the abyss of despair   作:佐谷莢

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第七十一章——なぜかこの人が紛らわせてくれましたとさ

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、眠っていたらしい。すっかり日が落ちた部屋の中、スィンはゆっくりと身を起こした。

 手にしていたシーツを拾い上げ、風呂場の扉を開く。

 浴槽に湯を張る最中、ふと鏡を見やった。

 被服をまとえば隠れるその場所に散った痕が、あの出来事が夢ではないことを思い知らせる。

 意識の片隅に張り付く記憶を振り払うべく、スィンは湯が溜まりつつある浴槽にシーツを抱えてその身を沈めた。

 ──そして。

 体の隅から隅までを清め、尚且つ血まみれになったシーツを洗って彼女が風呂場から出た頃。時刻は深夜にさしかかろうとしていた。

 窓を全開にしておいただけあって、部屋の空気はすっかりと入れ替えられ、肌が粟立つほどに冷たい。

 未だ、時折零れる涙に別れを告げるように、毎朝やる禊──頭から冷水を被ったために、身も心もこれ以上ないほど引き締まっている。

 見やった鏡の中の目元は腫れていないし、化粧せずとも明日は何事もなかったかのように振る舞うことも可能だろう。

 窓を閉めて寝台に歩み寄り、ごそごそと荷袋から衣類を探っていたスィンだったが、ふとその手が立てかけられた血桜に伸びた。

 ほっそりと引き締まった腕が、血桜という銘の柄を掴む寸前。

 

「動かないでください」

 

 首の真後ろに、冷たく鋭利な何かの先端を突きつけられた。

 巻きつけていたバスタオルを取られ、足を引っ掛けられて寝台に倒されるも、反撃に出る。

 倒されながら相手の脛を蹴ってバランスを崩し、寝台の上を前転で通過、侵入者と寝台を挟んで対峙する形を取った。

 それだけに終わらない。手裏剣を投擲して相手の足を鈍らせる。取り出したのは、端が細い鎖で連結している一対の笹の葉手裏剣だ。

 

「てやっ!」

 

 狙いを定めて投擲すると、人影はその場に張り付けられたように動かなくなった。

 それを確認したスィンは、素早く彼に近づき、バスタオルを奪った。きちんと体に巻きつけ、照明のスイッチに手をかける。

 かち、という音と共にナイトテーブルの照明が輝き、侵入者の顔がぼんやりと浮かんだ。

 首の両サイドに笹型手裏剣が突き刺さり、鎖のせいで首だけ磔にされているマルクト軍服に身を包んだ真紅の瞳の三十五歳。

 珍しく裸眼だ──と思いきや、その足元に眼鏡が転がっている。

 

「……何しに来たか、聞いていいですか?」

 

 眼鏡を拾い、無理やりかけようかと考えて、ふと自分の外套を彼の顔にかける。

 もごもごと、不明瞭な言葉を聞き取らんと外套を取った。

 そのときにはすでに、ケセドニアで手に入れた軍服をきっちりと着込んでいる。

 

「あまりに解読がはかどらないので、気分転換に遊びに来てみたんですよ」

「窓から? 素っ裸の人間を、闇討ちする形で?」

 

 濡れた髪の雫を拭い、バスタオルを椅子の背に放る。

 それから無理やりジェイドの顔に眼鏡をかけようと、近寄って背伸びした。

 見慣れぬ端正な素顔が、眼鏡越しではなかなかのぞけない眼に刻まれた譜が、視界を一時的に占領する。

 

「スリルがあったでしょう?」

「……ええ。曲者だ、と思って、思わず捕獲してしまったほどに。まあ、曲者でしたが」

 

 ジェイドが握っていた槍が輝きと共に収納された。その手が眼鏡のブリッジに添えられ、彼自身の納得する位置に調整される。

 そのまま手裏剣を外そうとしているのを見て、スィンは言いかけていた言葉を中止して制止した。

 

「あ、触らない方が──」

「……そういうことは早く言ってください」

 

 時すでに遅かったのか、彼は弾かれたように手を引いた。

 右手を切ってしまったらしく、垂れた右の腕から床へ雫が滴っている。

 

「握っただけで軍支給のグローブを貫通させるとは……」

「毎晩愛を込めて手入れしてますから」

 

 ジェイドの右手を取り、グローブを取った。掴んだ場所、人差し指の第二間接が傷ついているのを見て、口づける。

 恐怖はなかった。理由は──自覚している。

 

「!」

 

 ジェイドの動揺など気にも留めず、軽く舌で舐める。かなり深く切れているらしく、少し舌を当てただけでじわっ、と口中に味が広がった。

 吸い付くように唇を添え、軽く歯を当てて流血を促す。

 手入れはしてあるが、清潔にしてあるわけではないのだ。こんなところで破傷風になられても困る。

 出させた血を飲み下し、唇を外しかけて。

 

 ぐいっ

 

「んむ」

 

 唐突に人差し指が口腔へ押し込まれた。

 反射的に噛み付き、咽喉まで入りかけた指を吐き出して、眼前の人物を睨む。

 

「何をするんですか、何を」

「……それはこちらの台詞です」

 

 呆れたように、どこか乱した息を整えるように深呼吸しているジェイドに首を傾げながら、放置されていた救急箱から応急セットを取り出し、歯型までつけてしまった患部に処置を施す。

 床にわだかまるグローブを拾い上げて渡すと、彼は素直にそれを着けていた。

 

「……独りにしてください、って、言いませんでしたっけ」

「言ったはずですよ。これ以上あなたを独りにしておくわけにはいきません」

 

 ……はぁ……

 

 それを聞き、何を言っても無駄ではないかという考えが頭を掠めたが、それでもこれだけは言いたかった。

 スィンの手が、ジェイドの首元へ寄せられる。

 彼を拘束する手裏剣を抜くかと思われたが、彼女はそれを無視して軍服の立襟を崩し、ジェイドの首に手を這わせた。

 

「!?」

 

 わずかに驚いたようなジェイドの表情を物珍しそうに見ながら、指先で頚動脈を探し、見つけた血の道に指を添える。

 初めて触れた、ジェイドの首。

 

 この指先に刃物を添えて、少し力を入れれば──

 

 馬鹿馬鹿しい。

 軽く眼を瞑り、危険な妄想を振り払うように首を振った。

 体勢をそのまま、呟くように囁く。

 

「……ね、大佐。大切なひと、殺したことあります?」

 

 あえて、疑問の形とした。

 表面上ジェイドに変化はないが、やはり体は偽りを知らない。

 頚動脈が激しく蠢き、どこまでも明らかな動揺をスィンに伝えてくれる。

 

「……」

「僕は今日、多分生涯でこれ以上ないほど愛した人間を殺そうとしました。求めるものに違いがありすぎたから、話し合い、分かり合うことすら叶わなかったから、最も原始的な手段を選択し、自分の我を通そうと考えたんです」

 

 人間には他のあらゆる動物と同様に、同種族にして他の個体を殺害することに対する心理的抑制力が備わっていると、幼き日に学んだ。

 それが本能と呼ばれるものであることも、その本能に逆らってまで他者を殺める理由は、大別して四種の動機があるということも。

 

「ひとつは恐怖。相手を殺さなければ殺されてしまう窮地に立たされたとき。ひとつは憎悪。怨恨の果てにたどり着いた存在の抹消。ひとつは功利心──自分の利益のために誰かを消す。最後のひとつは戦争……正義の名の下に行われる大殺戮らしいですが……あなたは何故、その人を殺したんですか?」

 

 ジェイドからの返事はない。

 彼が思い浮かべるのはスィンやルークの知る惨劇か、それともスィンの知らぬジェイドが引き起こしたものかは定かでないが、それはこの場合関係ない。

 

「僕の場合はどれにも当てはまらないし、何より結果的に殺し損ねましたが……安心したような、残念だったような、複雑なんですよ。あなたも多少は何かを思ったはずでしょう? そのとき……平静でいること、できましたか?」

 

 ゆっくりと、両手が彼の首にかかった。

 交差した親指が軽く咽喉を圧迫したのか、わずかにジェイドの眉が歪む。

 

「も、わかってくれましたよね? ものすごくイラついてます。あなたに触って平気なくらい。その青い軍服をあなたの眼のように染められたくないなら、もう僕のことに干渉しないでください」

 

 そのまま力を込めたい衝動を押さえ、小刻みに震わせながら両手を外した。

 震える指が手裏剣を挟み、抜き取る。

 その形に空いた壁の穴を、ジェイドの顔を見ないようにしながら回収し、背を向けた。

 

 この人にだけは、心を許しちゃいけない。弱みを見せてはいけない。本音を洩らしちゃいけない。剥き出しの感情は尚のこと、見せていいのは芝居の部分だけ。

 

 ジェイドと再会し、行動を共にするようになってから、なるべく心がけてきたことだったのに。ヴァンのことがあったから、精神的に不安定になっているのだろうか。

 再び溢れた涙は拭われることなく頬を伝い、カーペットに吸い込まれて小さな染みを作った。

 振り向けば、情けない泣き顔をさらすことになる。

 背を向けたまま、ジェイドが部屋を出て行く気配を待ち望んでいると。

 突然後ろから肩を掴まれ、引き寄せられた。たたらを踏む脚の位置をうまく読まれ、ジェイドの胸に顔を埋める形になる。

 奇しくも、ヴァンと超振動を起こした際の構図と酷似した。

 違うのは、すぐさま離れなければいけない、という状況とは違うこと。

 

「このっ!」

 

 カッとなったスィンが懐刀を取り出し、同時にみぞおちに肘を押し付けてゼロ距離での突進を試みた。わずかに体勢を崩し、ドンッと壁に背中を押し付けられたジェイドの首筋に、刃を押し当てる。

 和えかな灯明のもと、漆黒の刃はぼんやりと浮かび上がっていた。

 ジェイドの胸に顔を押し付けたまま、停止する。

 そういえば、アクゼリュス入り前夜にも同じようなことをしたような、と追憶に浸っていたスィンは、ゆるゆると自分の頭に宛がわれた手に気がついた。

 

「……なんのつもりですか?」

「頭を撫でているんですよ」

 

 首に突きつけられた刃など気に留めた様子もなく、もう片方の手がより強くスィンの体を抱きすくめる。

 懐刀を握る手に、力がこもった。

 

「死にたいんですね。では、お望みどおりに」

「いえいえ。軍人ですから早死には避けられないと思いますが、できることなら子供や孫に看取ってもらいたい、くらいの願望ならありますよ」

 

 じりじりと、刃を押し込まれる。

 すでに表面の皮膚が裂け、流血している状態だ。冗談と受け取れるレベルを通過しているはずだが、彼の笑みはけしてなくならなかった。

 怒りに属するいくつもの感情が、興奮した蛇のように鎌首をもたげる。

 一思いに刺してやろうかと考え、降って湧いた一言に、ジェイドの腕の中で体が跳ねた。

 

「……私はかまいませんよ。お望みなら、あなたにこの命を差し上げます」

 

 ですから好きにしてください、と囁いた彼に、スィンはしばらく絶句させられ──どうにか一言ひねり出した。

 

「……さっきと、言っていることが違うんですけど」

「ですから、好きにしてくださいと言っているんです。そのまま刃を突き出してくれてもいいし、やりにくいなら後日改めてでもかまわない。これから先を見据えるあなたに、それができればの話ですがね」

 

 ──ああ。やっぱり見抜かれている。

 それを言われてはお仕舞いだと言わんばかりに、スィンは懐刀をぞんざいな手つきで放り投げた。

 ごとっ、と音を立てて床に抜き身の短刀が転がる。

 頭と体に回された両腕を剥がそうとするが、彼にそのつもりはないらしく、一向に外せなかった。

 

「……大佐?」

「事実、ですか?」

 

 唐突過ぎる質問に、スィンが首を傾げる。

 その様子に気づいたか否かは定かでないが、彼は腕を緩めることなく重ねて質問した。

 

「あなたの心は──今でもグランツ謡将のもの、ですか?」

「は!?」

 

 心底驚いて、スィンは思わずがばっと顔を上げてジェイドの顔を見ようとした。

 朧な照明が災いして詳細な表情はよくわからないが、明らかにスィンから眼をそらしている。

 

「そ、そんなのあなたには関係な……」

「はぐらかすのはあなたの自由ですが、そのうち自白剤を仕込んででも聞き出します。その際余計なことを白状するのと、今ここで素直に答えるのと、どちらを選びます?」

 

 そむけられていた視線が寄せられ、夜目にもくっきりと、彼の顔がほころんだ。

 その薬がどの程度効くものなのかはわからないが──

 余計なことを聞かれて白状するのはごめんこうむる。スィンは顔を伏せるとごにょごにょ呟いた。

 

「……そりゃ、まあ。愛情がなくなったわけでも、ヴァンが変わってしまったわけでもなく、求めるこの世界の在り様が違う、っていうだけだから、その……僕はまだ、あの人のことを愛しています」

 

 何が悲しくてこの男にそんなことを白状せねばならないのか。やるせなくて仕方がなかったものの、正直に答える。

 平素なら真逆を言って誤魔化すところ、この状態ではまた涙がこぼれてしまうかもしれない。

 そう考えると、誤魔化しを言う意味がなくなる可能性が高かった。

 

「……そうですか」

 

 ふぅ、とため息が発せられる。裏切る可能性あり、と判断されたかもしれない。

 多少無理にでも嘘を言うべきだったか、と心配になってきたスィンの心境を察したのか。

 ジェイドはにこー、と笑んで彼女を見下ろした。

 

「そんな顔をせずとも、あれだけ派手な死合いを目にして、あなたが彼の間者だとは思いませんよ。──最も、これからあなたの単独行動を制限することになると思いますが」

 

 やっぱり疑ってるじゃん。

 思わず零せば、彼は軽やかな笑声を放って彼女を解放した。

 

「正直、ホッとしました。ディストの指示のもと隔離されて、生存すら絶望的ではと考えていましたから……こうして戻ってきてくれて、嬉しい限りですよ」

「首からだらだら血ぃ流しつつ言う台詞じゃないことだけは確かですね」

 

 ダアトの捕り物まがいで、額から大出血していたディストの顔が思いがけず浮かぶ。

 手巾を取り出して拭えば、あっさりと血は止まった。

 

「舐めてくれないんですか?」

「……口腔は基本雑菌だらけだ、っていう常識はご存知ですよね?」

 

 一応唇を這わせるものの、背伸びしながらそこに口付けるのは難しい。

 さっさと切り上げようとして、ジェイドに後頭部を掴まれた。

 

「んー……」

 

 後頭部の手は外れず、ジェイドの髪を引っ張っても引っ張り返されるだけで離してくれる気配がない。

 嫌がらせのつもりで強く吸い付くと、やっとこさ手が離れた。小さな傷は赤く色づいている。

 

「痕になってるけど……ま、軍服をきっちり着ればわかりませんよね」

 

 スィンが緩めた軍服の襟をきっちり合わせてみる。妙に色っぽく見える首筋は、思惑通りしっかり隠れた。

 人体の急所のひとつとされる咽喉を、軍服でガードできないのは致命的ともいえる。

 当たり前といえば当たり前だが。

 

「……それで、まだ気分転換できないんですか?」

「気分転換?」

 

 わざとらしく首を傾けてとぼけるジェイドに、内心で三十五歳のおっさんがやっても可愛くねえ、とボヤきつつ、食い下がる。

 

「ほら、禁書解読の……」

「あれならとっくに終わっていますよ。ここへ来るための方便です。もう三人とも寝静まっているはずですから、戻ると起こしてしまいそうですねー」

 

 呆れて口の閉ざせないスィンを他所に、「おや、ここに丁度眠れそうな場所が」とか何とかほざきつつ、彼は堂々とキングサイズの寝台にもぐりこんだ。

 

「大佐……紳士だったら人の寝床を占領しないでくださいよ」

「ぐうぐう」

 

 寝付くのが早すぎだ。狸寝入りだとわかってはいるが、わかっているからこそ近寄るのは危険だ。

 はあああ、と特大のため息をつきつつ、ふと赤黒くごわついた白衣が目に入る。

 取り上げて丁寧に畳み、荷袋へ突っ込むと、懐刀を回収して血桜を掴んだ。

 放っておいた上着を羽織り、ソファにどっかりと腰かけて、今日一日の功労者を念入りな手入れでねぎらう。

 しっかり眼鏡をナイトテーブルに預けて眠るジェイドを見ていると、彼らを追い出した後にしくしく泣いていた自分が、なんとも情けなくなくてくだらないように思えた。

 知り合いとはいえ、関係を持たない男の眠る寝台へ入るのは抵抗がある。まして相手はジェイドだ。全然信用ならない。

 今日の寝床はここかと諦めつつ、スィンは黙々と愛刀の手入れを続けていた。

 

 

 

 

 

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