なんとしてでも、推しは推しとして推したい! けどパンツは見たい! 作:黒マメファナ
梅雨晴れの朝。それは蒼を強調する夏の空だった。カーテンの隙間からそんな空と元気に照り付ける太陽をみながら、俺は少しだけひんやりしすぎたクーラーの温度を下げた。ふと隣を見ると、夢じゃなければ昨晩一緒に寝たはずの彼女がいなくなっていて、帰ったのかな? とリビングに出た。
「おはよお。キッチン使わせてもらってるね?」
「あー、うん、おはよ」
そこにはエプロン姿の花音がいた。幼馴染として何度もこんな場面に直面しているせいか麻痺してたけど、改めてそういう目で見ると花音がこうしてキッチンに立ってるのは一種の贅沢な気がしてならない。
「いただきます」
「いただきます……」
サラダを頬張り、エッグトーストを齧る。ポタージュスープまであって……ってこれはさすがに昨日の残りものだけど、朝ご飯を適当に済ませるもしくは食べない俺としてはこれ以上ない贅沢のような感じがあった。
そんな優雅な朝ご飯を笑顔で食べる花音、それは俺から全てを奪って壊そうとしたあの時とはまるで違った顔で、ちょっと身構えてしまうけど。
『ごめんね、千紘くん……すき、だいすき、だいすき……っ、
──あの時の声が、頭から離れない。なんで、なんで花音は
「ん? あ……これ?」
「ご、ごめん……俺、いつの間に」
「覚えてないんだ? 私がつけてってお願いしたんだけど……」
「そ、そうだったんだ」
ほっとした。いやアトを付けたって事実に変わりはないんだけど、というか千聖さんとの関係も宙ぶらりんなままなのになんてことしてんだって話なんだけども! やばい一ヶ月前の俺なら間違いなく付き合ってもないのにそういうコトする男とか全員もげろとかましてやアイドルにそういう妄想することすらもげろって部類だったのにいつの間にか俺、二重でもげる人種になってる。
「ねえ、千紘くん?」
「は、はい!?」
「私のこと、嫌いになった?」
「え?」
「だって、私はキミを、壊そうとしたんだよ?」
突然そんなことを訊いてこられて戸惑ってしまう。壊そうとしたって事実はやっぱり許したって言えない。あれでだいぶ俺だって精神的にめんどくさいことになって……パレオちゃんや紗夜さんを傷つけた。千聖さんを傷つけた。
でも、そうだったとしても、俺が
「……もう、幼馴染じゃいられないよ」
「幼馴染は、いつまで経っても幼馴染だよ」
どんなに間違っても傷つけても嫌っても、小さい頃からずっと一緒だったって事実は絶対になかったことにはならない。一番近くにいたって事実は、消せないんだよ。
だからまだ幼馴染扱いしてあげれるとか、そういう次元の話じゃない。俺と花音は死ぬまでずっと、幼馴染だよ。
「ううん、それじゃあ……嫌だ」
「え……?」
「千紘くんは……選ばなくちゃいけないんだよ。幼馴染をやめるか、それとも、推しを推すのをやめるか」
「……そんな」
あまりにも残酷な言葉だった。俺はもうどっちかを捨てなきゃいけない。楽しかった今の関係を手放さないといけないんだ。いやそもそも俺がどっちかを選んだとしてもう片方がそれまでの関係を維持してくれるとは限らない。
──俺は、恋人なんていうもののために、なにもかも失うことになるかもしれないのに。
「ごめんね……千紘くん。でももうダメなんだ。私は、キミの幼馴染のままじゃ、嫌なんだあ……」
だから、ごめんねなのかと俺はやっと花音の言葉に納得した。千聖さんもそうだ。
これが彩とかパレオちゃん、紗夜さんだったなら、好きという言葉にごめんねという言葉が付随する意味もわかる。それは俺が断るとわかっててそれでも口にしてしまうからだ。俺にわざわざ断らせることを彼女たちは謝ってしまう。だけど千聖さんと花音だけは違う。自分の好きって言葉がなにもかもを壊すことを、知ってたから。
「これでさ、すっきり千聖ちゃんとケンカもできて、なんだかほんわかとした取り合いみたいなことができればいいんだけど、千紘くんだってもうそんなことで逃げるほど……自分のことが嫌いじゃないでしょ」
「二人のせいでなりかけたけど」
「でも、三人のおかげで取り戻した」
そうだ。これで俺が俺のことを嫌いだったらここまで拗れることもなかったかもしれない。俺に誰かを恋人にするなんて精神力がなければ、その薄氷のような関係を続けることができたかもしれない。それで、いつかの未来で、その相手をゆっくり選べただろう。だけど、現実に俺は誰かを受け入れるほどの精神的余裕を持ってしまってる。
「ヒトを好きになれるのに……あれだけ自分のことを好きになろうと頑張ってちゃんとそうなったのに、それが裏目に出るとか……笑えない」
「……千紘くん」
「好きなんだよ花音のこと」
花音が目を見開く。そうなんだ。俺はずっと花音が好きだった。幼馴染としてではなく恋愛的な気持ちをずっと持っててそれを幼馴染ってのを理由に考えないようにしてきた。でも間違いなく……病院で初めてキスをされた日から、俺は花音が好きなんだ。
「けどさ……いつの間にか、ホントにいつの間にかさ、単に推しだったはずの千聖さんが俺の心の中心にいたんだよ。極めつけはあの雨の日の告白だけど……俺はあの時返事ができなかったけど、思っちゃったんだ」
──千聖さんにとってドルオタ以外の何かでありたい。推しじゃなくて、一人の女性として、千聖さんの名前を呼びたい。あの気持ちは花音に抱いていたものと同じで、だからこそ口に出せなかった。俺が一番壊れそうになったのは、花音のせいでも、千聖さんのせいでもないんだ。俺が、二心を持ってしまったから。
「そっか……」
「どっちも好きになっちゃったんだよ……千聖さんとも花音ともこんな風にさ、朝ご飯食べて、なんか一日のんびり過ごしてみたり、デートしてみたり、そんな日々を過ごしたいって思っちゃったんだよ」
「ち、ひろ……くん」
ごめんって謝らなきゃいけないのは、俺の方だ。好きだったのに、ずっと言えなくてごめん。一緒にいてくれたのに、幼馴染ってことを理由に踏み込めなくてごめん。それなのに、まだ好きって気持ちを失えないんだ。俺は、花音が大好きなんだ。
「……ばかね」
「へ?」
「そんなの私はとっくの昔に気づいていたわよ。だから、千紘に謝るのよ」
あれ? なんかどこからともなく花音以外の声がする。ここにはもう花音と俺しかいないはずなのに、と思ったら客間の扉を開けて、仁王立ちをしている千聖さんの姿があった。私の分はないのかしら? と問いかけてパンはないよおと、ちょっとだけ黒い笑顔で微笑む花音。まさか……花音が?
「うん、千紘くんが起きる前に招いて、本音を訊きだそうと思って」
「なのに朝ご飯は抜きにさせられたのだけれど」
「サラダとポタージュと紅茶はあるよお」
「いただくわ」
野菜ばっかりじゃないと文句を言いながらもお腹は減っていたようで咀嚼し始める千聖さん。なんというかレタスを食べてる姿は優雅なんだけど小動物みが強い。あああれ、小学校の頃学校でうさぎ飼ってたことを思い出したよ。
「なによ。私が普段はしゃべらないのにぶうぶう怒るって言いたいのかしら?」
「そこまで言ってないよお……あってるけど」
「花音?」
「なあに?」
怖、このふたりって親友同士ですよね? 中学生の頃素敵な出会いをした唯一無二でしたよね? 女の友情も熱情の前には塵と化すなんて儚いなぁ、とつぶやいたら千聖さんにそのワードを私の前で使ったら不機嫌になるからやめときなさいとわざわざ自分で忠告してきた。え、なんで花音も特に否定しないの? マジなの?
「え、うん」
「うん……ってなんで?」
「語る必要、あるのかしら?」
「ごめんなさい」
反射的に謝ってしまうくらいには不機嫌だった。ひえぇ、理不尽なり。だがそれはさておくとして、俺は改めて二人と顔を合わせる。花音が少しだけ寂しそうに首肯し、俺は千聖さんに向き合った。
「俺は、千聖さんが好きです」
「本当に、そうなのね」
「うん。アイドルとして俺の名前を憶えてくれて、天使の笑顔で対応してくれる千聖ちゃんじゃなくて……なんかちょっとトゲがあって俺のことすぐ貶してくるかと思ったらパンツ見せてくる変態で意味のわからない千聖さんが好きなんだ」
「……褒めてないわね」
そりゃあもう。この際だからって貶すだけ貶してますとも。だけど俺はそれでも、そんな風に貶したとしても……俺は千聖さんが好きだから。
なにがあっても推しは推しのまま推したいけど、それとは別にちゃんと千聖さんを想う気持ちがあるんだ。
「それは、他のオタクには通じないわよ」
「そうだね」
「それでも……そう、想ってくれてるのね」
だがこれはこれで困ったことになってる。さっきも言ったけど、俺はどちらかを選べるほどの精神的余裕がある。というか花音に一回折られてから背中を押されて、腕を引っ張られて作ってもらったともいうけど。つまり、俺はどちらとも関係を変えなければならないってことである。最悪の場合俺の周囲の人間関係が恋愛感情で構成されている以上恋人を除いてぼっちになるということでもあった。
「それはいいと思う」
「むしろそうするべきよ」
「ええ……だって」
浮気かと言われたらなんとも言えなくなっちゃうけどさ、俺にとってみれば紗夜さんもパレオちゃんも彩もみんな大切な人だ。恋とかじゃないんだけど、俺がここまで自分のことを嫌いにならずに済んでるのはみんなのおかげだから。その恩にすら報いてない気がして。
「煮え切らないわね」
「優柔不断、よくないよ?」
「いや、いやホントに! 絶対答えを出すから!」
「信用ないわね」
「これはわかるまで……しちゃう?」
「いいわね」
「よくない!」
いやもう本当に出てって! 今日は俺独りで考えるから。というかなぁなぁには絶対しない。俺はどっちも好きだけど、どっちかはきちんと泣かせるから。ごめんねって俺も一緒に泣くから安心してほしい。
「……というわけで、ココに逃げてくるんですか」
「だって! あの子ら怖いんだもん」
「先輩って女性関係、結構ルーズですよね」
「ひまりちゃんまで!」
それから後日、俺はひまりちゃんに泣きつくとまさかのひまりちゃんにまで裏切られた。いやしょうがないですよねとか言われても! 俺ってこれまで全くと言っていいほどモテてこなかったんだよ? オタクだしキモイし挙句は幼馴染がベッタリだからね!
「絶対最後のせいだと思うんですけど」
「俺も最近そうじゃないかなぁって思ってきた」
なにせ花音だからなぁ。花音はどうだったんだろう。結構、ああいやかなりかわいいし街を歩けばナンパされかねないところではあるんだけど。あ、でも俺がいたところで一緒か。パッとしない俺なんか置いて遊びに行こうぜ! とか言って逆鱗に触れるオチが見えるけど。
「逆鱗、とは?」
「前にあったんだよ。ひまりちゃんがバイトする前に」
その人は花音のことが好きで好きで仕方なくってどうしても、どんな手を使ってでも恋人にしようとした。その過程で俺のことをあんな暗くて陰キャな見るからにキモオタはほっといて、って言っちゃったんだよ。その時の花音の顔は……正直フォローされたはずの俺が怖いと思ったレベルだったな。
「き、キレたんですか……? 花音さんが……?」
「そ、でも結局そのせいで花音はバンドを辞めなくちゃいけなくなった。外堀はスゲー埋められてたらしくてその当時のバンドメンバーは寄ってたかって謝れの一点張りだったらしいよ」
それが一年の終わりくらいだった。そして二年生になってすぐ、花音は家にあった最後のドラムを売ろうとして迷子になった。それでとある少女に巻き込まれて、今も楽しそうにバンドができてる。俺を庇ったせいでって当時はめちゃくちゃ後悔したけど、それを聴いてほっとした記憶があるよ。
「駅前でストリートライブをした……ってそういう事情だったんですね」
「まぁそのバンドの子には俺も会ったことないんだけど」
「こころちゃんなら、知り合いですよ~」
「マジか」
花咲川で花音や千聖さんの一個下ってことは知ってたんだけどまさかひまりちゃんまで知り合いだなんて。商店街の近くの住みらしくよく出会うらしい。そんな雑談をしているとそろそろ休憩終わりですから、とひまりちゃんは最後にくるりと振り返ってまぁ、頑張ってくださいと月並みかつテキトーな励ましをもらった。
「どうしてもダメなら私でもいいですよ~」
「あはは、ありがと。元気出た」
「本気ですよ」
えっ、と今の言葉を訊き返そうとしたものの既にそそくさとひまりちゃんはバックヤードに行ってしまった。呆けているところでどうしたの? と花音に声を掛けられ、いやと首を振った。ま、まぁ冗談だよ……な? こんなこと確認してまた藪から蛇を出すようなことはしたくないし、真実は一生闇の中なんだけどさ。