連行されたスィンと空蝉が女性陣と共に帰還したのは、日が落ちきってからのことだった。出迎えてくれたルークとガイに挨拶をし、女性陣が次々とアルビオールへ搭乗していく。
アニスの言葉に甘えて彼女に前衛を任せ、スィンは非戦闘員であるノエルを護って最後尾を歩いていた。
「お、遅かったな」
「おかえ、りー……」
「ただいまもどりました、ガイさま。ただいま、ルーク」
空蝉の背中でぐったりしていたスィンが、二人の姿を目にしてぴょんっ、と地面に飛び降りる。
スカートの両端をつまみ、ちょこんと会釈をしてすたすたとアルビオールの中へ入ろうとした。
彼らの感想なんか要らない。
「ああそうだ。たいさは?」
「旦那なら、夕食のカレー作ってくれてるが……」
好都合だ。
礼だけを言い残し、スィンは空蝉を伴ってたたたっ、と駆け出そうとした。
カレーとなればこの衣装を汚さないよう、布きれか何かで貫頭衣風エプロンを作らなければ。などと、すでに頭の中では適当な理由をでっちあげている。
一時しのぎだとわかっていても、この姿であの鬼畜眼鏡との対面は、できるだけ先延ばしにしたかった。
しかし。
ボスッ。
「呼びましたか?」
音を立てて、スィンは接触部位たる顔を覆った。
それでも咄嗟に、謝罪の言葉を紡いでいる。
「……ごめんなさいっ」
「いえいえ。しかしまあ……」
「わわっ」
顔面強打で痛がるスィンを、ジェイドは軽々と自分の目線へ抱き上げた。
ああ──会ってしまった。捕まってしまった。
今は一番、会いたくなかったのに。どんな嫌味を言われることか。
何を言われても本気にしないよう、深呼吸で心を落ち着かせ、どのような言葉も受け流す覚悟を構えて。
「ずいぶん可愛らしくなってしまいましたねえ」
「……へ?」
一気に脱力した。
その表情はどこかほころんでいて、いつもは嘘くさい笑みも優しく見える。
目の前にジェイドの顔があり、いつもより瞳がしっかりと見えるのに本音の表情がわからないとは。本気で微笑んでいるのだろうか?
次の瞬間、疑いは瞬く間に消滅した。
「コレが俗に言う馬子にも衣装、という奴ですか」
にべもないその言葉に、ああやっぱりかと落胆したような気持ちになる。
いつものジェイドだと、少しほっとしたが、けなされている事実に変更はない。
しかし、次の言葉を耳にして。スィンは、そのまま姿勢を正した。
「それで、そのなりでどうやって戦うつもりです?」
その一言で、その表情で、これまでの和やかな雰囲気を見事に吹き飛ばしている。
スィンを見えない秤で量るような、否、実際彼はスィンが足手まといとなったかどうかを、今この場で見極めようとしているのだろう。
わかりきっていた反応だ。この
「立場としてはガイの従者でしかないあなたが、戦えないというのであれば……」
「おきざりもやむなし、ですか」
ちらり、とハラハラしながらことの成り行きを見守るガイ、ルークを見る。
どうも事前に打ち合わせがあったらしく、何も口出ししてこない。
「同じことをおじいちゃんにも言われました。まもられるくらいなら、ここにのこれと」
「なるほど。しかしあなたはここへ来た。それとも、ガイにお別れでも言いに来ましたか?」
スィンは、首を横に振った。
「ほう」
「なにをすれば、なっとくしてもらえますか?」
「そうですねえ……」
抱き上げたスィンを、上から下まで眺めた後にパッ、と手を離す。
自由落下でスィンがアルビオールの床を踏む前に、ジェイドの手が少女の首をわし掴んだ。
「……っ」
「この状況下で、私を納得させてください」
首が絞まらぬよう両手で必死に体を支えるスィンに対し、ジェイドは容赦なく取り出した穂先を向けている。
随分抽象的な内容だが、それが条件なら仕方ない。
スィンはきけない口のかわりにこっくりと頷いて、了承を示した。
「では、いつでもどうぞ」
「それ、じゃあ……遠慮なく」
ゆらり、と霞のようにジェイドの首周りを何かが絡みつく。
それが人の、女の手だと気づいたのは、刹那に満たない刻が流れた後であった。
更にその手の正体がわかって、眼前のスィンに穂先を振りかざす。
その前に、ぐ、と気道が狭まった。
「く……!」
槍をしまい、背後の気配に対応するか。眼前で苦しそうにあえぐ少女を始末するか。
それをジェイドが考えている間にも、スィンは行動を起こしていた。
苦しい息の下、空蝉を操ってジェイドの気をそらし、自力で絞首の拘束から脱出する。
本来なら棒手裏剣のひとつやふたつ、取り出して相手の手の甲に突き刺してやるところだが、こんなことで余計な怪我を負わせるわけにはいかない。
ジェイドの手から逃れ、アルビオールの床に着地する。
空蝉の腕に力を込めさせると、彼は形のいい眉をひそめて槍を消した。
「……まだなっとくしてもらえません?」
ジェイドの足の間合いから遠ざかったスィンが、表情を凍らせて彼を見上げている。
それから彼は、自分の首を絞めている
蜘蛛の糸と見紛うほどに細い、ワイヤー。彼の首を蜘蛛の巣に落ちた蝶に見立て、幾重にも巻きついている。
それでも、今はただ息苦しいだけだ。この細さでは、いざ力を込めたとき首の皮膚か、ワイヤ自体の力比べになるだろう。
しかし、次に感じた感触は、彼の予想をあっさりと裏切った。
「……っ」
ふと、首に触れた指が濡れていることに気づく。
軍事グローブに包まれていた指先には、見慣れた赤い液体が付着していた。
「……なるほどっ……絞殺ではなく斬首でしたかっ……」
「ごめいとう。もちろんあなたがよそうするとおり、このじょうたいで人のくびをねじ切ることはできません。ですが、このワイヤーはとくべつせいなのでけいどうみゃくにキズ入れることくらいはできるんですよ」
ぐっ、と空蝉の腕に力がこもる。捕らえたジェイドの身をもって、証明する気なのだろうか。
殺気は出ていない。しかし彼女なら──
「……あの。まだ、だめですか?」
するん、という音もせず。ジェイドの首からあっさりとワイヤーは外された。背後では、空蝉は袖の中へ特殊ワイヤーを収納している。
一見ジェイドの反応を待っているスィンだが、実は彼のことなど欠片も見ていない。
彼女の意識の先にいるのは、成り行きを見守るガイ、その人の姿があった。
主人を前に、猫を被りましたか。
口に出さぬまま納得し、わずかに出血している首元を手で拭う。
そして彼は虚空から、再度槍を取り出した。
「通常戦闘の際はどうします? 見たところあなたの得物は空蝉の腰にぶらさがっていますが、まさかあなたは戦わないのですか?」
「そのまさか、です。ボクの代わりに、うつせみにたたかってもらいます」
未だジェイドの背後に立つ空蝉が、一動作で血桜を抜き放つ。油断なく構えるその姿は、幼児化する以前の彼女となんら変わりはない。
──ペールとの特訓が、こんなに早く役に立つとは思っていなかった。
屋敷の人間に面識のない、しかも幼い子供を連れた女がファブレ公爵邸に行くのはまずいだろうと、スィンはナタリアに伝言を頼んだ。
そして市街地で再会したペールはスィンの予想通り、往来であったにもかかわらず、厳しくスィンを詰った。
軽率な行動、敵にしてやられた不甲斐なさ、更には服装のことまで。
あまりの剣幕に、格好については悪乗りした女性陣が仲裁に入ろうとしたのを押しとどめ、スィンはペールによる説教を甘んじて受け止めている。
ひとしきり怒鳴ったところで冷静になったペールは、スィンが現状で足手まといであることを指摘し、急遽ミヤギ道場を借りて稽古をつけてもらったのだった。
アルビオールへの帰還が遅くなった理由は、ここにある。
これまで己だけを鍛えていたスィンに、空蝉だけで戦う、というのは言うまでもなく至難の業だった。
何をすればいいのかはわかるのに、空蝉のコントロールが拙いせいで思うように動かせない、動いてくれない。
そこからどうにか、空蝉を滑らかに操ることができるようになったわけだが……残された課題は大きかった。
通常、戦闘を行う際にいちいち「応じる」「避ける」「耐える」などと考えて戦う戦士は稀だ。大抵が考える前に体を動かしている。ここに頭の回転や、頭のデキの優劣が割り込む余地はない。
人間が進化の過程で置き忘れてきた本能に似た感覚が働き、動くことを覚えた体が動いている。
しかし、空蝉自体は操作しない限り動かない、人形だ。その操作方法は、むしろ
戦う動作と操ることを同時にしなければ、戦闘は成り立たない。ここに、
考えてから動く
最も、アニスは優秀な
しかし、スィンは違う。自分の体を武器に生きてきた彼女にとって、これはもどかしいにもほどがある試練であった。
付け焼刃の特訓だったが、何もしないよりは遥かにマシ。
そして今、ジェイドを納得させるための手段として、特訓は役に立とうとしている。
スィンはペールに、深い感謝を捧げていた。
一方で、自分の言い出した勝負にやる気満々のスィンを好ましく見つめながら、ジェイドはひょい、と二人を見やっている。
「では、先に夕飯をどうぞ。私達はスィンの実力を見極めてからいただくことにします」
ジェイドに促され、スィンはアルビオールの外へ飛び出した。
よもやと思ったが、背中を見せた途端、奇襲をかけられるのが嫌だったからである。
「ふむ……やはり年を重ねているだけはありますねえ。若人にありがちな隙が全くない」
こんなことを言っているあたり、不意打ちを仕掛けようとでもしていたのだろうか。
真偽はどうでもいいために、空蝉の操作に集中する。視線を切り替えた。
広くなった世界が元に戻る。ペールとの特訓にも味わっためまいが、スィンに襲いかかった。
意識が、脳みそが悲鳴を上げていることに、気づけぬはずもない。
「──行きますよ?」
その間にも、槍を携えたジェイドはゆるやかに迫りつつある。
袈裟と見せかけて逆袈裟に走ったデッキブラシ──トライデントを装備していたのに、変更してくれたのはスィンの身を案じてかもしれない。しかし、被弾すればこの上もない屈辱である。
それをぎりぎり回避し、間合いを詰めんと空蝉は地を蹴った。
通常、槍に限らず長柄武器は指摘するまでもなくリーチの長さに特化している。剣と比較しての間合いは、もちろん槍の勝ち。剣が相手に触れるより早く、槍は剣の主を突き刺している。
しかし、それは同時に諸刃ともなる。
リーチの長さは、いざ踏み込まれたとき対処の術を封じ、無様に後退するか卑怯と罵られても仕方ない隠し武器を取り出すか、どうにかしなければならない。
残念ながら、ジェイドはそれを知っていた。
だからこそ彼は、リーチを生かした安易な突きではなく、わざわざ槍の中間点を持って切り裂くように戦っている。
初めてその戦いぶりを見たときは、槍の長所も知らないのかと内心嘲笑っていたが、同時にその事実に気づいて猛省した。
仇敵を目にして、頭が茹だっていたのかとすら思った。今やもう、彼を見くびる感情はない。
逆袈裟に続く石突の連打を血桜で受け止め、そのまま違う方向へと持っていく。
このまま間合いの中に入り込み、暗器を取り出すことができればスィンの勝ちだ。
──だが。
「ほう。あれを防ぐとは中々やりますねえ」
笹手裏剣を取り出そうとした瞬間、硬直した空蝉の脇をすり抜け、ジェイドは彼女の背後に回っている。
その動きについていきながら、スィンはとある重大なことに気づいた。
空蝉はコンタミネーションが使えない。それどころか、声を発することができないので譜術も使えない。
従って、今持つ武器はただひとつ、血桜のみ。
純粋な剣技、あるいは体術だけで、ジェイドに勝てと──納得させろというのか。
うっかりを装って刺しそうで怖い。
「ほら、どうしました?」
邪念に気を取られ、空蝉の体捌きが鈍くなる。
そこを狙って、デッキブラシは彼女の鳩尾に迫りつつあった。身を沈め、腕で受けることで鳩尾に食い込むことを防ぐ。
勢いの衰えたデッキブラシを掴んで引き寄せると、ジェイドは予想に反して素直に引きずられた。
自分の得物を掴まれたら取り戻すのが人情、もとい咄嗟の反応だ。
時々故意に相手のバランスを崩してやろうとする輩がいるが、今回ジェイドはそれを狙ったのだろう。
涼しい顔で空蝉の懐へ潜り込もうとしている。
おそらく肉弾戦に持ち込み、異性恐怖症につけこもうと考えているのだろうが──
「……っ!」
伸ばされたジェイドの腕を逆に掴み、抵抗されないうちにひねり上げる。
デッキブラシも血桜も、とうの昔に放り棄てていた。
「むっ……!」
一瞬、ジェイドの顔に真剣味が走る。しかしそれ以上、スィンは彼の顔など見ていなかった。
腕を取り、自分のほうへ引き寄せたことで完全に死に体となっていたジェイドを、彼女は好機とばかりに足を払って投げ飛ばしたからである。
無理に逆らうことなく、ジェイドはすんなり投げ飛ばされた。
「……へ?」
ぱちりと瞬き、視界をスィンへと戻す。
その頃、ジェイドは華麗に受身を取って着地していた。
「ど、どうしたんですか? あっさりなげられるなんて……」
「いえ、そろそろお腹が空いてきたので」
投げられた際、外れて転がった眼鏡を拾い上げ、彼は朗らかに微笑んでいる。
とてつもなく嘘くさい笑みであった。
「はあ!?」
「納得した、ということですよ。しかしよくできていますねえ……」
硬直するプチスィンをほったらかし、支配を解かれて立ち尽くす空蝉をじろじろと眺める。
不意に空蝉の頬へ触れ、何の反応もないことからその手が顎へと滑り──
「って、何やってるんですか何を」
閉ざされていた瞳が見開き、どこか違和感のある『スィン』の声が遠くから発せられる。
同時に手が払われ、彼女は何事もなかったように血桜の回収へと向かっていた。
「……本当に
「二十七バツイチ女にどんなロマン求めてるんですか、あなたは」
緋色の刀身を懐紙で拭い、作法に従って鞘へ収める。
交戦中も今も、プチスィンは棒立ちしたまま。譜術を扱っているようには見えないが、無防備な姿に変わりない。
その間にも、空蝉はデッキブラシを拾い上げ、ジェイドに差し出している。
「今更無垢な乙女を演じろといわれても無理ですよ……お手合わせ、ありがとうございました」
一抹の寂しさを添えて、空蝉は困ったように微笑んだ。
作られたようなわざとらしさは感じられない。これは──もしや、空蝉を操るスィンの感情が、そのまま空蝉に反映されてしまっているのだろうか。
デッキブラシを受け取ろうとして、故意に彼女の手を握る。
びくっ、と一瞬体が震えたかと思うと、その手の甲がつねられた。
「……いじわる」
頬が紅潮し、かすかな上目遣いがジェイドの眼を、意識を捕らえる。
尖った唇が、ひどく扇情的に動いた。が、それも一瞬のこと。
「──とかやってほしいんですか?」
艶っぽい、嫌な言い方をすれば媚を売っていたような目つきが消滅し、頬の紅潮が消える。
珍獣でも見るかのような目つきが、やけに痛々しかった。
「おばさんがやってもキモいだけですって」
「……まあ、女性にとってはそうかもしれませんね」
確かに、成熟した女性が今の台詞を吐いても違和感がないことは稀だろう。
しかしスィンは、間違いなくその稀に属する人種であった。
「ところで──」
「はい?」
空蝉を連れてとっととアルビオールへ戻ろうとしたプチスィンが、くるりとジェイドに振り向く。
その愛らしさに乱された心を癒しながら、ジェイドはやはり笑みを浮かべた。
「味覚はどうなっていますか? 用意したのは辛口ですが」
「……さあ、どうでしょうか。食べてみないことには、何とも」
そういえば、体が縮んでから飲食行為を一切していない。
詳しく尋ねれば、彼が用意したのはピリ辛マーボーカレーであるとのこと。
もし味覚が幼児並に退行していたら、今晩は夕飯抜きということになるのか。
そんなことをジェイド相手に愚痴りながら、二人は遅い夕餉にありつかんと、連れ立ってアルビオールへ向かっていった。
「どうですか?」
「…………水をください。お話は、それからです」