the abyss of despair   作:佐谷莢

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第八十四唱——追憶をかすめしは、懐かしくも愛しい命たち

 

 

 

 

 

 

 高濃度フォンスロットの他に、これといってめぼしいものが見当たらなかった遺跡を出で、一行は探索を続けていた。

 先ほどの場所からは一転、奈落の底へ続いていそうな崖にでくわした、その矢先。

 

「あ~~~~~っ!?」

 

 突如叫びだしたアニスの言葉に、ティアが目を白黒させながら尋ねた。

 

「どうしたの、アニス」

 

 当人と言えば、彼女の言葉に耳を貸した様子もなく懸命に空を注視している。

 その先には、ひらひらと舞い踊る妖精にも似た可憐な姿があった。

 

「あれは、幻の『青色ゴルゴンホド揚羽』!」

 

 ただし、その瞳はガルドマークへ変貌しつつある。その理由とは。

 

「捕まえたら、一匹あたり400万ガルド!!」

「……え?」

 

 ──どうせそんなところだろうと思っていたが、まさかこれほどとは。

 思わぬ高値を耳にして、スィンは思わず蝶の姿を目で追い、呟いた。

 

「──あんなに、沢山いたのに」

 

 ホドが滅び、狂ったのは出身者の運命だけではない。

 あんな、綺麗だけど珍しくもなんともなかった蝶が高値で取引されるほどに、生態系もまた狂ったということか。

 

「……スィン?」

 

 呆然と蝶を見つめる彼女に不思議そうに、導師イオンが呼ぶ。

 すぐさま反応して、「何か?」と返している間に、アニスを心配したガイは彼女の傍へ歩んでいた。

 

「おーい、アニス。転ぶぞ」

「あ・の・ねっ! 私のこと子ども扱いするのは、やめてくれないかなぁ」

 

 確かに腹の中はジェイドと遜色ほどかもしれないが、年齢だけ考えれば彼女は未成年だ。子供として見るな、というのは難しい。

 苦笑するガイの表情が一変したのは、次の瞬間である。

 

「きゃぅっ!?」

 

 寒さに耐える乙女のごとき、大地は数多の命を乗せるその巨体を盛大に震わせた。どんな事情があれ、乗せられている命はたまったものではない。

 手近な例として、崖淵に佇みガイに抗議していた少女は、瞬く間にバランスを崩して崖へその身を躍らせた。

 

「アニス!」

 

 すぐさまティアが走りより、片手だけで己を支えるアニスに手を伸ばす。

 だが、軍人であっても音律士(クルーナー)の彼女に肉体労働は不向きだ。引き上げることは愚か、支えるにもその細腕では難しかった。

 その後に続いたガイが、アニスのもとへと到達する。

 彼はわずかに及び腰となったが、やがて覚悟を決めたように腹ばいになってティアの隣に並び──崖淵を掴むアニスと、その小さな手を掴むティアの手を丸ごと握りしめた。

 

「ガイ!?」

「……くっ!」

 

 驚いたようにティアが声を上げるも、彼は振り切るように力を入れてアニスをひっぱり上げる。そしてどうにか引き上げた後に、彼は呆然と己の手を見つめていた。

 

「ティア、ガイ……ありがとう」

「私は……それよりガイ、あなた……」

「……さわれた……」

 

 感慨深げに、信じられないといった風情で呟く。

 騒動の発端となった揚羽が、まるで祝福するように彼の頭上を舞い踊った。

 

「ガイさん! 頑張ったですの!」

「よかったな、ガイ!」

「偉いですわ。いくら過去のことがあっても、あそこでアニスを助けなければ見損なっていました」

 

 口々の賞賛に、少し照れたような表情をしている。が、すぐにアニスへ話題を振った。

 

「……ああ、そうだな。俺のせいでアニスに大事がなくてよかったよ」

「や~ん、アニスちょっと感動v」

 

 そして悪魔の囁きが、その感動に溢れんばかりの下心を宿させる。

 

「ガイはマルクトの貴族でしたねえ。きっと国庫に資産が保管されてますよ」

「ガイv いつでも私をお嫁さんにしていいからねv」

「……遠慮しとくわ」

 

 瞬く間に輝く瞳をガルドマークへ変貌させた少女を前にして、彼は資産を食い潰されることを想像したのだろうか。丁重とは言いがたい態度で固辞を示している。

 

「いーんですか? せっかくのお嫁さん候補を。アニスなら丈夫な赤ちゃん、産んでくれると思いますけど」

「いやお前、そーゆー生々しいことを……って」

 

 これまで騒動に参加しなかったスィンを見やれば、彼女は足元のセレニアの花を摘み、解体している最中だった。

 わずかな蜜を指先に垂らし、その指を空へ差し出している。ほどなくして、周囲を遊んでいた青色ゴルゴンホド揚羽が舞い降りてきた。

 じゃれる子猫のように反射的に捕まえようと伸ばされたアニスの手をかいくぐり、揚羽は差し出された指へそっと止まる。

 

「手出ししないでね? 悪意に敏感だから」

 

 そう言って、スィンはゆっくりとホド揚羽を宿した手を引き寄せ、一同に見えるようかざした。

 青色に透き通る羽が、和えかな風に揺れる。

 

「綺麗ですわ……」

「本当。それなのに可愛い……セレニアの花の蜜が好きなのかしら?」

「……よんひゃくまん~……」

 

 約一名別として、女性陣はその儚げなたたずまいにうっとりと見入った。

 ただしスィンだけは、どこか寂しげな目で蜜を食む蝶を見つめている。

 

「ミュウも見たいですの!」

 

 スィンの足元で跳ねるミュウが、珍しい蝶の観察に参加したいと騒ぎだした。

 

「うるせーぞ、ブタザル! 蝶が逃げちまうじゃねーか」

「ルーク、あなたも十分うるさいですよ」

「いや、蝶が優れているのは嗅覚くらいなもんだから、騒いだくらいじゃ逃げないと思うぜ?」

「まるで生きている宝石のようですね」

 

 しまいには「ウィーング!」とさっそくソーサラーリングを使うミュウをすくい上げ、目の前にかざしてやる。そのつぶらな瞳が、ひらひらした羽を映し出した。

 

「ど?」

「とっても綺麗ですの。綺麗過ぎて、なんだか美味しそうですの!」

「……正直は、多分美徳。ちなみにホド揚羽には有毒成分が含まれてるから、食べるとすごいことになる」

 

 どこまでも本能に従った答えに、苦笑を零しつつもしっかり釘を刺しておく。

 アニスの言葉を信じれば希少であるこの生き物を、一応聖獣とされているチーグルの腹に収まる事態は避けたい。

 

「食べるとどうなるの?」

 

 素朴な疑問を呟くアニスに、スィンは軽く両手を合わせて合掌している。

 その拍子に、満腹になった蝶は再び大空へと舞い上がった。

 

「あ……って、死んじゃうの!?」

「少なくとも、小動物なんかはね。ミュウくらいのサイズは確定。ちょうちょなんか食べる習慣なかったから人間は知らないけど、中毒くらい起こすんじゃないかな」

 

 ふえ~、とため息を洩らすアニスを尻目に、スィンは水で濡らした手布で指先を丁寧に拭っている。

 ホド揚羽の場合、体全体が有毒であるため、触れた場所にも注意しなければいけないのだ。ましてや、口にするなどもってのほかである。

 

「別にセレニアの蜜が好物ってわけじゃないけど、あの花はちょっと構造が複雑で小さな虫くらいしか蜜にありつけないから。あーいう風にすると珍しがって寄ってくるんだ」

 

 無意識なのだろうか。いつになく饒舌な彼女が、一行の視線を華麗にスルーして、何の気もなく先を促した。

 だが、それで浮かんだ共通の疑問は到底収まるものではない。

 

「ちょ、ちょっと!」

「んあ?」

「スィン、なんでそんなに詳しいの?」

 

 好奇心の抑えられなかったアニスが、ずずいと彼女に迫る。ふと未だ抱えていたミュウを降ろし、スィンは一同へ背を向けた。

 

「……ホドがあった頃は、ごくありふれた普通の昆虫だったからさ。ヴァンや……お嬢様と大群を追いかけ回したこともあるし。捕まえる方法も、このとき知ったんだ。セレニアの花を使えば、比較的簡単だってね」

「なるほど。幼いあなたは大分活発な方だったんですねえ」

 

 誰もが二の句を告げにくい思い出の話に、まったく関係ない茶々を入れたのは言わずと知れたこの御人である。

 

「……どーゆー意味ですかそれは」

「いえ、そんなお転婆さんだったなら、今現在じゃじゃ馬でもぜーんぜん違和感ないですねと思っただけで」

「誰がじゃじゃ馬か!」

「乗りこなすのが実に難しそうです」

「乗りこなさないで、大佐なんか乗っけたら潰れる!」

「あなたは以前、ガイを担いで運んでいましたよね? 私はガイよりもちょっとだけですが、軽いですよ?」

「それとこれとは話が別だし、大体、大佐はその場にいなかったはず。なんで知ってるんですか」

「フリングス少将から仕入れました。虹彩異色症のお嬢さんが兄と思われるガイを肩に軽々担いだので驚いた、とね。陛下も大変興味を示しておられましたよ」

 

 シリアスな空気が一変、ジェイドとスィンのぐだぐだ漫才が展開された。

 ボケたと見せかけて、セクハラ発言があったことをスィンは気づいているのだろうか? 

 

「……そ、そろそろ行かないかー?」

 

 瞬く間に険悪な雰囲気を形成しつつある二人を、というよりスィンを抑えるべくガイが先を促した。

 

「あ、すみません!」

「ほらほら、あなたが無駄に昔話なんか始めるから、皆さんの足を止めてしまったではありませんか」

「まったくその通りなんですがねえ。大佐が合いの手なんか入れたから、という事実をお忘れなく」

「おや、責任転嫁ですか?」

「純然たる事実でーす」

 

 屁理屈を叩きながら、一行に続くべく正面を向く。

 嫌味の応酬に疲れたスィンが視線を寄せた先には、ルークと共に歩くイオンの姿だった。その視線を敏感に感じ取ったのは、アニスである。

 

「スィン、イオン様がどうかしたの?」

「うーん……ねえアニス、アニスはイオン様に負担かけるようなことはしたくないよね?」

 

 脈絡も何もない、実に突拍子のない質問に、アニスはぱちぱちと瞬きをして戸惑いをあらわとした。

 

「え? そりゃ……まあ、そうだけど」

「そっか。そうだよね。おかしなこと聞いた」

 

 悪いね、と呟き、そのまま口を閉ざす。左の手首を握り締めていた右手が外され、だらりと重力に従った。

 それが何を示すのか。アニスが関連する事件を思い出す、その前に。

 かすかに何かが聞こえてきた。これは──

 

「……いななき?」

 

 スィンの呟きに呼応するように、馬のいななきにも似た鳴き声が今度は渓谷に木霊した。

 

「あれ、なんかいるぜ。魔物か?」

 

 もちろん整備などされていない獣道をかきわけているために、先の視界は見通しが悪い。

 まるで確認をするように、ミュウがチーグルの言葉で呼びかけた。

 

「みゅう~! みゅみゅう!」

 

 答えるように、いななきのようなそれが帰ってくる。だが、なぜかミュウはそれの翻訳をしなかった。

 きちんと聞き取れなかったためか、それが言語化のされない、悲鳴に属するものだからか。

 

「この鳴き声は……」

 

 ジェイドが鳴き声の主を特定する前に、ひづめを鳴らしてそれは姿を現した。

 簡略に説明するならば、角と翼を備える巨大な馬である。

 額から黄金色の角を生やし、蒼とも碧ともつかない美しい色合いの翼とたっぷりとした尾を小刻みに揺らしていた。まるで苛立っているかのように。

 しかしそれを気にしているのはごく少数で、アニスに至ってはまたもや興奮に声を張り上げていた。

 

「ユニセロス!」

「古代イスパニア神話に出てくる、『聖なるものユニセロス』ですか?」

「そうです! 幻のユニセロスですぅ! 捕まえたら5000万ガルドは堅いですよっ!」

 

 またもアニスの瞳は輝くガルドマークと化している。

 ホド揚羽のときと一桁違うからか、オプションとして乙女にあるまじき鼻息まで追加されていた。

 しかしジェイドの冷静な説明に、彼女はすぐさま打ちひしがれている。

 

「ユニセロスは清浄な空気を好む魔物です。街に連れ出したら、死んでしまうかもしれませんよ」

「……あう……」

 

 脳裏でどんな皮算用が繰り広げられていたのやら。更に続くミュウの言葉に、生け捕りどころではない緊張感が張り詰める。

 

「それにユニセロスさん、なんだか苦しんでるみたいですの……」

「苦しんでる? 一体……」

 

 不意に、ひづめの音が絶えた。

 相手が立ち止まったのか、と思いきや、それまで存在していた気配が突然空を舞い、吹き荒れる風が一行の髪や服の裾をはためかせる。

 そしてティアの、ジェイドの警告に一同は身構えた。

 

「何かがくるわ!」

「まずい! 後ろです!」

 

 ──直後。

 

「うわっ!」

 

 どかどかと、盛大にユニセロスは一行の間を駆け抜けた。

 あやうく轢かれそうになったルークが、息を荒げて誰ともなしに尋ねる。

 

「ユニセロスってのは凶暴なのかよ!?」

「そんな……気質は大人しいし、無闇に人へ近寄るような性格でもないのに……!」

 

 そこまで言い連ね、スィンはハッとあることを思い出した。

 ユニセロスは清浄な空気を好む。対して瘴気は、穢れた空気にして毒素そのもの。

 まさか──

 

『──知りたそうだから、教えちゃうよ? あなたの考えは、正解』

 

 畜生! 

 シルフの言葉に、胸中で悪態をつく。しかし、一同にこのことを話すわけにはいかない。

 

「そうだよ! すっごく大人しくて、人を襲ったりなんかしない筈だよっ!」

 

 スィンが内心歯噛む間にも、アニスは混乱しながら同調し、ユニセロスが駆け抜けた先を見据えるナタリアが警告を放った。

 

「また来ますわ!」

「とりあえず、気絶させて様子を見ましょう」

 

 解決策、とはお世辞にも言えないが、一時しのぎにはなる。視線を合わせて了承を示し、アニスはイオンを伴ってその場から遠ざかった。もしものことを考えれば、アニスが抜けてしまうのは必然だ。

 それとは別に、どうしたものかと悩みながら鞘と刀身を固定した血桜を手に取る。

 前衛をせんと飛び出せば、予想通りユニセロスはスィンを標的とした。ぎらり、と角の先端が輝いたのを見て取って、走りながら体勢を低くする。

 直後、頭のすぐ上を閃光が疾り抜けた。かすった髪が数本、宙を散るも気にしてはいられない。

 雷光をかいくぐったスィンが、ユニセロスの眼前へと到達する。

 その彼女を踏みつけるべく高々と掲げられた前脚を潜り抜け、そのままユニセロスの気を引こうと背後へ回り込んだ。

 

 ちりん。

 

 ふと、小さな鈴の音がスィンの耳朶を刺激した。

 もちろん彼女にそんな鳴り物を持つ習慣はないし、仲間内でも隠密行動が難しくなるような、そんな物を購入したという話は聞かない。

 では、どこで? 

 巡らせた視線が、ふとユニセロスのたてがみを映した。

 翼と同じ、サファイヤグリーンの毛色。三つ編みにできそうなほど長い、立派な──

 その瞬間、スィンの瞳が大きく見開かれた。

 彼女の視線の先、ユニセロスの背にはほつれた三つ編みがあり、その先端にすっかり錆びついた鈴が絡まっていたのだ。

 強烈なフラッシュバックが、スィンの脳裏に激しく瞬く。

 

「ニル……ダ」

 

 嗚咽を耐える少女の如く、口元を抑えてスィンは呟いた。

 今まさに譜歌を唱え、ユニセロスを眠らせようとしていたティアが、思わず詠唱を中止する。

 何故なら、ユニセロスの気を引いていたスィンが、まるでその美しさに魅せられたかのように構えるのをやめてしまったからだ。

 

「──スィン?」

「どうしたんだ!?」

 

 驚くことに、ナタリアはおろかガイの声すら聞こえていない様子である。

 その名を呼んだことで、ユニセロスは暴れるのをやめ、それを見て取ったスィンはもう一度期待を込めて呼びかけた。

 

「ニルダ、なの? ホド島で、罠にかかって怪我してた──」

 

 ユニセロスの瞳が、スィンを映す。

 先ほどとはかけ離れた穏やかな目に、今度こそスィンが見惚れていたそのとき。ユニセロスはゆっくりと、スィンに近寄った。

 そして──棒立ちの彼女に、その鼻面をそっとこすりつける。

 

「……あれ?」

「どうかしましたか、アニス?」

 

 その光景を、驚愕しながら見つめていたアニスは、不意に疑念を零してイオンに不思議がられていた。

 

「おかしいですよ。だってユニセロスは、清らかな乙女にしか近寄らないはずなのに」

 

 確かに、スィンもアニスと同じように記憶している。

 ユニセロスが清浄を求めるのは、空気だけに限ってのことではない。それなのに、瘴気のことがなくても、ユニセロスに触れる資格を、スィンは当の昔に失っているのに……

 スィンの困惑をかき消すように、脳裏で柔らかな声が響いた。

 

『──生きていてくれて、嬉しいわ。大きくなったのね、スィンフレデリカ──』

 

 間違いようもない。

 ホドで暮らしていた頃、スィンと、ヴァンと、マリィだけの共通の秘密だった手負いのユニセロス、ニルダに相違なかった。

 

「な、なんだ?」

「頭の中で、何か聞こえましたわ」

「アッシュ……じゃないな。頭痛もしねえし」

「幻聴ではないようね」

「これって、ひょっとして──!」

「知能の高い魔物が使用する精神感応の応用ですね。自らの思念を直接相手へ伝える──私たちは対象外のようですので、雑音しか聞こえないようですが」

「ミュウ。通訳してもらえますか?」

「はいですの!」

 

 外野の困惑、推測、どうでもいい話が耳に入ってくるものの、どこかその声は遠い。まるで薄いフィルターを通したかのように、気にならなかった。

 それよりも。

 生きていた。あの崩落から、よく逃げ延びて──

 感傷から涙ぐみそうになった顔をひきしめ、深呼吸をして一歩後退る。ユニセロスが、否ニルダは小首を傾げた。

 

『何故、逃げるの?』

「スィンさんがどうして下がったのか、不思議に思ってるですの」

「ニルダ……僕はもう、子供じゃないよ。あなたに触れる資格はない」

 

 わざわざ言わせないで、と言いながらニルダとの距離を取る。ゆっくりと、血桜を腰へ戻した。

 

「それがわからないあなたじゃないはず」

『そんな悲しいことを言わないで。確かにあなたの肉体は、純潔を失くしている』

「そんな風に思わないでほしいですの。確かにスィンさんは……」

『それでもあなたの声は、乱れた私の心を癒した。あなたの心は清らかで、無垢なまま。私を捕まえようと企む者達が囮とした乙女よりなお、純粋だわ』

「???」

 

 ミュウの通訳など欠片も意識していない調子で、ニルダはスィンにのみ語りかけている。

 もちろんのこと、続けざまに発せられた言葉にミュウは困惑した。

 

「おいブタザル、確かにスィンは、なんだよ?」

「えっとえっと……ごめんなさいですの、難しすぎてミュウにはわからないですの~!」

「はあ? 何が難しいんだよ」

「ルーク、静かに。こうなったらスィンの言葉から内容を推測します」

 

 当の本人たちはそのやりとりにまったくの無視。

 騒がしい外野の声など、耳に入っていない様子である。

 

「……あなたがそう言うのなら、そうなのかもしれない。光栄だけど……大丈夫なの?」

『古き友人に会えたのだもの、平気だわ。二人はいないけれど……』

 

 ふと、ニルダは首をめぐらせ、ティアとガイを鼻面で指した。

 

『似た匂いがするの。血縁かしら、二人も近くに?』

「正解、だけど……マリィ様は、もう……」

『……そうなの。残念だわ』

 

 彼女の名を出したことで、ガイが反応を見せている。

 しかしやはり、スィンはそれに気づいた様子を見せない。

 

『スィン。ここへは、何をしに? 遊びに来たわけではないのでしょう?』

「パッセージリング……えっとね。人工的に封鎖された、セフィロトに通じる扉を探しに来たんだ。ニルダはここを縄張りにしているんでしょう? 踏み込んじゃって、悪かったね」

 

 ユニセロスの逸話などそう多いものではないが、その中に彼らは彼らの縄張りを持つというものがある。

 ユニセロスの好む清浄な大気の集う場所は希少であるため、おそらくは同種族たちで共同生活を送るとされているが、彼女だけであれ他にユニセロスがいるのであれ、ここが彼女の縄張りであることに間違いないだろう。

 だからこそ、ニルダは縄張りを荒らされたと考えて姿を現したのだろうから。

 

『あなたが謝ることじゃないわ。人工的に封鎖された扉……というのは、光を硬質化させた壁のようなもののことかしら。古臭い封咒を施してある……』

「知ってるの!?」

 

 ダアト式封咒を古臭い、と言い切ってしまう辺りにも、彼女がそれを知っているという事実にも、スィンは驚いて思わず声を張り上げた。

 こくりと頷いたニルダに、「どこ?」と尋ねれば、彼女は一同にくるりと背を向けて歩き出している。

 わざわざ案内してくれるのだろうか。

 

「……スィン。そろそろ何がどうなったのか、お話してくださると助かるのですが……」

「あ、えーっと。ニルダがセフィロトへ続く扉を知っているそうです。行きましょう」

 

 これまでの会話をまったく知らない一同を率いてニルダを追う。

 これまで以上に草木の生い茂る、ただしユニセロスのひづめと巨体で綺麗にならされた道を行けば、突如草木のカーテンが開かれた。

 

『これでしょう?』

 

 とある崖のくぼみの傍、ニルダは場所を示すように立っている。

 そこを塞ぐように展開しているそれは、確かにダアト式封咒で、ここが封じられたセフィロトの入り口であるのは間違いなかった。

 頷くことで、肯定を示す。

 

「ありがとう、ニルダ」

『どういたしまして。ここまでしか私は案内してあげられないけれど、お願いがあるの』

「……何?」

『死なないで。死ぬことを、考えないで』

 

 唐突過ぎるその願いに、スィンはぴくりと体を震わせてニルダに向き直った。

 

「どうしたの、いきなり」

『誤魔化さないで。なぜ私が、あなたをあなたともわからず襲いかかったと思うの?』

 

 ──やはり、彼女にこれを隠すことはできないらしい。

 小さくため息をついて、声を潜める。

 

「……わかる?」

『ええ。瘴気に毒されていることも、それに伴い体内にいくつもの病巣を抱えていることも。命の蝋燭が、もうすぐ燃え尽きることも』

「そこまでわかってるなら、そんな無茶なこと──」

『だからこそ、願うのよ。私はあなたのことが好きよ。純潔を失っても、あなたは変わらなかった。これまでも、これからも、あなたは私の大切な友人よ』

「わー。聖なるものにそこまで言わせちゃうなんて僕すごーい。光栄だよー」

『茶化さないで。すぐふざけてお茶を濁そうとするのはあなたの悪い癖だわ』

 

 ユニセロスにお叱りを頂いてしまった。

 どこまでもまっすぐな彼女の言葉に、けして不快などではないが、むず痒いようないたたまれなさが背中をつつく。

 ニルダの忠告は続いた。

 

『あなたの目は死を恐れていない。死を恐れなさい。死を受け入れないで、拒絶しなさい。あなたの死は、私を、彼らを悲しませる。だから生きてほしいの。私も、できるだけのことはする』

 

 スィンが、その言葉の意味を理解するより早く。

 ニルダはその鼻面をスィンへ摺り寄せたかと思うと、額の角をスィンの胸へ押し付けた。先端の鋭く尖った角が、胸の谷間を割って内臓に最も近い位置で停止する。

 直後発生した優しい光は、第七音素(セブンスフォニム)の気配を伴ってスィンを包み込んだ。

 あたたかい。

 思わず身を委ねたくなるほどの安心感が、はりつめていたスィンの心を優しくほぐした。

 ユニセロスの角を煎じれば、万病の特効薬となるという。それは彼らの有する癒しの力の源は角だからとも、角を通じて治癒を行い、だから角にその力の名残が残るからだとも言われている。

 彼女は今、その力をスィンへ注ぎ込んでくれているのだ。

 体内を蝕む瘴気が、徐々に浄化されていくのがはっきりとわかる。体がどんどん軽くなっていくようだった。

 やがて、至福のときとすら称していい時間は終わりを告げる。

 ふと我に返ったとき、スィンはすっかり弛緩した状態でユニセロスの首に腕を回し、そのふさふさした翼の抱擁を受けていた。

 

「あ……あ! ゴメン!」

『謝らなくてもいいのに』

 

 慌てて身を離せば、その慌てっぷりが可笑しかったのか、ニルダの控えめな笑い声が頭の中に響く。

 バツの悪い思いで、ふと後ろを見やった。皆、さぞ呆れているだろうと思いきや──

 

「……あれ?」

 

 いない。一同を先導して一本道を歩いてきたと思ったのに、そこには誰もいなかった。

 直後。

 

「スィンー! どこだー!」

「ガイラルディア様、ここです!」

 

 ガイの呼ぶ声を聞き、自分の出てきた茂みへ駆け寄る。

 幸いというかなんというか、一同は誰もはぐれることなくセフィロトへ至る道の扉へ到達した。

 

「本当にありましたね。正直半信半疑だったのですが」

「ユニセロスさん、ありがとうですの!」

 

 嬉しそうにぴょこん、と跳ねてみせるチーグルの仔に、ニルダは軽くブルルルッ、と鳴いている。

 

「なんて言ってるんだ?」

「どういたしまして、って言ってるですの。あと、スィンさんをよろしく、とも言ってるですの!」

 

 やっと自分と向かい合ってくれた嬉しさからか、ミュウは多少興奮気味で今の意味を翻訳した。

 単なる鳴き声につき、スィンに真偽はわからない。

 

「ニルダ……」

『私のこと、私の言葉を──忘れないでね』

 

 スィンに別れの言葉を紡がせず、ニルダは軽快に走り去った。

 今生の別れを忌避したのか、あるいはそれを連想させるものを生みたくなかったのか。それは彼女自身にしかわからない。

 

「ニルダ! ホントにありがとう、さようなら!」

 

 一陣の風が通り過ぎる。

 スィンの声は瞬く間にかき消されるも、いななきは渓谷を木霊した。

 

 

 

 




青色ゴルゴンホド揚羽やユニセロスがホドに生息していたという事実はありません。
もともとは青色ゴルゴンホド揚羽に『ホド』の文字があったため、でっちあげたのが起源です。
ユニセロスの設定はほとんどユニコーンのものを引用しています。
街中の空気に耐えられるかもわからない生物が、穢れと関係ないとは思い難い。
青色ゴルゴンホド揚羽設定は、オールオリジナルということで。
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