通路は穴となっていたのに、どうしてブウサギジェイドは執務室へ上がってこれたのだろう。
その疑問が解消されたのは、秘密通路を使ってジェイドの執務室へやってきたそのとき明らかとなった。
何のことはない。飛び降りられるようにもなっていたが、上がりやすいようになだらかな傾斜がついていたのである。
ピオニーがやってきた際、通路の入り口が塞がっていたのはブウサギジェイドが崩したからだろうか。
なんとなく通路の入り口を散乱している本や辞書の類で隠しながら、スィンは先ほどの出来事から思考をそらすようにそんなことをつらつら考えていた。
外に誰もいないことを確認してから、ジェイドの執務室を後にする。
後は帰るだけだ。見咎められても、逃げ切れればそれでいい。捕まったところで、ジェイドが助けてくれることを期待していないわけでもないけど。
そこで思考が、意識することから逃げていた思考が、否応なくジェイドのことを考えてしまう。
まったくの予想外だった。まさか、こんなに早くバラしてしまうことになるとは。
幽霊でも見たかのようなジェイドの顔が脳裏に浮かぶ。
ヴァンやディストと相対する際、必ず足かせとなるその情報を隠し通すのは実質不可能だと思っていた。
彼らにバラされ、緊急事態時に彼の混乱を招くよりはと、少しずつ明らかにしていくつもりだったのだが……あっけなく、あの皇帝に目論見は破壊されてしまった。
恨む気持ちがないわけではないが、恨んだところで過ぎてしまったことはどうしようもない。
それはもちろん、ジェイドに対しても当てはまることだ。
だから恨まない。復讐も、しない。
復讐心を幾年にも渡って育て、隠し続け、遂げることなく昇華させた主を倣うのだ。
間違っても影響などされていない。その証拠に何も思っていないわけでもないが……
とにかく、このことに関して隠し事はなくなった。これからが、問題だ。
これから先スィンが何を言ったところで、彼の負担となるだけだろう。ジェイド自身の罪の意識は、時の川の流れにさらすか彼自身でしかどうこうすることはできないのだ。
早めに立ち直ってくれることを祈りつつ、軍本部の出入り口へ向かって突き進む。
これまでやってきた道順を頭に思い描いて進むうち、不意に差しかかった曲がり角で誰かと接触しそうになった。
「失礼……」
スィンも相手もそう言ってすれ違おうとしたそのとき。
「スィン」
「え?」
ふと名を呼ばれて、彼女は初めてすれ違う相手を見た。
茶の色合いが強い蜂蜜色の長髪、紅玉という珍しい眼に眼鏡をかけた優男風の軍人──
「あれ、大佐。まだ仕事終わってなかったんですか?」
気づけなかった。この男が、こんなに近くにいたというのに。
内心の動揺を押し殺し、極めて普通の態度を取って尋ねる。
さぞかし複雑な顔を見せるのでは、とスィンは予想していたのだが──
「いえ、老骨に鞭を打って終わらせました。あなたを探しにきたんです。行きましょう」
言うなり、くるりと後ろを向く。そして先導を始めたのだった。
「……なの?」
「何か?」
「いや別に何も」
正気なの?
思わずそれが口をついて出ていた。幸いにも、ジェイドの耳には届かなかったようだが。
彼なりに態度を改めぬよう、との考えなのだろうか。
自分に対し、少なからず負の感情を抱いているとわかっている相手に対して、背を向けるとは。
足だけは動かしながらも、ジェイドの広い背中を見つめた。
無防備、ではないにしても、背中に目はないのだ。何かあれば反応は確実に鈍る。
彼はそこまでスィンを見くびっているのだろうか。それとも、スィンの言葉をそこまで信用しているというのだろうか。
侵入した際と格好に変化はないため人目は引いたが、ジェイドの存在は大きかった。
誰かに何かを言われることもなく、無事軍本部を脱出する。
双方無言のまま宮殿前広場へ到達すると、不意にジェイドが立ち止まり振り返った。
「大佐?」
どうかしたのか、と尋ねようとして、思わずその真紅の眼を見たことに後悔する。
その表情からは、常に浮かべている微笑が完全に消えていた。
「先ほどの質問には答えかねます。残念ながら、私は自分が狂っているかどうかは把握しきれていません」
揶揄なのか、本気なのか、図りかねるジェイドの弁にスィンが押し黙る。そのとき。
「あなたに、この命を差し上げます」
不意に、唐突に。ジェイドは、真顔でそう言った。
「偽ったつもりはありませんでしたが、今一度誓いましょう。今この時より、私はあなたのものになります。いつ、どのようなときであっても、私は──あなたに、喜んで殺されますよ」
「……償う相手を間違えるなと言ったばかりなのに」
一度瞬くほどの刻を経て、スィンは吐き棄てるように呟いた。
犯した罪を、自らの命をもって償う。その覚悟には敬意を表すべきなのかもしれないが、スィンの耳には彼が自分の命を粗末にしているだけにしか聞こえないのだ。
それに──口に出すのもはばかれるが──そうすることで、開き直っているようにしか感じられない。
「否定はしません。ですが、これまでこのことを隠し続けてきたあなたに私が報いるには、この方法しか考えつかないんです」
「報いるって、上から……いや、僕があなたにこのことを隠していたのは、一重にガイラルディア様の正体隠匿のため。そして今、僕たちがやろうとしていることに支障をきたさないためです。間違ってもあなたのためを思ったわけじゃない」
食い下がるジェイドに、スィンはわざわざ辛辣な言葉を選んで彼の言葉を却下した。
「僕があなたの命を取らないと、少なくとも今は取れないとわかっているから、命を寄越すなんて軽々しいことが言えるんでしょう?」
「そんなつもりは……」
「皇帝の懐刀と名高い
わざと嫌味を連ねて黙らせるつもりが、どんどん本音が零れてきている。
高ぶる感情を抑えるように言葉を止めたスィンは、やがて閉ざしていた自分の口を解放した。
「……どうでもいいけど、もう少しご自分の体を労わったらいかがです? くれるというなら預かっておきますけど、僕があなたの命を貰い受けるその日まで生きていてくださることを願います。後、殊更態度を改めてほしくありません。皆に知ってほしいことでもありませんし」
──どうせジェイドは、スィンが何を言ったところで自分の言葉を取り下げはしないだろう。ならばスィンの取るべき行動は、初めからたったひとつしかなかった。
それに、宮殿の前で立ち話を口論へ発展させることは避けたかったということもある。再度態度を変えないでくれと頼むことで、スィンは話をしめくくったつもりだった。
ところが。
「──それはあなたの本心ではないのでしょう?」
ジェイドは、この話に完全な決着を求めているらしかった。
「私は少なからず下手に出たつもりです。何故穏便に──事を荒立てぬよう済まそうとするんですか?」
「……あなたと口論したところで、勝てるためしがないからです。あなたに僕の本心を知ってもらおうとは思わないし、それが必要だとも思ってない。あなたの言ったことを承知できないと言っているわけではないんです。納得してください」
聞き分けの悪い子供を諭すかのようなスィンの言い草に、ジェイドが露骨に眉を顰めて口を開こうとした、瞬間。
ふと、スィンの視線が明後日の方角へ向けられる。
そして彼女はにんまりと、悪意のこもった笑みを浮かべてジェイドを──正確には彼の後ろを指した。
「この話は、ここでお仕舞い。僕は皆のところに戻ります。大佐はがんばって、彼女らの相手をしてあげてくださいね」
「「ジェイド様-!」」
それが一人のものであれば、とても小粋なステップとなって石畳を歌わせたことだろう。
しかし、それを奏でる足が大多数ともなると、ブウサギを数十頭走らせたが如く石畳は震えてヒビが入らんばかりにきしんだ。
足音が大きくなるにつれて、それの正体が明らかとなる。
華やかな薄桃色、淡い黄色、涼やかな水色、と混み合う色の塊たちは、歓声を上げる女性へと視界の中で変貌を遂げた。
その華やかにして豪奢な身なりからして貴族の娘たちだ。さしずめ、ジェイド・カーティス大佐のファンクラブだろうか。手に手に恋文らしき便箋や贈り物らしき物品を携えている。
それを認めたジェイドの表情に表向き変化はないが──内心はきっと、穏やかじゃない。
ともかく、このまま傍にいることであらぬ誤解を呼ぶのは避けるべきであろう。
スィンが素早くきびすを返し、「それじゃ」とジェイドから離れようとしたそのとき。
──ガシッ
「へ?」
「離脱します。息を止めて、眼鏡を失くさないよう気をつけてください」
腰の辺りをホールドされたかと思うと、彼はスィンを担いで自分の眼鏡を外していた。
「ちょっと、大──」
抗議の言葉が、眼鏡というフィルターが外された視線に射止められ、意味の成さない音となる。
ジェイドの素顔があらわとなったからか、遠くで歓声がより黄色いものとなった。
甲高いそれは、どんどん糸を引き──
どっぽぉんっ!
腰に回された、思いのほか力強いジェイドの腕がちっとも緩まぬまま、全身は冷たい無重力に支配された。
「仲間が港を押さえてる。船が到着したら、例の場所へ誘導する」
「よし。これで捕まえられるな」
待てど暮らせど、日が傾きつつあっても港にこれといった変化はない。
どうしたことかとルーク一行が街をさ迷い歩くうち、彼らは街の入り口付近で密談を交わす二人組に遭遇した。
鮮血のアッシュと、漆黒の翼ヨークである。会話内容を垣間聞き、ルークは愕然と呟いた。
「なんだよ……結局あいつに負けたのか……」
「勝ち負けの問題か、劣化野郎!」
一方で、ルークの存在をきっちりと把握していたアッシュは、最もな憎まれ口を叩いている。
グウの音もでないルークであったが、どうにかこれだけは言い切った。
「……劣化劣化言うな!」
「そうですわ、アッシュ。少し言葉が過ぎますわ」
これまでアッシュのルークに対する言動は十分いき過ぎていた気がするが、ナタリアはそんなことを言って珍しく彼を非難し、ルークを擁護している。
当然、それをアッシュが面白く思うわけがなく。彼は拗ねたように鼻を鳴らした。
「……ふん。おまえまでそいつの肩を持つのか」
「そんなこと言ってませんわ!」
「やー、楽しい痴話喧嘩中すみませんが、そろそろダアトに行きませんか?」
そして外野からの茶々に過剰反応を示し、ふと我に返っている。
「……だっ、誰が痴話喧嘩……!」
「そ、そうです……わ?」
「今の、旦那の声……だよな?」
確かに、今の痴話喧嘩云々はジェイドの声音のものだった。
しかし、声はすれども姿がなく、一同が、そして三人もまた対立を忘れて視線を巡らせる。
そして──ばしゃり、という水音が聞こえた。
「こちらです。お待たせしたかと思いましたが……そうでもなかったようですね」
ざぷんっ、ざばっ。ばしゃっ。
水もしたたるなんとやら。
すぐそばの水路から現れた二人を見て、一同は声もなく二人を見て迎えた。
「おや? どうしたんですか皆さん。ルークが初めてアッシュを見たような顔つきで」
「……なぜ驚いているのかと聞いているなら、厭味にもほどがあると思うんですけど」
髪から、服から、何もかもから雫を滴らせたスィンが、ぎゅうぅ、と顔に張り付いた髪から雫を追い出している。
すでに眼鏡をかけているジェイドが、レンズから雫を拭い取った。
まさかそれが固まった要因ではないだろうが、特徴的な双眸があらわとなったところでアニスがいち早く反応を見せている。
「ど、どうしたんですかぁ!? なんで大佐とスィンが濡れ鼠なんです?」
姦しいその声を皮切りに、他のメンバーたちも二人を質問攻めにした。
「い、一体何があったの!?」
「二人して水路に落っこちたのか!?」
「それとも誰かから襲撃されたのか!?」
「ヴァン、か……?」
「二人とも無事ですの!?」
「そうですわ、二人とも怪我があるのなら治療を!」
ジェイドに、スィンに迫る彼らを、どうどう、と落ち着けるように両手を立てる。
そしてスィンは、咄嗟に仕舞っていた眼鏡を取り出して顔にかけた。
「違う違う。宮殿のところで大佐と会ったら、大佐目当てに貴族のお嬢さんたちが集まってきちゃったんだよ。慌てて逃げようとしたら大佐に捕まって、水路伝いに逃げることになっちゃって」
ジロリ、とジェイドを横目で睨みつつ事の顛末を簡略に説明する。
しかし彼はスィンの視線などどこ吹く風で、苦笑を零していた。
「いやあ、すみません。いちいち彼女らの相手などしていたら、夜が明けてしまいますから」
「だからって、僕まで引っ張らなくてもいいじゃないですか! 大佐は水もしたたる色男だから平気かもしれませんけどねえ、僕はそうじゃないんですよ? 普通の人はずぶ濡れになって体が冷えたら風邪を引くんです。悪寒鳥肌に加えて風邪こじらせたら、どう責任とってくれるんですか!」
「つきっきりで看病してあげましょう」
色男云々の否定をすることなく、ジェイドはしれっとした顔で対抗策を講じている。
その様子からして、特に目立ったぎこちなさはない。立ち直りが早いのか、芝居が上手いのか。
おそらくどっちもだろうと無意識に考えたスィンは、「遠慮しますぅー」と表面上渋面を作って返した。
ジェイドの表情がデフォルトの胡散臭い笑みを象るも、その瞳はどこか優しげなものとなる。
そして囁かれた言葉を前にして、スィンは思わず目を白黒させていた。
「それに。あなたも十分『水もしたたるいい女』ですよ」
──素晴らしい、と。スィンは掛け値無しにそう思った。
確かに態度を変えないでくれ、と頼んだ。しかしまさかこれすらも変えずに貫くとは。スィンは場違いにも彼を称賛していた。
しかしそんなことをしている場合ではない。いつものように、応じなければ。
「──う、嘘つきは、死んだ後に舌抜かれますよ。なんなら僕が抜いてあげましょうか」
半眼になり憎まれ口を叩く。
頰を意図的に紅くさせて、スィンは照れている風情を一同に見せてから、視界からジェイドを追い出した。
「なんでもいいけど、もうスピノザは見つけたっぽいしさ。後はアッシュに任せよう」
「そうね」
「……」
ティアは率先して快諾するも、ルークはムスーッとして沈黙を通している。
そんなルークの心情を看破したガイが、おかしそうに彼の顔を覗き込んだ。
「はは。まだスピノザを見つけられなかったこと、むくれてるのか」
「じゃあここまでがんばった坊ちゃんに、いい物をやろう」
何を思ったのか、海賊帽に派手な襟飾りの男ヨークがおもむろに懐から取り出した何かをルークに放って寄越した。
受け取ったルークは、物珍しげに首を傾げて夕日にそれをかざしている。
「なんだこれ?」
「こいつを持っていれば、俺たちの仲間が助けてくれる。暇な時にでも試してみな」
「まあ、いいや。もらっておくよ」
ブローチのようなバッジのような、アクセサリーらしいそれを仕舞うルークの表情は明るい。
「これでやっとダアトですねえ。あちこち引きずり回されてもうくたくたですよぅ」
「悪かったな、アニス。みんなも、ごめん」
正確な話、ここまで来る羽目になったのはその他二名にも原因はあるのだが……それでも大元がルークである事実は変わらない。
「では、ダアトへ「くしゅっ! きしゅんっ、へっくしゅ!」
ダアトへ向かおうとするジェイドの言葉は、笑いを誘うほど繰り返されたくしゃみによって中断された。
「あ、失礼」
ぢーんっ! と豪快に鼻をかんでから非礼を詫びたのはスィンだ。
赤くなった鼻を押さえつつアルビオールの停泊している港へ向かおうとしている。
「待て。港はもうすぐ荒れるし、日も暮れるから今日はここに泊まれ」
「やだよ。もともとケテルブルクへ行くことになったの、僕のせいだし」
準備運動もせず水路へ飛び込んだことにより、冷えた体を忙しなくさすりながら、スィンはアッシュに振り返った。
体が無意識に暖を求めてか、わずかながら震えており、その顔色もけしていいとは言えない。
「──訂正します。アッシュの言うとおり、今は捕り物劇に巻き込まれている暇もありません。急がば回れ、とも言いますし、今日はグランコクマで一泊していきましょう」
翻された発言に、一同の驚愕を見て取って、彼は「では」とわざとらしくスィンに近寄った。
「冷えた体をあっためるためにも今夜は一緒に寝ましょうか。すでに宿しているかもしれない風邪菌を皆さんに伝染させるわけにはいきませんし」
「つ、謹んでお断りします……!」
やっぱりこれだけでも、改めてもらったほうがよかっただろうか。
そもそもこれまで、一体何のつもりでスィンにこの手のちょっかいをかけてきたのだろう。
単純に反応を面白がっているか、暇つぶしか、はたまた何かしらの意図があってか。これを改めてもらうとなると、その辺りを確認して、それから違和感にならない程度に調整してもらわないといけない。
──めんどくさい上に、これはジェイドと二人きりで話す必要がある。それは、考えただけで憂鬱になること、だった。
スィンは態度を変えないでくれと言い、ジェイドは態度を変えなかった。多分これでいいだろうと、結局何も言うことなく、グランコクマの夜は過ぎた。