「お邪魔しますわ、魅魔。」
その声が聞こえた瞬間、
音を置き去りにして杖を振り切ったと同時、待機させていた数々の魔法が文字通り刹那のタイムラグも無く不躾な侵入者へ襲い掛かる。飛来する風刃に、迸る火砲、極めつけに光速の光槍。普通の人間や妖怪なら反応すら出来ない内に直撃して一発で粉微塵だ。
…しかし、今目の前に立っているこの女は、あいにくと『普通』ではなかった。
「あら、随分と血気盛んねえ。」
そんなことをのたまいながら、ソイツは白い手袋で覆われた華奢な手で私の魔法を文字通り『握り潰した』。その手に触れた瞬間掌が握りしめられ、大火力の私の魔法が一つ残らず木っ端微塵に砕け散る。
声音から薄々感づいてはいたが、どうやら侵入者は予想通りの人物だったらしい。
「…アンタか。一体何をしに来たんだい。」
「そう焦らないで。別に喧嘩を売りに来たってわけじゃないのよ?」
一先ずこちらが矛を収めたことを確認すると、ソイツはくるくると回していた愛用の日傘を閉じる。
―――その女は、見た目はただの小柄な美少女だ。
金糸に陽光を照り返したような、脚まで届く長い髪。名を示すかのような、鮮やかに過ぎるアメジストの瞳。不気味ささえ覚えるほど白い肌を、太極図をあしらった導師服風のドレスで覆っている。
しかし私はよく知っている。「最強の妖怪が誰か」という問いに対して、こいつはまず間違いなくその答えの一角に入ることを。
妖怪の賢者。
境界に潜む化け物。
神隠しの主犯。
示す名は数あれど、どれもこいつに相応しい。
―――境界の大妖、八雲紫。
「…毎度言ってる気がするけどね、紫。私の工房に踏み込む時は、きちんと呼び鈴を鳴らして入ってきな。何の為に玄関なんてものがついてると思ってるのよ。心臓が止まるじゃないか。」
「御免なさいね。スキマ妖怪としての性だから、諦めて頂戴。それに、貴女の心臓はそんなことで止まるほど軟じゃないでしょう。金剛石製の間違いじゃない。」
全く謝意のない空っぽの謝罪と不躾極まりない言葉に青筋が立つが、正直コイツ相手にまともな返答なぞ期待するだけ無駄だと思い直す。
「それに、ちゃんと貴女の攻撃を止めてあげたわよ?あのまま逸らしてたら、多分湖と向こう側の山脈が消えてたけど。」
…まあ、それに関しては認める。実際自分でも魔法を撃った後に「やっちまった」って思ったから。よし、それに免じて、後で思いっきり悪戯を仕込むだけで済ませてやろう。私は優しい。
ただ分からないのは、コイツの目的だ。わざわざこの女が、こんな辺鄙な所まで出張る理由が分からない。
そんな考えが表に出ていたのか、紫は咳払いして、口を開いた。
「私がここに来た理由は、たった一つです。魅魔、貴女の力を見込んで頼みがあるのよ。」
「…本当に今日は珍しい日だね。アンタが誰かに真摯に頼み事をするなんて。明日は隕石が降ってくるね、きっと。」
「別にふざけているわけではないから茶化さないで。」
そうは言うがはっきり言って違和感しかない。自分とコイツの会話と言えば、さっきみたいな煽り合い茶化し合いが普通だ。今回のような真面目でまともな頼み事など経験が無かった。
しかしそうだとしても、疑問が一つ。
「解せないね。アンタが出来ないようなことを、私に依頼するっていうのかい?一体どんな難題よ、それは。」
紫の能力は『境界を操る程度の能力』。文字通り、万物、森羅万象に存在する境界に、意のままに干渉出来るという、およそ規格外にも程がある力だ。
存在の有無そのものに干渉したり、同格の相手の抵抗を無視したりすることは出来ないが、逆に言えばそのくらいしか制限が無い。私のさっきの魔法を苦も無く相殺出来たのも、この能力によるものなはずだ。
0~100までの内、1~99までを自在に動かせる反則の能力。加えて、本人の化け物じみた計算能力と機転。これらが合わさって、八雲紫は、全能にほど近い万能の存在として君臨していた。
というわけで、そんな紫が出来ないことを私がやるというのは少々無理がある。直接戦闘するだけなら負けるつもりはないが、万能さならコイツの方が上なはずだ。
そのような思考と共に視線を送れば、紫は首を横に振った。
「言葉が足りなかったわね。私の夢の実現に、貴女の力を貸して欲しいのよ。私だけではどうしても手が足りないわ。」
「アンタの夢…、ああ、『理想郷』か。夢物語だと思っていたんだが…、私にこうして話を持ってくるあたり、実現の目途が立ったってことかしら。」
確信を持ってそう呟けば、紫はコクンと頷いた。
『理想郷』―――妖怪と人間が争わずに共存する地。互いの確執を考えれば有り得ないはずのそれを一から創り上げるという、文字通り世界をひっくり返すような、大それた野望。
コイツが昔から、それこそ何百年も前から抱く大望であり、鼻で笑われそうな夢物語。自身の能力を持ってしても到底不可能であるはずのそれが…、どうやら実現出来そうであるらしい。
「ただ、理想郷の創立を実行に移すには時期が悪い上に、私と同じ様に創立の柱となれる者達を集める必要があるわ。貴女には、その者達を集める役割を担って欲しいのよ。」
「ちょっと待った。私はまだ引き受けるとは一言も言ってない。そもそも、その理想郷には人間が入るんだろう?私の種族と、そして行動原理を忘れたとは言わせないよ。」
私は紫を睨みつけた。
私はどこまで行っても魔女で、そしてそれ以前に悪霊だ。人類全てに復讐するまで私は消えないし止まらない。その意味では、コイツの願いと私の存在は完全に相反するものなのだから。
もちろん紫も分かっていたのだろう。少したじろいだが、すぐさま言葉を返してきた。
―――とはいえ、返ってきたのは予想外の返答だったが。
「ええ、貴女の存在意義については理解しているわ。…でも貴女、気づいてる?」
「?……何にだい?」
「…貴女の敵意と憎悪が、年々薄れているということに。」
「っ!……何を……」
「言葉の通りよ。」
決して、誰にも知られていなかったはずだ。表に出てこないように、読み取られないように、心を完全に深層に押し込めた。
……だというのに、どうしてこいつがそのことを知っている!?
自覚していなかったと言えば噓になる。以前の私なら、人間全てを無条件に見下し、恨み、殺そうとしていた。その単語を出されただけで、目の前の相手を八つ裂きにする程度には、人類に対して悪意と憎悪を抱いていたのだ。
しかし今では、人間を何処までも追って地獄を見せてやろうとするような気概は持っていない。目の前に現れたら殺すが、少なくとも館に引きこもって魔法の研究に打ち込める程度には落ち着いている。そうでなければ、故人とはいえ『門』を作った人間たちに称賛を送ったりはしない。
だが、私はそれを認めるわけにはいかない。全人類への復讐心、それが私の原動力である以上……決して失ってはならないのだ。それは、
確かに憎悪は薄まったかもしれない、だがそれがどうしたというのだ。私が奴らに抱く思いは変わらない。私の…
そんな自分に言い聞かせる思考を止めるかのように、紫が再び口を開いた。
「はっきり言うわ。疲れているんでしょう、貴女?自分の本能と思考の齟齬に、衝動と理性の壊れ合いに。」
その言葉に、思わず苛立ちと苦しさが溢れて、かすれた声が出てしまう。
「…だとしても、それはアンタが口を出すことじゃないだろうが――!」
確かに言う通りなのだろう。図星だということはとうに分かっている。
それでも、長年自分の拠り所だった憎悪が否定されてしまうことは、私を否応なしに苦しませた。自身の存在意義そのものが、根底から崩れてしまうのは怖かった。それを認めてしまえば、私はワタシでなくなってしまうから……。
しかし。
紫は続けた。
「いいえ、私は口を出すわ。だって……見ていられないもの。貴女、今とんでもなく苦しそうな顔してるわよ。自覚はないかも知れないけど、今にも壊れそうなくらいには。」
紫はスキマから手鏡を取り出して、私に見せつけた。
―――そこには、色などとうに失った蒼白の顔で、苦しみ続ける、私の顔が。
「…じゃあどうすればいいっていうんだい。このまま、奴らのことを忘れて消えろってか!」
どうやら普段の冷静な私は、もはやどこかへさよならしてしまったらしい。後からみれば、自分でも驚き失笑してしまうほどに、私は激昂した。
感情の昂ぶりに耐え切れず、魔力が漏れ出した。それだけでなく、悪霊として、妖怪としての妖力が久方ぶりに顔を出す。漆黒のエネルギーがぶちまけられ、空間が押し潰されていく。
これ以上はダメだ。収まりがつかなくなる。悪霊としての本能でどうしようもなく暴走しつつある自分を、私の微かに残った理性の部分は、何処か俯瞰するように私を見ていた。
「私は、人間に……全人類に復讐するために生まれた、いや、生み落とされたんだ。そのために私は進んできたんだっ!今更お前に止められる筋合いなどあるものか!!」
悪霊としての衝動が暴れだし、最早殺意すらも無差別になった私を前に、しかし紫は冷静だった。
「ええ、それでいい。別に私はあなたを止める気などないわ。私が貴女に持って来た話は、私の理想の実現の為だけではない、既に壊れかけている貴女の精神を元に戻す為でもある。だからこそ、他ならぬ貴女に頼みに来たのよ。貴女の存在の揺らぎをとどめるにはそれしかない。」
宥められても、衝動は止まることはない。『魅魔』の心ではなく、『悪霊』の、種族としての本能はその程度では止まらなかった。
だが、こんな私にも少しはまともな思考が残っていたのか、心の中で紫に尋ねた。
分からない。
どうしてお前はそんなことをする。他の力ある者達に、直接言えば良かろうに。どうして放っておいてくれない、疎まれても関わってくる?
「どうしてそこまで関わるのかって?
簡単よ、貴女に消えられちゃ私はとっても困るし、そしてなにより…
―――友の苦しむ姿を、見ていたくないからよ。