ゲルデン・スカーレット。
またの名をスカーレット卿。
欧州で覇権を伸ばしつつある妖怪『吸血鬼』。魔界から流れ込んだ悪魔を源流とする最上位妖怪の一角。
強大な種族であるその中でも、彼は『真紅の公爵』、『血染めのスカーレット』などと恐れられる、吸血鬼の中でも一際強い実力と権勢を誇る怪物である。
ルーマニアとブリテンを中心とし、父の代から長年にわたって勢力を拡大させてきた。
まさしく、夜の王。
今や大陸でスカーレット卿の名を聞いて恐れ慄かない者はいない。
そんな彼ではあるが、やはり弁慶にも泣き所はあるというべきか。実は彼、この世でたった二名ほど頭の上がらない人物がいた。
一人は彼の妻。
貴族の義務としてまだ百にもならぬ内に娶った彼女は、家ではただの愛妻家である彼にとっては、絶対に怒らせたくない人である。その上病弱な深窓の令嬢のくせして気が強く、怒ると笑顔で威圧してくるので単純に怖い。
そしてもう一人が、彼の父の代から大きな借りがある――
穏やかな午後の風が吹く草原。そこにキンッという甲高い音を立てて、何の前触れも無く人影が現れた。
「よっと……、ここだ。」
あらかじめ魔法の錨で座標をマークし、空間を繋げてそこまで一気に瞬間移動する便利な魔法、『光錨転移』。魅魔はそれを駆使して、こうして遥々ルーマニアまでやってきたのだった。
首を上げて、目の前に立つものを見上げてみる。
「相変わらず趣味悪い色だねえ。どんな神経してたらこんなところに住めるのやら。」
目の前には、もはや城じゃないのかと疑いたくなるような、バカでかい屋敷があった。屋敷の周りをさらに大きい塀がぐるりと囲み、がっちりとした鋼鉄の門扉が侵入者を拒絶している。
しかし何よりも意味不明なのは、屋敷の全面が真っ赤っかに塗られていることだろう。
吸血鬼の特性故か最低限の数しか揃えられていない窓以外、その全ての壁と屋根が真っ赤に色づけられている。しかも屋敷だけでなく、塀やその装飾、玄関扉まで赤色ときた。
遠目でも分かりそうなほど、赤色が目立つ豪勢な屋敷。何を隠そう此処こそが、吸血鬼ゲルデン・スカーレット卿の本拠地。
その名を、『紅魔館』と言った。
その紅魔館の門扉に近づくと、門番であろうか、一人の女性が立っている。否、正確には"立ったふり"というべきか。
なぜならお仕事をしているはずのこの時間に、今まさに門にもたれかかって、ぐっすりすやすやとお休み中なのだから。
その余りの潔い眠りっぷりに少し苛立ってしまった魅魔は、自慢の杖を高く振りかぶり、
「起きな、門番中華娘!」
地面に叩きつけた。
文字通り雷が落ちた。
門番は飛び上がった。
「あはは、いや~お久しぶりです、魅魔さん。この所襲撃が多くて見張っていたら、いつの間にか熟睡してしまったようで…」
「アンタの場合は単に寝坊助ってだけだろうに。」
先ほど雷を落とした魅魔とその雷の直撃で叩き起こされた門番は、現在門番の案内で紅魔館の中を歩いている。自然の雷の数十倍はあろう威力の直撃を食らっても、この女性にとっては目覚ましがわりにしかならなかったようだ。
門番の女性は、一目で分かる中華風の装いである。綺麗な赤の髪を垂らして、緑色のチャイナドレス風の衣装を纏い『龍』の意匠が刻まれた帽子を被っていた。
彼女の名は、
ほんわかした雰囲気だが、彼女もまた古くから生きる中国出身の妖怪。妖怪であるのに、人間が強者と戦う為の武術を敢えて身に付けた何とも変わり者な妖怪である。
門扉の前でサボっていた通り、現在はここ紅魔館の門番を努めている。
ちなみに魅魔とは、同じ大陸発祥ということもあって何かと縁のある間柄であったりする。
更なる余談だが、門番であるのにメイド長と庭番にも任命されており、警護に加えてメイドとしての仕事や妖精メイドへの指示と庭園の世話もしなくてはならないという、中々に苦労人気質な妖怪でもあった。
「あっ、御当主様と会うんですよね?後で持っていきますけど、紅茶のお好みはありますか?」
「好きにしとくれ。私はとっととこの悪趣味な空間から抜け出したいのさ。」
二人は、紅魔館当主の執務室へと向かっている。そして当然、そのためには無駄にだだっ広い廊下を通るわけで。
「しかし毎度思うが、何だってこんな無茶苦茶な色なんだい。館中が殺人現場にしか見えん。」
「今代の当主様のご意向だそうですよ?ここにやって来る他の吸血鬼の方達もお嫌いではないそうで。」
そう、実はこの紅魔館、外側だけでなく中身の廊下や部屋まで真紅なのである。白い調度品以外は全て赤、赤、赤。しかも鮮やかな赤ではなく、どちらかといえば固まり始めた血のようなどす黒い紅色だ。
はっきり言おう、滅茶苦茶目に悪い。
魅魔だって魔女の端くれであるからには血なんぞ見慣れきっているが、その色が好きかといったら首を横に振らざるを得ない。
そうこうしているうちに、館の最奥、細かい装飾が彫り込まれた重厚な扉の前に着いた。美鈴は佇まいを正し、コンコンと四度ノックする。
「失礼いたします。御当主様、お客人をお連れ致しました。」
「入れ。」
扉が開き、二人は中に進んだ。
中は、見るからに高級そうな芸術品で彩られた、だだっ広い部屋だ。陶器や絵画の調度品が居並び、天井にはシャンデリア。その奥には大きな黒檀の机があり、そこに一人の男が座っている。
艶やかな黒髪をオールバックに撫で付け、黒い貴族の服で統一した紳士。人間とは思えないほどととのった魔性の顔立ちに、人ならざることを示す紅く煌めく瞳。いかにも高貴といったその男性は、よく通るバリトンボイスで話しかけた。
「ようこそ、魅魔殿。ご無沙汰しておりますな。」
彼こそが、最高峰の吸血鬼の一角として一世を風靡する傑物。ゲルデン・スカーレットである。
「おや、起きてたのかい。てっきり何時も通り爆睡してるのかと思ったんだけどねえ。」
魅魔は、そんな彼に対して気安げにからかう。ただの妖怪がそんなことをすれば即首が物理的に飛んでいるが、今日の彼は苦々しげに口を歪めるばかり。
何を隠そう、ゲルデンが頭の上がらない人物のもう一人が、目の前に立つ噓つき悪霊である。
スカーレットの始祖が欧州に根付いて勢力を伸ばし始めた時から、魅魔は戯れに彼らに自作の魔道具を与えたり、魔導書を融通して貰う代わりに邪魔者を消したりと、色々な面で手を貸していたのだ。
特にゲルデンに至っては彼が生まれた時から知る人物でもあり、魔術を叩き込まれた師匠でもある。それもあってぶっちゃけ魅魔のことは苦手なのだ。
「お戯れを。最近は寝る時間などろくに有りはしません。そもそも夜に来て下さっていれば、満足な歓迎も出来たのですが。」
「嫌だよ、面白くないだろう?」
間髪入れずそう返されて、彼は思わず溜息をついた。とはいえ、このいたずら好きの悪霊に何を言おうと無駄なことは大昔から身をもって承知しているので特に苦言は漏らさない。
そもそも妖怪は夜が主な活動時間だが、こと吸血鬼は陽光を弱点とすることから当然夜行性であり、外に出られない昼は寝ているのが普通だ。つまり普通の生物とは生活サイクルが真逆なのである。
その為、吸血鬼を訪問する場合には、通例夜に訪問することが礼儀となる。
ではなぜ魅魔は、この午後の昼過ぎという常識のない時間に来たのか。
……何のことはない、単に寝ているであろうゲルデンをからかいたかっただけである。
実は読み通り先ほどまでゲルデンは寝ており、魅魔がここに来た時の魔力反応で慌てて飛び起き、美鈴が対応している間に急いで身支度を済ませたのである。
それはさておき。
「ゲル坊、アンタに少し伝えておきたい事がある。」
「…ほう、珍しいですな。貴女がわざわざ口頭で伝えに来るとは。いつもなら使い魔で済ませるでしょうに、何か重大な案件でも?」
「使い魔じゃないのは他にも用事があるからさ。とはいえ、重要なのは確かだよ。」
そこで魅魔は、紫の計画、それに合わせて強大な力を持った妖魔に協力を取り付けていることなどを話した。ゲルデンは話を聞いて考え込む。
「…難しいですな。私は既にこの地の覇権を一身に背負う身。今更欧州を離れるわけにもいきません。」
「勿論、今すぐってなわけじゃないとも。あくまで『外』で妖達が暮らしにくくなった時のことだよ。」
そう言われて、この契約を受ける意味を考える。
メリットはある。
いずれ千年、二千年経てば、魅魔の言った事が現実になり得る可能性は高い。この悪霊が肯定したというのは、即ちそういうことだ。そうなった時の避難先があるというのは、かなり大きい。
デメリットは、欧州を離れて極東の島国に行かなくてはならないこと。当然今まで積んできた功績は水の泡、さらに辺境に海を跨いで飛び立つことになる。
更には賢者とやらに借りを作ることになる。彼ら貴族にとって、貸し借りとは一つ一つが強い強制力を持つ非常に重いものだ。
吸血鬼のとんでもスペックの頭脳で数秒間考え、決めた。
「いいでしょう。その話、受けさせて頂きます。ただし、この場所を離れるのはどうしようもなく切羽詰まった時だけです。それまではこの地に居座り、ここで存在出来ないようになれば極東に移り、その『賢者殿』の示すようにしましょう。とはいえ、これではこちらのメリットばかりですので、何かしらの報奨は用意させて頂きます。」
「そうかい。まあ、受けるんだったらその辺の細かい話は紫と詰めてくれ。」
「分かりました。」
そう滔々と語る彼からは、堂々とした威圧感のある妖気が立ち昇っている。魅魔との立場をあくまで『対等である』と示すために、妖力を解放していたのだ。
彼も吸血鬼の貴族が一、幾ら大恩ある相手とはいえ、誇りをもって相対する。並みの妖怪ならそれだけで圧死してしまいそうな圧力を感じて、魅魔は、
(―――あの寝坊助ゲル坊がよくもここまで立派な生意気に育ったもんだ。先代よ、どんな教育したんだい。)
苦笑して、
(興が乗った。少しだけ見せてやろう。)
一瞬だけ魔力を解放した。
解放の時間は10000分の1秒間にも満たない。
しかしその一瞬で、ゲルデンの妖力が押し潰された。紅魔館の防御結界が破壊された。窓ガラスが残さず粉微塵と化した。魔力の暴風が全てを蹂躙した。
(これは……)「何と……!!」
その時ゲルデンは
ようやく被害が落ち着いたとき、彼は大きく息をついた。
「……流石の化け物ぶりですな。私も精進したと思っていましたが…やはり程遠い。」
「まあ、二千も生きてない若造に負けちゃ立場がないからね。それにしても実力の割れてない相手を、余り不用意に威圧するのはやめておきな。」
魅魔はそう言いつつ、ぱちんと指を鳴らした。館中の壊れたものが逆再生の早回しのごとくどんどん修復されていき、あっという間に元の紅魔館の姿に戻っていく。叩き壊された調度品や窓や壁が一瞬にして復活していく。
魅魔の忠告に耳が痛いなと笑ってしまう。同時に、やはり目の前の魔女は敬意に値すると改めて実感したゲルデンだった。吸血鬼は誇り高く傲慢な分、一度その力と認めた相手は決して裏切らないのである。
と、そこに美鈴がティーセットをワゴンに乗せて運んで来た。
「あのー、お茶が入りました。後、さっき館中のガラスが吹っ飛んだのですが…。」
「そこに並べておけ。なに、ちょっとした戯れだ。気にしなくていい。」
美鈴が二人の前に紅茶と茶菓子を並べる。両者はそれを飲んで、殺伐とした空気を落ち着かせるように一息ついた。
「と、そうだ。ゲル坊、少し貰いたいものがあるんだが。」
「何でしょうか?魔導書なら地下のヴワルにまだかなりの数残っていたはずですが。」
ヴワル――正式名称、ヴワル魔法図書館。
世界中の稀覯本・古書・奇書等々をかき集めることを趣味としていた先代スカーレット当主が、自身のコレクションを保管し、また世界中の書物の内容を蒐集する為に地下に設立した、大図書館だ。
魔法図書館の名が示す通り、危険極まりない魔導書の類もメインコンテンツの一つとして腐るほど収められている。未だに先代が設立した巨大な情報収集魔法が生きており、世界中の書物を感知した瞬間にその中身の情報を取得して記述するよう設計されているのだ。
その規模は、後のアメリカ議会図書館や大英図書館を鼻で笑えるレベルと言えば、実感できるだろうか。
もっとも、今回魅魔の用があるのはそちらではない。魅魔は首を横に振ると、杖でピッと目の前のゲルデンを指した。
「お前さんだよ、ゲルデン。強大な妖魔の血が欲しいんだ。」
「…そういうことなら、まあ構いませんが。しかし吸血鬼の血など貴女なら幾らでも持っているのでは?」
そう言いながらも、ゲルデンは袖をめくって腕を出す。魅魔は魔法で痛みのないようにその血管から空中に血を吸い上げながら、返答した。
「実はホムンクルスを作りたいんでね。出来ればお前さんの媒体から用意したい。」
「ホムンクルス……ああ成程、そういうことですか。」
ゲルデンは納得して頷いた。同時に、空中に浮かぶ血液の球体が完成し、魅魔はそれを圧縮して懐に放り込んだ。
今回魅魔が欲しがったのは、人造人間を動かすに足る強力な生体触媒だ。
事実、魅魔はただの吸血鬼の血なら倉庫にかなりの量を保管しているが、人造人間という精緻な生命体に使うには、時間の経った『死んだ血』ではダメなのである。生命に使える限りなく新しく、神秘を帯びた血が欲しかったのだ。
「さて、私の用事はこれで終わりだよ。そういえば、ローズはどこに行ったのよ。さっきから全然見ないけど。」
「家内は出かけています。何でも、美味な人肉料亭を見つけたとかで。」
「あの子の放浪癖も相変わらずだねえ。」
クスクスと魅魔は笑ってしまう。とはいえ、苦労を背負わされているゲルデンには笑えないが。
ローズとは先述のゲルデンの妻だ。
おっとりした感じの美人で、吸血鬼の割に体が弱く余り外に出られない、そのくせ放浪癖持ちで目を離すとすぐどこかに行ってしまうお転婆娘。ゲルデンも最初は自分で止めていたのだが、今ではもう諦めて信頼できる使用人を付けて好きにさせている。
「あれが望むなら好きにさせますよ。どの道自分で止められるほど時間が空いていないので。」
「いい子じゃないか。大事にしてやりな。」
置き土産にお節介を焼いて、話は終わったとばかりに魅魔は転移で姿を消した。はあ……と大きく息を吐いて、ゲルデンは椅子にのしかかる。
「やれやれ、随分と大きな契約をしたものだ。『理想郷』か……。」
まさかこんな大言壮語を実行に移す奴がいるなど思いもしなかった。正直、幾ら魅魔の話とて信じられるかは微妙だ。とはいえ、一度結んだ契約を違えはしない。吸血鬼も悪魔の端くれ、故に契約を何よりも絶対視する。
「これはローズにも話しておかねばな。」
一人ごちた時、丁度門番に戻っていた美鈴の呼ぶ声がした。噂をすれば影が差す、きっとローズが帰って来たのだろう。
帰って来てすぐに元気よく土産話をするであろう妻を思い、ゲルデンは苦笑して扉を開けてやった。