和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

68 / 181
 貫咲賢希さんより葉山君を描いて頂けたのでご紹介致します。

https://www.pixiv.net/artworks/90788140

 後、前回葉山君の嘘が紛れ当たりしましたがちゃんと理由があります。ヒントはこの作品の女キャラは大概ヤンデレだという事です。


第六〇話● 御焦げでお召に

 西方の神話において触れられるように火とは文明の創明であり、始まりであり、人をそれ以外の獣と線引きする象徴と言える。

 

 脆弱な身体能力しか持たぬ二足歩行の猿は、しかし知恵を得て、火の力を得る事で万物の霊長へと成り上がった。馬のような脚力もなく、狼のような牙もなく、ましてや迷彩に優れた毛皮も、厚い脂肪も、遠くや暗闇を見通す目も持たぬ人間にとって火は正に生きるための天祐そのものであった。野に生きる獣共の持つどのような身体能力とて、火の前では全くの無力なのだから。

 

 そう、人の文明とは火の文明なのだ。最早人々にとって火とは手放す事なぞ不可能だ。水と並び、火は生活の、社会の基盤であり基礎であった。火のない文明なぞ最早考える事も出来ず、火を使わず生きていく事すら出来まい。

 

 そして火、所謂火行に属する霊術は退魔士達にとっても基本中の基本であり、また同時に派生と奥の深い分野でもある。

 

 数多ある火を根源とした霊術呪術の類い、その一つにそれはあった。

 

『浄火』、鬼月刀弥の持つその固有の異能は本家筋の長女が持つ『滅却』に比べれば一段、いや二段は格落ちするものではあれどあくまでもそれは比較対象が悪いだけの事に過ぎない。対人には不適合なれどその力は対妖に限定すれば却って有用なものであったとすら言える。

 

 妖気のみを、妖のみを限定して焼き尽くすそれは敵味方が入り乱れた乱戦において最も効果を発揮する。そしてまた密室空間においてもまた同様であり、酸素ではなく霊気を持って燃焼する『浄火』は本人は無論周囲の人間が酸欠する事を回避する事が出来た。

 

 そしてその結果が今目の前で無残にも焼け焦げた凶妖の末路であった。

 

『グッ……ガッ……ガ………!?』

「まだ生きてやがるのか。中々しぶといな。えぇ?」

 

 殆んど死んでいるも同然の虫の息の虎狼狸の呻き声に鬼月刀弥は嘲るように嘯いた。

 

 ………勝敗は元より決まっていた。実のところ、刀弥自身は綾香と然程実力に違いがある訳ではなかったのだ。しかし、実力以前に相性が余りにも悪過ぎた。

 

 疫病を、毒を操る虎狼狸も、しかしそれすらも妖気で生成されたものである以上それらは同時に『浄火』に焼かれる対象でもあった。そしてこの凶妖は単純な肉弾戦においては決して秀でた存在ではなくて、一方で刀弥はその異能が妖以外には効かぬ以上肉弾戦の覚悟も、その技術も低いものではなかった。となれば、この状況もまたある意味で必定であった。

 

『グッ……グガアァァ!!』

「おっと、危ねぇな!!」

 

 止めを刺そうとした刹那、凶妖は首を上げてその顎を開く。口内の毒線より射出された猛毒は、しかし首を動かして最小限の動きで回避される。ほぼ同時に怪物の口の中に突き刺されたのは刀であった。

 

 北土でも名の知れた名匠が玉鋼を丸七日七晩かけて鍛え上げた退魔士の使用にも耐えうる一級の刀、それより生じて吹き荒れる紅蓮の炎は突き刺した怪物をその内から焼き尽くす………。

 

『ガッ………アッ…………』

 

 化物は断末魔の声すらあげる事が出来なかった。刀から放出された『浄火』はそのまま化物の喉と肺にも広がって発声器官を炭化させたからだった。そのまま怪物は絶命し、その身体は妖気を燃焼剤として薄暗い洞窟を怪しく照らすように尚も燃え続ける………。

 

「さて、これで仕舞いにしてしまいてぇのが本音だが…………」

「刀弥、助かりました。有り難う御座います」

 

 キョロキョロと雑魚妖怪共が隠れていないか周囲を見渡していると駆け寄って来た綾香が礼を述べる。その態度に刀弥は、面倒そうに舌打ちする。

 

「礼言う前に言うべき事があるだろうが。お前、何でここにいるんだよ?先鋒は下人共だけの筈だが?」

「そ、それは………えっと…………」

 

 刀弥の指摘におろおろと狼狽える銀髪の少女。その気になれば百の妖をたった一本の矢で消し飛ばすだけの力を持つ退魔士も、しかし今は年相応の少女であった。 

 

「ちっ、別に上にはチクらねぇから安心しな。大体理由も予想がつくしな。おい、お前。損害は?」

 

 舌打ちして幼馴染にそう言い捨てると、刀弥は近場にいた下人の一人に下人衆の被害について尋ねる。

 

「はっ、まだ完全に把握は出来ておりませんが………現状死亡が三名、負傷が十名は確実かと」

 

 その報告に綾香が気まずそうな表情を浮かべる。一方で刀弥の方は少しだけ驚く仕草を見せた。

 

「あれだけ追い詰められていたにしては案外被害が少ないな。意外と上手くやったじゃねぇか、えぇ?」

 

 刀弥からすれば正直死者だけでも二桁になっていると考えていたのだから当然であった。実際、凶妖を含めて三桁近い妖に襲撃されていたのだからさもありなんである。同じように巣穴を進んでいる他の家の下人衆は凶妖と遭遇していなくても彼ら以上の犠牲を出している所だってあるのだ。それに比べれば彼の言葉は妥当であった。

 

「さて、じゃあ一旦後退して後ろの奴らと合流するべきなんだろうが………問題はあれだな」

「あれ?」

「おう、あれだ」

 

 首を傾げる綾香に対して刀弥は親指でくいくいとそれを指差した。視線を移した綾香は今更のように広い室内の一角にその陥没した大穴がある事に気付く。

 

「あれは……?」

「知らねぇのかよ?俺が此方に来た時にはもうあったんだぞ?結構深い所まで続いているみたいだが……おい、あれについて何か知っている奴はいねぇのか?」

 

 その場に残る下人共に向けて刀弥が問えば一人が前に出て答えた。

 

「はい。その穴は戦闘の途中に突如として出来たものと記憶しております。河童共と戦っていた際、突如突風が吹きまして。次の瞬間には周りにいた化物共は皆消え去り、同時に爆音と共にそこの地面が陥没したのです」

「なんじゃそりゃ?」

 

 下人の発言に怪訝な表情を見せる刀弥。それも当然であろう。そのような所業が出来る者なぞこの場には精々綾香くらいしかいなかった筈だ。そして彼女にそんな余裕なぞある筈もない。

 

「何にせよ、深い所まで貫通しているようです。もしやこの穴から巣穴の最奥まで行けるのでは?」

「そりゃそうかも知れねぇが………」

 

 下人班長の一人の提案に赤毛の退魔士は渋い表情を見せた。誰が何のために作ったか分からぬ大穴に近付く事に警戒があるらしかった。

 

「あっ、そう言えば白ちゃんはっ!!?」

 

 そして漸く落ち着きを取り戻した綾香は彼女の存在を思い出して再び慌てふためいた。その場の下人達に同行の協力を仰いだ半妖の少女の行方を問うが、しかしその安否はようとして知れない。

 

「もしかしてあの穴の中に………!?」

「お、おい!?勝手に………!!?」

 

 表情を青ざめさせた綾香は必死の形相で大穴に向けて走る。刀弥がそんな彼女を追うように後に続いた。

 

「白ちゃん!!白ちゃん!?そこにいるの?もしいるなら答えて頂戴!!白ちゃ………」

 

 大穴目掛けて叫ぶ綾香。しかし、直ぐにその叫び声は止まる。………大穴の奥から凄まじい速度で大蜘蛛が飛び出して………天井に衝突して潰れたからだ。

 

「ふぁい?」

 

 どすん、と全長にして二丈はあろう蜘蛛の大妖はそのまま天井にめり込んで、重力の法則に従って綾香の直ぐ傍らに落ちて息絶える。粉塵が広がる。綾香はその間何が起きたのか分からずにあんぐりと口を開いていた。

 

「綾香!?大丈夫か!!?」

「えっ、あっ……はい。どうにか………」

 

 慌てて駆け付ける刀弥に対して綾香は顔をひきつらせながらもどうにか答えた。其ほどまでに衝撃的な出来事であったから。

 

 これが生きている妖であれば彼女も気配や殺気で分かろうが、よもや潰れた死骸が飛び出して来たとなると反応出来なかったらしい。

 

「こりゃあ、降りた方がよ、い……!?」

 

 大穴を覗きながらそこまで口にして刀弥は咄嗟に刀を構えて『浄火』の炎を展開する。同時に直ぐ側にいた綾香も弓を構え、何なら後ろから追って来ていた数名の下人共も武器を構える。其ほどまでに濃厚な殺気であったのだ。

 

 直後何十という蜘蛛のバラバラ死骸が大穴より噴き出した。まるで噴火したような光景、慌てて下人達は落ちて来る蜘蛛の死骸を避ける。

 

 しかし退魔士二人は動かない。同時に現れたその白い影と相対したが故に。同時に放たれる火と弓。だがそれはたった一振りの突風に消し去られる。

 

「何だ!?」

 

 刀弥が叫んだ。凄まじい情念のようなものを彼は感じていた。放たれる殺気は自分達に向けてのものではないと直感で悟っていたがそれでも尚彼らの足を震わせる。そしてその元凶は十重二十重の幻術によってその姿がぼんやりとしか認識出来なかった。

 

「えっ!?」

 

 次の瞬間、綾香の方に何かが放り捨てられた。弓を扱う事もあって目の良い彼女はそれが何なのかを理解して、そして彼女の生来の気の良さから慌てて武器を捨ててそれを受け止める。

 

「お、おい!?何を……子供!?」

 

 武器を捨てて投げ出されたそれを受け止める幼馴染を非難する刀弥。退魔士としては余りに迂闊過ぎる行動、だが綾香の腕の中の存在を認識するとその非難の代わりに疑念が彼の思考を支配した。

 

 少女であった。気を失っている幼い少女が綾香の腕の中にいた。同時に浮かび上がる困惑。刀弥は改めて大穴から出てきたそれを睨み付ける。

 

「……………」

 

 しかし幻術によって靄がかかったかのように認識困難なそれは此方を一瞥すると、直ぐに関心を失ったかのように大穴の中へと舞い戻る。いや、それはどちらかと言えば急いで馳せ参じようとしているようにも思われた。

 

 そして刀弥も綾香も、余りにも突然なそれに対して暫し呆然として互いを見合う事しか出来なかった………。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 それは良くある昔話である。人が非力で命の安い時代に溢れた悲劇だ。きっとずっと悲惨な話だって悲しい話だって、おぞましい話だって幾らでもあるだろう。

 

 それでも……それでも彼女にとってそれは半世紀以上生きた今ですら夢に魘される悪夢であった。

 

 そこに至るまでは、彼女にとって全てが上手くいっているように見えていた。あの残酷で冷酷な兄姉達の仕掛けた罠は、しかし無駄に終わった。知らず知らずの内に何の備えもなく化物の巣穴に差し向けられた彼女は、しかし怪我を負う事もなく、その身体を汚される事もなく、文字通り無事であった。

 

 それもこれも全ては彼女が淡い恋心を抱くその人のお陰だった。建前は主従だが、まるで父のようで、本物の兄よりもずっと兄らしくて、気心の知れる男友達のようで、何よりも安心して頼る事の出来る恋人のようで………口は悪いし直ぐに屋敷の女中やら村の娘に目移りして口説きにかかるし、人をからかう。何よりも自分を子供扱いする所が気に入らなかったが、それでも彼女は彼を信頼していた。誰よりも信頼していた。

 

 そして彼もそんな彼女の信頼に十分に、十分以上に応えてくれた。彼女が諦めてしまいそうになる時も本当は余裕なんてない癖に強がって、痩せ我慢して、しかしそんな彼のお陰で全てが上手くいっていたのだ。

 

 そう、それこそ恐ろしい巨大な蜘蛛妖怪の襲撃からすらも彼は彼女を守って見せた。何度も紙一重で危険を潜り抜けて、最後は別の妖と鉢合わせさせて食らい合わせる事で彼は絶望的な状況から出し抜いて見せた。

 

 彼女にとって彼は正に希望だった。絶対の信用を向ける相手だった。誰よりも信頼出来る青年だった。そして彼女は純粋に思っていたのだ。これまでのように、これからも彼女は彼と一緒なのだと。純粋に、疑う事なく、確信して、信じていた。

 

 ………だからこそ、彼女は目の前の状況を疑う。

 

「これは………流石に厳しいかねぇ?」

 

 ははは、と笑う彼女の最愛の人はしかし、その口調とは裏腹に口元をひきつらせて、苦悶に顔を歪めて、珠のような汗を額に浮かべて横腹を押さえる。苦しげに、押さえる。下人衆の標準装備である僧兵を思わせる黒衣にはシミが広がる。黒色の生地でありながらもはっきりと分かる位にシミが広がる。横腹を伝ってだらだらと流れるそれが何であるのかは足下に出来る深紅の水溜まりからして明確であった。

 

「どう……して………?」

 

 少女は震える声で最愛の人に問う。心からの困惑と疑問から問う。だってそうじゃないか?凶妖相手に足手纏いを連れたままでも逃げ出せるような彼が………。

 

「どうして……?どうして、こんな………何で……あんな、あんな霊力も感じられないようなの相手に!?」

 

 霊力の欠片も感じられない処か、碌に戦いの経験もなく、ましてや手にするのは何の変哲もない包丁で、そんな子供に、小娘相手に、幾らあの忌々しい兄姉達が操っていると言ったって………!!?

 

「………妹、だからな」

「えっ?」

 

 彼の呟いた言葉に、彼女は何を言ったのか分からず一瞬思考停止していた。妹?誰の?一体何の話?

 

「油断したのもある。動揺したのもある。にしても卑怯だわな。薬か何かって所か?意識混濁している所で霊糸で傀儡人形宜しく操ってるみたいだな。……まぁ、あいつの意識がないだけマシなのかね?」

 

 彼は刺客がどのような手品で操作されているのかをほぼほぼ完全に突き止めていた。少女は彼の頭の良さに感嘆し、次いで思い出したように彼にねだる。

 

「ね、ねぇ……早く逃げましょう?その怪我、早く治さなきゃ………血に誘われて妖も来ちゃうわよ!?」

 

 そうだ、まだ全てを脱した訳ではないのだ。刺客は所詮は糸で操られているだけの唯の人間の子供だ。しかし、蜘蛛の化物が別の化物と殺し合いをしているとは言え有象無象の小妖中妖は別だ。寧ろ上が争っている内に自分達の獲物にしようと探しているであろう。一刻も早くこの場から逃げ出さなければ。

 

「あぁ、そうだな。化物共が来やがった。はは、随分と早いお越しなこったな………」

 

 木陰から刺客を覗きながら彼は冷笑したように囁いた。視線を向ければ小さな刺客の背後から無数の赤い眼光が近づいて来る。彼女らに対してではない。刺客に向けてだ。

 

 明らかに化物共は刺客に狙いを定めて涎を垂れ流していた。そして刺客はそれに対してあからさまな程に無防備に見えて………。

 

「はっ、やってくれる。人質って訳かよ………」

「えっ?」

 

 彼は苦々しげに奴らの狙いを言い当てる。しかし、彼の主人である彼女には彼の言わんとする事が分からなかった。傀儡であり、刺客である無力な少女が、しかして彼にとっては何よりにも重大なアキレス腱である事など………。

 

「………お兄ちゃん?」

 

 彼が刺客を見つめる瞳に不穏を感じて、思わず彼女はそう呟いていた。媚びるように、縋るように、呟いていた。その周囲の視線や立場を考えて、二人きりの時以外は禁止されていたその呼び方はしかし、彼女が背伸びして、そして彼女の彼に対する思いが唯の兄代わりとしてのそれから一歩先に進んでからは滅多に言う事はなくなっていた。

 

 ………では、何故それを敢えて今使ったのは何故か?実の所、彼女にもその理由が分からなかった。ただ、そう言わないといけないと思ってしまっていた。女の勘だ。女としての勘がそれを彼女に言わせた。

 

 だが、それはある意味で失敗であったと後に彼女は思った。きっと次の瞬間に彼が彼女に向けたあの苦しげな視線は苦悩だったのだろう。身内と大切な主君を天秤に掛けていた彼の選択を、彼女は無意識の内に一つ奪ってしまったのだ。

 

 きっと、何も言わなければ彼は彼女を切り捨てただろう。彼女が愛を囁いてねだればその場で共にあの世までの連れ添いをしてくれただろう。しかし、彼女が口にしたのは正しく妹が兄に助けを求める物言いで……だからこそ彼はその苦渋の選択を選びとり、その選択は彼女にとって自らの命を失う事よりも遥かに最悪のものであったのだ。

 

「…………」

 

 刹那、彼は無言で、しかし何気無く彼女に寄り添った。困惑しつつもそれを彼女は受け入れて……次の瞬間に彼女は胸に鈍痛を感じて膝を折っていた。

 

「えっ……?あっ…………」

 

 それは一種の武術であった。相手の器官に瞬間的に圧力をかけて気絶させる業。殺すためではなくて、相手を傷つけずに捕らえるための、技術。

 

 咳き込みながら、少女は倒れる。呼吸が難しくなって酸素を取り込めなくなった結果として視界は揺れて、意識は掠れ始める。音は反響して最早訳が分からない。そんな中で、そんな中でも、彼女は聴いた。聴いてしまった。その殆んど独白に近い呟きを。懺悔の声を。

 

「……済まねぇな。恨んでくれ」

 

 無念を噛み締めるように彼は囁く。それは震えるような、覚悟を決めるような、恐怖に耐えるような声であった。彼女にとっては初めて聴く彼の儚げな声でもあった。その事が一層彼女に衝撃を与える。

 

 そして彼はそのまま意識を遠退かせていく自身を木の根元に優しく、労るように凭れさせてから背を向けた。刺客のもとへと、その背後の妖共のもとへと歩み始める。

 

 それはまるで未練を捨てるように振り返る事もなく、武器を捨てて、まるで人身御供のようで………。

 

「いや……待って……いやぁ………」

 

 遠退いて、闇に消えていく意識の中で彼女はそれでも小さな声で呟いた。恨んでの事ではない、憎んでの事ではない。ただただ離れがたいがために手を伸ばしていた。

 

 そう、彼女は分かってしまったのだ。彼が何を選択したのかを。

 

 ぶっきらぼうで、口が悪くて、けど本当は優しくて面倒見の良い彼にとってもその選択を選ぶのは苦悩した筈だ。それを彼女の呼び掛けが彼の背中を押した。押してしまった。だから彼は選んだのだ。主人と、今一人の肉親の双方の「命」を助けるためにその選択を。主人に待ち受けるだろうこれからの運命を謝罪して。

 

 しかし彼女にとってはそれこそが悲しかった。そもそも全ては自分のせいなのだ。だから謝らないで欲しかった。だからそんな悲しそうな声で悔いないで欲しかった。こんな別れは嫌だった。

 

 こんな事しなくても、ただ彼が一言言ってくれれば、彼女は何だってしたというのに。彼のためならばどんな苦しみだって、どんな残酷な運命だって喜んで受け入れた。彼女はそれくらい彼の事を慕っていた。愛していた。彼さえ生きていてくれたらそれだけで十分だった。それなのに……それなのに、こんなのはあんまりだ。あんまりじゃないか!こんな、誰も幸せになれない結末なんて………!?

 

「いやだぁ………」

 

 薄らぐ意識の中で少女は必死に手を伸ばした。追い縋るように、手を伸ばした。しかし、何時もならば仕方なさそうに振り向いて手を握ってくれる彼が此方を向く事はない。二度と、ない。

 

「いや……いやだよぅ、おいて……おいていかないでぇ…………」

 

 刺客に向けて、群がる化物共のもとに向かい遠退いていく彼の背中、消え行き、暗転していく視界……それが彼女が見た最愛の人の最期の姿で………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「い゙っ゙!??ああぁっ゙……!!??」

 

 意識が覚醒したと同時に胡蝶を襲ったのは猛烈な足の激痛であった。両足に感じる焼けるような激しい痛みの波に思わず涙を流して呻く。そして一瞬遅れて彼女はそれに気付いた。

 

「ひゃっ!?な、何よこれ……!!?」

 

 ぬるぬると全身に這いずる蚯蚓のような赤い触手、粘液を纏った無数に伸びるそれが彼女の身体を捕らえ、拘束し、弄ぶ。身体の関節に絡まりついていた。

 

 しかも一部は衣服の内にまで入り込んでいるようで身体中を舐めるように白い肌の上を這いずっていて、その感触に胡蝶はぞわりと鳥肌を立たせて身震いする。そして思考が混乱する中で、今更のように彼女は意識を失う直前の記憶を思い出す。

 

「っ……!?まさか、私が!!?くっ、足が……!!?」

 

 情けなくも自身が妖に捕らえられた事を理解して、そして足の痛みの原因も理解する。恐らくは捕らえられる時に逃げられぬよう両の足を折られたのだろう。

 

「式神は……っ、手も動かせないの?」

 

 この状況から脱するために式神を使役しようにも予めそれを想定していたように腕は無数の触手に捕らえられて動かせない。どうしようもない。

 

「ど、どうすれば………!?」

 

 このままではやがて化物共の餌になるか慰みものになるか、何にせよ碌な事はない。故に胡蝶は必死にこの場を脱する手段を考える。そしてふと、今更のように彼女は気付くのだ。目の前の惨状に。

 

「えっ………?」

 

 一瞬の硬直、そして状況を理解して胡蝶はわなわなと表情を歪ませる。目を見開いて、現実から目を逸らしたくなる。逸らしたくなるのに視線はそれに固定される。

 

 同時に洞窟内に響き渡る悲鳴。金切り声。阿鼻叫喚の絶叫。

 

 彼女がその視線の先に見いだしていたのは、無惨な程に全身の半分を炭化させ、焼爛れさせて倒れる最愛にして初恋の人の写し身の姿であった………。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 油断してなかった、と言えば嘘になる。俺だってこれまで格上と戦って来た経験は幾らでもある。後々考えても、いやその時からして死を覚悟した経験なぞ両の手の指でも足りないだけの数がある。

 

 正直な話、大妖とは言え鈍足な土竜が相手であれば逃げ切るだけならば難しくはなかったのだ。少なくとも白狐や堕ちた地母神を相手にするのに比べれば遥かにマシな筈であった。

 

 問題があるとすれば今回の場合、ただ逃げれば良いという話ではなくて人質がいた点が挙げられよう。ましてやそれが巣穴の自爆に不可欠な起爆装置にされかねないとすればこれを放置するなぞ論外だ。人道とか目の前の人間を見捨てるのかという以前に霊欠起爆が発動した場合、その爆風から俺では逃げ切れない。

 

 即ち、この状況であからさまに人質とされている若作りのババアを救助するのは俺の生存の上でも大前提ではあるのだが………。 

 

「中々……狡猾、だな………!!」

 

 脳内での現実逃避も兼ねた思考を中断して、俺は電撃で焼け爛れた左腕を押さえながら吐き捨てた。そして負傷の具合を見る。見てから、顔を歪ませる。

 

 電撃の直撃を受けた左腕は表面が炭化で黒ずみ、じゅうじゅうと焼き肉のような音を流しながら煙を放っていた。人肉の焼ける嫌な臭いが鼻につく。

 

流石は『鵺』の育成した改造妖なだけあって、その行動は卑劣だった。狡猾だった。悪辣だった。

 

 電撃自体を避けるのは困難ではあったが不可能ではなかった。普通に放たれてから避けるのは不可能としても予備動作と兆候はあるので、その一瞬の時間を利用して回避行動を取れば意外とどうにかはなるのだ。相手が視覚が弱く動きも愚鈍な所も幸いした。

 

 それ自体が罠だった。付け入る隙があると思わせる事自体が相手の狙いだったのだ。

 

 雷撃を避けて死角から懐に入り込み、そのまま一気に土竜の顔面に跳躍する。此方が消えたと思って慌てる土竜は、しかしそれは単なる演技だった。

 

 突然に見開かれた瞳は死角を埋めるように首元にあった。まるで手術して無理矢理接合されたようなそれは次の瞬間には俺を視認していて、そして顔面から生えた何百という触手は一斉に伸長して誘導ミサイルのような軌道で俺に襲いかかる。

 

 蜘蛛糸を咄嗟に振るって十数本を切断しても焼石に水であった。形勢不利を悟って一時撤退しようとしたが一歩遅かった。逃げ出そうとした俺の左腕に何本もの触手が絡み付き、繰り出されたのは電流だった。

 

 激痛の数秒後には電撃を流した触手は蜘蛛糸で全て切り落とされた。だが………たった数秒でこれ、か……!!

 

「電撃流す触手なんざ………ヒートロッドじゃあるまいに!!」

 

 苦笑いしつつ、ふと脳裏によぎった下らない冗談を口にするが、当然それは強がり以外の何物でもなかった。

 

 実の所、今この瞬間に自分が生きている事が既に驚きであった。其ほどまでにあの電撃攻撃は激烈なものであったのだ。というか片腕が炭化している時点で普通はお仕舞いだ。御臨終だ。電気椅子より遥かに高電圧であったに違いない。にもかかわらず今この瞬間、俺は激痛を感じつつも一応生きている。生きて、しまえている。

 

(はてさて、あのまま感電死せずに済んだのは運が良かったのか、それとも…………)

 

 肌の下から感じる嫌な疼きに俺は目付きを険しくする。助かった事自体は感謝するべきなのかも知れないが……代わりに自分が人間から逸脱しつつある事を自覚させられるのは中々来るものがあるな。

 

「おやおや、あれで死ななかったのは意外だね。一応並みの退魔士程度ならば即死させられる程度の威力に設定はしていたのだけれど………流石は地母神の血を取り込んだだけあるね。中々生命力はあるようだ」

 

 失われた両腕の断面から謎の黒い液体をだらだらと垂れ流しつつ、しかしその事を全く気にする素振りもないままに翡翠の柱の前で口述で呪いを唱えていた影が今更に俺の惨状に気付いたように嘯いた。心底愉快そうに、興味深そうなその物言いは研究者のそれであった。

 

 実際、このまま俺がくたばったら奴の事だ。嬉々として死体を解剖して、弄びかねない。初代陰陽寮頭であった彼はまた、朝廷のマッド集団である理究衆の設立にも寄与している。彼の思考と思想は陰陽寮よりも寧ろ理究衆にこそ引き継がれているように思われた。

 

「ちっ。良くもまぁ、人で楽しんでくれるものだな……!!」

 

 俺は忌々しげに元人間の化物にそう吐き捨てる。幸い緻密な術式を再構築する必要があるが故に『鵺』は未だに動く事は叶わぬようであった。尤も、心強い味方の神鷹は蜘蛛との大怪獣バトルに意識を割かれ、此方の面倒を見る余裕はないように見える。寧ろ彼方の戦闘を意識しないと衝撃波なり礫なりの流れ弾で俺が死にかねない。

 

(いや、寧ろこれでもかなりマシなのかも知れねぇが………)

 

 ゴリラ様から式神を借りられなければ文字通り詰んでいたであろう。………こんなどうしようもない状況でも最悪ではないとか笑えてくるな。

 

『ブオオオォォォッ!!!』

「っ!?来やがった……!!?」

 

 此方が動かぬ事に痺れを切らしたのか土竜が動き出す。数十本の触手を伸ばすとそれは正面は無論上方に下方、左右から幾何学的な動きで一気に此方に迫り来る。多方向からの同時攻撃であった。やはりこいつ、改造されてるだけあって意外と知能が高い………!!

 

「抜け道は……!?くっ!!」

 

 迫り来る触手が比較的少ない方向を見出だすと、俺はそちらに向けて必死に走り始める。眼前から突っ込んで来る触手を俺は紙一重で避ければそのままホーミングして後方から来るそれと一緒に背後に襲いかかるのを、俺は蜘蛛糸を振るって纏めて凪ぎ払う。鞭というものは振るう際の隙が大きい。故に使うならば可能な限り効率的に振るう必要があった。

 

『ブオオオォォォッ!!』

「くっ!!」

 

 次々と襲いかかる触手を回避し、あるいは切り裂きながら土竜に突貫していく俺に振るわれたのは巨大な爪の一撃だった。鈍重ではあるが重くて強力なその一振りは俺の身体こそ切り裂く事はなかったが代わりに俺の正面の地面をがっつりと抉り取る。

 

「土ならば兎も角っ……!!岩だぞ!!?」

 

 爪で豪快に抉られ細かく砕かれた岩がそのまま飛散する。しかも俺の眼前に、だ。抉り飛ばされた礫の重さの総量は軽く数百貫分はあっただろう。パワーショベルかな?速度もあって一粒でも当たれば周囲の肉をがっつりと持って行かれそうだった。

 

『坊や、右ですよ?』

「っ………!?」

 

 まるで耳元の直ぐ傍で囁かれたかのような女の声に、その正体を考える前に俺の身体は動いていた。身体を低くしてスライディングするようにして右側に飛び込む。

 

「痛っ……!?」

 

 飛び込んで来た握り拳大の岩が頬を掠めてそのまま装着していた鬼面を持っていった。幸いだった。面がなければそのまま頬肉を丸々持っていかれていた。

 

 しかしながら、咄嗟に身体を右側に飛び込ませたのは判断としては正解だった。吹き飛ばされた礫と粉塵が俺の姿を土竜から隠したからである。この機会を逃さず、俺はそのまま疾走する。

 

「それと、こいつはオマケだっ!!」

『ブオォ!!?』

 

 同時に疾走と共に蹴りあげた礫が土竜の左目に命中した。粉塵のお陰で直前まで気付けなかったらしく、完全に奇襲となった。粉塵の中から矢のように飛び込んで来た鋭い礫に呻いて左目を抑える土竜。よし、隙が出来た……!!

 

「よし、このま…まっ!?」

 

 土竜に肉薄しようとした次の瞬間、足下の岩を何かが貫いて飛び出した。一瞬後にそれは数本の触手である事を俺は理解する。飛び出してきた赤い肉紐は踊るようにしてそのまま俺の足首を絡めとる。

 

「おいおい、嘘だろお前!!?」

 

 その触手地面からも伸ばせるの!?しかも岩掘削してか!!?

 

 それはある種の盲点だった。思い込みだった。ここまでそのような素振りを一切見せてなかったので想定すらしてなかった。思えばこれも罠だったのだろう。此方が触手は地面から出せないと思いこむように誘導して、尤も効果的な場面でそれを使ったのだ。『鵺』の製造した改造妖らしい悪どさであった。

 

『ブオオオォォォッ!!!!』

 

 左目を抑えた土竜が怒りの咆哮と共に俺を睨み付ける。不味い……!!?

 

「えべっ、逃げっ……ぐあっ!!?」

 

 咄嗟に足下の触手を切り捨てようと蜘蛛の糸を振るおうとするが無駄だった。彼方此方から現れて俺の手足を、首を、関節部を捕らえ絡み付く触手。パチパチパチと弾けるような音が周囲から鳴り響く。静電気の音であった。そしてそれは前座でしかなくて………。

 

「がっ………!!?」

 

 抜け出そうと必死に暴れる俺に、しかし直後に数本の触手が槍のように突き刺さった。よりによって内臓を狙ってである。吐血する。しかしそれすらも本命ではなかった。

 

 一瞬後に触手から放出される高圧電流は、俺を文字通り内と外両方から焼いた。全身を走る凄まじい激痛と衝撃に、俺は抵抗も出来ずに即座にその意識を失った…………。

 

   

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

「いやっ!!?嘘、嘘でしょう!!?こんな事、こんな……どうして!!?いやあぁぁぁぁぁ!!!??」

 

 そして時は戻る。囚われた鬼月家の御意見番は目の前の惨状に半狂乱になっていた。あの人が、あの人の生き写しのようなあの子が目の前で全身焼け焦げ、焼け爛れた状態で打ち捨てられているのだから当然であった。

 

 いや、それどころか………そんな殆んど炭化した彼を千年土竜は触手で捕らえるや地面や壁に何度も叩きつける。まるで子供が癇癪を起こして人形を弄ぶような容赦なく、無造作で粗雑で乱暴な所業……。

 

「いやはや、意外と呆気ないものだったね。狐と地母神から生き残った上にあの碧鬼に気に入られているとの話だからもう少し歯応えがあると思ったのだが………正直落胆ものだよ」

 

 そして涙を流しながらもがく胡蝶は漸くその存在に気付く。触手に捕らえられて首だけを動かしたその先にいたのは両の腕のなき襤褸を着こんだ影である。

 

「お前、は………」

「お初にお目にかかるね、鬼月の御意見番殿。私はその土竜の飼い主でしてね、そこで程好く焼けている御宅の下人に遊び相手をしてもらっていた次第ですっ……て、おっと危ない」

 

 刹那、なけなしの霊力を使って右腕を強化した胡蝶は触手を切り裂いてそのまま影に手刀を振り下ろす。霊力強化されているだけあって凄まじい速度で放たれるそれは、しかしながら影はひょいっと呆気なく避けて見せた結果空しく虚空を通り過ぎるだけであった。そして………。

 

「あっ!?うっ゙、ぐっ………!!?」

 

 直後に全身を駆け抜ける突き刺されるような痛みに胡蝶は悲鳴をあげる。触手から放電された電流は威力こそ低いものの正確に彼女の神経を、痛覚を狙い打ちしたものだった。

 

「いやはや、いきなり頭を切り落としにかかるとは怖いものだ。挨拶くらいはしてくれても良いと思うのだがね?」

「き、貴様………よくも………!!!」

 

 あの子を害した張本人に向けて憎悪に満ちた眼光を向ける胡蝶であるがそれだけであった。只でさえ霊力が目減りして、しかも触手からの電撃で神経が麻痺した彼女に出来うる事は皆無で、故にそれはただだだ虚しく、細やかな威嚇でしかなかった。例えるならば自身を捕らえた猫に向けて鼠が必死に歯を見せて鳴くような哀れな抵抗……。

 

 そして影もまたその事を良く理解していた。胡蝶の態度に冷笑して、一瞬背後で未だ続く怪獣大戦争を一瞥すると肩を竦める。そして宣った。

 

「さて、時間も押している事であるし、此方の仕事を片付けようか」

 

 影の言葉に応じるように千年土竜の触手が胡蝶を掴むと翡翠の柱に向けて伸びながら運んでいく。そして影の襤褸の中から大きなゴキブリのような虫妖怪が数体飛び出すと彼女の身体を登っていった。

 

「ひっ……!?」

「それは手術用に改良した品種でね。意外と舌が器用で重宝しているんだよ」

 

 そう言うや早く、胡蝶の首元に辿り着いた彼らはその顎を裂けるようにして大きく開いた。口内から現れるは刃物や鋏状の舌である。それは明らかに摂食を目的とした構造ではなかった。

 

 『鵺』の品種改良の末に産み出した手術用妖虫………それらの口からだらり、と粘液が垂れ流れて老退魔士の項の白い肌に滴る。妙にひんやりとしたその唾液は痛覚を麻痺させる局所麻酔でもあり、手術の際に対象がショック死するのを避けるためのものであった。

 

「ひっ!?い、いや………」

 

 怯えながら胡蝶は呟いた。これから何が起こるのかを理解しての事であった。それは人としての根源的な死への拒否感であった。

 

 否、それだけではなかった。その絶望は自身の無力さもまた一因であった。人生の辛酸は飲んで来た筈だった。多くの理不尽も屈辱も、苦痛も経験してきた積もりで、それすらも糧にしてきた筈であった。

 

 そしてだからこそ今回は、あの人の生き写したるあの子は守りたかったし、それを成し遂げて見せるだけの自信もあった。もう、あの日の無力で何も守れず、何も出来なかった世間知らずの馬鹿な小娘ではないのだから。今度こそは守りたいものを守って見せる積もりだったのだ。

 

 それがどうだ?これでは孫娘共の事を何も言えないではないか。まるであの日の焼き直しだ。繰り返しだ。いや、それよりも尚酷い。あの子を守ってあげる事も出来ず、ましてや足手纏いの人質で、何も出来ぬ内に全てを奪われようとしているのだから。

 

 故に胡蝶は絶望する。自身のこれまでの全てが無価値で、無意味で無駄であったと突きつけられるような現実に、そして迫り来る自らの破滅に。全てを奪われる未来に。

 

「嘘、いやよ。そんなの……こんな事…………」

「ふむ。内蔵型の自爆術式はないな………宜しい。やりたまえ」

 

 恐怖と絶望と無力感に打ち震える彼女に、しかし影は何の感慨もなく指示を出す。彼にあった懸念はただ大乱時代に退魔士らに多用された自決兼道連れ用の自爆呪術の有無であった。蓮華の退魔士らもそうであったがやはり今では朝廷より禁術指定されて失伝しているらしい。自分達が捕らえられた時の対策をしないとは時代も甘くなったものである。

 

 そして、命令を受けた虫共の鋭い舌先が彼女の項に迫る。先ずは表面を撫でる。そして背骨と脊髄の位置を把握するとそこに針状の舌を突き刺そうとして………刹那、洞窟内に咆哮が轟いた。

 

「うん………?」

 

 それは蜘蛛のものでも、鷹のものでもない。ましてや土竜でもなかった。強いて言えばそれに一番近いのは馬であったか?

 

 一瞬、その異形な咆哮にその場にいた全ての存在がその声の方向に向けて視線を向けていた。直後、何かが振るわれて空を切り裂くような鋭い音が洞窟に反響する。突風が吹き荒れる。そして………。

 

「これは驚いたな………」

 

 ずるり、と切断された上半身が地面へと落ちる刹那、『鵺』は呟いた。驚嘆と感嘆の呟きだった。

 

 同時に主君を失った千年土竜は直ちにその頭部から百を越えよう触手を一斉に引き延ばし、その元凶に向けて差し向ける。高速で刺突せんとする触手はその一つ一つが人間を即死させる程の高圧電流を帯びていて、そうでなくても鉄板や鎧すらも貫通するだけの威力があった。あったのだが………その全てがたった一度だけ振るわれた下人の腕によって消し飛ばされていた。

 

『ブオッ!!?』

 

 触れてさえいない。衝撃波による空気の刃、それによって岩どころか鉄板も易々と貫通するだけの硬度を誇る触手が全て消し飛んでいた。その事実を理解して、驚愕に唸った土竜は、しかし直ぐに次の手を繰り出す。

 

 土竜は空気を反発させて電撃を放出した。閃光と共に一条の筋となった電撃が放たれた。それは目標に向けて瞬時の内に、寸分違わずに命中する。同時に生じる爆風と粉塵。同じ大妖すらもこれを食らえば大半は助かるまい。土竜は口元を吊り上げる、勝利の確信を持って。

 

 直後、突風と共にそれは粉塵の中を突き抜けた。そして土竜は自身の頬を殴り付けられる感触を感じ取り………そして吹き飛んだ。回転しながら、地中に埋まっていた下半身まで引き抜かれるようにして壁の一角に叩きつけられる。

 

『ブオ゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ッ゙!!!!???』

 

 顔面の三分の一を砕かれた土竜は何が起きたのか分からぬままただただ自身の顔を焼けるような激痛に悲鳴を上げる。同時に比較的知能の高いこの妖は激痛の中でも辛うじてその異変に気付いた。鼻先の触手で絡め取り捕らえていた女が何処にもいない事に。

 

 そして背後に縫い込まれていた隠し目がそれを捉える。

 

 それは黒かった。黒い足は筋肉質で頑健で、肥大化していた。細い尻尾のようなものが伸びていてそれが鞭のように揺れる。長い黒髪はまるで鬣のように背中まで生え揃っていた。頭には鹿のような二本の角があり、その口から獣のような唸り声を上げる。息を吐くごとに明確に分かる白い息を吐き出していた。

 

 異形としか言い様がなかった。奇形としか表現のしようがなかった。人と、化物を中途半端に混ぜ合わせたような、人が怪物になる途上の過程で無理矢理にその変化を止めたような歪感、あるいは違和感と言うべきものを見るものに与えていた。霊気と妖気と微かな神気が絡み合い、滲むように溢れ出す。

 

「えっ?な、何が………?」

 

 そして、その異形の両の腕の中にそれはいた。お姫様抱っこが近いのだろうか、瞬時に触手を引き裂いて掻っ払ったように乱雑に漆黒の鱗に覆われた腕に抱かれたその女もまた、自身が今どのような状況なのかを把握しきれていないようであった。そして当の異形はそんな周囲を待ってはくれない。

 

 ぐちゃり、と異形の腕の中で何かが潰れる音がする。その音の元に視線を向ければ胡蝶の身体に纏わりついていた虫共は異形の掌の上で握り潰されていた。鉄のような甲殻ごと砕かれて潰されて、痙攣しながら緑の体液を垂れ流す虫の怪異共はそのまま纏めて塵を放り捨てるようにして地面に叩きつけられる。

 

「貴方、もしかして………?」

 

 腕の中でその顔を見上げる胡蝶が、自身を救い出したその異形に向けて何かを問い掛けようとするが、しかし異形はそれを無視して彼女を地面へと下ろす。その所作は先程虫を叩き捨てたのとは違い怪我をしないように配慮されているようにも見えた。

 

「あっ………」

 

 胡蝶は咄嗟に震える手を伸ばすがそれは届かなかった。彼女の手を逃れた異形は踵を返し、そして化物の方へと向き直った。

 

『グオオォォォォォォォォッ!!!!』

 

 次の瞬間、化物の出来損ないのように変貌した下人は、遠吠えするように天を見上げ、獣そのものの咆哮を上げていたのだった………。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。