the abyss of despair   作:佐谷莢

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第七十七唱——暴かれたのは、記憶の深淵に突き刺さる罪

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 ──しくじった。

 肩を掴む手を振り解き、逃走を図る。

 が、「ジェイド!」というピオニーの声に反応したブウサギジェイドがスィンの足元にまとわりつき、逃走の足を鈍らせた。

 腕を掴まれ、力任せに投げ出される。どさっ、と受身を取るため仰向けに転がったのは、意外なことに寝台だった。

 だが、床と違って柔らかなそこでは、咄嗟に取れる行動も制限される。横に転がろうとする動きを阻害され、ピオニー自身の体重で押さえつけられた。

 ぞぉっ、とフォンスロットならぬ毛穴が一斉に開き、咽喉の奥から恐怖がせり上がる。

 

「きゃあぁあっ!」

 

 のしかかる男の鼓膜を攻撃するため、ある目論見のためにわざと声を甲高くさせた。

 眉のしかめ具合からして多少効いてはいるようが、スィンを押さえ込むその腕は微塵にも揺るがない。

 

「騒ぐな! 見つかってもいいのかよ」

「いや、離してっ、触んないでっ……!」

「往生際が悪いな、大人しくしろ、このっ……!」

 

 ブウサギたちがおろおろと見守る中、二人はしばらく揉み合いを続けていた。一度は腕を振り払うも、ピオニーの下からなかなか逃げられない。

 そうこうしているうちに、苦しさから暴れるのをやめたスィンが、大きく息をついた。

 それに気づいたピオニーもマウントポジションから蹴落とされないよう用心しながらスィンを見下ろす。

 二人の荒い息遣いが、緊張感のないブウサギの鳴き声の合間に響いた。

 

「ついでにっ、言わせてもらうとだな。ジェイドやアスラン、ってのはそこにいる可愛い方の連中の話だ。俺の部下なら知らない奴はいない。更に、女性士官に男物の軍服支給するわけないだろうが」

 

 やっぱりマルクトの頂点に立つ人物である。ころころ変化するその表情を彩る目は、節穴でなかったか。

 これで気づかない方がどうかしている、という意見もアリにはアリだが。

 

「んで、どういう変装してんだお前は?」

 

 それぞれ掴んでいた手首を片手で固定し、眼鏡が取り上げられた。

 目をまじまじとのぞかれた後で目蓋をつままれ、無骨な指が意外なほど器用に眼球からカラーレンズを外していく。

 

「なんだこれ、片方しか……な!」

 

 これまでか、とスィンは色を変えていた髪を元の色に戻した。

 雪色の髪、緋と藍という異なった瞳──

 彼との再会は大分時を経ているのだが、この目立ちすぎる特徴の主が誰なのか、ということは、彼にとって激動であったはずの過去に埋もれてはいなかった。

 最も、忘れようのない記憶であったことも間違いないだろうが。

 

「お前……先生、の」

「──幾歳月を経て御身の記憶にお留めいただき、(まこと)光栄と存じます。ご無沙汰しておりました、ガルディオス家左の騎士、ナイマッハ長女、スィンフレデリカ・シアンに御座います」

 

 実に儀礼的で冷静な自己紹介である。

 しかしピオニーは、気にも留めていなかった。

 

「……それが、お前の名か。ジェイドを……討ちにきたのか?」

 

 親友の執務室に侵入していた人物の正体がわかり、ピオニーの声色がどこか悲しげで、切なげなものに変化する。

 否を唱えるのは簡単だが、信じてくれそうにない。

 どうしたものか、と表向きスィンが黙秘を貫いたところで、コンコンッ、と外界へ通じる扉が叩かれた。

 

「陛下? 先ほど私を呼んだと言伝をいただきましたか」

 

 声の主は──よりにもよって、ジェイドである。

 

「ジェイドかよ! 呼んだって一体いつ……」

「可愛い方のジェイドをお呼びになられたではありませんか」

 

 それかよ! と扉とスィンを交互に見ているピオニーに、苦しい息の下で頼んだ。

 

「落ち着いてください。とりあえず、僕の上から降りてもらえますか?」

「駄目だ、お前逃げるかジェイドに襲いかかるつもりだろ!」

「しません。逃げもジェイドに襲いかかりもしませんから、降りてください苦しいです」

「断る!」

「……陛下? 入りますよ」

 

 小声での口論が終焉を迎えずして、返事がないことを不審に思ったらしいジェイドが扉を開いた。

 彼の視界に入ってきたのは、位置的な関係からしてピオニーが軍人の服を纏う誰かを押し倒している、構図のはずである。

 それが誰なのかは、他ならぬピオニーの体が邪魔をしてジェイドにはわかるまい。

 その光景を前にして、ジェイドはふう、と吐息をついていた。ずれてもいない眼鏡の位置を修正している。まるで興奮した猫が、毛づくろいで落ち着こうとしているようだった。

 

「陛下……ようやっと後継者問題に目を向けてくださったのはありがたいのですが、それは暫定的に私の部下です。孕ませるような真似は控えてください」

「は!?」

 

 事情を知らないピオニーが驚愕と共に腕を緩めたのを見逃さず、スィンは皇帝を突き飛ばしてむくりと起き上がった。

 転がるように寝台から離れて、ジェイドへと歩み寄る。

 

「それとか言うな! ……って大佐、何で僕だってわかったんです?」

「軍服を着ていながら軍靴を履いていない、更にその特徴的な腰の武器を見れば、ルークにさえわかると思いますよ」

 

 失礼なたとえだが、あえてそのことには突っ込まない。まずはここへ来た目的を果たしにかかった。

 腰の辺りを探り、先ほど操作した手のひらサイズの譜業を取り出す。

 

「……まず、状況の整理からお願いします。どうしてあなたがここにいるのですか?」

「宮殿前を散歩していて、大佐に届け物を頼まれたんですよ。こー言う方に」

 

 カチカチと突起を押さえ、スィンは音声再生の突起を押し込んだ。

 

 ぽちっ。

 

『あのっ、その……この手紙を、ジェイド・カーティス様にお渡ししてほしいんです!』

『ほ、ホントは、自分でお渡ししたいのですけれど、最近はお仕事がお忙しいようで、なかなか、お姿をお見掛けすることができず……ですが今、たった今軍本部へ向かわれたんです! 軍本部は、私たちのような貴族の娘では出入りは禁じられているから、その、お渡ししてほしいと……』

 

 ぷつっ。

 

「──ってなわけです。モテますね、大佐」

 

 ニヤニヤ笑いを隠さず、はい、と懐から取り出した手紙を渡す。

 

「……ずいぶん皺が寄ってますね」

「陛下と寝台の上で揉みあいになるとは思ってなかったんで」

 

 それはいいとして、と彼は封を解くことなく便箋を懐へ収めた。

 

「今の話からすると、あなたが向かったのは軍本部では?」

「もちろん。で、大佐の執務室に置いてこようと思って入ったんですよ。そしたらブウサギのジェイドが、大佐の執務室にいて。そちらを追っかけてきた陛下と会って、えー……護衛を頼まれまして。抜け道使った後で現在に至ります」

 

 説明不足の点に補足をいれながら、状況を説明する。

 逐一頷いていたジェイドは、完全に納得したらしくピオニーへ目を向けた。

 

「それで、スィンを侵入者と見切った陛下に拿捕された、と。ですが、そんな格好で居合わせたら取り押さえられても文句は言えませんよ」

「仕方ないじゃないですか。それとも大佐は、皆のいる前で手渡されて勘違いされたり、囃されたりした方が良かったんですか?」

「私は大歓迎ですが?」

「僕がイヤだったんです!」

 

 どうでもいい口論は続く。

 しばらくスィンとジェイドのやりとりを呆然と見ていたピオニーは、やがて「……おい」とジェイドに尋ねた。

 

「はい?」

「ジェイド、そいつと……知り合い、なのか?」

 

 わなわなと、確かめるように尋ねるピオニーにジェイドはあからさまに不審がりながらも首を縦に振っている。

 その言葉には、何の裏もなかった。

 

「そういえば、スィンは陛下の謁見に同席しませんでしたね。今報告書を提出してきましたが、彼女とは彼らと同じく行動を共にしています。現在はホド戦争を潜り抜けたガルディオス家の嫡男に仕えている身……で、間違いありませんか?」

「──まあ、間違っている点はありませんね」

 

 それを聞き、皇帝は言葉にならないほど驚いたらしく、視線だけで二人を交互に見てはぶつぶつ呟いている。

 

「親しく、しておいてから……? いや、ジェイドに限ってそんなつまらん手にひっかかったりは……いやいや」

「……で、陛下は何を錯乱しているんです?」

「眼前の事態に混乱されているのではないかと」

 

 足元に擦り寄ってきたブウサギジェイドを撫でつつ、スィンはジェイドと顔を合わさずして小さな声で告げた。

 

「大佐、僕があなたを討つ理由、聞いても後悔しないでくださいね」

「……?」

 

 その答えを聞かぬうちに、ピオニーはしゃがんでいるスィンを指して決定的な一言を告げようとしている。

 

「ジェイド! こいつは「ゲルダ・ネビリムの娘」

 

 ピオニーの声をさえぎり、ぽつりとスィンが呟いた。

 驚愕する二人を尻目に、ブウサギを撫でていた手を外して立ち上がる。

 

「僕は確かに彼女の血を引いています。あなたが何をしたのかも知っている」

 

 万物を凍てつかせる永久凍土を思わせる声が耳朶に浸透し、感情を失くした瞳がジェイドの顔を映した。

 ジェイドの狼狽を見たのは、多分これが二回目だ。

 実に珍しい、仮面の取れた彼の表情を、スィンは胸の奥に渦巻く感情の高ぶりが収まる気配を見せるまで、その顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凍るような沈黙を経て、口を開いたのはスィンだった。

 

「すみませんね。自分の口で話すと言った手前、先に言われてしまうのは避けたかったんです。そんな顔させるつもりはなかったんですけど」

 

 時期が早すぎました、と言ってきびすを返しかけたスィンの腕を、ジェイドが掴む。

 実に素早い反応だったが、恐ろしいほどに力が入っていない。

 振りほどこうと思わなくても、そのまま歩を進めてしまえば意味を成さなくなるほどに。

 

「……いつから……いつから、それを知っていたんですか」

「──少なくとも、あなたが自己紹介してくださったときには、知っていましたよ」

「おまえがカーティス家の養子としてケテルブルクを出てから、三年経ってからのことだ」

 

 口調から、態度からスィンが詳細を語る気がないと悟ったピオニーが、重々しく口を開いた。

 思い出すことに、明らかな苦痛がにじみ出ている。

 

「ネビリム先生を探す少女が来た、って小耳に挟んだんでな。理由だの先生との関わりなんかを聞き出そうとして、探したら……ネフリーに詰め寄るこいつを見つけたんだ。『お前の兄はどこだ』ってな」

 

 当時、ピオニーもネフリーもゲルダ・ネビリムの死は不慮の事故と聞かされていた。

 当時のケテルブルクの知事も、ネビリムと付き合いのあった大人たちも、ネフリーを含めた生徒たちも、やはり事故だと、見知らぬ少女であるスィンにそれだけを言っていた。

 ただ事故だと言われて、納得する子供はいない。

 どんな事故だったのか、遺体の発見者は誰なのか、根掘り葉掘り、少女は強く食い下がり聞き込みを続けていた。

 そして、彼女はジェイドとサフィール──ディストの、後にケテルブルクの誇りとなる天才たちの存在を知ったのである。

 

『あなたのお兄さんは、お母さんを……! 理由はそれだけよ!』

 

「……って、ネフリーに詰め寄ってたっけな。あんときは驚きすぎて聞けなかったが、あの状況で、どうやって事実を知った?」

「母の墓前で預言(スコア)を詠みました。確かに事故、でしたね」

 

 限りなく人為的ではあったけれど。

 口にこそしなかったが、彼女はそう言いたげだった。

 大きく深呼吸をする気配に続いて、スィンがくるりとジェイドに向き直る。

 紅の両眼に映る彼女は、そら恐ろしくなるほど『通常の』表情をしていた。

 怒りも憎しみも感じさせない、ただ自らの思いを訴えている、それだけ。

 

「……この件に関して、復讐の意思はありません。安易に復讐だけを望むことができるほど、僕は無邪気じゃない。ルークに語ったあなたの意思も、扉越しに確認させてもらいました。あなたがその意識を持っている以上、過去でしかないあなたの行動を責めるのは無意味だ。だから……」

 

 ふぅっ、と大きく息を吐く。

 潤んだ瞳が瞬きでかき消え、左右の色が異なる瞳がジェイドを見据えた。

 

「このことを知ったからって、僕を母さんと重ねないで。あなたが償うべきは母さんで、僕じゃない。それをどうか、忘れないでください」

 

 沈黙。睨み据えるスィンの視線を、ジェイドは珍しく──本当に珍しく、瞳を揺らがせながら受け取った。

 

「……わかり、ました」

 

 短くも、はっきりとした断言を聞き、スィンもまた荒げた感情をなだめるような深呼吸をしている。

 

「できることならこれまでの態度も変えないでほしいけど、それはあなたにお任せします。そんなことを強制できる立場じゃないし……」

 

 あなたが何をしようと、彼女がこの世界に戻ってくるわけではない。

 その言葉を直前で飲み込み、スィンはくるっ、と、ピオニーに振り返った。

 

「……そろそろ、戻ります。抜け道、使わせてください」

「わかった」

 

 再び開かれた通路に、スィンが身を躍らせる。

 今度は愛ブウサギが落ちないよう厳重に蓋をし、ピオニーは可愛くないジェイドに振り返った。

 

「……大丈夫か?」

「──衝撃が大きすぎて、しばらく立ち直れないかもしれません」

 

 瞳を隠すように、眼鏡のふちに手を添える。

 そんなジェイドを見て、ピオニーは心配そうに眉尻を下げた。

 

「仕事を理由に、軍に復帰するか? 情報整理にはちょうどいいぞ。書類仕事も溜まっていることだしな」

「その気遣いは喜ぶべきなのでしょうが、逃げたいわけではありませんし、彼女に逃げたと思われたくありません。己の罪と向き合うには、ちょうどいい機会です」

 

 自分へ言い聞かせるように皇帝の提案を却下し、一言断りを入れて彼の私室を辞する。

 一礼するメイドから遠ざかり、宮殿の広い廊下を歩きつつも、彼は大きく息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

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