「―――へえ、極東の……なんて言ったかしら。そうそう、日本だったわね。そんな辺鄙な所に作ったの。」
魅魔の手で見事夢幻館にリリースされた幽香だが、現在は館の自分の部屋に戻って一緒に飛ばされてきた地図を読んでいた。
自分と同格にあたる悪魔の姉妹には、既に報告を済ませてある。
『理想郷』とやらの場所。極東の小さな島国の中心部に、それは明確に書かれていた。
地図を見る限り、どうやら幸いにも目的地近くには湖があるようだった。此処を利用すれば、夢幻世界の出入口である湖をそのまま繋げられる。
夢幻館は現世と夢幻の境界となる建物。故に夢幻館さえ湖底に建ててしまえば、それを起点として夢幻世界そのものもそこに接続することも可能となるのだ。
幽香はそこまで思考を巡らせたところで地図を閉じる。そしてそのまま、なめし革の柔らかな椅子に深く体を沈み込ませた。
(ここならば、あるいは…。)
幽香は目を閉じて、自身の記憶に思いを馳せる―――
実のところ、幽香の本性は別に戦闘狂というわけではない。というよりも、彼女の生来の性格はもう少し可愛らしげなものだ。
……それが今に至るまで捻じれに捻じ曲がってしまったのは、不幸というべきなのか、それとも物珍しきものとして歓迎すべきか。まあどちらにせよ、暢気気ままなこの女はそれもまた一興だと受け入れているのだが。
きっと今となっては、本人を除けば知るものなどほぼいないであろう、彼女の軌跡。ちょっとだけ物騒で子供っぽくて可愛らしい、小さな小さな少女のお話。
今はもう、その面影もないけれど。あの頃の世界は綺麗なものであった。
人が文明を切り拓く以前の、原初の自然。今よりも更に過酷で無慈悲で、そして確かに息づいていた太古の世界。その自然は何人にも穢されることなく、遥かに強大な力を持っていた。
そんな自然の生み出した、権化とも言える存在。今よりも確かに多くて力も強かったけれど、それでもやっぱり純真で矮小で、吹けば飛ぶように弱い者達。彼女たちは老いることも死ぬこともなく、ただ気ままに過ごしていた。
―――だがそんな彼女たちにも、確かに『異端』と称すべき者はいるのだ。極稀とはいえ妖怪に、神に変じる者だっているのである。この世の全てがそうであるように、『例外』というのはいつの時代も存在するのだから。
しかしだからといって、誰が思いつくというのだろう。
暴力の権化、最強の妖怪たる幽香が、元々はそんな矮小な自然の一欠片であったなどと。儚く弱々しいしいはずの、妖精の一人に過ぎなかったなどと。
彼女は花の妖精であった。
今の強大で恐ろしくて淑女然とした彼女からは考えもつかないような、どこにでもいる、可愛らしくて無邪気でいたずら好きな、そんな花から生まれた妖精。四枚の羽根を広げ、ただ花と対話し無邪気に笑うだけの小さな妖精。
それこそが、幽香という存在の原点。
ただほんの少しだけ周りより力が強く、ほんの少しだけ好奇心旺盛で、ほんの少しだけ成長が早かっただけ。しかしそのほんの少しの差異は……
(……私から『普通』という概念を奪い去った。)
ある時、いたずらの一環で人を突き落とした。くすくすと笑顔で崖から身体を押し出したのを覚えている。非力な妖精でも思いっきり突き飛ばせば人の体を押しやることもできたのだ。別に害意なんて大層なものはなく、ちょっとばかり驚いてもらうだけのはずだった。
その人間は真っ赤な血と脳漿をまき散らして死んだ。
そこから段々と、幽香の仕掛ける行動はおかしくなっていった。彼女が変わったわけではない。ただ少しずつ、少しずつ、いたずらが笑えないようなものになっていったというだけの話。
しかし彼女自身の気性が変わっていなかったからこそ、それは余計に性質の悪いものであった。悪びれもしない、疑問にも思わない。そんな者が自分の行いを変えるはずもないのだから。
とある時には、毒花を人間の庭に咲かせてやった。自然のものより少しだけ強いその花の毒は、大事に大事に庭の手入れをする人間の体を徐々に蝕んでいった。数年後に、肉と骨を残さず侵されて人間は死んだ。
またある時には、手に力を集めて撃つことを覚えた。綺麗な光の玉のようなそれを人間に当ててみた。多少のケガで済むはずのその攻撃は、当たり所が悪かったのか彼女の脳を強く揺さぶった。運の悪いその人間は、倒れてそのまま動かなくなった。
弱々しい妖精の悪戯のせいで無辜の人間の命が奪われる。決して有り得ないことではないとはいえ、それが立て続けに起こるとなれば黙っているわけもない。
勿論、悪趣味の過ぎる妖精を人間たちは潰した。貴様が俺たちの親を、妻を、子を殺したのか、と。まるで、
―――しかし殺すことなどできない。できようはずもない。妖精は自然の具現、肉片になるまですりつぶしたとて『一回休み』になるだけの、不死の存在故に。
死なない体を利用して、幽香は気分の赴くままにいたずらを続けた。しかし他の者たちにとっては、既にその行いは到底『いたずら』などと呼べるものではなかったが。悪意の有無の差こそあれど、人間からすれば気まぐれで自分たちの命を奪うものなど天敵に変わりはない。
故にこそ、妖精でありながら彼女は恐れられ始めた。徐々に徐々に、彼女に対する恐怖と畏怖が伝染していったのだ。
誰も、それこそ本人でさえ気づけない程にゆっくりと彼女は逸脱していく。
定められた枠から。生まれた時の器から。
そして彼女が恐れられ、もはや『妖精』とは言えぬ程にその力を増した時、彼女はそのあるべき器を破った。
殻を壊し、姿が変わる。力が変じる。自然の化身として与えられた儚く無限の存在は、恐れられるべき強大で有限の存在に変貌する。
その瞬間だった。名もなき『花の妖精』が終わり、『花の妖怪』たる幽香が生まれたのは。
だが、その種族を変えても彼女の気性が変わることなどなかった。妖精時代から変わりやしない、ただ好奇心旺盛なままの無邪気で無垢な子供。畏怖を向けられながらも、ただそのままで。
そんな彼女は、強くなった体であることをしようと思った。
―――戦い。
強いものたちを見つけては、片っ端から喧嘩を売ったのだ。
壊し壊される、恐ろしくも充実した日々。懐かしいことである。あの時は生きていること自体がとっても面白かったのだ。
とはいえそれは、彼女にとっては単なる遊びのつもりだった。単に生きる上での刺激、暇つぶしが欲しかっただけ。たとえるなら、主人にじゃれつく仔犬のように。あるいは遊びたがる幼子のように。
だから、それを許さないほどに幽香がとんでもない速さで進化していたことは、きっと幽香本人にとっても不本意だったのだろう。
何をしても壊れてしまう。一緒に遊んだら潰れてしまう。どれだけ相手が強くても、いつの間にか自分は相手を殺している。
……つまらない話だ。心が冷え切っていくようだった。
幽香の強さは成長によるもの。次元違いのスピードで行われる進化であり深化。
好奇心のままに手当たり次第に喧嘩を吹っ掛けて戦いあう、それだけであればまだいい。だが彼女の成長、進化の速さは、妖精であった時から凄まじいものだったのだ。そのせいでその力は妖精として定められた枠を逸脱し、妖怪と化したのだから。
倒すほど、勝つほど、傷つけられるほど、その力、その格は跳ね上がっていく。
妖になった後もそれは変わらない。否、むしろ更に速くなっていた。
自分の有り様を変えぬまま周囲に戦いを挑み、幾ら実力差があっても圧倒的な進化速度でそれを易々と踏みつぶしてしまう。いつしか血は滾らなくなり、『闘争』は『作業』と化し始めた。
そんなことを続けて、気がつけば――
――――幽香は、頂きに立っていた。
成長に成長を重ね、何時しか誰も自分を受けとめられなくなっていた。手を触れれば崩れ、足を振るえば消え失せる。
否、「誰も」ではなかった。もはや「何もかも」であった。
幽香のその『存在』の質量を、大きさを、支えられるものなどない。余りにも成長と進化を重ねたために。育ち過ぎた一輪は、世界すらも超越した究極の大輪として花開いてしまったのだ。
絶対にして最強、異常にして究極。
種族どうこうの話ではない、まさしく極致。何もかもが有象無象と化す、絶対の頂点。あらゆるものを見下ろすことしか出来ず、周りの存在を感じることすらない。
ただそこに在るだけで全てを押し潰してしまう、頂点の領域。
そんな極限に至った彼女を襲ったのは、
(……下らない。つまらない。分からない……。)
―――どうにもならない、孤独と停滞。
当然だった。
幽香は単に他人と遊びたかっただけ。好奇心の向くままに行動していただけ。
そんな彼女が、究極の高みから触れられない小さな世界を見下ろしたところで楽しめるはずもない。望まぬまま頂点に立ったが故の、高嶺の花の孤独。
世界から弾き出されたに等しい光景の中、彼女は考えた。どうすれば元に戻れる?何をすればあの頃みたいに遊べる?
……簡単な話だ。
抑え込め。
自分を抑圧しろ、妖力も魔力も吞み込んでしまえ。
あの頃と同じように遊べるまで。周りにもう一度触れられるまで。
自身の力を暗く、深く、重く……。
(閉じ込める……!)
発されていた力の方向がぐるりと反転し、幽香を内側に内側に、際限なく押し潰し続けた。花は回帰し、つぼみに、若草に、芽に、そして種へと変じていく。
まるで死に絶えた星が自身の重さで壊れて壊れて壊れきって、宙の黒い墓場へとなり果てるかのように。
その日、一つの怪物がその姿を消した。
こうして幽香は、自前の力を通常の領域まで抑え込むことに成功した。鎧であり矛であった自身の力を逆転させることで、殺す寸前まで自分自身を押し潰すという荒業で。
……しかし古今東西どんな生き物であっても、無茶にはリスクが付き物だ。特に自分を死に至らしめかねない無茶であるならば尚更に。
元々、幽香が戦いをよく行っていたのは、ただ自分の好奇心と暇つぶしの為である。戦闘や勝利という概念そのものを好んでいたわけではない。
しかし次元違いの力を無理矢理内側に封じ込めたからだろうか、どうしようもなく疼いて、渇いて、餓えて仕方がなかった。
即ち、不安定化。それが自分で自分を害した代償。どんな生物だって自由に動けないほど拘束されたらいい気はしないだろう。以前なら制御出来ていた力は無理矢理に閉じ込められて暴走し、不快さの発露として渇望が齎される。
『発散』を、本能で求めるようになったのだ。封じた後も未だに自分の中で燻る残滓を持て余してしまっていた。
精神にその主体を置く妖怪という種族にとって、致命的すぎる状況。渇望は己を食い荒らし、衝動が心を汚染していく。
そんな状況にあった彼女を救い上げたのが、今の彼女の友人兼雇い主――――
妹の夢月と姉の幻月、二人合わせて『夢幻姉妹』。
うそっこメイドとかわいい悪魔。最凶極悪の悪魔の双子。
今でもよく覚えている。自分たちの出会いは最悪の一言だった。
魔界から現世に出現したばかりの彼女たちに、獣となりかけていた幽香は衝動的に襲いかかったのである。
「ねえ……、あなた達、強い?」
「だあれ、貴女?いきなり何よ。」「強いかねえ。うーん……そこそこ強い方なんじゃない?」
「そう、だったら……私と戦って?」
……今思い出しても笑える会話である。
ともあれ、幽香の初撃で開戦したその死闘は、およそ三日三晩続いた。
幽香が妖力光線をぶち込み、二人が回避。
夢月が懐に潜り込んで拳を叩き込み、妖力を爆発させて吹き飛ばした先に、幻月が先回りして地面に向けて幽香を蹴り飛ばす。そのまま急降下して二撃目を与えようとする幻月を、しかし地面を抉りながら着地した幽香がとっ捕まえて夢月にぶん投げた。
夢月が受け止めた所に再び光線を撃ち込むが、今度は強力な結界で弾き飛ばされる。幽香自身が自分の攻撃の光で一瞬だけ目がくらんだ、そのタイミングで幻月が後ろに回り込み……
「食らいなさいっ!」
一つ一つが岩山を崩壊させる程の光弾を、天使の如き美しい羽根から雨あられとぶちまける。一体秒間何万発撃っているのかと聞きたくなるような、隙間など一切ない、容赦なしの弾幕攻撃。
それを、しかし幽香は力尽くの体当たりで、ボロボロになりながらも打ち破った。大半の力を封じ、以前より遥かに弱り切っていても、未だに幽香の体は恐ろしい堅牢さを誇る。
「……だあぁぁぁっ!」
そのまま凄まじい威力の乱打を幻月に打ち込む。いかに頑丈な悪魔でも一撃受ければ死にかねないそれを、幻月は掌で横から弾き、逸らし、あるいは避けていく。
姉が卓越した技術で敵の攻撃を捌く間に再び夢月が攻撃。魔力を込めに込めた剣で、背中側から緑の少女を滅茶苦茶に切りつける。
しかし双方にとって不幸なことに、それで倒れるほど彼女は弱くはなく。
反撃に豪腕が振るわれ、姉妹揃って遠方に吹き飛ばされる。
敢えて攻撃に合わせて自分から下がり、衝撃を殺しながら距離を取って仕切り直し。幽香が向かって来る間に息を整えて、夢月が幻月に話しかけた。
「お姉ちゃん。今気づいたけど、あいつ理性ないの?」
「よく分かんないけど、振り回されてる感じはするわね。それも外側から操られてるんじゃなくて、内側の狂気か衝動に押し流されてるみたい。」
「ふーん……」
次の瞬間、莫大な妖力が夢月から漏れ出した。それに呼応するように幻月の周りに魔法陣が現れ、こちらも輝いてエネルギーが増していく。
今までただ襲われるまま身を守ること、無力化することに徹していた最凶の悪魔姉妹が、とうとう
面白い
「あはは、じゃあ決めた!お姉ちゃん、あいつ力づくで捕まえて私たちの下僕にしましょ!」
「ふふっ、奇遇ねえ夢月。―――私もちょうど同じこと考えてたわぁ!」
「ううぅ…、があぁ!」
三者三様に叫び、二人の悪魔と一人の妖怪が再び激突する。
魔力と妖気が爆発して、更に戦火が燃え広がった。
―――こんな無茶苦茶な戦いが常時ヒートアップを続けながら三日三晩と続いたのだ。
嬉しい誤算だったのは、当時の彼女たちが魑魅魍魎集う魔界の中でも指折りの実力者であったことか。以前とは比べものにならぬほど弱体化しているといえども、それでもなお自分が強いことを幽香は分かっていた。
……だから戦いが終わって互いに地に膝を着いた時、相手が生き残っていたというのは、幽香にとってもっとも嬉しいことだった。
ようやく、自分の衝動を受け止めてくれるものが現れたのだ、その時の彼女の喜びは筆舌に尽くしがたいものがあった。
見渡す限り灰と炎にまみれた焦土の中で、膝を着いて今にも倒れそうな影が三つ。言わずもがな、丸三日と戦い続けて同時に限界の来た幽香と夢幻姉妹だ。
「はあ…、はあ……」「がふっ、ぐう…」
「ふう、ふふっ……、楽しかった……」
熱気の充満する地獄のような大地で力尽きかけている三人は、傍から見れば襤褸雑巾にしか見えない有様。それでも三人は人智を超えた怪物、まだまだ息絶えることは無い。
「こんなに満たされたのって、何年ぶりかしらね……。――ねえ、貴女達のお名前は?」
「……夢月。」「今更それ聞くの……幻月よ。」
夢幻姉妹は自分たちと並ぶほどの相手の強さを知って。
幽香は戦いという名の遊戯を存分に楽しんで。
三日三晩をかけてようやくそれぞれが戦意を失い、落ち着いて話をできる状況と相成った。
その後、互いの事情を教えあって、先までの殺し合いが噓のように仲良くなった幽香に、幻月の方がとある提案をした。
「ねえ幽香、私たちのことを手伝ってくれないかしら?」
「手伝う?」
「そう。私たちはこっちの世界に、自分たちだけの世界となる異界を作ろうと思ってる。そこで貴女の強さを見込んで、そこの管理と警護をして欲しいのよ。言わば門番兼王様代理ね。」
「ふーん……、それで私の方に利はあるの?」
その問いを聞いて、悪魔の姉は『悪女の笑み』としてお手本に出来そうなほどイイ笑顔でのたまった。
「貴女戦い大好きでしょ?私たちの作りだす世界に入り込んで来れるなんて余程の強者だけよ?貴女はそいつらを相手に好きなだけ遊べるわ。
私たちは平穏を得られる、貴女は思うままに戦える。勿論、その他にも最大限の便宜は図りましょう。それに……」
「―――此処じゃ苦しいでしょう。自分を抑え込まないといけないから。」
その返答に思わず幽香は目を細めた。幻月のたぐいまれな観察眼は、幽香が自身の最奥に秘した力を見抜いていたらしい。
少し考えて、乗るに値すると考えた幽香は花の咲くような微笑を浮かべて言った。
「そう、じゃあ受けてあげるとしましょうか。」
「決まりね。」「やったー。」
こうして信用できる協力者を手に入れた夢幻姉妹は、自分たちが好き放題できる隠れ家『夢幻世界』を、そしてその中の唯一の建物として『夢幻館』を設立。そして幽香はその管理を依頼された。
その後、現世に出ては残虐非道の限りを尽くす悪魔の姉妹を討とうと乗り込んでくる手練れの退魔師・魔術師。
或いはかつて魔界に名を馳せた彼女たちや、強大な妖怪として知られる幽香を倒して名を上げようとする血の気の多い妖怪共を相手どって何百年か経ち、現在に至るというわけである。
自分の、妖怪の中でもかなり数奇だと自分でも確信するような生を思い返して、幽香は意識を現実に戻した。どうやら少しばかり、うとうとと居眠りしていたらしい。使い慣れた座り心地のいい椅子のせいだろうか。
(いずれ忘れ去られる幻想の存在の終着点。そこならば、
幽香が理想郷への転移を受け入れた本当の理由は魅魔に語ったことだけではない。いや勿論それもあるが。
ありのままの自身を表に出すこと。封じ込め続けている自身の力を解放し、それでもいられる世界を探すこと。
それこそが幽香の望み。
なにせ幻月と夢月が全力で構成した夢幻世界ですら、現世よりマシとはいえ幽香の力に耐え切れないのだから。
勿論彼女は望みを叶えられないと生きていけないような軟弱ではないが、どうせなら目一杯動ける場所に行きたいと考えるのもまた当然のことだった。
姉妹との出会いや何百年もの間の戦いで心は慰められたが、今もなお幽香の力は彼女自身を縛り潰している。この忌々しい自縄自縛を解けたらどれほど気持ちいいことか。
こんなに真面目に考えを巡らせるなんて、らしくもないことだと自分でも思いながら、スッと掌を宙に掲げる。無尽蔵に等しい自身の力の上澄みを、ほんの少しだけ鍵を緩めて表に出す。
凄まじい魔力が幽香の体から解き放たれた。透き通るように純粋な魔のエネルギーは、波濤の如く館を満たし、空間を震わせ、夢幻世界全体に波及していく。
膨大な木行の魔力が、異界内部のあらゆる場所から植物を生やし、育て、そして枯らせる、瞬間的な繁栄と滅亡のサイクルを引き起こしていた。
幽香は超級の妖力を持つが、彼女の強さはそれだけではない。
彼女は夢幻姉妹によって、魔界にて発展している『魔法』の存在を教えられた。
持ち前の好奇心と成長能力で暇つぶしに会得したその術は、かの悪霊には届かぬといえども既に理外と呼べる域まで達している。彼女もまた、妖怪でありながら超一流の魔法使いでもあるのだ。
しかし内部にいる者が余計なことをすれば、大規模の魔法に巻き込まれて即死するだろう。
なにせ世界一つを動かす魔法だ、事故を起こせば死体すら残るまい。一部を除いて別にどうでもいい有象無象しかいないと言っても、勝手に手駒を減らしてしまうのはよろしくない。
拡声の魔術を使い館中に声を響かせる。
『これから夢幻世界全体を移動させるわ。巻き込まれて死なないように。』
忠告はした、これで死ぬようならそいつが間抜けだっただけのこと。
なお主人の無慈悲で大雑把な性格を熟知している使用人たちが大慌てで自室に引きこもったのは言うまでもない。
無限大の大きさである魔界や地獄には及ばぬとはいえ、広大な空間を持つ夢幻世界。それを丸ごと何千キロもの距離を隔てて狙った場所に転移させる。
並みの術者にはまず不可能だと断言できるが、生憎彼女は進化の怪物。魔法の才能も経験も並みのそれとは比較にならない。ならば、少なくとも彼女には不可能ではないのだろう。
「――――『放浪者の回廊』」
幽香がそう唱えた時、異界の地面全域に大規模な魔法陣が現れ眩く輝く。同時に、地上であれば山脈が倒壊するレベルの大地震が夢幻世界全体に波及した。
ただでさえ強大な振動はどんどん大きくなり、魔法陣から溢れ出す毒々しいまでの青の輝きが視界の全てを覆いつくす。家具が倒れて砕け散り、館内にいた者たちを怯えさせた。
世界の終わりを思わせる光景は、しかし術者にとっては魔法の行使の順調さを示す指標でしかない。
空間を埋め尽くすその青い青い光は、数十秒で消え去った。そしてほどなくして振動も完全に止む。
そこまで確認してから、幽香はだらりと手を降ろした。そして自分の力に改めて栓をして魔力の放出を封じる。
「……これで大丈夫。着いたわね。」
手応えはあった、ちゃんと成功しただろう。
何ともあっさりしたものだが魔法とはそういうものである。結果に至るまで長い時間は必要としない。
もっとも危うげなくこんなことが出来るというのは、それだけ彼女が魔法を含めた『力』という概念そのものに精通しているということの証左なのだが。
暫くすると、久々に新天地に来たことに少しだけ上機嫌な幽香の耳に、間延びした無邪気な少女の声が扉越しに飛び込んできた。
まだとても幼い少女の声だ。知らないものが聞けば、こんな理不尽と無慈悲をごちゃまぜにして固めたような魔王に仕える者の声音とは思わないだろう。
「お疲れ様です幽香様ー、負傷者は特におりません。それと夕餉が出来ましたよー。お召し上がりくださいな。」
声の主は聞くまでもない、きっと湖の門番を努める可愛い吸血少女だろう。流石に湖の外側にいるようでは置き去りにしてしまうので館に引っ込んでいるよう伝えていた。
この分だときっとこの館そのものの門番である廃業死神も食卓についているはずだ。配下としてそこそこ信頼でき、苛めると可愛らしくて楽しい彼女たちのことが、主である幽香は嫌いではなかった。
「すぐに行くわ。ああ、料理は冷やさないように置いておきなさい。」
「はぁい。」
少女の足音が遠のくのを聞き、新しく足を踏み入れた地が自分を楽しませてくれることを期待しながら、幽香はそっと用済みの地図を握り潰して灰にかえした。
今回は幽香さん主役。他の夢幻館メンバーは東方幻想郷で改めて出すかと。
幽香さん妖精説は昔から言われてますが、それ以外にも過去話とか色々混ぜこんだら強さがやばいことになりました。なんやこの人。