告げたところで何がどうなるとも思えないので、適当に誤魔化した。

 二人の先導に従い、バチカルの郊外まで足を運ぶ。

 徐々にその光をなくしていく月を見ながら広がる草地を歩いていくと、木陰から燃えるような髪の青年がぬっ、と顔を出した。

 

「……やあ」

「早かったな」

 

 彼にとっては、ルーク・フォン・ファブレの名を棄てた因縁の場所であるせいなのか。

 アッシュはどこか緊張しているように見えた。

 

「ちょっとね」

「……それは後で聞くとして、変装はどうした。今度は医者に化けたのか?」

「ディストに剥かれた」

 

 詳細を語るは好まない。話したところで何かがどうにかなるわけでもなし。しれっ、とした顔で要点だけを述べ、スィンは本題へ移ろうとした。

 しかし、変に狼狽したようなアッシュにそれをさえぎられる。

 

「!? ど、どういうことだ、あいつに何かされたのか!?」

「気絶させられたろ、身包み剥がれたろ、薬ぶち込まれたろ、あと……色々」

 

 主に中間部分に反応を見せながら、彼はぼそっと言い切った。

 

「……わかった。今度顔合わせたら、しばいておく」

「心底どうでもいい。本題に入るが」

「お二人さん。そんなところで立ち話してないで、こっちで話したらどうだい?」

 

 同じく木陰から姿を現した女──ノワールが、いつの間にか移動したヨーク・ウルシーを率いて手招きしている。

 彼らの背後には、辻馬車風の四頭立て竜車があった。

 

「連絡船が運航してなかったんだ。ここまで運んでもらった」

 

 この期に及んでおかしな真似はされないだろうが、想定される危険はなるべく回避したい。

 四頭の小型恐竜が少し離れたところで、もしゃもしゃと草を食んでいることを確認してから、客台に入る。

 アッシュと向かい合わせに座ると、なぜか漆黒の翼も乗り込んできた。

 

「……なんでいるのか聞いていい?」

「あらん、居られると何か問題でも?」

密告(チク)られると困る。かなり」

 

 スィンとしては、そもそも何故彼らがいつまでもアッシュに付き合っているかが謎である。

 それを尋ねようとして、ふと思い立った。

 

「まさかとは思うけど──アッシュ、こいつらに借金でもした?」

「……なんでそうなる」

「だからさ、頼んだはいいけどお金が足りなくなったから、足りない分を払ってもらうために漆黒の翼は未だにここにいる、とか」

 

 その問いには答えないものの、むき出しの額にはじわじわ汗が浮いている。

 まずいな、と胸中で生じた焦りは、他ならぬ漆黒の翼によって解消された。

 

「大筋そんなものだけど、ちょっと違うね。あたしらは港でアッシュに依頼されたんだけど、賃金のことでちょっとこじれた。だから、どうしてバチカルへ行くのか聞かせてもらったのさ。どうしてファブレ家のお坊ちゃんと同じ顔をしているのか、そのことも含めてね」

「……つまり、バチカルで何が起きるのか、あんたらは知ってるってことか」

 

 額に手を当てれば、巨大なため息が勝手に零れてくる。

 あからさまな落胆に、アッシュは決まり悪そうに「……すまん」と呟いた。

 

「別にいいよ。それで? 口止め料でも請求する? 生憎今は所持金零(ノーマネー)。おかしなこと考えたら即口封じコースだよ」

 

 所持金どころか手に馴染んだ武器すら失っているのだが、手段ならいくらでもある。

 殺すことは好まないが、優先順位は明らかに彼らの命を凌駕していた。

 ためらいは、ない。

 

「ち、ちょいとアンタ、眼が本気だよ! 殺気を振りまかないどくれよ!」

「こいつらにそんな意思はない。だから脅すな!」

 

 対象外であるアッシュですらここまで怯えているのだから、多分大丈夫だと思うが。

 

「……今回はアッシュを信じるよ。それで、今の状況なんだけど……」

 

 ダアトでの捕縛から現在に至るまで、捕縛される理由を交えて説明する。

 昇降機の細工により、本格的に事態が深刻化するのは夜が明けてからとの検討を入れると、アッシュと漆黒の翼らは事の重大さを再確認しているようだった。

 

「……つまり、ナタリアとレプリカは戦争を再開させるために処刑されるってのか」

「冗談じゃないよ、まったく! 何を考えてるんだい、あんたの伯父貴は!」

 

 まったくもって同意見である。不本意ではあるけれど。

 

「インゴベルト陛下が何考えてるかなんてこの際どうでもいいよ。こっちとしては、皆を助けられればそれでいい」

「どうするつもりなんだ?」

「本当は、連絡船が着く前にアッシュと合流して、皆が船から連れ出される瞬間に奇襲をかけるつもりだった。だけどもう今は接岸しているし、皆も眠らされている」

 

 途端、申し訳なさそうな顔をするアッシュに、スィンはすかさずフォローを入れた。

 

「責めてない。今の時勢じゃしょうがない。こうなったら、城に連行されて処刑されるまでの間にうまく助けるしかない。だからねー、王族を含む一団が連行される姿をバチカルの民に見せて、とりあえずはナタリアが無実の罪で処刑されそうになっている、って話を流すんだよ。そうすれば、少なくとも昇降機を降りきった先の道は開かれる」

 

 これまで一人で行おうとしていた作戦を明かしていく。

 やはりその辺りは気になったようで、アッシュは眉間に軽い皺を寄せた。

 

「……民衆を盾にするつもりか?」

「たとえ僕がそのつもりでも、ナタリアがそれを許すわけがない。その辺は臨機応変に対応するしかないよ。あとはおじいちゃんに白光騎士団を煽動してもらおうかな。実働的な救出は僕たちがやるとして──」

 

 そこで意外な人物が、意外な申し出をさらりと言い出している。

 

「それじゃ、あたしたちはバチカルの市民に処刑の話を広めてやるよ」

「すいません。何ナチュラルに会話参入どころか味方面してるんですか?」

 

 スィンの心ない一言に一瞬フリーズしていたノワールだったが、すぐに復活して備えつけのテーブルを叩いた。

 

「味方面とは心外だねえ! あたしらだってまた戦争なんか起こされちゃ困るんだよ。戦争を止めるためにあんたらの仲間を助ける。要するにギブアンドテイクだ」

「その戦争を利用して、ケセドニアで儲けてたの誰だっけ?」

 

 いちいち意地の悪いスィンの言い方に、ノワールは抑え目の音素灯のもとでも明らかに顔を赤くし始めている。

 予想される彼女のヒステリーを回避すべく、スィンはひょい、と手を差し出した。

 ハラハラしながら見守っていたアッシュを含む三人の男たちが、どうなることか、と戦々恐々してと、ごくり、と咽喉を鳴らしている。

 

「まあ、それはそれ、これはこれ。今回はロハだけど、よろしくお願いするよ。そこを担当してくれるなら願ったり叶ったり。煽動が終わったら必ず避難してね。くれぐれも巻き込まれたりしないように」

 

 差し出された手を前に、ノワールはそっぽを向きつつ応じていた。

 分かればいいんだよ、とかぶつぶつ呟いているようだったが、特に反応することでもない。黙殺決定。

 

「さて。朝までもう少し時間はあるから、寝ておいたらどうだい? 無一文、ってことは、今まで一睡もしないで街に潜んでたんだろ?」

「ん、まあ……」

 

 仮眠を薦められ、二人そろってかすかに踊る星空の下、寝転ぶ。

 確かに、あれから睡眠など、ほとんど取っていない。

 時間がなかったのもそうだが、主はどうしているだろうかと、何かされていないだろうか、と、こまめに秘術を用いて様子を確認していたためでもある。確認できたのは、スィンがいなくなったことで、どこかに潜んでいるのではないかと船の中で捜査線が張られていたくらいか。

 伴う消耗は手にとるようにわかるが、気持ちが高ぶって眠れなかったというのが実際のところだった。

 そして今も、スィンは彼の様子を知るべく術を行使している。

 彼女の主及び一同は護送船の一室に閉じ込められたまま。何かされた形跡はない。

 

「連中に何かあったのか」

 

 発生した譜陣を見て察したのだろう。

 スィンの──正確にはシアの手の内を把握しているアッシュが、それを尋ねてきた。

 

「みんな寝てる──正確には眠らされてるね」

「……そうか」

 

 スィンだけでなく、ノワールはアッシュにも仮眠をとれと言っていた。

 スィンと違って睡眠を取る時間ならあっただろうに、そうしなかったということは彼もまた焦燥しているのだろうか。

 

「アッシュ、眠い?」

「いや」

「じゃあちょっと、おしゃべりに付き合ってもらおうかな」

 

 おしゃべりと聞いて、何を思ったのだろうか。世界の天井を見つめていたその眼が、スィンを映した。

 ルークとまったく同じ造詣でありながら、僅かに吊りあがった形の瞳が、次なる言葉を聞いて見開かれる。

 

「覚えてるかなー? 自分を攫った人間のこと」

「!」

「君が歩むべきだった人生が、完膚なきまでに破壊されたこと」

 

 アッシュの眉がはっきりと歪んだ。それに伴って雲散霧消していた険が表情筋に宿る。

 

「……ああ、覚えている。そいつを忘れたことはない」

「もう復讐はあきらめちゃったの?」

「今はそんなことをしている場合じゃねえ」

 

 上体を起こし、見下ろしてくるその顔は、明らかに不機嫌で。

 何のつもりかと問われて、スィンは寝そべったそのままで答えた。

 

「病気、治ってないね」

 

 過去幾度となく告げたせい、なのか。彼は続く言葉を知っていた。

 

「ストックホルム症候群。犯罪被害者がながらく加害者と共に過ごすことで」

「過度の同情、好意など特別な依存感情を抱くこと。聞き飽きたぜ」

 

 スィンの記憶が正しければ、耳にタコができるほど言って聞かせた覚えがある。

 かつて彼は、自分を当時の境遇へ追い込んだ人間の前で──スィンの前で、自分の身代わりに公爵家へ返されたレプリカに憎悪を吐いた。

 何故そのような認識に至ったのかを調べた結果、この病状へたどり着いたために、その認識を改めさせるべく教え込んだのだから。

 洗脳という手段を考えなかったわけではないが、そんなことをしなくても彼はやがて思い直すだろうとの判断だった。

 間違ってもこれ以上、悪者になりたくないと思ったわけではない。

 そんな内心は秘めたまま、スィンは小馬鹿にするような調子で続けた。

 

「その雄鶏みたいな頭でよく覚えてられたね」

「たった今思い出したんだよ。クソが」

「汚い言葉吐くと、同じくらい顔歪むよ」

「その言葉をがんがん使って俺に稽古つけたのは何処の誰だ」

「君の眼がフシアナなだけで、大分きったなくなったよ、僕の顔」

 

 言われて彼女の顔をアッシュが見やる。変わっているところなど、何もないように見えた。

 初めて出会った頃と、現在と。まるで年月など経過していないかのように。

 

「それで、お前は違う病気なんだろ」

「ほうほう。なんて病気?」

「……俺とは、正反対の」

 

 リマ症候群。犯罪加害者が被害者に感化され、親近感を覚えることで攻撃的態度が和らぐこと。

 正確には、スィンはこの病状に該当しない。

 ファブレ公爵の血を引く彼のことを憎んでいたのは事実だが、その憎しみは見当違いだったことを自覚しているためだ。

 ただ、似たようなものであることもまた事実。

 

「自分だって似たような病気のくせに、俺には治せってのかよ」

「治し方がわからないからね。せめて自覚しとかないと」

 

 この間柄が異常であることを、少なくともスィンは忘れてはならない。

 彼がいつ復讐を考えても、それを受け入れることができるように。

 彼の怒りを受け止めるだけの義務が、スィンにはあるのだ。

 彼を──正確には公爵の身内を誘拐して嫌がらせしようと持ちかけたのは、その思いつきを基に組まれたヴァンの計画に乗っかって、公爵邸よりルークであったアッシュを連れ出したのは、スィンなのだから。

 無論そのことは目の前の青年に──正確には少年であった彼に話してある。

 それなのに、彼は。

 

「自覚させて、どうするんだ。俺はもう用済みだから厄介払いでもするつもりか」

 

 どこからそんな発想が生まれるのか、頭を開いてみてみたいものである。

 そんな考えを脳裏から追い出して、ひとつ深呼吸した。

 

「用済みなんかじゃない、協力してほしいよ。僕はね、君が怖いだけ。いつ刺されるかが分からないから」

 

 これが偽らざるスィンの本音である。

 アッシュはスィンを恨んで、憎んでいるはずなのに、今のところその気配を見せない。

 それはこの状況だから、そして彼がいつの間にか患ってしまった心の疾患のせいだとして、いつどのようなタイミングで彼が正気に戻るのかは未知数なのだ。

 しかし、アッシュは彼女の言葉を鼻で笑い飛ばした。

 

「仮に俺が斬りかかったとして、お前は素直に斬られてくれるのかよ」

「まさか。君の気持ちをきちんと受け入れた上で、気が済むまで応戦する」

 

 無論それは、その命を奪うことも視野に入れている。

 今のスィンが選ぶのは、いつだってただ一人でしかない。

 

「僕が死んだら我が主を悲しませるから」

 

 主という辺りに反応し、反芻するアッシュに、偽りの兄妹であったガイとの主従関係を改めて告白する。

 内心は図りかねるが、表向きは何の反応もないアッシュは、更に言葉を連ねた。

 

「お前、俺のことそんなに殺したいのかよ。お前らが何もしなければ、俺はもう死んでいる身だ。過ぎたこといつまでもぐだぐだと……」

「──ま、今は自覚しているだけマシか」

 

 現在の話ならば否だが、死んでほしかったかどうかとなると答えはない。

 当時のスィンは今ほど割り切れていなくて、公爵が苦しむなら何でもいいやと考えていた次第である。

 人の話を聞けと、がなるアッシュを無視して、上体を起こしたスィンは白衣のあちこちから紙切れを取り出した。

 護送船脱出の際持ってきた書類の一部である。

 

「その話はまた今度ね。ユリアの再来がどうのこうのって話、知ってたっけ?」

「……前に、俺の前で放心状態になっただろう。頭が痛いと言い出したかと思ったら、うずくまって……何かと思ったぜ」

「ああ、そうそう。復讐には絶好の機会だったのに、おろおろしてたねえ。思い出した」

 

 書類を手渡し、ユリア再誕計画の概要と、己の誕生記録、そして酷似していた振動数の計測結果を示す。

 ユリア再誕計画の生き残りで、実質成功例。

 事実上この体はユリア・ジュエの同位体であるらしいと、そこまで話して。

 

「明日に備えて、ユリアの譜歌全部使えるようにしておこうと思って」

「全部? 今までいくつか使ってなかったか」

「そうだよ。正確には、三つしか使えない。譜歌の存在を思い出した時点で大譜歌──七つとも思い出したけど、ぶっつけ本番で使うことはできないから」

 

 実際に使用すれば、スィンは更にユリアの記憶を見ることになるだろう。そのことをけして好意的に思っていなかったから、これまで使うことはなかった。

 少し知識をひけらかして、ティアに疑わしい目で見られていた頃が懐かしい。

 

「だからしばらく、無防備になる。場合によってはそのまま眠ってしまうかも」

「お、おい!」

「おしゃべりに付き合ってくれて、ありがと。お互い大事な人を助けるために、がんばろうね、アッシュ」

 

 渡された書類に目をやっていたアッシュから、無理やりそれらを奪ってさっさと火をつけてしまう。

 収束した第五音素(フィフスフォニム)にまかれるそれが燃え尽きるまで、スィンは書類から手を離そうとしなかった。

 咄嗟に手放させようとしたアッシュの手が、スィンの手を掴んで思わず停止する。

 これまで白衣の袖に隠れていたその手は、硝子の破片を浴びたように血まみれだった。

 それでも袖に引火しないようか無理やり捲り上げ、手首に拘束の痕を、腕に無数の注射痕を見つける。

 

「……!」

「君は優しいね、こっちが不安になっちゃうよ」

 

 外的要因ならばともかく、スィン自身が発生させた第五音素(フィフスフォニム)で、火傷などするはずもないのに。

 負傷を見つけて顔色を変えるアッシュの手をゆっくりと外させ、手の内に残った燃え滓をそのまま胸に当てて。

 まずは譜歌の使い方を思い出すべく、スィンは譜歌を奏でた。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 

 ♪ Luo Rey Qlor Lou Ze Rey Va Ze Rey──

 

 メジオラ高原で、必要に迫られてジェイドの疑念よりルークを優先させるために使った譜歌が謡われる。

 展開した光の譜陣から立ち上る輝きは、スィンが負ったすべての負傷を瞬く間に癒した。

 第四音素譜歌、楽園に鳴り響く福音(ヘブンズ・リザレクション)

 ティアに伝わっているものがどうあれ、スィンが現在使用に耐えうるのはあとふたつ。

 アッシュとの内緒話のため、ユリアシティでミュウに使った第一音素譜歌、夢魔の子守唄(ナイトメア・ララバイ)

 崩落するアクゼリュスから身を護るために使用した第二音素譜歌、不可侵の聖域(フォースフィールド・サンクチュアリ)

 残るは四つ。実際に発動させる必要はない。ただ、謡うだけでいい。それがわかっていても、緊迫していく心が鼓動を早めていく。

 

「戦士よ勇壮たれ。鼓舞するは勇ましき魂の選び手」

 

 ♪ Va Rey Ze Toe Nu Toe Luo Toe Qlor──

 

「っ!」

 

 ぎり、と食いしばった歯が、歪む柳眉が、譜歌の使用による──ユリアに関連した事柄に触れては引き起こされる苦痛のほどを語っていた。

 ただ、それは束の間。頭痛に耐えるために添えられた手が外れて、新たな譜歌を口ずさむ。

 

「天界より降り注ぐは裁きたる白き雷。咎人を等しく薙ぎ払え」

 

 ♪ Va Nu Va Rey Va Nu Va Ze Rey──

 

「煌く破邪の十字架(クロス)よ、我が敵を貫け」

 

 ♪ Qlor Luo Qlor Nu Toe Rey Qlor Luo Ze Rey Va──

 

「時の狭間に──」

 

 ここではないどこかを見つめる瞳はそのまま、残る譜歌全てが謡われる。

 ユリアの記憶は未だ意識を縛り付けているのか、謡い終わっても身動きひとつしない。

 この状態に陥った彼女に何をしても意味がないことを知るアッシュは、ただ見守るしかなかった。

 

「……本当に、いつまで引きずってやがる」

 

『あなたを誘拐するようヴァンを唆したのは、他ならぬ私』

 

 両親や婚約者と引き離し、日陰の身へ追いやった自分を憎め、殺せるようになれ。そのために鍛錬を積めと、シアは言った。

 今思えば、帰る場所をなくして茫然自失となっていたアッシュに目的を与えるための方便だったのかもしれない。

 それが本気だったかどうかは本人のみぞ知るが、未だ自分への復讐を焚きつけるあたり、本気だったのかもしれないとアッシュはぼんやり考えていた。

 

 恨んでいないわけではない。憎んでいないわけでもない。

 

 それでも、ヴァンや彼女が何もしなければ、アッシュは──ルークは、預言(スコア)に詠まれるまま死を迎えていた。

 このことは、変えようもない事実なのだ。

 攫われた当時こそ、単純に彼女を憎んだアッシュであったが、同じ時を過ごすにつれその感情は薄れてしまった。

 理由は──彼女の言うような病気になったから、ではない。少なくともそれを自覚したことはない。その恨みがレプリカに転嫁されたわけでもない。

 シア・ブリュンヒルドはアッシュに対して、何事にも真摯だったからだ。

 存分に憎め、恨め、そして強くなれと、真正面からアッシュの感情を受け止め、一度として逃げたことはなかった。

 自分の成長は我が事のように喜んでくれ、間違った方向を向けば叱責して正し、彼が悲しみにくれていれば、ただ黙って抱きしめてくれた。

 ただの一度たりとも理不尽な暴力にさらされたことはない。言葉の暴力は別かもしれないが、それが向けられたのはすべて稽古中のこと。それを理不尽に感じたことはなかった。

 

 疚しさからの優しさだったのかもしれない。

 彼女自身が行ったことに対する償いであり打算だったのかもしれない。

 

 ──はたまた、本当に病気なのかもしれない。

 それでも、アッシュは確かに自分に向けられた愛情を感じていた。

 そんな相手にどうやって、恨みや憎しみを継続させろというのか。

 きっと彼女は、それを知っている。知っていて、アッシュが復讐する気などないことがわかっていて、面白半分に囃しているだけだと。

 いつしか彼はそう思い込むようになっており、すれ違う二人の想いが交錯する機会は、このときより永遠に失われた。

 

「……」

 

 ふと、彼女が身動きをしたような気がして目を向ける。

 目蓋を閉じたスィンはだらりと四肢を投げ出して、いつのまにかくうすか寝息を立てていた。

 今なら、今ならば、アッシュが『復讐』すればそれは叶えられるだろう。

 もともと消耗していたところ、ユリアの記憶を垣間見て、彼女はアッシュに頬をつつかれてもぴくりとも動かなかった。

 その寝顔は非常にあどけなく、普段を思えば信じられないほど無防備で。

 何の夢を見ているのか、うにゃうにゃと意味不明の呟きを発し始めた彼女から目を離し、アッシュもまた大地に横たわった。

 星は、徐々にその姿を消しつつある。

 

 

 

 

 

 

 

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