the abyss of despair   作:佐谷莢

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第九十三唱——捕獲、逃亡、その先には

 

 

 

 

 

 建物の屋根を伝い、シンクは軽やかに駆けていく。

 その身のこなしはまさに俊敏で、交戦となった際は果たして対応しきれるかどうか、スィンをひどく不安にさせた。

 これまで垣間見てきたシンクの戦闘は格闘をメインとしており、時折譜術を使っている。見た限り刃物を持たない彼の攻撃なら、刀で防御すれば多大なるダメージを与えることができると思っていたが、その戦いぶりからあまり期待ができないとの結論が出た。

 シンクは素早いだけではない。その素早さに見合っただけの動体視力を備えており、それだけ細かな攻撃もできる。防御されるとわかった途端攻撃箇所を変更することくらい、朝飯前だろう。

 小柄であるために足りないと思われがちな腕力は、十中八九譜術を使って強化されている。導師と同じ肉体、振動数の持ち主なのだ。ダアト式譜術を使っていないわけがない。

 それに、たとえ違ったとしていても、腕力がないのはスィンとて同じ。相手の弱点は、攻略法とはならない。

 同じ特徴、見切れぬ動きと正確な攻撃を旨とするスィンの戦法がどこまで通用するのか。とりあえず、彼との交戦においてシグムント流はあまり有効打ではないだろう。いくら早くても、所詮武器を用いての話だ。素手の早さに対応できるわけがない。

 だからこそ、躊躇なく愛刀を置いてきたのだが……正解だった。

 バチカル城が据えられた最上層から岸壁を伝い、シンクは慣れ親しんだ遊び場のようにするすると降りていく。

 とても道とはいえないそのルートを、一度は通ったことがあるため、どうにか続いていくスィンは内心胸をなでおろした。今血桜を持っていたら、確実に荷物だ。不注意で家宝を落としてしまうかもしれない。そんな心配に脅えながらシンクを追うより、やはり今の方が気楽だった。

 ただ、あの頃に比べてやはり太ったのだろうか。とてもシンクのように身軽には移動できない。時折ちらちらこちらに顔を向けているが……あんな仮面をつけていて見えるものなのだろうか。

 おそらくは、ちゃんとついてきているかどうかのためだけに向けられるその顔から、表情は読めない。

 交戦において、相手の視線が読めないのはかなり痛いが……仮面を剥がそうと接近したら、おそらくダアト式譜術の餌食にされる。我慢するしかない。

 中層を通り抜けた先、最下層まで達した彼がようやく地面に足をつける。これまで一定の距離を保ってシンクを追跡していたスィンだったが、その時点でぴたりと足を止めた。

 そろそろ、彼がどこへ自分を誘おうとしているのか、知る必要がある。のこのこついていった先、六神将が勢ぞろいとか、モースが援軍連れて待っていたとか、そんな惨劇に参加したくない。

 駆けるように、時には急制動をかけて滑り降りてきた岸壁から、倉庫らしき建物の上に飛び降り、シンクの行く先を見据える。

 素直についてこないスィンを不審そうに見やっていたシンクだったが、彼女が何を思っているのか悟ったらしく、やれやれ、と肩をすくめてみせただけで歩みは止めなかった。

 やがて彼は、現在は機能していない無人の港跡へ歩を進めていく。

 

 確かあの港は、天空客車を使わないと行くことができないはずでは──

 

 予想に反して、彼は天空客車を使うことなくある建物の前で立ち止まった。今は使われていない積荷保管倉庫、というやつだろうか。

 

「……まだへたくそな尾行を続けるわけ? ここで終点だよ」

 

 ひどく憎たらしい口調で、苛ついたように扉を蹴り開けている。響いた音を確かめるべく、スィンはその場で耳をすませた。

 倉庫の中に何かがあればあるほど、響いた音は多重に聴こえる。加えて、人の気配を探して──大勢はいない、人海戦術は使われないだろう、ということがわかった。

 伝っていた屋根の上から飛び降りて、警戒を隠さないまま扉の眼前まで歩み寄る。

 はっきり言ってこんな場所、閉鎖空間に進んで入りたくないのだが。人質の安否を考える限りこちらに行動の自由と、安全は保障されない。

 

「どうしたの? 入ってよ」

「……汚い、埃っぽい、なんかかび臭い。従って、入りたくない」

「……気持ちはわかるけどね。これ以上手間取らせるなっ!」

 

 我侭を並べ立てるスィンに、苛ついていたらしい彼は突如として回し蹴りを繰り出した。狙いは頭部だ。まともに入れば気を失うことができるだろう。

 片手を地面へつけ、前転するように続く踵落としから逃れる。そのまま、スィンは倉庫に転がり込んだ。

 扉が、ばたんと音を立てて閉ざされる。

 暗くなった視界の中、埃が積もった床に転がったせいで盛大に汚れた体を、ぽんぽんっ、とはたきながら立ち上がると、天井の音素灯がいきなり点灯した。

 眼は瞑らず、片手でひさしを作り、周囲を確認する。がらんとした倉庫内は人間が隠れられるほどの荷物がなく、広さも相まってひどく寒々しい。

 そんな中、前方にひとつだけ人影があった。見上げるほどの巨躯、獅子のごとき豪快な髭。岩を彫って作ったような厳つい顔にこれといった表情はなく、なぜか得物である大鎌を持っていない。

 神託の盾(オラクル)騎士団、第一師団師団長──通称黒獅子ラルゴ。

 

「ご無沙汰しておりま──久しぶり、ラルゴ。ナタリアならインゴベルト陛下と和解したよ」

「知っている」

 

 なーんだ、とわざとらしく呟いてから、ラルゴの挙動を視界に入れて辺りを見回す。

 ノエルの姿はない。

 ……想定していなかったわけではないが、どうやら。

 

「この嘘つき小僧。ノエルいないじゃん」

「誰がここにいる、なんて言ったのさ? どうなってもいいのか、とは聞いたけど」

「おっしゃるとおりだ、このクソガキ」

 

 はめられた。

 

「……なるほど。ディストと同じ手を使ったのか」

「信じらんない。神経疑う。実際に拉致しないだけマシだけど」

 

 振り向いていた姿勢からシンクと完全に向き合い、肩をすくめて見せる。

 ラルゴに背を向けるのはあまり気の進むことではないが、多少距離は開いているのだ。彼のアクションはその差で気づきたい。

 今はむしろ、シンクに警戒した方がいいだろう。なんせ、手の内が知れない点においてはラルゴよりよっぽど脅威だ。

 ふとあることを思い出し、すたすたとシンクに近寄っていく。何事かと身構える彼を前に、スィンはひょい、と肩を掴んだ。やはり、怖くはない。

 これなら、十分可能なはずだ。

 

「……何?」

「おばはんくさい説教は自分を捕まえてからにしろ、って言ってたよね? 蠍固めでも仕掛けてから説教したほうがいい?」

「別におばはんくさい、なんて誰も言ってないよ。死神と同じことして恥ずかしくないのか、って? しょうがないだろ、あのガイって奴を誘拐した方がよかったのかい?」

「そんなことしたらおまえの頭髪を根こそぎ引っこ抜いて額に『禿』って書いてやる」

「死んでもゴメンだね!」

「てっぺんの方がいい?」

「変わんないよ! それにラルゴはどうなるのさ?」

「……ナタリアの声で『パパのバカァ!』って叫ぶ?」

「ずいぶん違わなくない? アンタの報復ってどういう基準なのさ!?」

「ラルゴの髭を引っこ抜いたってどうせ二、三ヶ月で生え揃うだろうし、ロケットの中身を塗り潰したって怒らせるだけだし、でもラルゴって怒ったり酔ったりすると手ぇつけらんなくなるし」

「そんなプチトリビアどうでもいいよ!」

「それもそうだ。じゃあ僕はこれで」

 

 終わった。

 用が済んだところで掴んでいた肩をトン、と押し、その虚を突いて脛を蹴る。思わずシンクがつんのめったところでスィンは倉庫の扉へ駆け寄った。

 いける。シンクが咄嗟に動けない上、ラルゴがあんな遠い位置にいるなら、逃げられる。逃亡成功を予知してノブに手をかけたスィンだったが、次の瞬間ぐいっ、と足がひっぱられた。

 

「!」

 

 世界が急激に反転し、物理的に頭に血が昇る。

 じたばたと暴れたくなる体を抑え、自分の置かれた状況を冷静に見つめ、スィンは呆れたように呟いた。

 

「な……なんて古典的な」

「それにまんまと引っかかるアンタはなんなのさ」

 

 足首を縛る荒縄は天井を伝い、ラルゴのすぐ近くにある滑車へ繋がっている。荒縄の先端を持っているのはラルゴだ。だからあんなところに立っていたのか。

 迂闊だった。埃だらけで床すら見えないとはいえ、扉のすぐ近くに輪っかになった縄があることすら気づけなかったなんて。

 あんな特殊な入室を果たしたのだから、当たり前かもしれない。シンクの回し蹴りは八つ当たりとかではなく、計画通り放たれたものなのだろう。

 罠にかかった獣よろしく吊り上げられているスィンのすぐ傍に、縄の先端をどこぞへ固定したラルゴがやってきた。

 

「ブリュンヒルド、総長からの伝言だ。『もう一度会いたい。私のもとへ来てくれ』」

「いやだ冗談じゃない」

 

 一瞬の迷いもない、どこまでも純粋な拒絶である。

 説得を時間の無駄と悟り、振り上げられたラルゴの拳はどこまでも正確にスィンのみぞおちを狙っていた。

 みじろぎをして避けられるほど、照準は甘くない。

 

「バツイチ男に言われたなら尚更……」

「『我らを死別に導かなかった世界の意味が知りたい。最早話し合う余地もないのか?』こっちが原文だよ」

「うん、ないない。あと、ガキンチョは問題外」

 

 靴の踵を叩き、仕込んであるナイフを先端から出現させる。常に手入れを欠かさない刃物は、荒縄をあっさりと掻き切った。

 みぞおちへ繰り出されたラルゴの拳が空を薙ぎ、その間にもスィンは受身を取って体勢を立て直している。

 

「ち……」

「烈破掌!」

 

 捕獲失敗を悟った二人に連携を取られるより早く、圧縮した闘気を押し付けるようにして解放した。直撃を防いだ二人をもはや一顧だにせず、倉庫を飛び出す。

 その先に広がっていたのは、ずらりと並んだ神託の盾(オラクル)兵士たちを率いる大詠師モースのヒキガエルじみた笑み──と、いうことでなくてほっとしているのが事実だ。

 閑散としている倉庫街を駆け抜けることなく、今しがた飛び出した扉の真横に待機。耳を澄ませば、倉庫の床を二人分の足が駆けている。

 

 3,2,1……今! 

 

 タイミングを合わせて、スィンは思い切り倉庫の扉を蹴った。

 衝撃を以て音高く激突を奏でた扉は、同時にむさ苦しい呻きも招いている。

 

「ぐぉ……!」

「何やってんのさ、ドジ!」

 

 どうやら扉による熱烈なアタックを受けたのはラルゴの様子。おしい。小柄なシンクなら、卒倒くらいしたかもしれないのに。

 それでも、シンクであればどうにか避けたかもしれない。微々たるものでもダメージを与えられただけ良しとしよう。

 出てきたシンクを迎え撃とうか、考えて。スィンはすたこら逃げ出していた。

 

「待て!」

「やだ!」

 

 これでずっこけるか、気が抜けてくれればいいのだが……

 シンクはともかくとして、ラルゴの実力はよく知っている。ラルゴに限らず、正直な話、六神将とは誰であっても戦いたくなかった。

 理由は──長引くから。帰るのが遅くなって、主に叱られるのは間違いない。

 スィンが彼らの戦法を知るように、彼らもまたスィンのやり口を知っている。やりあえば、間違いなく戦闘の長期化は必至。

 それは主に、仲間達にかけたくもない心配をかけて、ジェイドに与えたくもない嫌味の材料をやってしまうことになるのだ。

 感情面の理由がないことはない。

 確かに、リグレットにはこれ以上ないくらい嫌われている。スィンも彼女のことは苦手だった。

 ディストは。観察していて面白いのは認めるが、それでも好き嫌いに分類するなら、嫌いだと断言できる。

 ラルゴとは積極的に口をきいた記憶はないものの、同じ任務についた際は酒を酌み交わす程度の仲だった。

 ナタリアとのことを知っていたのは、酔ったラルゴが口と手を滑らせ、ロケットを落とした際、蝶番が壊れたため修理してやったことに起因する。好意はないが殊更敵意もない。

 アリエッタに関しては、「おともだちがくさいって言うから」と敬遠されている側である。それが体臭を指すのか香水を指すのか。ちゃんと確かめたことはない。

 シンクは……好悪がどうこういうよりまず、情報がない。ただ、彼はカースロットによって主人を、ガイを傷つけた。その借りは返してやらなければならない。

 ヴァン、は──正直を言えば戦いたくなどない。敵対など、本音のところでは持っての他だ。彼自身を前に誓った想いは、未だ揺るぎない。それだけは断言できる。

 しかし、スィンの中での優先順位は不動にして、絶対のもの。主に仕える従者として、盾の役割を担う騎士として、感情を優先するわけにはいかない。

 可能不可能は別として、主の利益を考えるならば、誘き出されたことを利用してここは彼らの殺害、もしくは手傷を負わせることを考えるべきだ。

 その狭間の妥協は──やはり逃走すること。

 不利であることも視野に入れるなら、下手なちょっかいは出さずに無傷で帰還したい。──先ほど吊り上げられたせいで足首を痛めたのは、とりあえず考えないことにして。

 大昔の記憶を引っ張り出し、倉庫街を駆け抜ける。

 ここへ来たことがあってよかった。でなければ、当にシンクに追いつかれていたことだろう。

 全力で走れぬスィンは、今や地の利を生かして追いすがるシンクをかく乱し、どうにか逃れている状況なのだから。

 それでも、速度の関係なのか。足の幅(コンパス)に差異はそれほどないと思うのだが、彼の視界から逃げ切るには至っていなかった。

 

「くそ、ちょこまかと……!」

『シンクのほうがっ、よっぽどちょこまかしてる!』

 

 動揺を呼ぶためにアリエッタの声を作ってみるも、失敗する。声に問題はないが、イントネーションがなめらか過ぎた。結果、違和感だらけになっている。

 

「は、随分余裕じゃないか!」

 

 振り切れない。こうなると、ちょっかいを出すのが必然になる。今後のためにさっき仕込んだばかりものを、今使うことになってしまうが、スィンの体力とて無限ではないのだ。今どうしているかもしれない一行のもとにたどりつくための、最低限の体力は残しておかなければ。

 となると、距離を置いて譜術で攻撃がしたい。それで足止めできればいい。身を隠すなら、どこかの倉庫に潜り込んだほうが──

 自分に有利な地形を目算しながら、連立する倉庫、廃材置き場を右へ左へと駆け抜ける。

 ふとした拍子に広大な廃材置き場へ入り込み、置かれた廃材の少なさからここで戦うことを断念。

 そのまま走り抜けようとして、前方にぬぅっ、と巨大な人影が現れた。

 

 ──ラルゴ!? 

 

 どうやって先回りしたのかは知らないが、気づかぬうちに誘導でもされたか。あんな風に立ちはだかられては逃げられない。

 回避、停止、あるいはこのまま突撃。

 スィンが選んだのは──

 

「大丈夫、こわくない、死霊使い(ネクロマンサー)の方が怖い!」

「味方の方が怖いって、どういうことなのさ」

 

 本当は、感情が促すままに停止しようとした。近寄りたくない、接近は危険だ、足を止めてしまおう、と。しかし、気にかかったのだ。背後に迫るシンクに、わかりやすい隙を晒していいのかと。

 そのままラルゴの胸の中へ飛び込む勢いで、腰だめに短刀を構え、吶喊する。

 当然迎撃に振り回された大鎌の軌道を見極めて、スィンは攻撃を加えることなく、その脇を駆け抜けた。逃走は続けずに、二人と相対する。

 挟み撃ちを避けたのと、走り続けて上がった息を整えようとしてのこと。決してラルゴと接近戦の継続が嫌だったから、ではない。

 

「俺に接近戦を挑むとは、恐怖症は和らいだか。死霊使い(ネクロマンサー)と随分仲良くなったようだな!」

「人間は生きていれば成長するものです! 立ち止まって後ろを見続ける奴にはわからない! あと、私の頑張りを死霊使い(ネクロマンサー)の手柄にしないで!」

 

 やっぱり血桜を持ってくるべきだったかもと後悔したところで、始まらない。手持ちの武器でどうにかするべく、相対した二人の様子を見る。

 ラルゴは、得物である大鎌をこちらに向けている。通常通りだ。シンクは普段通り無手──ではない。

 スィンの視線に気づいたのか、何かを後ろ手に隠した。それほど大きくはない、しかし手のひらやポケットには隠しきれない、何か。

 目潰しか何かかと、普段ならば思うところだが。シンクは後ろを向いているスィンに投げる、あるいは使うために持っていた。目潰しではなさそうだ。

 何にせよ、使われたら無力化させられる何かだろう、と検討をつけて警戒する。

 しかしそうすると、当然ラルゴへの警戒がおざなりになる。それを見逃す彼ではない。

 

「はぁっ!」

 

 殺気がない。やはり彼らは、スィンを生きた状態で拉致する気だ。間違いなく殺されないと見込んで、少々無茶をするべきだろうか。

 ずいずい踏み込んでくるラルゴを最低限の防御でいなし下がりつつ、シンクを視界に入れ……られない。

 姿がない。見当たらない。どこかに行った? 応援を呼ぶ気か、はたまた──

 

「余所見とは、なめられたものだ!」

「!」

 

 そこまで露骨に視線を外したわけではないのだが。シンクがいないことに気づかれると不都合なのだろうか。

 ともあれ、もう下がれない。倉庫の壁に、背中が当たる。

 ──さあ、この絶好の機会。このままスィンを斬るか、あるいは捕まえにくるか。

 ラルゴはどちらもしなかった。スィンの眼前に鎌の切っ先を突きつけ、叫んだのである。

 

「シンク、今だ!」

『ねえ、真上から何か落ちてくるよ!』

 

 突然のシルフの警告。驚きはするものの、硬直している場合ではないと、動く。

 躊躇なく踏み込み、結果として眼の下、頰骨の辺りに切っ先が、ずぶ、と埋まった。

 

「なっ⁉︎」

 

 ラルゴが驚いて下がろうとしたようだが、もう遅い。

 頰に刺さる大鎌を掴んで、流れる血に指を擦り付けて、スィンは雷気に変換した第三音素(サードフォニム)を発生させた。

 

「ぐああぁっ!」

 

 基本威力は低め、放出距離は接触必須で最低。しかし発動は一瞬、詠唱要らずの便利な小技である。

 本来は痴漢撃退用だ。命を奪うほど威力はなく、被服の上からでは雷気が弾かれてしまうため、素肌か金属を介さなければならないのがたまにキズだが、血液を用いての威力増幅によって、ラルゴのような大男すらも戦闘不能に追いやれたのは大きい。

 パチパチッ、と雷気の名残を纏い、倒れ込んでくるラルゴを避けて距離を取る。落ちてきた何かが、倒れたラルゴに当たって、ぱりん、と割れた。

 手のひらに載る大きさの瓶、だろうか。中身の液体が当然ラルゴにかかっているが、服や皮膚が溶けるとか、激臭がするとか、そういった劇的な変化はない。

 とりあえずラルゴは捨て置いていいだろう。下手にトドメを刺そうと近づいて、死んだふりをしていたら事だ。

 瓶が落とされたであろう頭上を見る。当然のように誰もいない。

 あの瓶が、シンクが持っていたものだろうか。推定、スィンへの切り札。不発に終わったわけだが、もう帰っていいだろうか。

 ──この場から離れよう。割れた瓶の中身を調べたいような気もするが、この状況では何かが起こっても対処しきれない。

 方角を定めて、まずはラルゴの側から離れようとした、その時。

 

 がたんっ

 

 動くはずのない廃材が、動くような音がした。そちらへ向かおうとする視線を瞬きで切って、真逆の方向を警戒する。

 チッ、という舌打ちが妙に大きく聞こえた。

 

「引っかからないか」

「お生憎様」

 

 足音ひとつ聞いていないが、シンクがそこに立っている。仮面のせいで表情はわからない。視線も読めない。

 ここで仕掛けてくることに意味があるのか、あるいは単純に逃げられることを警戒してか。はたまた、ラルゴの復帰を待っているのかもしれない。

 

「……できれば傷をつけるな、ってことだったけど」

「それ命じた奴は、二人ならそれができると思ったわけだ。なめられたもんだなあ」

「ラルゴがつけちゃったから、もういいよね。手足の二、三本も折れば、降伏してくれるだろ?」

「手足って全部で四本しかないから、ご勘弁願いたい、かな!」

 

 隙を突こうと思ってのことだろうか。会話の最中に繰り出された拳打を流そうとして。想像以上の重さに戦慄する。

 これは厄介だ。受け流し損ねたら折られかねない。万が一腹に受けたら、耐えられず戻して、動けなくなるだろう。そして、そのまま持ち帰られる。

 スィンの内心を知ってか知らずか。シンクはそのまま襲いかかってきた。

 ──こちらも、殺気はない。流れるように放たれる拳打、そして時折挟んでくる蹴打を回避、あるいは受け流す。

 

「縮こまっちゃって、めんどくさいなあ! さっさと倒れろっ!」

 

 懐刀では、攻撃が届かない。それどころか、破壊されないよう気を遣いがちだ。

 うん、面倒くさい。

 内心でシンクに賛同したスィンは、後ろへ跳んで距離を取ると、シンクに視線を定めたまま、あるものを拾い上げた。

 

「……はあ?」

 

 シンクは馬鹿にしたように鼻を鳴らしているようだが、気にしない。

 スィンが手にしたのは、ラルゴの得物、巨大な鎌である。スィンの身の丈よりは多少小さいが、重量は相当なものだ。当然ラルゴが持つようにはいかずに、鎌の峰の部分が地面についている。

 

「何やってんの? ひょっとして、使う気?」

「盾になるかな、って」

 

 最早言葉もなく蔑むように唇を歪めて、シンクは再び接近してきた。

 それより早く、前へ出る。間合いを詰める前に詰められて出鼻を挫かれ、戸惑ったように脚が一瞬止まり、その脚を刈るように鎌部分を差し入れた。

 

「っく!」

「んー、重たい。ラルゴのようにいかないかなー」

 

 引き切るより早く、当然シンクは回避している。その分開いた間合いを、スィンは歩み寄るように詰めた。

 ラルゴの得物である大鎌は、特殊なものだが種類としては長柄武器となる。槍や棍のように懐に入られたらそれまでではあるが、逆にそれを気をつければ大敗する要素はない。

 どのみちシンク相手に懐へ入られたらそれで終わるだろう。ならば少しでも距離を取るべきだ。そしてそれを悟られないようにしなければ。

 

「ちぃっ!」

 

 繰り出される拳打を、鎌の峰部分で受け止める。ガチンッ、と音を立てて、シンクの拳から火花が散った。グローブと同化していてわかりにくいが、甲の部分に金属を使っているようだ。防御を重ねた分だけ、火花が咲いては散る。

 受け流さなくていい分、楽にはなった。ただこれでは事態の解決には繋がらない。あまり時間をかけてはラルゴに戦線復帰を許してしまうのは分かっている。しかし必要なことだ。

 

「この……!」

 

 ラチがあかないと思ったようで、再び猛然とシンクが仕掛けてくる。しかしその歩法、軌道、攻撃のタイミングは先程見たものだ。慣れない大鎌で攻撃はできないが、防御することは十分に可能である。

 と、ここで。本来の使い方ではないどころか、シンクの攻撃をまともに受けてきたからなのだろう。異音を発したかと思うと、鎌部位が根本からへし折れた。ダアト式譜術の応用で強化されているのは知っているが、恐るべき打撃の威力である。

 

「さあ、盾は壊したけど次はどうするんだい⁉︎」

 

 味方の武器を砕いたことについて、特別思うことはない様子。

 棒だけになってしまった元大鎌の持ち手を変える。鎌の部分がなくなって、かなり軽くなった。盾にするよう、鎌部分を両手で突き出していた形から、中心から少し下を持って先端をシンクへ向け──

 

「下がれ!」

 

 倒れたまま、起き上がらないラルゴのその言葉に従い、半歩下がったシンクの仮面に、貫く勢いで迫る棒の先端が停止した。かと思えば先端は地面へ沈み、回転した逆端の石突が脳天へと直撃する。その衝撃たるや、眼前が綺羅星で埋め尽くされるほど。

 それだけでは終わらない。地面へ傾いだ先端が、まるで振り子のように逆袈裟に跳ね上がり、仮面に護られていない顎を打ち抜いた。

 

「ぐあっ!」

 

 ぐらりと脳が揺れて、足元がおぼつかなくなったか。彼はなす術なく地に伏せた。

 実にうまいこと食らってくれたものだ。ラルゴの武器が重いフリを見せてゆったりのんびり防御行動をとっていたから、緩急つけた攻勢に目が追いつかなかったのだろう。

 大きく息をついて、ラルゴを見る。

 起き上がってはいないが、顔は上げているし警告を発していた。動けるようになるのは時間の問題、あるいはもう動けるが、スィンの油断を狙って動けないフリをしているかもしれない。

 

「……よくも俺の武器を壊してくれたな」

「文句と請求はシンクにどうぞ」

 

 これで一応、追う手は緩むはず。今度こそ離脱しようとして、スィンはがくん、と体勢を崩した。

 

「……ラルゴ、今だ」

『またなんか飛んできた!』

 

 シンクが。地に伏せた状態そのまま、スィンの両足を掴んでいる。シルフの警告を理解していても、崩れた体勢ではどうにもならず。

 ヒュッ、と空を切るような音がしたかと思うと、ガシャンッ! という派手な音と共に頭が揺さぶられた。

 

「うわっ!?」

 

 頭部に硝子製の何かが激突したのだ。当然、得体の知れない液体が全身を及ぶ。ラルゴが投擲したらしい。硝子の破片もさることながら、彼にかかったものと同じものだったとしても、放置していいものではない。

 

「冷たっ……!」

「なんてザマだ。まさかこんなに手間取るなんて……っ!」

 

 シンクが足元でブツブツ言っている。そしてシンクにも液体がかかっているようだが、こちらも変化はない。しかし対処はしようと、スィンは水筒を取り出した。

 

「ちょっと」

 

 シンクが何か言っているようだが、構わず頭から水を被る。髪に引っかかる硝子の破片を捨て、頭にかかった分をできるだけ流して髪から水気を絞り、皮膚についた分は手拭いで拭き取って捨てる。唇から先には入れていないつもりだが、残った水でうがいをして吐き出した。

 ──ドクンドクン、と。妙に動悸が激しくなってきたように思えるのは、ラルゴがとうとう身を起こしたからか。

 

「ちょっと、ラルゴ! どうなってんのさ、全然話が違うじゃないか!」

「俺が知るものか。やせ我慢かもしれんが」

 

 話は見えないが、多分知る必要もないだろう。未だにしっかりとスィンの足首を掴むシンクの手、手甲の金属部分に触れる。

 元大鎌で殴ってもいいが、耐えられると厄介だ。

 

「痛っ!」

 

 速攻で雷気を流して痺れさせて手を剥がし、シンクとも距離を取る。焦っているからだろうか。急に、汗が吹き出してきた。頭皮が破けたか、頭がぴりぴりと痛い。

 元大鎌を放棄して、逃走を図る。周囲を警戒し、足元に気をつけて、走り出して。

 

「ごほっ」

 

 耐える間も無く、喉奥から咳が飛び出した。まるで気道が急に狭まったかのような、急激な息苦しさを覚えて、足が止まる。

 発作、ではない。こんな症状にはなったことがない。しかし咳は止まらない。

 咳き込みながらも足を動かして、ここを曲がろうと思っていた倉庫の壁に手をつく。まるで全力疾走した後であるかのように、ぜぇぜぇと息が切れた。確かに戦闘後だが、こんなになるまで動き回った覚えがない。

 

「……ようやく効いたようだな」

 

 背後にラルゴが迫っている。それがわかっていても、スィンはその場で振り返り、壁に背中を預けることしかできなかった。

 その向こうで、シンクが立ち上がっている。

 ──体にまだ、力が入るかどうか。

 それを確かめつつ、スィンは咳き込みながらその場に蹲った。咳をする度に体力が減っていくような、そんな感覚すらある。

 

「観念したか?」

 

 咳を続けて、返事はしない。胸元を抑えて苦しむ素振りを続け、大きく息をついてみせる。

 

「……何を、浴びせたの」

「ディストから渡されたものだ。特別にお前に効くように調整したもので、服用させずとも使えば無力化させられる。とても驚く結果になるが、すぐに卒倒するから攫ってくればいいと、嘯いていたな。詳しい原理は知らん」

「……あの野郎……」

 

 とにかく原因は分かった。この発作と似ているようで似ていない症状は、浴びせられた薬によるもの。ならば排斥しなければならない。

 頭がぼんやりする。発熱の際の症状だ。

 

「……命、よ、あるべきままに……」

「何やってるのさ!」

 

 多少なりとも体内入ったであろう薬を排斥しようと詠唱を完成させるより早く、駆けつけてきたシンクに蹴られて地に転がる。

 防御し損ねたが、蹴ってきた足は掴んだ。皮膚を露出している部分がない。比較的ぴったりしているズボンの裾を無理やりめくって、中の素足に触れる。幸いにも義足ということはなさそうだ。

 導師が用いる譜術は、接触型ばかりで、本当に使い勝手が悪い。

 

「すぐに意識がなくなる、って言ってたのに、しっかり残ってるじゃないか。って、おい、何をして「──カースロット、クラック」

 

 それを使った瞬間。効果は劇的だった。

 

「うわああぁっ!」

「シンク⁉︎」

 

 頭を抱えて悲鳴を上げるシンク、動揺するラルゴ。慌てず騒がずもう一度同じことをしようとして、今度こそシンクに振りほどかれる。

 

「な、な、何を……何をした!」

「そんなことはお前が一番よくご存知のはずだ」

 

 シンクとて己が何をされたのかわかっているだろう。記憶が急に鮮明になって意識をかき乱された、くらいのことは。

 世界広しといえども、こんなことができる芸当は数少ない。

 

「カースロットを使ったとでも言いたいのか⁉︎」

「カースロットに用いられた、経路(パス)を使っての逆操作。記憶を引きずり出してどうこうするなんて、使い勝手も悪ければ悪趣味な術だ、本当に」

「馬鹿な! 確かに以前、アンタに使いはしたさ。でも、逆操作? そんなのすぐにできるわけが……まさか、さっきの」

「さっき、しっかり時間かけて経路(パス)を確保したからできたことだよ。よくも我が主にこんな悍ましいもの使ってくれたな」

 

 何のためにシンクと会話したと思っているのだろう。何のためにシンクの肩を掴んだと思っていたのだろう。

 茶番を重ねて、油断を誘って、ここぞというところで使うため、だ。

 今のスィンは死に体だ。自力で動くことができない以上、できるのはまだ動く箇所を使っての、時間稼ぎ。

 

「解呪してもらわなくてよかった。こんな機会があるかわからなかったけど、思い知らせることができる。お前が僕の大事な人にやったのはこういうことだ」

「……だから? 悔い改めろ、とでも言いたいのかい?」

「まさか。そんな殊勝な心、今のイオンならともかく、あの先代導師に一番似ているレプリカが持ってるわけない」

 

 カースロットの逆操作を行って、わかったことがいくつかある。

 シンクはイオンと同じ時期に作られた、先代導師のレプリカ。これは以前から分かっていたことだが。

 イオンとは違い導師としての、というか音素(フォニム)を扱う能力は低く、廃棄される直前で感情が生まれて足掻き、命を拾っている。音素(フォニム)を扱う能力が低いにも関わらず、カースロットが使えているというのは単純に努力の結果なのだろう。

 故に今のイオンに対して劣等感(コンプレックス)を抱えていて、自分を生み出した世界に対して無意識の怒りを持っているようだが。

 今回はその怒りを自分に向けてもらおうと、スィンはこみ上げる咳を押し殺し、熱でぼやける意識を頭の患部に触れることで、痛みではっきりさせる。

 その言葉を聞いて、当然だが。シンクは少なからず平静ではなくなった。

 

「お前、ボクを覗いたな!」

「覗き魔が逆ギレしてんじゃねーよ」

「……なんだって」

「導師としての能力は低いのに、カースロットが使えるってことは相当苦労しただろうね。もしくは、使えなきゃ用済み、文字通り捨てられるところだったか。役立つ道具でないと生かしても貰えないのは、拾われた側のつらいところだ」

 

 カースロットによって記憶を掘り起こされ、平静さを失い、感情的になっているのだろう。

 彼の沸点は低かった。

 

「知った風な口を……!」

 

 胸ぐらを掴まれたところで、咳が出そうになるのをこらえ、これ見よがしにシンクの頭へ手を伸ばす。

 先程は接触部位が足で、記憶を垣間見て意識をかき乱す、までしかできなかった。直接頭に触れば、操り人形レベルまでとはいかずとも、動けなくするくらいはできるかもしれない。

 当然だがシンクはそれを許さなかった。

 

「離せっ!」

「自分から掴みかかったくせに。自分がやられて不快なことを人にやったんだ。やられる覚悟は当然できてるよな?」

「このっ!」

 

 力が入らない。振り払われ、あっさりと地面に身を投げ出す。受け身が取れずに叩きつけられて咳き込むと、憤懣やるかたないシンクが馬乗りになった。

 表情こそわからないが、歯軋りしながら拳を固めている。この距離で、鋼をも砕く拳を振るわれたら多分顔の形が変わるだろうが、殺されはしないだろう。

 自分がやられて不快なことをした。覚悟は当然できている。そして、できることならもっとやるつもりでもある。

 ここからでは頭に手が届かない。顎、露出している口元、ちょっと届かない。さっき裾をめくった足。さらに届かない。

 

「思い知らせてやる……!」

「シンク」

「止めないでよ! 殺しはしないさ、でも、どうせこの顔治すのに治癒術師に診せるんだろ! ちょっとくらいなら殴ったって「止めないから、この時計を見ろ」

 

 どこに行っていたのか、いつのまにか姿を消していたラルゴが戻ってきたようだ。懐中時計を取り出し、拳を振り上げるシンクの眼前にかざす。

 盤面の針を見たのだろう。思いもよらない寝坊をしたかのような、そんな呟きをシンクは口にした。

 

「嘘……も、もうこんな時間……⁉︎」

「手間取り過ぎた。ディストの薬を過信し過ぎたな。これ以上ブリュンヒルドに何かしたいなら、船に載せてからにしろ」

 

 それ以降なら止めないと、ラルゴは確約した。舌打ちをして、シンクは立ち上がる。

 起き上がらないスィンを見下ろして、唇を歪めている。

 

「覚えてろよ。船に着いたら「覚えない。覚える価値もない」

「こいつ!」

 

 そんな先のことを心配していられない。船とやらに載せられるまでが、スィンにとってのタイムリミットになる。それまで何とか、この二人の手を逃れなければならない。

 最早我慢する理由もない咳がこみ上げる。身を丸めて濁った咳を盛大に吐くと、予想通りシンクは距離を取った。

 

「うわ、ひっどい咳」

瘴気触害(インテルナルオーガン)だからな。感染ることはない。お前はあまり人前で咳をしなかったが、堪え切れない程度には余裕がないようだな」

 

 荷袋を下ろして、ラルゴが取り出したのは手錠だった。スィンをうつ伏せにして両腕を後ろ手に拘束し、それが他者から見えないよう上から布を巻きつける。

 

「ねえ、手錠もう一個ないの。足にもつけようよ」

「それは誘拐中だと喧伝しているようなものだ。船に乗る前に止められるぞ」

「人目になんかつかないと思うけど……」

 

 この会話を聞いて以降、スィンは気を失っていたようだ。次に気づいたのは、天空客車のゴンドラに放り込まれたその時である。

 船の中でなくてよかった。

 

「……よし、気絶しているな」

 

 転がされて痛かったものの、億劫で眼を開けなかったのが幸いしたらしい。ゴツゴツとした手で顎を掴まれるも、ジェイドで鍛えた忍耐力で悲鳴はおろか、反応を見せないようにする。

 周囲に人の気配がない。ここは使われていない方だろうか。つまり港跡へ続く方。

 やはり連絡船ではなく、自前の船を使っている。つまり載せられた後は、おはようからおやすみまで、しっかり監視がつくことだろう。場合によってはトイレすら付き添いがつくかもしれない。

 気絶というか眠ったためか、ぼんやりしていた頭が少しだけはっきりしたような気がする。

 

「シンク、まだ動かんのか?」

「ボクに文句言わないでよ。ポンコツなんだから仕方ないじゃん」

 

 もはやスィンが寝くたばったものと断定している彼らは、暢気に二人して天空客車の操作盤を覗き込んでいる。

 旧式の天空客車は一応動くらしいが、整備をしていないのだ。起動が遅いのは当然だろう。

 二人の目はこちらを見ていない。好機(チャンス)ではある。しかし無策でただ逃げるだけでは、たちまち捕まって今度は袋叩きにされるだろう。主にシンク辺りから嬉々として。

 いくら意識が多少はっきりしていても、体はろくに動かない。この状態では、十歩動けるかどうか、といったところだ。

 ──天空客車が動き出してからの、途中下車。この状況なら、これが一番確実と思われる。

 まずは拘束を解くべく、針金を出そうと服の隠しを探ろうとして、巻かれている布に阻まれた。開錠音を誤魔化すのに役立つと思われたが、やはり邪魔だ。手探りで外そうとして、不意に。

 

「あーあ、まだ顎が痛いよ。何だって刀使いが棒術なんて使えるのさ」

「金と奥の手はあればあるほどいい、と公言していた奴だ。素手で戦い始めても俺は驚かん」

「頭も痛い……ちょっとくらいなら蹴ってもいいよね」

「やめろ。舌を噛んだらどうする」

 

 布を外そうとして腕を動かしたら、手錠がすっぽ抜けた。ラルゴが手錠を付け損ねたのだろうか。運が良かったと思っておく。

 というのも。二人は操作盤から離れて、ゴンドラに乗り込んできたのだ。開錠していたら間に合わなかったかもしれない。

 いよいよ、途中下車を目論むスィンの孤独な戦いが始まる。

 最新型の天空客車は乗客の安全のために、乗降口がしっかり閉まっていなければ動かないようになっているが、旧型にその機能はない。主人の音機関好きに付き合って得た知識がこんなところで役立つとは。やはり無駄な知識などないということだろうか。

 不意に、ガツン、と頭を蹴られた。

 

「うっ」

「あっ、当たっちゃった」

 

 わざとか、狙ったか。丁度、割れた瓶で切れたところに爪先が当たったようだ。反応を殺せず、狸寝入りはもうできないと、起き上がる。

 

「な、シンク! お前……」

「──わざわざ起こしてくれてありがとうございます」

 

 狭いゴンドラの中。起き上がったスィンは乗降口の扉を引くと、すぐ側にいるラルゴから逃げるように天空客車の床を蹴った。

 すでに乗り口は遠い。身を転がすのは無理だと、どうにか乗り口のへりにへばりついて指をひっかける。

 

「あっ!」

 

 シンクの声。今更気づいても遅すぎる。動き出した天空客車、しかも旧式では、あちらにつくまで止まらない。

 二人の声が、駆け抜ける風にかき消されて聞こえないのが残念である。

 スィンはへりにひっかけている指を励まし、どうにか体を持ち上げた。

 ぷるぷる震える腕を叱咤し、上体を乗り上げてからのろのろと体全部を固い石畳の上に転がす。

 

 ──おかしい。

 瘴気触害(インテルナルオーガン)の発作は、とうに収まっている。でなければあんな無茶はしない。なのに──

 どうしてこんなに動悸が早い? 

 どうしてこんなに息が苦しい? 

 どうしてこんなにも、眠──

 

 早く、戻らなければいけないのに。

 ぐるぐる回っていく視界の中で、スィンはあえなく目蓋を閉ざした。

 

 

 

 

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