the abyss of despair   作:佐谷莢

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第七十三唱——連ねたのは、偽りなき想い

 

 

 

 

 

 

 

 不意に走った寒気に、背筋がゾクゾクと震え上がる。

 

「どうした?」

「……いや、別に」

 

 唐突に体を震わせたスィンに鋭く反応したアッシュを誤魔化して、おそるおそる第一研究所へ入った。彼に対し嘘をつかない、と約束してはいるが、不確定要素までいちいち報告する意思はない。

 いくらヴァンがいないとわかっていても、もしや兵士が潜んでいないかと過剰な心配がこみ上げる。そこまでいかずとも、嫌がらせに医師へ診察を拒否するよう通達されていたらどうしようか。

 別に困りはしないが、長い眼で見ると少々厄介な話だった。

 アッシュと連れ立って歩く中、通路に面した研究施設の区画にいる一人一人を思わず確認してしまう。

 結局それは徒労に終わり、神経をすり減らした疲労と何もなかったことに対する安堵が浮かんでは打ち消しあった。

 こんこんっ、と医務室の扉を叩けば、応対の声と共に扉が開く。

 アッシュを伴って中へ入ると、シュウ医師は変わらぬ様子で二人を招き入れた。ヴァンから特殊な命が下されている風には見えない。

 

「珍しいですね、同伴者を連れてくるとは。今回も薬のみですか?」

「……これを」

 

 壁際にもたれかかるアッシュをそのまま、スィンは懐から四つ折りにした紙を取り出して医師に手渡した。

 シュウの顔色が変わる。

 

「これは……所長の」

「これの内容と僕の容態が一致するのかどうか、調べてほしい。できますか?」

 

 検査にかかる時間の逆算をしているのか、シュウは沈黙を経て答えを出した。

 

「──可能ではあります。結果が出るのに多少はかかりますが」

「わかりました、簡略になってもいいので、なるべく早くお願いします──どうする、待つ? 待ってるだけってかなり苦痛だと思うけど」

「かまわない」

 

 アッシュの返事に戸惑いのようなものは一切ない。

 それでは、と取り出された注射器を見つめ、スィンは無感動に頷いた。検査に必要なだけ採血し、脈拍や体温を測って専用の装置にそのデータを入力する。

 奥の部屋まで通され、大掛かりな装置で体内を透視されて待つこと少し。

 待機用の長椅子に座っていたスィンは、測定終了のアラーム──奇しくも、定期船の中で聞いた音機関アラームと同じものだった──を聞いて立ち上がった。

 スィンが渡したものと、新たに作成された書類。それを見比べ、シュウが歩み寄ってくる。

 その顔色は、お世辞にもよいものとはいえない。

 

「……診断結果です」

 

 書類が、同時に手渡される。普段は口頭で伝えられるのだが、カルテを手渡されるとは何故か。

 とてもではないが口に出せる内容でないか、アッシュの存在を気にしてかだと思われた。

 とにかく、ディストから奪ったものを懐へ収め、新たな診断書に目を通す。

 無言のうちで視線を走らせるうち、不意にピクッ、とスィンの体が強張った。

 

「シア?」

「……ゴメン、アッシュ。外に出ていてほしい」

 

 後で説明するから、という押し殺した声に、彼は何かを感じ取ったらしい。

 文句も質問もせずに医務室を後にした。静寂が、室内を支配する。

 

「──結局のところ、彼が診断したものと差異はないんですね?」

「はい。瘴気触害(インテルナルオーガン)の侵蝕率が異様なまでに高まり、全身に転移しかかっている──心当たりがあるんですね?」

 

 その問いに、スィンは小さく頷いた。

 パッセージリング操作時に嫌でも吸収しなければならない、汚染された第七音素(セブンスフォニム)──それが、これまでスィンの体内を巣食っていた瘴気触害(インテルナルオーガン)の病巣を増長させている。

 

「余命、一年くらい減りましたかね?」

「……真に申し上げにくいのですが、正直に告げて一年もつかもわかりません」

 

 一年。

 それを短いと嘆くか、まだそれだけ動けるのだと考えるべきかは、個人の判断に委ねられる。

 言うまでもなく、スィンは後者の考えを選択した。

 恐怖に押しつぶされている暇はないのだ。

 

「他におかしなところはありませんでしたか? フォンスロットが減少してる、とか、構成音素が乖離現象を起こしそうだ、とか」

「いえ、そのようなことは見受けられません。ですが、発作の衝動が……」

「さいですか」

 

 発作がこれまでと比べ、どれだけひどいものになるのかなど聞きたくない、という態度を如実に示し、スィンはシュウの言葉を遮った。

 検査のために来ていた患者着を脱ぎ、軍服を着込む。

 シュウの口から、入院だの延命治療の話など、すでにフォローの言葉もない。

 おためごかしはいらないから、偽りなき事実を教えてくれと言ったスィンの言葉を、彼は忠実に守ってくれていた。

 もう長くない、死に対する覚悟が固まっている患者の言葉だと思って諦めているのか、あるいはスィンの心を汲んだ彼の意思表示なのか──

 どちらにせよ、下手な慰めをもらうよりずっとありがたいことに変わりはない。

 

「お手数おかけしました。検査費は──」

「いえ、今回は結構です。それと、これを」

 

 スィンが着替えをしている間に用意したらしく、シュウはひと抱えほどの巾着を手渡した。

 了解を得て、開ける。中にはふたつの瓶があり、片方は黒、片方は白という双方見慣れた錠剤がぎっしり詰まっていた。

 

「これは?」

「処方薬です。三食後に白い錠剤を一錠ずつ、不意の発作を止める際には黒い錠剤を一粒、一日五粒までなら副作用の影響はありません。それで大幅の苦痛は抑えられます」

「……そういうことじゃなくて、なんでこんなもん手渡すんですか。代も支払われず持ち逃げされたらどうするんです」

 

 きつく巾着の口を結わえ、押し返す。

 

「いくらするか、なんて聞きたくもない。要りません。確定死人からなけなしの金を搾り取ろうったって、そうはいきませんから」

 

 本気なのかその場の勢いなのか、付き合いの短い人間には判別つきがたい一応冗談に、医師は呆れて眉尻を下げた。

 

「そういう心積もりはありません。検査費も、薬剤代も今回は徴収しませんよ」

「……? ならどうして、こんな無駄なあがきっぽいことするんですか? 僕の余命をずばり教えてくださったのはあなたでしょう?」

「そして入院と、延命治療を薦めた私に『人生の幕引き方法くらい選ばせてくれ』と無茶を言って、所長から紹介された縁も使わずきちんと薬代を払ったのもあなたでしたね。今のあなたは、延命治療を受けてどうにかなる体ではありません。確かに確定死人です。だからこそ、あなたにはその命と引き換えに選んだ目的を果たしていただきたい。これは私からの、せめてもの餞別です」

 

 コネを使わなかったのはディストに借りを作りたくなくて、更に手を抜かれても困るという理由だったのだが、いいように解釈してくれたものである。

 ならせめて、と財布を取り出すが、彼は財布の口を開ける余裕すら与えずアッシュを呼んだ。

 促されて入ってきた彼に、突っ返された巾着を渡す。

 

「薬です。あなたからも受け取るよう説得してください……お大事に」

「?」

 

 事情をイマイチ飲み込めていないアッシュを連れ、しぶしぶスィンは退室した。

 第一研究所を出て、考えもなく歩を進める。

 ようやく立ち止まったのは、知事邸付近の橋のところだった。

 

「……シア。どこか悪いところでもあったのか?」

「んー、ヴァンとの戦いによる後遺症はなかったよ。ただ、持病の具合があんまりよろしくなくてさ」

 

 アッシュの持つ錠剤の詰まった袋を見やる。

 それを飲めと言われた、と告げると、彼は目を剥いて巾着袋をスィンに突きつけた。

 

「受け取るよう説得ってことは、断ったのか?」

「そうだよ」

 

 どうして、と尋ねられ。スィンはあいまいに微笑んだ。

 

「だってそれ、糖衣錠じゃないし」

 

 当然アッシュは怒り狂った。

 

「馬鹿か! ガキじゃあるまいし、苦いのがイヤで投薬拒否してんじゃねえ!」

「それに噛み砕かないといけないから。これの中身、ものすごく粉っぽいんだよね~」

 

 嘘は言っていない。

 確かにこの薬は苦いし、その上、体質的な理由であまり効かない。

 飲むのが苦痛なのは、嘘じゃない。本当のことを話していないだけで。

 誰かさんもこのくらい単純なら気苦労はないのに、と思いつつ、苦笑いしながらもスィンはそれを受け取った。

 

「それだけなのか?」

「──そう、だね。基本的にはそれだけ」

「……」

 

 どこか納得がいかない。

 アッシュの表情はそう書かれていると錯覚できるほど如実に不満を示していた。

 オアシスでのことが、意識か無意識にひっかかっているようである。

 その彼が何か言おうとして、ふとスィンは視線を巡らせた。

 今まで気にも留めていなかったが、ベルケンド知事邸正面扉に張り付き、一人の老人がじっとしている。

 体勢からして、その建物からして覗きではない。盗み聞き──だろうか。

 

「あれは……スピノザか? あんなところで何をして」

 

 不審に思った二人が、彼に声をかけようとして。

 突如スピノザは弾かれたように扉を離れると、脱兎の勢いで離脱を図った。

 突然のこと、目の前を通過していく彼をただ見送る。老人らしからぬ健脚であった。

 直後。

 

「……な、なんだ?」

 

 扉が開く音、そして二人もよく知る夕日色の髪の青年が呟く声が聞こえた。

 知事邸の前へ赴けば、一同がぞろぞろと通りへ出てくる。

 その中には、以前第一研究所に足を踏み入れた際見かけた老研究者二名の姿もあった。

 確か──『ベルケンドい組』メンバー内二人だ。

 禁書に記載されていた音機関を複製するため、『い組とめ組』の対立を知るガイが彼らを丸め込み、更にヴァンやディストに知られぬよう知事を抱きこんだ。

 そんなところだろうか。

 

「今スピノザが逃げていったぞ」

 

 別行動中の彼らが何をしていたのか推測している間に、事情の知らぬアッシュがそう報告した。

 

「スピノザが? 何をしていたんだ?」

 

 ヘンケンの不思議がる表情に対し、ジェイドのそれはひどく強張っている。

 しまった、とでも言うように。

 

「……今の話を立ち聞きして、通報しようとしているのでは」

「スピノザはそんな男じゃないわ!」

 

 仲間にかけられた嫌疑──スピノザもまた、い組のメンバーである──を晴らすようにタマラが声を張り上げたが、続くアニスの言葉に容赦はない。

 

「人は見かけによりませんよ」

「……何か聞かれては困る話をしていたのか?」

 

 交わされる言葉に不審を抱いたアッシュが尋ねるも、王族二人の説明は単純にして明快、その割に理解しづらかった。

 

「ファブレ公爵やヴァンには内密で、禁書の音機関を復元させるんですのよ」

「その間に俺たちは、イオンを連れてくるんだ」

 

 まとまりのない説明にアッシュはわずかに首を傾げて閉口していたが、やがて気を取り直したのか簡潔にするべきことを確認している。

 

「……とにかく、スピノザを捕まえておけばいいんだな? 俺が奴を捜しておく」

「アッシュ! わたくしたちに、協力してくださいますのね!」

「それなら、一緒にスピノザを捜そうぜ!」

 

 ナタリアはともかく、意外にもルークは友好的だった。

 ところがアッシュは、面食らったような風情で一歩後退っている。

 

「か、勘違いするな! 俺もスピノザには聞きたいことがある。そのついでに手伝ってやるだけだ。おまえたちと……レプリカ野郎と馴れ合うつもりはないっ!」

 

 くっくっくっ、と小さな声に、アッシュは自分の隣を見た。

 そしてその眉間に立て筋を追加させる。

 

「……何がおかしい」

「いや、別に、ぷふっ」

「な・に・が・お・か・し・い?」

 

 こらえきれない、と態度で表現するかのように腹を抱えて笑いをこらえていたスィンだったが、眼と鼻の先に顔を突きつけるアッシュから軽く身を離した。

 人の悪い笑みを浮かべ、ピッ、とアッシュの顔の側面を指す。

 

「耳が真っ赤っか」

 

 嘘でない証拠にか、手鏡が掲げられ、その鏡面に映った彼の耳は、これ以上ないくらい真っ赤に染まっていた。

 思わず、といった様子でアッシュが両耳を隠す。

 

「う、うるっせぇ!」

「一人がいいなら止めない。君は集団行動向いてないもの」

 

 ますます顔を赤くしたアッシュだったが、真面目な顔で「そっちはそっちで頑張って」と告げられ、怒りに歪めた顔を引き締めた。

 

「……ふん。言われなくてもそうするつもりだ」

「何言ってんだよ! どこに逃げたかわからないんだぜ。それに、乗り物だって必要だろ!」

 

 珍しくアッシュに対して食い下がったルークだが、アッシュの心境を変えるには至っていない。

 

「黙れっ! おまえたちはさっさとイオンを連れて来ればいいんだよ」

 

 苛立ったように一喝し、ルークに一睨みくれてから、アッシュはすたすたと歩み去った。

 頑なな態度にしばしあっけに取られていたルークだったが、その背中が見えなくなった時点で「くーっ!」と遅れた怒りを再燃させている。

 

「あったまきた! あいつより先にスピノザを見つけてやる!」

「そんな風に言うのはおやめなさい」

 

 血気盛んに怒鳴るルークを、タマラが孫を叱るかのようにいさめた。

 

「今の子、イエモンの若い頃に似てるわ。きっと、本当は一人で寂しいのよ」

 

 ……言いえて妙だと思われる。

 流石人生の先輩と思わせる発言だったが、その眼がどうしてスィンに向けられているのか。

 

「あなたには、それがわかっていたように見えるわ。どうして止めてあげなかったの?」

 

 その意見に肯定する意思はなかったが、あえて否定しようとは思わなかった。

 

「彼の意思を尊重したいのでー」

 

 もともと、こちらの都合で彼の人生を破壊してしまった、と考えているのだ。

 これ以上自分の考えをアッシュへ押しつけるのは控えるべき、でも現在の状況ではそうもいかない。

 ならば、こういった小さなことだけでも自由にさせてあげたいと考えるのは、間違っているのだろうか。

 二人のやり取りの間にも、会話は続いている。

 

「ふん。なおさらいけすかん」

 

 タマラとは正反対、ルークに近い感情を抱いたらしいヘンケンはルークを煽るかのように入れ知恵をしていた。

 

「いいか、ルーク。スピノザは船で国外へ逃亡する筈だ。あいつより先に見つけるんだぞ!」

「当然!」

 

 力強く拳を握るルークではあったが、冷たい冷たいティアの声がその拳の行き所をなくしている。

 

「……言っておくけれど、イオン様を連れてくることの方が大事よ」

「う……うるせえな! ダアトに行くついでに、ちょっと他の街に立ち寄って調べる分にはいいだろ?」

「やれやれ。変なところで負けず嫌いですねぇ」

 

 やっぱり食い下がるルークに、ジェイドが軽く肩をすくめている。

「俺たちはこれで」と去った老研究者二人を見送り、やがて彼はスィンの方を向いた。

 

「体の具合はいかがでしたか?」

「至って健康でしたよ。処置が割と早かったせいか、銃創が膿んでるとかもなかったし」

 

 同伴していたアッシュがいないことをいいことに、適当なことを並べ立てる。

 しかし、彼は欠片も納得した様子を見せず軽く鼻で笑った。

 

「健康……ですか。これは妙ですねえ、あなたは疾患を……ホド戦争時に負った後遺症を宿しているはずでは?」

 

 きた。

 ぐっ、と拳を握る。

 覚悟していないわけではなかったが、どこまで誤魔化しがきくか、それはスィンの弁論術次第だ。

 嘘をつくことも必要以上の事実を話すことなく、彼らを──正確にはジェイドを納得させねばならない。

 

「──語弊であったことは認めます。今話したのはヴァンとの交戦による後遺症のことを話したのであって、そのことを含めていません」

「それしか診てもらわなかったわけではないでしょう? その他はどうだったんです」

「目新しい変化はありませんでしたよ。今回は先生のご厚意で鎮痛剤もらえたし」

 

 あえて、巾着の中身を見せる。

 スィンの容態から気をそらせるためのスケープゴートだ。のるか、そるか。

 幸いなことに、ジェイドではなかったが、ガイがスィンの望んだリアクションを取ってくれた。

 

「お前……まさか、盗んできた……とかじゃないよな?」

「失礼な! 百パーセント純粋に先生のご厚意ですよ。あそこで窃盗やらかすまで落ちぶれてないし、切羽詰まってません!」

 

 嘘は言っていない。切羽詰っていないのは、気持ちだ。

 まだ、この痛みにも着実に忍び寄る死神への恐怖にも耐えている。耐えていられる。

 

「それなら、先生のところ行って確認してきますか?」

「いや、違うならいいんだけどさ」

 

 診察した本人のところへ行ってもいい、というくだりが功を奏したのか。

 予想の中で一番恐れていた「カルテを見せろ」というジェイドの発言はなかった。

 ただ、ここからスィンの予想できなかった事態が展開されていくことを、彼女はまだ知らない。

 

「──では、あなたの負っている疾患の内容を教えてください」

「……? 前に話しませんでしたっけ? 気管支の障害、もしくは肺から呼吸器官にかけて疾患です」

 

 瘴気触害(インテルナルオーガン)とは言わない。あくまで言わないだけ、だ。

 ここでも嘘を言った覚えはないのだが、ジェイドの表情が納得の意を示すものにはならなかった。

 気のせいか、軽く険を帯びているようにも見える。

 わざとぼかした言い方をしたために突っ込まれることを予想していたが、どういうことかそれもなかった。

 ただ、

 

「……本当にそれだけなんですか?」

「はい」

 

 そう、聞き返されただけである。

 不思議そうにしているスィンをさておき、軽く腕を組んで思案しているその脳裏で、彼は何を疑問としているのだろうか。

 

「嘘言ってるようには見えねーけど……」

 

 ぽつりと、小さな囁きでしかなかったルークの声が、やけに大きく耳の中で響いた気がした。

 嘘? 

 まさか、何か感づいているのでは──

 そんな危機感が胸中に芽生えるも、次の瞬間それは瓦解した。

 なぜなら。

 

「ねえ、スィン。右胸叩いてみてもいい?」

 

 何を思ったのだろうか、アニスがそんなことを申し出てきたのだ。

 すべては心臓病があるなら断るはず、という考えのもとであることを、スィンは不幸にも知らなかった。

 

「別にかまわないけど……なんでまた」

「じゃあ遠慮なく~」

 

 少女の腕が振りかぶられるのを見て、スィンは気持ち背筋を正している。

 その辺の少女ならともかく、導師守護役(フォンマスターガーディアン)であった彼女の拳打を甘く見るのはためらわれた。

 

「いっくよー!」

 

 単に殴りかかるのではなく、ちゃんと形になっている正拳突きを耐えるべく、息を止める。

 

 ぽよぉん。

 

 ──形はともかく、力はそこまで入れていたわけではないらしい。

 スィンは軽い安堵を覚えて、ふう、と息を吐き出した。

 当の少女は、といえば、一言で言って困惑している。

 

「あ、あれぇ?」

 

 自分の拳と、スィンの胸を交互に見て、すすすっと遠ざかった。

 

「ねえ! 本当にスィンの心臓、右にあるの!? 全然平気じゃん!」

「あるよ、心臓なら右寄りに。鼓動聞いてみる?」

 

 当人たちにしてみればひそひそ話だったのだろうが、スィンには丸聞こえであった。

 はぅあ! と驚いたアニスだったが、その言葉に甘えてか身を寄せてくる。

 しばらくして、アニスは信じられない、というよりも明白に眼を見開いた。

 

「……ホントだ……左じゃすごく遠い」

「で、僕の心臓がどうかした?」

 

 どうも彼らは、自分の心臓に何かあるのではと考えているらしい。

 直球で尋ねれば、どういうことか彼らの視線はジェイドに向けられていた。

 彼が、何か吹き込んだということだろうか? 

 

「大佐?」

「──スィン。自分の言っていることに何の後ろめたいこともないというなら、その証明にこれを飲んでいただけますか?」

 

 実に事務的な言い方で、ぽん、と錠剤が手渡される。

 手が触れた瞬間、ぶるりと体が震えたのは異性恐怖症によるものか、あるいは怒りのためか。

 要は、言動が信用できないからおそらくは自作の薬に頼ろうというわけだ。

 覚えるだけ無駄だとわかりきっている苛立ちが理性を侵食し始める。

 地面に叩きつけて踏みにじってやろうか、という凶暴な衝動が鎌首をもたげたが、それでは自分が嘘をついていると認めたようなものだ。

 

 面白い。そっちがその気なら、こっちは受けて立とう。幸い、薬受けは最悪といって過言でない体質だ。

 

 ジェイドの薬と、スィンの体質。

 白い糖衣錠が口腔へ放り込まれ、飲み下された瞬間にその戦いは幕を開けた。

 直後から、スィンの様子が急変していく。体全体が緩やかに弛緩し、どこか夢でも見ているような目つきでじっ、と目の前のジェイドを見つめている。

 意識が朦朧となる。自白剤を飲んだ者の、基本的な症状だ。

 

「──では、あなたの負っている疾患の内容を教えてください」

「気管支の障害、もしくは肺から呼吸器官にかけて疾患」

 

 寝言に近い感覚で、偽りを忘れた言葉が発せられる。

 

「その疾患を負ったのはいつのことですか?」

「十六年前」

「あなたの心臓はどちらにありますか?」

「右」

「あなたは──心臓病、もしくはそれに類する病を患っていますか?」

「いいえ」

 

 さらさらと、まるで砂時計が刻を刻むが如く答えるというより唱えられる答えに、ジェイドはふう、と息をついて事の成り行きを見守っていた一同に振り返った。

 

「どうやら、本当のようですね」

「そうだな」

 

 まあそれはそれとして、とばかり、ジェイドは質問を再開させている。

 

「アッシュと出会ったのはいつ、どこですか?」

「十四年前。ファブレ公爵邸内」

「ガイとは腹違いの姉弟だというのは本当ですか?」

「知らない。そう聞いている」

「そうですか、知らないことは話せない──なら、ヴァンの言っていた『あなたが真に討つべき男』とは誰のことですか?」

 

 ここで、スィンはゆっくりと瞬きを見せた。かくん、と首がぎこちなく傾く。

 

「……あなた以外に誰がいるんです?」

 

 初めてジェイドの狼狽を見た気がする。

 意識的に瞳を瞬かせながら、スィンは無感動にそう思った。

 これまでの質問と一応差別化を図ったが、気づいたかどうかもわからない。

 それにこの反応。どうやら、彼は何も知らないようだ。

 なら、このままにしておいてやるべきか。

 

「恨みを買うことには慣れていらっしゃるでしょう……って、大佐、本気にしてる? 困ったな、ちょっとしたお茶目のつもりだったんだけど……」

「……薬の効果消失には、まだ猶予があったはずですが」

「調合間違えたんじゃないですか?」

 

 さりげなく自分の体質を隠して、スィンは意地悪く目元を歪ませた。

 

「ま、少なくともヴァンが指したのはあなただと考えて差し支えありませんよ。最も、あなたを討つなんてめんどくさいこと、今のところ考えてませんが」

 

 それが、実に柔らかな肯定であることを気づかぬジェイドではない。

 口を開こうとした彼を制し、スィンは重ねて言葉を綴った。

 

「理由はまだ、お話しできません。いつかちゃんと説明するから、今は勘弁してください……夕べ言った言葉が偽りだとおっしゃるなら、別ですが」

 

 連ねたのは、紛う事なきスィンの本音である。

 それが通じたのかどうかはわからないが、ジェイドはずれてもいない眼鏡の位置を直して呟くように言った。

 

「……それが何十年も先の話でないことを祈ります。私はもう、若くはありませんから」

「自分だけが年寄りだと思わないでください。僕だって、年寄りじゃないけど若くない」

 

 その場に張られた緊張感が、緩やかにほどけていく。

 では行きましょうか、と促されたダアトへの旅路。

 ジェイドとスィンのやりとりにすっかり気を取られていたルークが、スピノザのことを思い出すのは、ダアト入り直前の出来事であった。

 

 

 

 

 




 怒涛のベルケンド編、終了。イベントの嵐で死ぬかと思った。どうしてこうなった? 
 本来ここでアッシュとは一時的にお別れですが……この後の展開はサブイベントを前面に押し出すので全然お別れという風情はないです。

 作中自白剤が登場しましたが、自白剤といえば「真実の血清」ですね。
 フィクションの世界においては非常に有能、魔法のおくすり自白剤ですが、実際に可能なのは「嘘をつけないよう脳の働きを抑制する」ことで、何でもかんでも洗いざらい情報を吐くのとはまた違うそう。
 自白させる手段としては自白剤のほか、不眠状態、絶食状態、拷問などがあるとか。
 上記の方法で通常の精神状態から程遠い状態にして、黙秘することを困難とさせるわけですね。
「真実の血清」なんかは原材料にベラドンナなど使用しているため、被験者に多大なるダメージを与えるそうですが……情報を吐かせるのに拷問して意識朦朧させて嘘をつけなくするのと、致死性の高い植物を使用した怪しいおくすり飲ませるのと、どっちがより非人道的なんでしょうね? 
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