「ワールド囲碁ネット……ここにアクセスすればいいの? でも私パソコンはできても、碁のことはさっぱりよ。手伝えないわ、きっと」
「大丈夫、対局の仕方はオレ教わってきたから。世界中の人と碁が打てるんだ」
「世界中って……キミ英語できるの?」
「え、英語なんて出来なくたっていーんだよ、碁を打つだけなんだから」
あと数日で夏季休暇を迎える七月の某日。
進藤ヒカルは同じ囲碁部に所属する三谷裕輝の紹介で、三谷の姉が働いているインターネットカフェを訪れていた。
第十四期NCC杯トーナメントを観戦した際に、ヒカルは偶然ネット碁の存在を知った。顔や素性を隠したまま碁を打てるネット碁の性質は、ひょんなことからヒカルに取り憑いた平安時代の天才棋士サイに思う存分に碁を打たせることが出来ると考えたのだ。
【年と共に世の中が様変わりするのは私も知っていますから、あえてこれがどうなっているのかは聞きませんけどヒカル、いったい何をしようとしているのですか?】
【お前に好きなだけ碁を打たせてやろうと思ってさ、まァ待ってな】
【えっ……えっ……ええっ】
興味深そうにデスクトップのパソコンを見つめるサイが、ヒカルにしか聞こえない声で語りかけてくる。
言葉を返すと、サイは戸惑いながらもとてもうれしそうだ。
今迄サイがヒカルに取り憑いてから、サイが自身で碁を打つという機会は少なく、そのことをヒカルは心苦しく思っていた。
やはりサイがうれしいとヒカルもうれしい。
「えーとまずナマエだ、ナマエを決めて入力っと」
【ねーっねーっ、好きなだけ?! 本当に!?】
【ウルサイな、もうちょっと待ってろってば】
ナマエは──
──sai──
──強い。
相手の先番で始まった一局。
序盤相手が右上の隅に打った目外しに対し、サイは小目にカカる。
それに対して黒は16の六に打ち込んできた。
一連の応手は大斜定石というものだ。大斜定石は派生する変化が多く、サイの経験上この一局は複雑な戦いになるだろうことが容易に予測できた。
サイの予測にたがわず、碁は序盤から激しい戦いが繰り広げられた。右辺から戦いの火蓋が切って落とされると石と石がぶつかり合う。
そしてぶつかり合っているにも関わらず、両者は局面は伯仲し形勢は傾くことのないまま中盤へと進んでいく。
優劣が不明な局面での攻防のことをねじりあいと表すが、まさしく両者の攻防はソレだった。
右辺から始まった闘いの火は面全体へと広がる。
人それぞれに性格があるように、棋士には一人一人棋風というものが存在する。
棋風はどのような碁を好むのか、所謂戦闘スタイルのようなものだ。
無理やり説明してしまうなら、RPGゲームでいうところの剣士や武闘家や魔法使いといった職業である。
サイ。本因坊秀策の棋風を例えるなら、最も完成された基本型だろう。
余程の強者でない限り、サイは初手から終局まで自然な形で本手を打ち無理なく勝利を収める事ができる。
対してサイの対局者。
姿も名前も知らぬその者の棋風は、異質であった。
盤面での苛烈な戦いを挑んでくるあたり、好戦的なスタイルであるのは間違いない。
数々の応手に垣間見える、基本型から外れた手であっても躊躇うことなく打ってくる独特な感性。
少しでも対応を間違えれば敗着へと繋がる手を、最強手として成立させる卓越した判断力と、類稀な構想力があるからであろう。
何処か得体の知れない薄気味悪さがサイの背筋を撫でた。
150手を超える死闘の末、勝利を掴み取ったのはサイ。
終盤。一目半の差を埋めるべく相手の放った鬼手を、サイがソレを上回る妙手で返す。
その一手が決め手となり、相手が投了。
薄氷の勝利であった。
【ヒカル! この者ともう一局打つ事は出来ませんか?!】
【な、なんだよ急に大声出して……えーと、AKABOSHI……アカボシか? あ、リストから名前がもう名前がない】
【ヒカル、この者の名は何と言いましたか?】
【なんだよ、怖い顔して。アカボシって書いてあったぜ】
【……アカボシ】
アカボシ。
その名を聞いてハッとした。
もしかしたら。
サイの脳裏には一人の人物が浮かんだ。
が、同時にそんな事があり得るのかと疑った。
赤星因徹。
思い出すのは古い記憶。
かつてサイが寅次郎に憑いていた頃。
本因坊秀策として神の一手を極めんとしていた江戸時代に、赤星因徹の名は絶えず耳にした。
秀策の師であった本因坊丈和と凄絶なまでの戦いを繰り広げ、しかし肺の病を患い無念の死を遂げた悲運の天才棋士。
それが赤星因徹である。
対局中は気が付かなかったが、冷静になってみればかつて江戸でみた赤星因徹の棋譜と、先程まで熱戦を繰り広げていたアカボシの棋風は何処か似通った部分が存在する。
徳川の治世の元で碁の技術を磨き、若くして命を奪われた棋士が現世に蘇るような事があるのだろうか?
──否、あり得ないという事はないだろう。
何故ならサイは千年の時を経て、この世に呼び戻されたのだから。
類稀な才覚を持ちながら非業の死を遂げた赤星因徹が、この世に呼び戻されたとしても何ら不思議ではない。
──彼もまた、誰かの身体に宿っているのだろうか?
「いやアカボシ、負けてんじゃねーか。江戸の天才棋士が聞いて呆れるぜ」
【し、仕方無いじゃ無いですか。相手の方がめちゃくちゃ強かった事くらい、分からない貴方じゃないでしょう?!】
「……たしかにあの強さは半端じゃないな、プロが偽名使ってネット碁してるとか?」
【少なくとも日本のプロでは無いでしょうね。棋力で言えば塔矢行洋が近いですが棋風が違いますし、何より定石が古いです。まるで私が生きていた江戸時代の棋士と打っている感覚でした】
空調の効いた部屋。一人の少年がパソコンの青白い光に照らされていた。
ベッドや勉強机。ハンガーに掛けられた制服や本棚の教科書から、彼が中学生だと言う事がわかる。
彼の名は天野夜空。
端正ながらあどけなさの残る顔立ち。
程よい長さのサラサラとした黒髪、日に焼けていない白い肌。
筋肉のあまりついていない身体からは、少し病弱そうな印象を受ける。
何もない虚空に話しかけているように見える夜空だが、彼の目には二十六歳という若さでこの世を去った江戸時代後期の天才棋士の幽霊が映っていた。
霊の名を赤星因徹。
生前、段位は七段でありながら、八段の実力を持つと言われていた。
本因坊、安井、林に並ぶ江戸時代の家元四家の一つ、井上家に仕えていた。
井上家の当主幻庵因碩から薫陶を受け、次世代を担う跡目としての将来を期待されるほどの天稟があったにも関わらず、重度の肺結核を患い二十六歳の若さにしてこの世を去る。
神話や伝説、逸話など有名な伝承は、後世に語り継がれるものである。
それと同じように、過去の棋士達の戦いの記録も棋譜という形で現在の棋士達に伝わっている。
赤星因徹を語る上で最も有名なものが、吐血の局である。
当時の棋士の中で最高位である名人碁所であった本因坊丈和に対して、赤星因徹が戦いを挑んだ際の対局を表している。
世代最強である丈和をあと一歩の所まで追い詰めながらも、血を吐き病に伏した赤星因徹の最後の対局である。
丈和に敗れたのち、数ヶ月としないうちに赤星因徹はこの世を去った。
「棋風かぁ……saiだっけ? 手筋が綺麗過ぎて秀策みたいだったな」
【それは私も感じてました……もしかしたら本当に秀策だってことも?】
「アッハッハ! それはないって、お前みたいな幽霊何人も居るはずないじゃん」
【……そう、ですよね】
「でもまた打てるといいな」
【はい!】
そしてサイ……つまり本因坊秀策の有名な対局といえば、耳赤の一手だが、その対戦相手である幻庵因碩は赤星因徹の師匠であった。
秀策が頭角を表したのは赤星がこの世を去ってからであるため、二人に面識はなく、赤星が生きていれば良き好敵手として切磋琢磨したであろう。
生前は知らないはずの秀策の棋風をアカボシが知っているのは、現世に残る秀策の棋譜を夜空を通して目にしているためだ。
幼い子の中には一定数幽霊が見える子供がいる、という事はよく聞く話だ。
その例に漏れず夜空も物心がついた頃には、しっかりアカボシの姿が見えていた。
当時はかなり戸惑ったが、夜空が言葉を理解するようになり意思疎通がとれる様になると幽霊との関係は良好になっていった。
なぜ夜空にアカボシが取り憑いたのか。
この理由はアカボシでさえ分かっておらず、気がつくと夜空に取り憑いていたらしい。
謎は深まるばかりである。
アカボシとの会話に気を取られていた夜空の部屋に、prrrと携帯電話の呼び出し音が響く。
ベッドの上。
鈍いバイブレーションで震えながら、電子音を出す二つ折りの機械の小さなモニターには発信者の名前が書かれていた。
「……げ、緒方さん」
【あー……そういえば今日は研究会でしたね】
発信者の名は緒方精次。
日本棋院所属。塔矢門下の九段。
若手の棋士の中でタイトル最有力候補と目される、正真正銘のプロの棋士だ。
緒方と夜空の出会いを語るには、十年ほど月日を遡る必要がある。
あれはまだ夜空が小学校に入る前。
年齢が片手で数えられる頃。
生前棋士であったアカボシの頼みで、日本棋院が開催する囲碁のイベント会場に訪れていた。
『夜空も是非碁を打ちましょう! オシャレな人はみんなやっていますよ、打つと楽しいキモチになれます! 痩せてキレイになれるし、集中力もアップすること間違いなしです!』
碁の良さを伝えるアカボシは違法ドラックを勧める売人並みに怪しかったが、一人の人間をここまで虜にさせる碁というものには夜空も興味があり、保護者同伴のもと日本棋院に足を運んだ次第であった。
如何にプロの碁打ちといえど、日がな一日中己の腕を磨いていられるというわけではない。
棋士は自分の対局以外にも、他の棋士の対局解説やメディア取材など存外多忙極める職業である。
棋士の主な仕事の一つが、イベントでの指導碁である。
──囲碁界の発展と布教も棋士の仕事の一つではあるが、やはりオレに指導碁は向かんな。
色を抜き緩くカールのかかった髪。
切れ長の鋭い眼光に現れた落胆の色を、シンプルでありながら質の良い眼鏡で隠す。
鮮烈な青のシャツに個性的な柄のネクタイ。着る人を選ぶ白のスーツは、鍛えられた身体と均整の取れた長い手足によって様になっていた。
会場に数多く存在する棋士の中でも一際異彩を放つ彼こそ、緒方精次その人であった。
十年後には九段となりタイトルホルダー最有力候補とまで呼ばれるようになる緒方だが、この時は有望な若手でしかなく棋院主催の囲碁布教イベントに駆り出されていた。
「では次の三名の方、お待たせしましたー!」
イベント会場のコーナーの一角。
緒方のサポートについている棋院職員の陽気な声が響く。
パイプ椅子に座る緒方の目の前には、榧で作られた四寸の碁盤が三つ置かれていた。
いわゆる多面打ちである。
文字通り複数の対局を同時にこなすことで、プロの卵である院生程度の多少腕に覚えのある者であれば、複数人相手であっても早指しをすることが出来る。
「よろしくおねがいします」
舌足らずな変声期を迎えていない高い声に緒方が視線を上げると、母親に心配そうに見守られた小さな男の子が碁盤をはさんだ対面に相まみえた。
少年を挟むようにして座った残りの二人はどちらも年の頃が六十歳程度。
囲碁好きのアマチュアといった印象だ。
二人はアマチュアながら打ちなれた様子で各々段位に合わせた置石を置く。
最終的な地の多さを競い合うのが碁というゲームである。
置石とは対局者同士の実力に差がある場合のハンディキャップのようなものだ。
置石一つは十の地に相当する。
碁には運の要素が介在せず、はっきり実力の差が表れるゲームである。
これが真剣勝負ではなく指導碁であるとはいえ、プロである緒方とアマチュアでは置石がなければ試合にすらならないだろう。
さて、問題はこの子だ。
「指導碁を打って貰ったことはあるかな?」
「ううん、ルールは分かるけどちゃんと人と打つにはこれが初めてかな」
「なるほど、置石は七ついいかな?」
「うん」
こうして本日何度目かの指導碁が始まった。
身体の半分が碁盤に隠れ、腕を目一杯伸ばすことでやっと盤の向こう側に石を打つ。
その懸命な姿は周囲から微笑ましく見られ、小さな挑戦者を囲むように人だかりができる。
孫を見るような観客と違い、緒方は真剣に少年と向き合っていた。
──見た目に反して碁は好戦的だな。
緒方が碁笥から白石を取り出し一手打つと、すかさず黒は闘いを挑んでくる。
少年の着手は恐ろしく早く一手一秒もかかっていない。
置石ありの一局で黒番つまりハンデをもらっている側は、そのハンデをどう生かして勝つかを真っ先に考えるものだ。
しかしこの少年に置石を活かすという考えはどうやらないらしい。
一直線に攻めかかり緒方の白を殺してやろうと包囲にかかる。
──だが悪くはない。
少年はこの場面ではこうやって打つといった囲碁の定石は全く理解していなかった。
しかし少年の応手には碁打ちにとって、最も重要なものが備わっていた。
ヨミ。
それは未来を見据える力。
縦と横に19ある直線の交差によって、碁は無限の広がりを見せる。
ヨミとは十手三十手あるいはもっと先にある無限の広がりの中から、勝利に至るための変化を感じ取り想像上で石を並べる能力に他ならない。
定石や研究が技なら、ヨミは膂力である。
たとえどれだけ走るのがうまい陸上選手でも、恵まれた体格がなければ五輪で金メダルは取れない。
ボクシングや柔道に階級差があるのは、優れた技も圧倒的な力の前では無力に等しいからだ。
碁に恵まれた体格は必要ない。
男女の差も関係ない。
序盤戦術や定石は勉強さえすれば誰でも理解することが出来る。
しかしヨミがなければ碁打ちとして大成は出来ない。
ヨミは碁打ちとしての膂力。あるいは力。
勝利を引き寄せる力が無いものは、たとえプロになったとしても底辺で燻るだけ。
悲しいことにヨミは後天的に身に着けるものではない。
ヨミは天分。
選ばれし者は初めから持っていて、そうでないものは一生身につかない。
──まだ甘いな。
終盤、緒方は包囲する黒を中央でぶった切る。
少年の石の連携は甘くいたるところに傷がついていた。
盤面の黒は死に絶えもはや逆転の目はない。
──だが面白い。
逆転の目を探す少年に緒方は称賛の拍手を送りたいくらいだった。
対局の中、少年の類まれな囲碁センスが垣間見えた。
不利とみた左辺を捨て中央の白を殺しにかかる形勢判断は見事だ。
ありませんと、首を垂れる少年に緒方もまた頭を下げる。
「少年、名は?」
「え、天野です……天野夜空」
「そうか、碁を続ける気があるならここに連絡してくるといい」
戸惑いながら名前を答える少年に対して、緒方は自分の番号の入った名刺を小さな手に手渡す。
緒方と夜空。
長い付き合いになる二人の最初の出会いだった。
中学一年の夏。
saiとのネット碁を終えた後の夜空の自室に再び場面を移す。
夜空は鈍く揺れる携帯電話を恐る恐る手に取り通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「遅刻とは感心しないな」
「あはは……ネット碁の観戦をしていまして」
「ほう、塔矢先生の研究会よりも大事な観戦があるとは驚きだな」
「すみませんでした! 直ちに参ります!」
「分かればいい、じゃあな」
通話を切り、ジーンズのポケットに携帯をしまう。
本当はネット碁を打っていたのだが、取り憑いた幽霊に碁を打たせていたといっても誰も信じないだろうと、夜空は観戦していたことにした。
頭からすっかり抜け落ちていた事だが、今日は塔矢先生の家で行われる研究会の日だった。
幼い頃。
緒方に名刺を渡されてから、夜空は緒方の家によく通うようになった。
緒方の元で碁を勉強するようになって半年後、夜空は緒方の紹介で塔矢行洋の研究会で碁を勉強するようになった。
夜空に取り憑く霊であるアカボシも鍛えてくれるのだが、緒方を含め塔矢門下で揉まれる事が夜空の成長に繋がると背中を押してくれた。
財布と携帯電話と家の鍵。
最低限の荷物だけもって、玄関の扉を開け外に出る。
庭に立て掛けてある自転車に跨り、ペダルを漕いだ。
夜空の家と塔矢家はどちらも東京の某区にあって、自転車で20分と中途半端な距離である。
【てめー、アカボシ。お前の所為で遅刻確定だぞ】
【なっ、夜空だって研究会の事忘れてたじゃないですか!】
【言い訳どうしよう】
【私とsaiなるものの棋譜を並べて、遅刻の事をうやむやにしてしまうのはどうでしょう? 碁の事で頭をいっぱいにしてしまえば、夜空の遅刻なんて忘れてしまうかもしれません】
【それ、採用!】
懸命にペダルを漕ぐ二十分間の道途。
夜空とアカボシは如何に怒られないかの脳内会議を行なっていた。
塔矢門下の全員が碁打ちである以上、達人同士の棋譜には心が躍らされるものだろう。
夜空もアカボシも碁の勉強が出来、その過程で夜空の遅刻がうやむやになるのなら、まさに一石二鳥。
両睨みの妙手である。
塔矢邸は訪れる度に、日本の旧家のような荘厳な印象を受ける。因みに夜空は旧家を見た事がないのであくまで雰囲気だ。
庭の片隅にチャリを立て掛け、呼び鈴を鳴らし塔矢夫人に出迎えられて研究会が行われている部屋に通された。
「重役出勤とは流石だな、夜空」
「あはは……お疲れ様ですー」
「手厳しいなぁ緒方さんは、おはよう夜空くん」
「芦原さんが甘やかし過ぎなんですよ、遅いぞ夜空」
襖を開けると碁盤を囲むようにしていた三人が声を掛けてくる。
揶揄うような口調が緒方。
それを諫めるような穏やかな声が芦原弘幸。のんびりとした物腰の若手棋士である。
最後の一人が塔矢アキラ。
夜空と同じ中学一年生。
やや長い黒髪に端正な顔立ちは、塔矢夫人を思わせる。
聞いたところによると二歳のころから、碁界のトップ棋士であり実の父の塔矢行洋から碁の薫陶を受けていたという。
未だプロにはなっていないものの、その実力は並みの若手棋士以上である。
「あれ緒方さん、塔矢先生は?」
「まだ来ていらっしゃらない」
「よかったー、自分と一緒で重役出勤ですね」
「……夜空、碁界のトップとプロにすらなってないヒヨッ子を同列で語るな」
「はーい、すみません」
夜空を含めて四人。
塔矢先生の到着を待つ間、二組に分かれて持ち時間30分の早碁を指すことになった。
組み合わせは、緒方と芦原。夜空とアキラ。
同い年ということもあって、夜空はアキラと研究会で打つ機会が多い。
「打とうか、夜空」
瞳に戦意を滾らせるアキラの眼。
それに対して夜空はうなづいた。
【はい! はーい! 夜空、私打ちたいです!】
【駄目でーす】
【何でですか?! もしかして私が打ったらややこしい事になるからですか?!】
【そうだよ わかってんじゃん】
早くに死んでしまったとは言え、現在にも名前の残る棋士であるアカボシが夜空に代わって打てば周囲から疑いの目を向けられるであろう。
その為のネット碁である。
「よろしくお願いします」
お互いにそういって、碁盤を挟んでアキラと夜空の対局は始まった。
アキラは碁笥から無造作に白石を掴む。
対して夜空は黒石を一つ、碁盤に置いた。
その動作をみて、アキラは掴んだ白石を碁盤に横並べしていく。
アキラの掴んだ石の数は七。
黒石と白石がどちらも奇数であるため、黒つまり先番は夜空となる。
互先。
置石を置かないハンデ無しの戦いでは、先手と後手を決める際にニギリという手法が用いられる。
まず黒石の入った碁笥を持つ者が、黒石を一つか二つ持つ。
そして白石の入った碁笥を持つ者が、碁笥から無造作に石を掴む。
両者の石がどちらも奇数か偶数である場合は、そのまま黒石を持つ者の先番。
奇数と偶数になった場合は、黒と白の碁笥を入れ替えて黒を持つ者の先番となる。
夜空の先番で対局が始まった。
一手目は16の五。高目。
第四線と第五線の交点。
高目は第一手で打たれる隅の中では、最も位が高いのが特徴だ。
高目に打ち込むということは、夜空は右辺に勢力を作ることを目指したいのだろう。
手数が進み、いよいよ夜空の黒石がアキラに攻めかかってくる。
──攻撃的なのはずっと変わらないな。
棋士によってそれぞれ棋風というものがあるが、夜空のソレはかなり攻撃的なものだとアキラは感じていた。
地に手厚く守りに入るような一手を尽く嫌っていて、研究会でアキラと打つ時も緒方や芦原と言った格上の棋士と打つ時も決して選ばない。
そして凡庸な若手棋士であれば受けきれないほどに、夜空の攻めは苛烈である。
攻めの要となっているのは、カラミ。
カラミは二つや三つあるいはそれ以上の複数の石を、同時に攻める高等戦術である。
一方石に死はなし、とは碁界では有名な格言の一つで弱点が一つだけなら守りきる事は容易であるという意味だ。
しかしそれはカラミをかけられ、複数の弱点を同時に攻められると守りきれないという事でもある。
夜空は盤上の傷のある白石や連携の弱い石を狙ってカラミ攻めを仕掛けてきた。
ここが分水嶺。
攻めきる事が出来たなら夜空の勝利。
シノギが上回れば、アキラの勝利だ。
「まぁ夜空にはいつも言っている事だが、お前の碁は攻めすぎだ」
「ですね。石を殺そうとしすぎるあまり、それを上手くアキラ君に利用されましたね」
勝敗の結果。
アキラが6目半の差で勝利した。
中押しで決着の着いた緒方芦原戦に対して、アキラと夜空の対局は二百手を超す長期戦になった。
決着がつくと碁盤を囲むようにして、緒方芦原を交えた検討が行われる。
アキラと夜空は検討の為、碁を一手目から並べ直していく。
緒方が夜空の敗因を語り、芦原は具体的な敗着の一手を指摘した。
ヨミの精度はアキラと互角。
競り合いの際の攻撃力はアキラをも上回る。
しかし碁が攻めに徹し過ぎる夜空の棋風は、大きな欠点を抱えている。
対局の中で優勢となれば、攻めよりも守りを重視するのが一般的だ。
その理由は至極単純。
優勢になった際のリードを守りきれば勝ちやすいからだ。
しかし夜空は自身が優勢の時であっても、最も強い一手を打ってくる。
最強手と呼ばれるその一手は、本来局面打開や僅差の接戦で打たれる一手だ。
最強手は踏み込んだ一手である為、上手く返されれば形成が逆転してしまう危険を孕んだ一手。
碁に置いて、最も勝ちに近づく一手が常に最強手とは限らない。
「中盤までは夜空の優勢だった。カラミ攻めの後、黒石を連携して守られていたら僕は負けていただろう」
「守りに入るのってなんか棋風的に合わないんだよねぇ」
「守りの一手が打てるようになれば、夜空君はもっとつよくなれるんですけどねぇ緒方さん?」
「……それは何年も前から言い続けてる、今更こいつの棋風はもう治らん、手遅れだ」
芦原の言う通り、守ることを覚えれば夜空は更に強くなれるだろう。
しかし夜空を碁の道へと引き込んだ緒方には、夜空の棋風を変える事にはもう諦めてしまっているようだった。
緒方さんはひどいなぁ、と言っておどけて笑う夜空。
彼と数年にわたり何局も打ってきて、アキラはある一つの予測を立てていた。
おそらく夜空は勝つ為に碁を打っていないのだろう。
アキラや緒方と違って夜空は碁を、勝負事ではなくより良い一手を追究するための手段として捉えている。
華道や茶道といった芸事に家元があるように、江戸時代まで時代を遡れば囲碁にも四つの家元が存在した。
かつての棋士たちは御城碁という将軍の前で自らの碁を披露する為に、一心に技を磨いたという。
明治以降家元文化が廃止され、大衆へと広がりを見せたのが碁の変遷である。
日本棋院が設立されてからというもの、棋士たちは芸を磨く者から勝ち負けを追究する勝負師の側面が強くなった。
勝ち負けに執着せずただひたすらに最強手を追究する夜空の姿は、アキラにはどこか江戸時代の棋士を想起させるのだった。
研究会が終わるとアキラの父である行洋や緒方芦原は部屋から出て行く。
碁盤や湯飲みの片付けなどは、アキラと夜空の仕事で研究会の後は二人きりになる事がほとんどだった。
「そういえば夜空、今日はどうして研究会に遅れて来たんだ?」
「あー、ネット碁の対局を見てたんだよ」
「どうしてアマチュアの対局なんか……」
価格にして六桁の榧で作られた最高級の碁盤。
アキラと夜空はそれを落とさないよう慎重に二人で片付ける。
ある程度片付けた後、碁盤を一つだけ残して二人でもう一度緒方や行洋の手を検討するのが、アキラと夜空のルーティンだった。
碁盤を向かい合って座ると、アキラは夜空の遅刻の理由を聞いてない事を思い出し問うた。
「いやいや凄い一局だったぜ、どっちも名人並みの強さでさ」
「父さん並みの強さ? そんな強い人がそうそういる訳…………いや」
「いやホントだってば、並べてやろうか? 手筋は覚えてるし」
「……ああ、並べてくれ」
夜空のいう名人並みの強さ。
そんな人間はそうそういる訳がないと否定する寸前、アキラの脳裏には一人の少年の姿が浮かんだ。
彼とはアキラが行きつけの囲碁サロンで二度打った。
一度目は遥かな高みから見下ろされてるような感覚のした指導碁。
二度目は本気で彼と向き合って、一刀両断に切り捨てられた。
石の握りは初心者の手つきであるのに、棋力はアキラを遥かに上回る歪な強さ。
──進藤ヒカル。
終局まで夜空が並べ終える頃には、アキラの疑問は確信に変わっていた。
黒も相当打てる。実父である行洋並みと夜空が評するのも納得できる棋力の持ち主である事は間違いない。
そして白は間違いなく囲碁サロンで打ったあの進藤だ。
しかしそれだけに、海王中として出た囲碁大会の時の弱い進藤がチラつく。
一体どっちが本物の彼なんだろう。
「……たしかにどちらもかなりの腕だ。夜空が名人並みと言うのもうなずけるよ」
「だから言ったじゃん、お前疑ってただろ?」
「わ、悪かったよ……ネット碁って事は、名前はわからないんだよな?」
「あー、プレイヤーネームは黒がAKABOSHIで白がsaiだったな」
──sai。
聞き覚えのない名前だ。少なくとも進藤とは結びつかない。
しかしsaiの手筋はどうしても進藤の影がチラつく。
「どうしたんだよアキラ、急に黙り込んで」
「いやsai……白の手筋に一人心当たりがあってね」
「……へぇ、誰だよ」
「進藤ヒカル。過去に二回僕が負けた相手だ」
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