彼は優しく穏やかで凪のような人だった。
デビルハンター・早川アキの死んだ同僚のうちの一人の話。

1 / 1
※捏造・自己解釈多め


死んだ同僚の話

 十一月十八日、午前十時。早川アキの家族は五万七千九百十二人のうちの三人になった。

 まだほんの小さい子どもだったアキには全てを理解することはできなかった。名前しか知らない遠い国で何十万人が死のうと関係なかった。家族が死んだ。『銃の悪魔』に殺された。移動速度が早すぎてその身を焦がしながら通過していっただけの存在に、埃を払うような気軽さで殺されたのだ。

 

 二十六秒で約五万八千人の被害者を出した状況を重く見た政府は、銃所持の基本厳罰化、凶悪事件や災害などの報道規制、銃の悪魔の被害者遺族補償などを掲げた。もちろん早川アキも遺族補償対象者となり、少額の遺族基礎年金とささやかな補助金が振り込まれることとなった。家族を亡くした幼いアキは遠い親戚に引き取られ、義務教育が終わるまでをそこで過ごした。

 アキは中学校を卒業後に上京し、東京の高校に進学した。アキを引き取って育ててくれた親戚はその決断を止めなかった。小学校でも中学校でも、成績より担任からの「もう少しお友達とお話ししましょう」とのコメントが目に付く子どもだった。誰にも心を開かず、誰にも気を許さず、それでも銃の気配のまとわりつく事件がひっそり報道されると齧りついて聞く。アキの振舞いから『東京に出て何をしたいのか』を察していただろうに、彼らはアキを止めなかった。止められなかった。アキは、悪魔を殺したかった。

 授業の片手間でまかないの出る店でアルバイトをし、金を稼いだ。社交性というものがすっかり欠けていたので、三年間ずっと厨房係をしていた。アキの料理スキルはここで磨かれたと言っていいだろう。本当はホールに出てほしいんだがなあ、とアキの顔をしげしげ眺めながら店長がぼやいたが、前に一度だけアキをホール担当にした日の惨状を思い浮かべては首を振った。

 

 

 

 金を稼ぎ、体を鍛え、適当に学問を修めた早川アキは高校卒業とともに本格的にデビルハンターとなった。最初から就職先は決めていた。公安、それもデビルハンター東京本部だ。アキはここを目的地として地方から出てきたのだから、ここで迷うはずもなかった。

 公安は新人が一年以内に居なくなるという評判通りに万年人手不足である。最低限の適正試験を通り抜けてしまえば、アキは立派なデビルハンター一年生となった。

 

「お前が早川アキか」

 

 公安のデビルハンターとなって間もなく引き合わされた男は長身で、口元に大きな傷跡のある男だった。手にはスキットルを携え、目の前に立つとアルコール臭が鼻についた。まだ陽は高く、明らかに業務時間内だ。悪い大人だった。

 

「俺は特異一課でデビルハンターをやっている。お前の教育を任された」

「……」

「挨拶」

「……」

 

 ガツン、と側頭部を張り飛ばされる。男に比べたら子どものような体格のアキの体が横に吹き飛び、椅子やゴミ箱をなぎ倒しながら床に転がった。視界がぐわんぐわんと回り続けている。状況が理解できず、ただ湯沸かし器のように腹の奥が煮えくり返った。

 

「新人研修らしいからな。いつもは言わんが、口の利き方も注意しておく。俺は岸辺、好きなのは酒と女と悪魔を殺すこと」

「ぐ、う……クソ……」

「お前、銃の悪魔を殺したいんだってな」

 

 混濁していた意識が覚醒する。名前を聞くだけで新鮮な空気を取り込んだ炎のように憎悪が膨れ上がった。弾ける火の粉が目の前で輝き、回っていた視界がぴたりと落ち着いた。無様に転がるアキを立ったまま見下ろす岸辺。彼の目をにらみ上げることで答えとすると、彼は黙ったままスキットルを傾けた。

 

 

 

 岸辺は優秀なデビルハンターだった。長生きできないと言われる公安の第一線でここまで年を重ねられたところからもわかることだが、彼の戦いは演武を見ているかのような優美ささえあった。相手の動きを見切り、最低限の動きで回避し、相手の弱点を的確に打ち貫く。アキは公安の訓練場で岸辺に挑んでは転がされ、任務に同行しては岸辺の用意した場面で小さな戦果を挙げていった。

 

 そんな日々を二か月ほど続けた頃に変化が訪れた。

 

 東京から飛行機で二時間ほどの遠方に、実力者である岸辺を招集して退治に向かわなければならない凶悪な悪魔が出た、という報せがマキマによって齎された。当然のように新人のアキは留守番を言い渡される。これからとうとう独り立ちか、と仄かに緊張したアキのことなどお見通しだと言わんばかりに、岸辺は無表情に続けた。

 

「俺が居ない間、別のやつに面倒を見てもらうことになってる」

 

 別のやつ。

 そう言った岸辺を見送って、その足で相対したのが『彼』だった。

 

「おや」

 

 渡された走り書きのメモに従って訪れたマンションの一室のインターホンを鳴らすと、扉を開いた先にあったのは穏やかな顔だった。

 

「岸辺さんから聞いてるよ、君が早川アキくんだね」

 

 目じりを下げてのんびり笑う彼は、どうぞ、と扉を開いてアキを招いた。ふわりと漂うコーヒーと甘い香り。開け放たれた遮光カーテンから入り込む日差しはレース地の薄いカーテンを揺らし、小さく流されたラジオから聞こえる古い歌謡曲が耳に優しかった。ここは異空間か? 今まで歩いてきた外と目の前の室内がまるで別世界のように思えて、アキは玄関に踏み入る前にこっそり背後を振り返った。何の変わりもない、晴天の午後だった。

 

「僕は水嶋。特異一課の人間です」

「……早川アキ」

「うん、聞いてた通りだ。あはは、緊張しないで」

 

 招かれるままにテーブルにつき、コーヒーとケーキが出されるのを無感動に眺める。黒々としたカップの中身に映り込むアキの表情はなかった。これで緊張しているように見えるのだろうか。

 

「砂糖とミルクは好きにして」

 

 逆に、目の前の男は自然体そのものだった。すらりと背が高く、制服のシャツとスラックスを着こなして、常に柔和な笑顔を浮かべている。ただどこか中性的な雰囲気があって、体格や声から男だろうと思ったが、どこか女性らしさを纏っているような気がした。

 

「わざわざ来てもらって悪いね、今日は有給だったもので本部に顔出すの面倒だったから」

 

 水嶋と名乗った男はコーヒーにミルクを垂らして適当にかき混ぜ、ちびりと飲んだ。伏せた睫毛が長い。

 

「岸辺さんは売れっ子でね、色んなところに呼ばれては悪魔退治してるんだ。僕はその間、君の教育係をします」

「……強いのか?」

「強いかはわからないけど、これでも五年は公安やってるよ」

 

 公安退魔特異課の人間の命は軽い。一年持てば褒められる業界で五年の実績は他の何よりアキの関心を引いた。向かい合って座っているので意識せずとも目に入る彼をぼんやり眺めていると、彼ははにかんで、首元を摩った。気の抜けるような、デビルハンターらしからぬ善良さの滲む微笑みだった。

 

「今日は呼び出しもないし、早川くんもお休みにしよう」

「訓練は」

「僕は岸辺さんみたいに四六時中訓練やれるほど気が長くないから。明日からね」

 

 それきり水嶋は本当に仕事の話をしなかった。ただコーヒーを飲んで、ケーキを食べて、アキが嫌にならない程度の話題を振った。出身がどこだとか、好きな食べ物は何かだとか、年齢だとか。普通の休日のような時間を誰かと過ごすのは久々のことだった。

 

 その日、アキは水嶋に乞われてなぜか料理を振舞うことになった。手早くできるペペロンチーノと冷蔵庫に残っていた萎びた野菜を使ったスープ。水嶋は手放しで喜んで、アキを目いっぱいに褒めた。調理器具や冷蔵庫を見れば彼も料理をしないわけでないのは一目瞭然だったが、喜んで皿を空にする水嶋の喜びが偽りでないのは伝わってきたので何も言わなかった。自分より高い位置から頭を撫でられたのも久々だった。

 

 

 

 翌日、東京本部。水嶋相手の組手でまったく歯が立たないアキが訓練場の天井を眺めていたときに彼の端末に出動要請が入った。場所は港区、先に現着した民間のデビルハンターが二組やられたそうだ。水嶋は笑ってアキに手を差し伸べ、行こうか、と言った。コンビニに誘うくらいの気軽さだった。

 

「はい、下がって下がって。公安です、危ないですよ」

「水嶋さん、お疲れ様です。周囲の避難完了、封鎖できてます」

「ありがとうございます」

 

 現場は死臭に満ちていた。デビルハンターだっただろう四肢や臓物があちこちに散らばった血の池に、二メートルほどの醜悪な肉の塊が立っている。昆虫らしい六本足、四本の巨大な手が巨大な刃物を持っている。体格に対して足が華奢だが、どの程度のスピードで移動するのか。アキは教わった通りに相手を観察し、距離を取りながら様子を見る。

 

「うーん、何の悪魔だろうね」

「さあ……」

「まあいいか。さっさと終わらせよう」

 

 え、と聞き返す前に、鑑識課がつけているような白い手袋を着けながら水嶋は軽やかに歩き出した。革靴が血だまりを叩き、粘着質な水音を立てる。呼び止める暇もなかった。相手が何をしてくるかもわからないのに懐に飛び込んでいくなんて自殺行為である。

 

「みッ……」

 

 反射的に声を上げたとき、悪魔が反応した。四本の刃物が一斉に振りかざされるのと同時に肉の塊の頭頂部が裂けて伸び、きれいに生えそろった歯が剥き出しになる。人の頭を飲み込めるほど大きく『口』を開いた悪魔は、歩み寄ってきた餌に牙をむいた。水嶋は手にした小さな鏡を翳して、握りしめ、割る。

 瞬間。

 肉塊が粉砕され、半径五メートルに血飛沫と肉片が飛び散った。取り巻く警察関係者から悲鳴が上がる。アキも飛沫を浴びた。それでも水嶋から目が離せなかった。

 

「あれ、まだ生きてるな?」

 

 成人男性の身長より高かった肉塊は膝下が精いっぱいという感じのものになっていたが、彼が言うに『まだ生きている』らしい。水嶋は腰を下ろし、別の鏡を取り出して割った。一筋の血飛沫が天高く噴きあがった。

 

「きみ、何の悪魔?」

 

 もう一枚。もはや精肉店に並ぶミンチ百グラムほどになった悪魔は這いずって水嶋から逃げようとするが、彼はデビルハンターである。「ははあ、なるほど」ダメ押しにもう一枚鏡を割って、今度こそ悪魔は絶命したようだった。

 ゆらりと立ち上がる姿は頭から血飛沫と肉片を浴び、常人が見れば卒倒しそうなものだった。アキはその場から一歩も動けず、水嶋が振り返るのを待つ。首だけで振り返った彼は表情も変えず、微笑んで首元を摩った。

 

「こいつ、カマキリの悪魔だって」

 

 

 

 水嶋はびしょ濡れの状態でその場に止まっていたパトカーに同乗して本部まで送らせ、悪びれもしなかった。運転する警官は顔が青ざめ、途中で何度かえずいていたけれど。

 アキはパトカーのシートを悪魔の血で汚す水嶋を眺め、この人はこういうタイプか、と考えた。岸辺も岸辺で周囲のことを考えない、呼吸をするように悪魔を斃す人であるが、彼もまたその一種であるように見えた。見られていることに気付いた水嶋が気の抜ける笑顔を浮かべた。アキは彼の笑顔を見ると、肩の力を抜いてしまいそうになる。

 

「水嶋と仕事したって?」

 

 三泊四日で九州出張していた岸辺が帰ってきて、最低限の挨拶が済んだところで放り込まれた話題だった。適当に頷くと、岸辺は底の見えない目をしたまま顎を摩った。

 

「あいつ、顔の割りにぶっ飛んでるからな。引いたか?」

「まあ……」

「ここで五年やってるってのはそういうことだ。あいつは『後天的』だが、ネジが飛んでるからな」

 

 後天的? 岸辺の話はたまに注釈なしでは理解できない。

 

「悪いやつじゃないから気にすんな」

「はあ」

「俺が居ない間に鈍ってないだろうな」

 

 言い終えないうちに岸辺の裏拳がアキのこめかみを直撃した。当たる直前、ほんの少しだけ殴られる方向に顔を逃がしたのが幸いしたのか、一撃で昏倒することは避けられた。

 岸辺はいつもの顔をして頷いた。

 

「赤点回避」

 

 

 

**

 

 

 

 水嶋との邂逅からひと月経つと多忙な岸辺の不在が続き、一週間のうち三日は水嶋と過ごすのがスタンダードになっていた。水嶋は穏やかに笑い、笑いながらアキの相手をし、アキの相手をするように悪魔を屠った。

 ここまで過ごせばアキにもわかる、水嶋にはオンオフというものがないのだ。彼の心は決して波風が立たない凪のようなものである。だから後輩を指導するのも凶悪な悪魔を殺すのも変わらない。悪魔は恐怖を糧として強くなるのだから恐怖を抱かない水嶋と相性が悪いのは道理だった。これを、岸辺は『後天的』と言った。

 

「早川くん、どうかした? ここのラーメンうまいから冷める前に食べな」

 

 手元にラーメンが届けられて三十秒、箸に手を付けずに水嶋の顔を眺めていたアキにひと口を促した。彼はチャーハンをほおばったあと、同じレンゲでスープを飲む。アキが透き通ったしょうゆラーメンの丼ぶりの中に視線を落とすと、アキと目が合った。自分の背後に立つ、アキと。

 

「――!?」

 

 勢いよく振り返る。誰も居ない。いや、そもそも『早川アキの顔をした誰か』が居るはずもない。アキは咄嗟に立ち上がり、四方八方に注意を払った。

 

「なに、どうした?」

「後ろに俺が……」

「え?」

 

 水嶋は緊張感の欠片もなく、レンゲでスープを飲んでいる。苛立ち混じりに睨みつけると、合点がいったように水嶋が笑った。

 

「ああ! 早川くん、僕が契約してる悪魔のこと知らないのか」

 

 箸をきっちり揃えてどんぶりの上に置くと、水嶋はスーツのジャケットから鏡を一枚取り出してアキに向けた。もちろん鏡面に映るのはアキと、ラーメン屋の風景と、そして『アキの後ろに立つ早川アキ』だった。

 

「な」

「僕が契約してるのは『鏡の悪魔』、鏡の中に居るんだ。スープも景色が映っちゃうからね、見えちゃうんだよね」

<スープも景色が映るから、見えちゃうの>

 

 鏡の中のアキが水嶋のような笑い方をして、男でも女でもないようなふしぎな声色で喋った。アキは早鐘を打つ心臓が鬱陶しくてたまらなかった。

 

「先に言っておけばよかったね、聞かれないから忘れてた」

<忘れてたわ、聞かれないから>

「しょうゆスープの中って塩辛くない?」

<スープの中は塩辛いわ>

「まあ、映ってるだけだから味なんてわからないか」

<ええ、映ってるだけだから味なんて知らないわ>

 

 輪唱のように話しかけられた言葉がそのまま返ってくる、頭がおかしくなりそうだ。自分の顔で自分の制御できない言葉を喋っている。鏡に向けて話しかけ続けると気が狂うらしいが、それに近しいものを体験しているのだと思った。

 

「驚かせてごめん、とりあえずラーメンに罪はないから」

「……」

「おいしいよ」

 

 鏡を懐に収めた水嶋は笑って、メンマを齧った。アキは彼の笑顔に毒気を抜かれてばかりだ。ようやっと落ち着き始めた心臓を押さえるように胸を摩り、アキは恐る恐るどんぶりを覗き込んだ。そこには緊張した面持ちのアキ一人だけが映り込んでいたので、恐々と箸の先を突っ込み、黄色いちぢれ麺を啜った。おいしかった。

 

 

 

 鏡の悪魔は、ものを映した鏡が割れることで『映っていたものを割る』ことができるらしい。

 ラーメンを食べに行った翌日、水嶋とアキが出動した先には頭部が巨大なハンマーになっている異形頭の男が立っていた。場所は商店街のど真ん中の十字路。慌てて封鎖されたため、あちこちに人の営みの体温の残ったマリー・セレスト号が再現されていた。

 

「これはわかりやすい。ハンマーの魔人」

「一人殴り殺されてる」

「うん、早川くんも気を付けてね」

 

 頭が重いのか、直立することも難しそうなハンマーの魔人は体勢を低くしたままうろうろしている。ハンマー部分にはへばりついた肉片と鮮血。数メートル先の壁で潰れたトマトのようになっているのが被害者だろう。一撃貰えば即死なのがわかった。

 

「早川くん、行ってみようか」

「――『コン』」

 

 特注の手袋を着用した水嶋が鏡を弄びながら言うのに合わせ、アキは中指と薬指をくっつけ、二本の指の腹を親指の腹と重ね合わせる。狐の頭をイメージした手印と号令により、巨大な狐の頭部が東京のど真ん中に召喚される。野生の獣による狩りだった。何もなかった中空に突如出現した巨大な頭はハンマーの魔人めがけて口を開き、周りの全てを巻き込みながら命令を遂行せんと牙を煌めかせる。

 

「なッ」

 

 しかし、狐の一咬みは空ぶった。アキの号令より一瞬早く、ハンマーの魔人が重い頭を振り回し、自身が砲丸投げの砲丸の役割を果たすことで加速度的にスピードを得て突進してきたのである。時間にして一秒未満、避け切れない。頭は回っているのに体が動かない。一撃を食らう。潰れたトマト。その瞬間にアキが抱いたのは紛れもない――恐怖だった。

 

「早川くん!」

 

 名前を呼ばれ、何の心構えもないままアキは右腕を強く引かれた。勢いがよすぎて恐らく脱臼した、ゴキンと嫌な音がして激痛が走る。そのまま成すすべもなく、力任せに腕を引っ張った水嶋を巻き添えに二人で絡まるようにアスファルトを数メートル転がった。

 

「は、やかわくん、無事だね」

「腕、以外は……」

「あら、抜けてる。あはは、帰ったら治してもらおうね」

 

 水嶋を下敷きにして乗っかる形のアキは、起き上がろうとして右腕がうまく動かせないのを確認する。力が抜けて水嶋の上に覆いかぶさってしまった。頬を付けた先、硬い胸板が上下して鼓動を打っている。この人も生きている人間なのだなと、アキは改めて実感した。

 しかし、二人で折り重なっているのではいい的だ。早く動かなければと身じろぎして、アキはそこで初めて違和感を抱いた。何かがあるからではなく、『ないからおかしい』。思わず水嶋を見るが、彼はハンマーの魔人をじいっと観察していた。

 

「早川くん、ちょっと下りて」

 

 返事を待たず、水嶋はアキを優しく払いのけた。立ち上がるとジャリジャリと鏡の破片がジャケットから零れ落ちてくる。

 

「ああ、結構割れたな……もったいない、割れやすさと丈夫さの両立した特注品なのに……」

 

 本当に残念に思っているのかわからないほど普通の声色で、水嶋は鏡の破片を降らせながら魔人との距離を詰める。

 

「僕の指あげるから、『アレ』で出来る?」

 

 水嶋がそう呟いたのが確かにアキにも聞こえた。アキの契約する狐の悪魔も皮膚や髪の毛を対価にすることで召喚に応えてくれている。先ほどの空振りも立派な一回換算で、肘から手首にかけて皮膚が捲れて剥がされたのがわかる。しかし、皮膚は再生する。指だ。水嶋の払う対価は欠損を伴う。強大な力が振るわれようとしていた。

 

「小指だといいな……」

 

 うっそりとした動作で腕を上げ、水嶋が大きく腕を振りかぶった。

 ハンマーの魔人が攻撃されたのだと判断して大きく鳴いた。投擲されたのは商店街の幟が刺さっていたコンクリートブロックの大きな破片だった。そしてそれは魔人に当たらず、その後ろへまっすぐ飛んでいく。

 

「あ」

 

 思わずアキが声を上げた瞬間、コンクリートブロックは魔人の背後にあった喫茶店の窓ガラスを直撃した。轟音を立てて割れるガラス。魔人の全身を映したガラスが、粉々に砕けたのである。

 ハンマーの魔人は異変に気付き、自らの頭に手を当てた。人を撲殺できる強度を誇る頭がひび割れている。声とも言えない鳴き声が響いた。生きたまま頭を内側から砕かれる苦痛を言葉にするには、ハンマーでは役者不足であろう。

 魔人は全身から血を噴き出し、苦痛にのたうち回りながら絶命した。

 

「い、あ、ああああ…………くそ、お」

 

 アキは魔人の亡骸に目もくれず、崩れ落ちた水嶋へ駆け寄った。腕が頼りなく揺れることだとか、ジャケットの下でシャツをべったり濡らす血だとか、そういうことは気にならなかった。腕を抱えて脂汗を滲ませる水嶋は血濡れた左手を眺めて歯ぎしりをしていた。

 

「そうだよな、そこだよな、そこだ、そこしかないよなあ……」

 

 無くなっていたのは、左手の薬指だった。

 

 

 

 ハンマーの魔人討伐を果たした二人は公安と提携している病院に担ぎ込まれ、一日の検査入院を命じられた。空いている部屋が一部屋だったということで、アキと水嶋は並んでベッドに寝かせられている。アキの腕は慣れた医師の適切な荒療治によって元通りになり、食われた皮膚に関しても包帯を巻かれた。アキの検査入院は転がったときに頭をぶつけた可能性があったからだ。

 水嶋は包帯を巻かれた左手を眺めて何も言わない。指を広げているのに、一本だけ不自然なところで凹んでいる。空白になったそこは鏡の悪魔が対価として持っていってしまった。小さい頃から誰もが知る、特別な意味を持つ一本だけの指。

 

「水嶋さん」

 

 アキは初めて彼をはっきりと呼んだ。

 

「鏡の悪魔との契約の対価、アンタ何を払ったんだ」

 

 水嶋は動揺しなかった。聞かれるだろうと覚悟していたのか、それともこんなことで動揺しないほど精神の凪が完成してしまっているのだろうか。隣のベッドの彼は一つ大きく深呼吸をして、いつものように笑った。

 

「とはいえ、早川くんはもうわかってるんじゃないかな」

「……じゃあ、やっぱり……」

「うん。生殖器」

 

 笑った水嶋とは対照的に、アキは笑えなかった。今日ハンマーの魔人に吹き飛ばされたときに彼と密着して、本来ならばあるはずのものがないことに気付いてしまってから、薄々そんな気はしていた。胸もない。下もない。アキはそこで初対面のときの奇妙な中性的な雰囲気の正体を掴んだ。水嶋は契約によって男性の象徴を失い、どちらともつかぬものになってしまっていたのである。

 

「僕はね、大学卒業してから公安に入って、最初は狐の悪魔と契約してたんだ。早川くんみたいに頭は使わせてもらえなかったけどね」

 

 昨日やっていたテレビ番組について話すみたいな声色だった。アキはごろりと寝返りを打ち、隣の男の横顔を見た。

 

「でも、二年目に入るころにけがをして、これじゃだめだと思ってね。別の悪魔と契約することにした」

「それが、鏡の悪魔?」

「気難しいと聞いていた鏡の悪魔はどうやら僕を気に入ってくれたようでね。契約してもいいと言われた。代わりにごっそり持っていかれたけど」

 

 言葉を切って、水嶋はまた左手を翳した。歪なシルエット。

 

「恋人が居たんだ。僕の子どもを産みたいって言う奇特な人だ」

「……」

「僕も公安暮らしで長生きできるわけじゃない、だから未来への投資……いや、希望なんて人を増やすことくらいだと思ってた。彼女が望んでくれるのであればそれでいいと思ってた。そこにこれだ」

 

 悪魔は水嶋の想いを知っていただろう。だからこそそれを望んだ。悪魔は本能的に人間が嫌いだ。であれば、気に入った人間が一番苦しむことを喜びとするに違いない。

 

「彼女には言えなかった。適当言って突き放してしまった」

 

 ぱたりと左腕がシーツに沈む。

 

「……贈った指輪は捨ててくれただろうか」

 

 寝言みたいな小さい弱音だった。そんなことを言う水嶋こそ、それを捨ててはいないのだろうなとも思った。

 つまらない話だね、と言って彼はまったくいつも通りに笑った。目じりの下がり方も口角の上がり方も声色もまったく同じだったのに、今日ばかりは泣いているように見えた。

 

「――しかし、ハンマーの魔人、あれは鈍器でまだ助かったな」

「?」

「比較的割りやすかった」

 

 空気を変えようとしたのか、水嶋は少しおどけたように言って、ハンマーを振るうような仕草をしながらアキを見た。出会ってから彼にばかり気を遣わせていることに今さら申し訳なさを抱いて、アキは唇を緩めた。

 

「あれがそう、他の魔人だったら、僕ら二人とも死んでたかな」

 

 何もない空気の中により悪いもしもを描いて、今日の幸運を喜ぶ。後ろ向きだがポジティブだった。

 

「例えばもっと怖い、そうだな。チェーンソーとか」

「それは怖い」

 

 今日だけはそれが許されてもよかった。

 

 

 

「はてさて、今日は逆ですね」

 

 二人が検査入院してからひと月経ったころ、東京本部で出くわした水嶋はトランクを引いていた。

 

「お前、今日から北だったな」

「はい。岸辺さんはしばらく東京ですね」

「ああ」

「早川くんも、チューターがころころ変わって申し訳なかったね。そろそろ新人研修も終わりだろ? 気を付けるんだよ」

「……はい」

 

 左手の薬指を失って、水嶋の感情はいっそう凪いだようだった。今世への未練が何もない、だからこそ恐怖を抱かない。醜悪な悪魔にも凶暴な魔人にも引けを取らず、距離を詰めれば詰めるほど悪魔の業の精度が上がるのだと言って歩みを止めない。

 彼は癖のように首筋を摩りながら、困ったように言った。

 

「しかし、僕は北は初めてでね。雪道の歩き方がわからないから不安だ。早川くんは雪の多いほうの出身だったかな」

「……まあ」

「滑らないよう注意するよ、お土産も楽しみにしててね」

 

 いつも通りに人好きのする笑顔を浮かべて、水嶋は手袋を付けた右手でアキの後頭部を包んだ。無意識に視線が彼の左手へ向かう。着用された手袋の薬指だけが余って頼りなく揺れていた。

 それが、最後だった。

 

 

 

**

 

 

 

 水嶋を見送った翌日、岸辺から合格が言い渡され、早川アキはバディを得た。墓地で出会った仄暗い目をした包帯まみれの隻眼の女。姫野は五人の元バディたちを「使えない雑魚」と評したが、アキはそれが本心の全てだとは思わなかった。

 

「アキくんは死なないでね」

 

 この言葉の意味を、ずっと考えている。

 

 

 

「あ~~~~今日も終わった。アキくん、飲み行こ」

「昨日も行ったでしょう」

「昨日は昨日、今日は行ってないじゃんか」

 

 早川アキが公安のデビルハンターとして活動し始めてもう三年目になる。アキはその間に狐の悪魔に加えて呪いの悪魔と契約し、寿命を縮めながら必殺の業を手に入れた。姫野の忠告もあって呪いの悪魔との契約を施行するのは切り札としているが、デビルハンターは日々が戦いである。使わざるを得ない場合もあるのが現実だった。

 

 水嶋は帰ってこなかった。あの日、雪国で発見された悪魔討伐に派遣されたデビルハンター一行は車両ごと襲撃に遭い、向かった全員が安否不明となった。定期連絡もなく、消息も掴めない。加えて雪深い地域であったことが災いし、新雪に全てが飲み込まれて襲撃箇所の特定もできなかったそうだ。いつかの春になればどこかで車の残骸が出るだろう。そうして初めて消息不明は死亡とされる。観測されるまで、彼は生死までもがどちらつかずになってしまった。

 

 そんなことを思い出したのは、姫野と足を踏み入れたラーメン屋がいつか水嶋と来た店だったからだ。あの日、しょうゆラーメンのスープに映り込んだ鏡の悪魔は呼吸を忘れるほど心臓に悪かった。それを言えば目の前に居る眼帯の女の契約している悪魔だって、不可視のゴーストなのだけれど。

 

「ん? どした」

 

 あの日と同じく、手元にはしょうゆラーメンのどんぶり。一つの皿に乗ってきた二人前の餃子を分け合いながら少し遅い昼食を取っている。

 

「いや、別に」

「お、隠し事? いけず」

「違います。ほら早く食べて帰らないと、雨が――」

 

 そのとき窓の外へ視線をやったのは、単に空模様を確認するためだった。朝に見た天気予報では夕方にかけて天気が崩れるだろうと言われていた。早く本部に帰らなければ降られるから、だから。

 窓の外に、柔和な微笑みを浮かべた男が立っているなんて、思わなかった。

 

「み――」

 

 そんなはずはない。死体は出ていない。無事で? まさか。

 アキは椅子を蹴飛ばし、姫野の困惑した呼び声を置き去りにして店から駆け出した。

 

 

 

「水嶋さん!」

 

 黒い公安の制服を身にまとった彼は黙って微笑んでいる。ラーメン屋から出たときに彼が踵を返して歩き出してしまったので、追いつくまでに時間がかかってしまった。気が付けば人気の少ない路地近くまで来ていた。

 

「……生きてたん、ですか」

「うん。生きてたんだよ」

 

 穏やかな声。ああ、こんな声をしていた気がする。あの日、並んでベッドに横たわっていた夜、こんな声で訥々と話を聞かせてくれた。彼にばかりに話させるわけにはとアキが銃の悪魔を追う理由も伝えた。あの日、アキは水嶋の内面に初めて触れたのだ。

 

「どうしてこんなところに」

「……どうしてこんなところに?」

「俺、俺は任務ですよ。今は姫野先輩と一緒に」

「僕も任務だよ」

 

 微笑んでいる水嶋と真正面から相対する。彼は困ったように笑って左手で首筋を摩った。弓なりに細められている瞳の奥、得も言われぬ違和感。

 

「どうして、今まで黙っていたんですか」

「どうして」

「二年も……」

 

 彼との距離を詰め、腕でも掴んでやろうと思った。だが、無意識のうちに足が一歩引いていた。アキは紗幕のようにかかる違和感の正体を探る。なぜ、どうしてこんなに嫌な感じがするのか。

 

「おーい、アキくーん」

 

 背後から姫野の声。振り返る直前、相対する彼が首元に添えた左手が目に入った。

 薬指に銀の指輪。

 左手の、薬指に。

 

「――姫野先輩、危ないッ」

 

 咄嗟の判断でアキは姫野の手を引き、路地裏に逃げ込んだ。瞬間、轟音と共に先ほどまで立っていたアスファルトに深い亀裂が走る。キラリと反射する何かがあった。

 角を覗き込む男の瞳は、光を反射していた。

 

「何、なになになに!? 水嶋さんどうしちゃったの?」

「あれはもう水嶋さんじゃない」

「……もう水嶋さんじゃない、か」

 

 混乱していた姫野はそれだけで状況を飲み込んだのか、寂しそうに一度だけ復唱して、隻眼でバディを強く見つめた。

 

「両目が鏡になっています、あれは鏡の魔人だ」

「それじゃ見られて行使されたらおしまいだ。メデューサだね」

「石になるのと切り裂かれるのどっちがいいかですか」

「どっちもごめんだけど!」

 

 打ち合わせもせず、二人で路地裏から飛び出すタイミングが一致する。左右に分かれて共倒れを防ぐ最低限の策だった。

 

「『コン』!」

 

 先手必勝とばかりにアキが手印と号令で狐の悪魔を呼び出す。新人時代より照準もタイミングも合わせられるようになった。アキと姫野を探して視線をうろうろさせていた鏡の魔人がそれに気づき、真正面から狐の悪魔と相対した。一瞬の交錯。ガラスの割れる音。

 

「――だめか、防がれた!」

 

 何が起こったのかアキにはわからなかったが、狐の悪魔は鏡の魔人を飲み込めなかった。強大な力が発揮され、狐の悪魔は『目の前に現れた自分に噛みつきかけて』攻撃を止めてしまった。鏡の魔人となった悪魔は弱体化するはずなので、これは水嶋が使わずにいた切り札のうちの一つなのだろう。身内にも奥の手を明かさないデビルハンターらしさを感じて、一抹の懐かしさが蘇った。

 

「じゃあこっちはどうかな」

 

 体を物陰に隠しながら、姫野がゴーストの悪魔の腕を操作して鏡の魔人を強襲した。狙いは首。魔人は悪魔が動かしている死体で、筋肉と骨の仕組みは同じだ。乗っ取っている悪魔がどれほど強大な力を持っていようと、媒体となっている肉体さえ動かせなくなればいい。不可視のゴーストの腕は魔人でさえ縊り殺せる。

 しかし、振り返った鏡の魔人の煌めきによってゴーストの悪魔が怯んだ。不意を突いた不可視の攻撃に反撃を受け、姫野の失ったはずの右目に揺り返しを受けたような錯覚がした。

 

「っ……みえ、見えないのに効くの? それとも『視えてる』? 鏡だから? ああそう、幽霊って鏡には映るのが相場だもんねえ……」

「姫野先輩ッ」

「こっちは大丈夫、アキくんは自分の心配して!」

 

 ゴーストの悪魔は未だ健在だ。今の攻撃はジャブで、必殺を狙ったものではないらしい。何が目的で手加減をしているのかわからないが、その余裕が命取りである。

 物陰から何かが飛び出すと、鏡の魔人はそちらを向いて空間を割った。タイミング悪く路地裏から駆けだした野良猫が割れ、動かなくなった。

 

「打て」

 

 無防備になった背中に向けて刀身が釘になっている刀をかざすと、薄暗闇の奥の住人の節くれだった指が柄を弾いた。背中に深く深く撃ち込まれる釘。「3」背筋が凍るような恐ろしい声がアキの耳元を擽っていった。

 ここまでの戦いを観察してアキが得た鏡の魔人の弱点、それは視力だ。瞳自体が鏡になってしまっている鏡の魔人は、いま『姫野』も『アキ』も『ゴーストの悪魔』も正しく視認できていない。ただ動くものに反応して極悪な攻撃をしているだけなのである。

 であれば、こちらがやることは単純だ。位置を補足されずにあと二度釘を打ち込む。狐の悪魔とゴーストの悪魔で挟み撃ちをしてもいいだろうが、先ほどのように跳ね返されては元も子もない。死角からの必殺、それしかなかった。

 

「打てッ」

「2」

 

 二連撃までは速かった。しかし、さすがに二度食らえば向こうも学習する。これが『何か良くないもの』だと直感的に察したのだろう、鏡の魔人は不意打ちで音を立てた姫野に見向きもせず、迷うことなくアキへ向き直った。

 

「打てッ!」

 

 至近距離で向かい合う。どこか懐かしい視線の高さ、優しくしてもらった顔。笑っていない今の表情に新鮮味すら抱いてしまう。「1」

 何もかもを反射して奥を読ませない双眸を細めて、鏡の魔人が、口を開いた。

 

「とどめを――」

「おみやげ」

 

 鏡の魔人は、初めておうむ返しをしなかった。その声色があまりに水嶋そのものだったので、アキは声を失った。何を言われたのかが理解できなかった。

 目の前で、『彼』は、笑っていた。

 

「アキくん!!」

 

 姫野の悲鳴じみた声で意識が引き戻される。「――させ!」叫んだ。鏡の魔人は腕を振り上げると、自らの胸へと叩き込んだ。側に立つアキの頬に生ぬるい血飛沫が飛ぶ。初めて彼と一緒に現場に出た日のことがフラッシュバックした。

 自らの胸から心臓を抉り取った鏡の魔人は、それをアキに手渡し、その瞬間に呪いの悪魔の贄となって、苦しみぬいてから動かなくなった。

 言葉が出ない。目の前の情報を処理しきれない。生暖かい手の中の鼓動がぴくりともしなくなって、姫野に肩をゆすぶられ、予報通りの雨が降ってきた頃、やっと手の中のそれに『何か』が入っていることに気付いた。

 

 鏡の魔人は、銃の悪魔の肉片を持っていた。

 

 

 

**

 

 

 

「僕の命あげるから、これで出来る?」

 

 あの日、彼は周りの仲間をすべて殺され、一人になってからそんな提案をした。これ、と言って薬指の欠けた手で自分の眼窩をなぞった。鏡の悪魔は『映したものを壊せば現実でも破壊される』。それを基本的に鏡で行使しているが、代償さえ払えば窓ガラスでも可能にできる。それを、彼は自らの眼球で代用しようとしているのだった。

 降り積もる雪は鮮血で彩られ、それもまた雪で覆いつくされていった。周囲に相手を反射できるものは何もない。死んだ仲間の水晶体を使う方法もあったろうが、確実性に欠けた。彼の判断は理に適っている。

 

<あなたの命を貰えば、これで出来るわ>

「ああよかった。銃野郎の肉片を食ってるんじゃ荷が重かったな、誰か生き残ってくれたら持ち帰れたんだけど……」

 

 彼はいつも通りに笑って、抉られた脇腹を押さえるのを止めた。あふれ出る血がどろどろと滴り落ちていく。

 

「まあ、多くは望まないさ。運が悪かった」

<運が悪かったわ>

「そう、さよならだ」

<ええ、さようなら>

 

 彼はしっかりと前を見据え、巨大で凶悪で残忍な悪魔へ向き直った。その全身がくまなく『映る』ように、一片の欠片からも再生できないほど粉々にするために。

 

 鏡の悪魔はその男に恋をしていた。

 自分の得られない未来を思い描いているのに醜くも嫉妬して、それを排して契約で縛った。指をくれてやると言われ、嫌いな人間に倣って一番欲しい場所を貰った。

 だからだろうか。気まぐれでも、彼の望みを叶えてやりたくなった。

 

 巨大で凶悪で残忍な悪魔が斃れ、誰一人動くものがなくなった暗闇の中で、ひとつ起き上がるものがあった。

 『彼』は悪魔の死骸の胸を漁り、取り出した小さな肉片を大事そうに飲み込んだ。

 

 

 

**

 

 

 

 姫野とアキが持ち帰ったものを加え、公安が所持する銃の悪魔の肉片は五キロに到達しようとしていた。どの程度集まれば肉片が銃の悪魔と再生しようとし始めるのかはわからないが、肉片の塊が徐々に大きくなるたび、一歩ずつでも本丸へ近づいている実感があった。

 

「これでやっと水嶋さんのお墓作れるね」

「……そうですね」

 

 何者でもなくなった水嶋を、人として弔うことができる。デビルハンターとは、死して初めて安寧が与えられる職業であると痛感する。姫野も水嶋と縁がある。初めてのバディは水嶋の同期だった。もしかしたら姫野の何人かのバディのうちのひとつになっていたかもしれない人だった。姫野もアキもデビルハンターとしてネジの外れていない側の人間であるがゆえに、胸の中の重々しい気持ちを共有できた。臆面もなく泣くには二人ともが大人すぎたから。

 二人が並んで沈黙していると、どこか遠く、本部の正面が何やら騒がしいことに気付いた。顔を見合わせ、どちらからともなく外へと足を向ける。本部入り口で守衛に訴えかけているのは女性だった。

 

「お願い、教えてください!」

「お帰りください、守秘義務です」

「水嶋という男です! 居るんですか、居るんでしょう」

 

 息をのんだのはどちらだったろう。二人ともが自分だと思った。

 

「どうかしましたか」

 

 先に立ち直り、声を出したのは姫野だった。本部から出てきた公安の制服姿の女を見て、女性は縋るように絞り出した。

 

「教えて、ください、水嶋は……」

「水嶋は死にました」

 

 姫野は先に声を出した人間の責務として、淡々と事実を伝えた。女は目を見開き、ほう、とため息を吐いた。落ちくぼんで隈の深い瞳は瞬きを忘れたように姫野を見つめている。

 

「…………戦って」

「はい。悪魔と戦い、二年前に」

 

 悪魔と戦い、デビルハンターとして立派に散った。また、その意志によって銃の悪魔の肉片まで齎した。未来への希望を。

 

「…………そう」

 

 アキはそっと姫野より半歩前に出た。もう姫野が遺族のやるせなさのはけ口にならないように、必要があれば代わりに殴られる気でいた。

 だというのに、彼女は目じりを下げて笑って、感謝を述べた。

 

「わかっていたのに、最近、姿を見た気がして…………」

 

 枯れた泉のようだった瞳に涙が浮かび、頬に落ちる。口を押さえて崩れた左手には銀色の指輪が鈍く光っていた。

 

 

 

 水嶋の墓はいつも通りに書類一枚で作られ、広い墓地の片隅に落ち着いた。花束を添え、姫野が煙草に火をつける。アキが手を差し出すと、当たり前のように姫野のボックスが差し出された。

 

「そういえば、マキマさんまた出張してるんだってね」

 

 アキが紫煙を吐き出してから、思い出したように姫野が言った。

 

「ゾンビの悪魔だったっけ。やだな、殺しても殺しても蘇るんだろうし」

「マキマさんなら退治できるでしょう」

「だろうけどさあ……」

 

 憧れの人、命の恩人、強い女性。マキマのことを考えるとアキは背中が伸びるような気がする。彼女の信頼に応えるためにも、早川アキは銃の悪魔を殺さなくてはならない。

 

「アキくんは死なないでね」

 

 いつか聞いた通りの、何度も繰り返し言われた台詞。それはもはや姫野の口癖になりつつある言葉だった。これを言われるたび、アキは彼女の意図を考える。アキくんは死なないでね。見送るのが辛いから。墓参りの数が増えると面倒だから。それとも。

 

「銃野郎を殺すまでは、死ねませんよ」

 

 ただ、今はそれだけだった。




早川アキの死んだ同僚の話


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。