──いい加減泣き止まないと、目蓋が笑えるくらい腫れる。
泣いて、泣いて、それこそ枯れるほどに泣き明かしてふと、スィンは我に返った。
カーテンは締め切ったまま、三人を締め出したときに灯りを落としたため、薄暗い部屋の中姿見を覗き込む。
予想通り、そこには「泣きはらした己の顔」があった。
泣き止むための仕草──目蓋をこすったりはしていないから、酷く腫れることはなかろうが、それでも泣いていたことを進んで教えたくはない。
すでに熱を孕んだその場所に作った氷嚢を当てて、まずは気を静めにかかる。
もう終わったことなのだ。どんなに泣いても、たとえ後悔したとしても、状況は変わらない。早く割り切らなければ、また心配させてしまう。
しばらく別行動をしていたことも何も思われていないはずもない。だから──
ぎしり
動いてもいないのに、長椅子が鳴った。訝しげに氷嚢を持ち上げて、絶句する。
顔に氷嚢を乗せるため、長椅子に横たわっていた。
リグレットが使った一昔前の小銃が実弾使用だったため、貫通しなかった実弾を取り出すための処置後、裸同然のままでいた。
視界が塞がっていて、無防備な状態だったとしても、油断していなければこうはならなかっただろう。
何か物音がしたかと思ったら、ヴァンが覆いかぶさるようにしていた、など。
「……え」
「治療は済んだな」
氷嚢が、ずるりと流れるように顔の脇へ落ちていく。
一拍遅れて飛び起きたスィンだったが、その勢いで覗き込むようにしていたヴァンの額へ自分のものを打ち付けるより早く、顔を掴まれた。
剣ダコすらはっきりわかる無骨な手のひらは、スィンの口を完全に覆っている。
完全に見抜かれていた。
「……!」
「頭突きで怯ませ、人を呼ぶ腹積もりだっただろう」
そのままヴァンは、やすやすとスィンを組み伏せた。咄嗟に逆らうことが出来ず、そのまま長椅子に身が沈む。
口を塞ぐ手をスライドするように顎を掴まれて、口づけられた。
「……っ」
「どうした? 随分大人しいが、溜まっているのか」
──その言葉でやっと、スィンは混乱から回復した。
震える手がヴァンの顔を殴打しようと翻り、その頬を張る前に捕まえられる。
「なんの、用」
「決まっている。わからんお前でもあるまい」
当たり前のように巻きつけていたシーツを取り上げられそうになって、慌てて抗った。
無駄だと、こと力比べでヴァンに勝てる試しはないと理解していても、状況に流されていい理由にはならない。
「シア」
「わかんない、わかりたくない! 僕アタマ悪いからせつめ……!」
「大声を出すな」
人が呼べないなら騒ぎを起こすまで。
混乱している風情を見せかけて声を張り上げる前に、首を掴まれた。気道を締められて言葉どころか、呼吸までもせき止められる。
反射的に引き剥がそうとして、手を離したのがいけなかった。
その手が押さえていたシーツをあっさり奪われて、あらぬ方向へ放り投げられる。
血まみれのシーツが床にわだかまる頃、スィンは長椅子の上で抱きしめられていた。
「くっ……!」
とてもではないが、恋人がするような慈しむ抱擁ではない。
まるで巨大な蛇に巻きつかれて絞め殺される寸前のような、相手はスィンを抱き潰す気ではないかと錯覚するほどに、力強く容赦がない。
「少し痩せたな」
骨が軋むような音さえする。
それにも、苦悶するスィンにも気づかないはずはないのだが、ヴァンの腕は一向に緩む気配がなかった。
「離し……て……」
「断る」
シーツを犠牲にして、首の圧迫されてはいけない場所を死守してはいるが。このままではいずれ力尽きて首を絞められ、窒息させられてしまう。
それこそが狙いだとヴァンはのたまった。
「このまま締め落として、連れていく。近頃ディストがコソコソ何かしているようだが、お前の洗脳にならば嬉々として手を貸すだろう」
あの男はお前に執着しているからな、と締めくくられる。
それを聞きつけたスィンは、苦しい息の下で大きく息を吐いた。
「第二ラウンド、ってこと」
「お前に選択肢は与えない。不満なら拒め」
「──ああ、そうするよ!」
不意に鋭痛を覚え、細い首に回した腕が強引に解かれる。
床へ倒れこむようにヴァンの腕から脱出したスィンの手には、笹の葉の形をした手裏剣が握られていた。
押さえた野太い腕からは、けして少量ではない血液が流れて滴る。
しかし、それに怯む彼でもなかった。
スィンが逃げたと知覚するや否や、自らも長椅子から滑り落ちるようにして再びスィンに掴みかかる。
「面白い。その強気、どこまで続くかな」
どこまでも余裕を失わないヴァンの呟きを耳にして、スィンは手汗でぬめる手裏剣を握り直した。
十八禁パートにつき、割愛
息も絶え絶えになりながら、そもそもヴァン相手に体力勝負を受けたのが間違いだったと過ちを認めかけていたときのこと。
こんこんっ
「「!」」
扉が、誰かに叩かれたことで部屋の主を呼びにきた。
鍵はかかっている。しかし今は緊急事態。誰でもいいから突貫してもらうべく悲鳴を上げかけて、停止する。
スィンの狙いを察知したヴァンによって阻止されたから、ではない。
「あの……スィン。今、いいかしら」
扉の向こうに立っているのは、ティアだった。
これにはヴァンも驚いているようで、すっかり硬直している。
それをいいことに彼の腕から逃れたスィンは、扉へと駆け寄った。
「うっ、うんっ、大丈夫、だよっ」
うわずる声をどうにか抑えながら、扉に向かって話しかける。
相手がティアでさえなければ、とうの昔に脱出しているのだが。
今扉を開けるのは、どうしても抵抗があった。
「と、扉開けられないけどっ、このままでもいいなら……」
「やっぱり、泣いてたの?」
「えっ、どうして」
「ごめんなさい、その……さっき来たとき、声が聞こえたから」
ひいいい!
それ泣き声じゃなくて啼き声、喘ぎ声、聞かれてた!
羞恥に頬が染まり、脳裏は混乱に導かれ、それでもどうにか真実は知られまいと動揺を意図的に表へと出す。
願わくば彼女が、『スィンは一人むせび泣いていた』と誤解することを祈って。
「あの、えっと。ちょっと今顔見せられな「どうして言ってくれなかったの……ねえさん」
唐突な姉……おそらくは義姉呼びに、スィンは尋ね返すことしかできない。
困惑を知ってか知らずか、あるいは彼女も困惑中なのか。
ティアは思いのたけをそのまま、口にした。
「え、えっ?」
「大佐から聞いたわ。スィンは兄さんとふ、夫婦なんでしょう!? どうして教えてくれなかったの、兄さんも兄さんだわ。なんでスィンのこと、私に紹介してくれなかったの……!」
「ティア……忘れちゃったんだね」
熱くなっていた頭が、急激に冷えていく。
忘れたとはどういうことなのか、詰問されて。スィンは未だ小指に収まる指環を撫ぜた。
「僕らの婚姻、公言はしなかったんだ。有事の際の弱みに繋がるといけなかったから。代わりに、お互いの肉親には打ち明けることにしたの。互いに伴侶だって、胸張って紹介しようって」
スィンは、己の祖父と信じて疑わなかったペールを、ヴァンは当時ユリアシティに残してきた妹ティアを。
二人が生まれたそのときから知るペールへの挨拶は無事に済み、次は話こそ聞いていたが初めて出会うティアへの挨拶と、彼女にも是非認めてもらいたいとスィンが意気込んでいた矢先。
それは少女の涙で、あえなくご破算となった。
『……兄さん、その人は?』
『近頃全然帰ってこないのは、その人がいるからなの!? 私が邪魔だから……!?』
『やめて! 兄さんに近寄らないでっ! 私から──』
「ティア、ヴァンから紹介された僕を睨んで大泣きしたじゃない」
「え?」
「兄さんを取らないでって言いながら泣いて、脱水症状起こすまで泣いて、最後に戻して気絶して、大変だったんだよ」
予想以上、あまりの拒絶反応を目の当たりにして話し合った結果、ティアが分別つくまで報告は自粛するという方向で話はまとまり、現在に至る。
騒動直後はしばらく、互いにぎくしゃくしたというのは言うまでもない。
扉の向こうからでも、ティアの動揺は伝わってきた。
「わ、私覚えてないわ、そんなこと……!」
「確かあのときは、レイラさんて人にお世話になった。聞いたら、教えてくれると思う」
これまで一行と共にユリアシティへ赴いた際、彼女には会わなかったと思うのだが、ティアにとっては馴染みの深い人物であるはずだ。
真偽について、彼女はそれ以上何も言うことはなかった。
「……私のことを知っていたのは、だからだったのね……このペンダント、母の形見のことも知っていたの?」
「僕ね、小さい頃おばさんにそれをねだったことがあるの。あなたが私の娘になったらね、って、遠まわしに断られたけど」
ヴァンを通じて彼女の最期を聞き、ペンダントも差し出されたのだが。
それは彼女の娘であるティアが持つべきだと、辞退したのだ。
「……そう、だったの。教官からの訓練が終わったそのときに、兄さんからと渡されたものなの。さんは……」
「ティア。僕はもうヴァンの妻じゃない。そもそも婚姻のことを公言しなかった時点で、扱いは愛人と変わらなかった。あなたを気遣う配慮だったとはいえ、婚姻中に認めてもらう努力を怠った僕には、あなたからそう呼んでもらう資格はない」
「そんな……」
「泣き叫ぶあなたから否定されるのが怖くて、忙しいのを理由にユリアシティに近づくこともしなくなった。そうこうしている内に僕はダアトから離れて、リグレットがあなた付きになり、ただ接触するのも……難しく、なった」
実際には嫉妬に狂ったリグレットによって妨害されまくった結果だが、彼女を師事していた少女にありのままを語るのは抵抗があった。
リグレットがどのようにしてティアに教えていたのかは知らない。それでも、普段の理知的な姿からかけ離れた醜態を語られて、素直に信じるとは思えなかった。
「教官が、どうして?」
婚姻を結ぶ以前、彼女とはヴァンを巡って恋の鞘当てをしていたから……とは言い難い。実際、そのようなことはしていないはずだからだ。
一度気持ちを通わせたとはいえ、それは幼き日のままごとにも等しい記憶。
異性恐怖症を克服できていない自分に、人並みに誰かを愛する資格はないと──そうなるに至った経緯も理由に、再会してからヴァンに対して幼馴染以上の親愛は示さなかったつもりだ。
ダアトに所属中も公私混同しないよう、彼は上司で雇い主であるとして、自分を律するために一線引いて接していた。その他人行儀に近い態度にヴァンはとても戸惑っていたが、彼が何も言わないことをいいことに放置していた。
むしろ、ヴァンがリグレットとくっつくならば初恋はやはり叶わぬものだったと諦めもつくと、彼女が何をしようとただ黙って見ていた。時には、見てすらいなかった。
それが大いなる誤解の呼び水となって、図らずもヴァンを傷つけることとなったのだが……
今となっては全て、ただの思い出話でしかない。
「……ごめんね。僕、陰口叩きたくない」
「告げ口になると思っているなら、相手の名前や所属は──」
言わなくていいとでも言おうとしたのだろうか。
これまでの話の流れを考えると、大分マヌケな発言である。
「頭、結構茹だってる?」
「あっ! えっと違うの、これはその、教官にそう言われたことが」
過去に何があったのかは知らないが、一度口にした言葉は早々消えない。
気まずさにだろうか、口を閉ざしてしまったティアの顔を思い浮かべながら、スィンはひとつ息をついた。
「もう全部過ぎたことだよ。思い出に浸るのは楽しいけど、これ以上はつらくなるだけだと思う」
「
「違う。そんな風に呼ばれても、僕もう返事しないからね」
ガイから姉上と呼ばれ、ティアからは
素晴らしくくすぐったいような、不思議な気分にはなった。
血を分けた血縁と言われて思い浮かぶのは、スィンが生まれるより前にいなくなった名もわからない──正確には名もないまま廃棄された86人もの兄と姉達だから。
「……スィン」
「なあに?」
「出直す、わ。何だか混乱してしまって、冷静になれないの」
「冷静になんかならなくたっていいよ。たくさん混乱して、たくさん悩んで。その結果あなたなりに納得ができれば、なんだっていい」
どこか投げやりに、スィンは返していた。
彼女の疑問を晴らすことはできたはずだ。余計なことを吹き込んだということもない。
改めてヴァンとの袂を分かつことになったスィンとしては自分のことで精一杯で、彼女と気持ちを分かち合う余裕はないから。
「また、話を聞いてもいい?」
「みんなが聞いていないところでならね」
敵対勢力との思い出話などところ構わず興じたら、あらぬ疑いをかけられてしまうだろう。
それはヴァンの肉親たる彼女とて同じこと。ひとつ肯定を呟いて、少女は再びお暇を告げた。
ティアが去ったことを確認して、扉に背を向け──拍子抜けする。
いつからか、いつの間にか、ヴァンは姿を消していた。妹の声を耳にして頭が冷えたのか、断念したのか。
これは、ティアにどれだけ感謝しても足りないだろう。とはいえ、起こった出来事ありのままを彼女に伝えるのは不可能な話なのだが。
いつの間にか取り落としていたシーツを手にして、スィンは安堵の吐息をついた。
十八禁パート自体は、見ても見なくてもお話の進行に影響はないはずなので、苦手な方のためにもR18&if話置き場に投稿したいと思います。十八歳未満の皆さんごめんなさい。