スリザード・クラブ (蛇寮非魔法族出身者の会) 作:非魔法族
天井に達するほどの――四メートルはあろうかという巨体。岩石を思わせる、鈍い灰色でゴツゴツした巨体。体躯に比して奇妙に小さな頭。太く短い脚。異様に長い腕に、巨大な木の棍棒。シムの本能も理性も、ともに全力で危険を訴えていた。
驚愕と恐怖が色濃く混ざった切羽詰まった囁き声を、セラがあげた。常に飄々としていたセラがその種の声を出すのを、シムが耳にするのは初めてだった。
「あれはトロール――それも山トロール……!!なんでここに……?!」
★
トロール。最大で四メートルになる巨大な体躯、その見た目に一切違わぬ極めて強靭な
ところで、「トロール」の名は、英国魔法界では「愚か」の代名詞として頻繁に用いられる。トロールを引き合いに出す慣用句やジョークは多く存在し、ホグワーツ魔法魔術学校の
とはいえその絶望的なまでの愚かさは、飽くまで「ヒトを基準にみれば」というだけの話である。トロールは少なくとも棍棒を扱うことができるだけの知性は、そして個体によってはヒトとある程度のコミュニケーションすら取れるだけの知性は備えており、実際に「ヒトたる存在」――
トロールはそれらの「ヒトたる存在」の種族らと肩を並べるにはあまりに知性が貧困である一方で、本能と単純なプログラムだけで動いていると言えるほど、知性に乏しいわけではない。つまり端的に言って、トロールは〝行動の予測がつきにくい〟。中途半端な知性が、トロールの危険度をいっそう押し上げているのだ。事実、トロールを引き合いに出す慣用句やジョークが古今広く用いられるのは、トロールが取るに足らない存在だからではなく、トロールが魔法族にすら恐るべきものと認識されているからこそなのである。もしトロールが校内に侵入したという報せが大広間にもたらされたならば、魔法族の家庭で生まれ育った生徒達はパニックに陥っても何もおかしくはない。
そしてトロールはその生息地域と形質の違いから、「森トロール」「川トロール」「山トロール」の三種に分類される。運の悪いことに二人が遭遇したトロールは、三種の中で最も巨大かつ凶暴な「山トロール」であった。
山トロールは二人の方を――目くらましをかけているはずの二人の方を
「……!」
セラは瞬時に、自身とシムの目くらましを解く。聴覚や嗅覚が優れているのか魔法力を察知しているのかは分からないが、いずれにせよ自分たちの存在がバレているのなら、「目くらまし」を解かないのは得策ではない。「目くらまし」をかけ続けている間は、ある程度そちらに魔力のリソースが割かれてしまうからだ。二人が姿を現しても、トロールの反応は何も変わらなかった――それをトロールの愚かさゆえと考えるのは早計だろう。ヒトの臭い、もしかしたら味もはっきり覚えているのかもしれない。
シムの頭が真っ白になり恐怖の叫びも出せないでいる間に、セラは杖を抜いて叫んでいた。
「
セラの杖からほとばしった赤く煌めく閃光がトロールの胴体に直撃し、トロールの棍棒が後方に吹き飛んだ。彼女の強烈な武装解除呪文の衝撃は、駆けるトロールの体をも停止させた。その瞬間を逃さず、セラは続けざまに棍棒に杖を向けて叫ぶ。
「
後方に吹き飛んだ棍棒は「
「
「
ただの筒状だった棍棒に多くの
「
棘だらけの棍棒が高速で回転しながら地面を撥ね、トロールの体を殴打し続けた。「
「
駄目押しにセラが撃った「
(ホグワーツの廊下の大理石に「穴掘り呪文」が効くかどうかは、完全な賭けだった。幸いにもこの区画の床は、魔法への耐性が強くはなかったらしい。ただし、2メートルも穴を掘っても階下の天井が開かないあたり、やはりホグワーツの床はただの床ではないことがうかがえる)
「まさか――ホグワーツでこんな――怪物が――」
棍棒とトロールに「
シムも呆然としたまま冷や汗をかいた。彼は今まで、訓練の際にセラの容赦ない杖さばきと慎重で迅速な判断とを目にしてきていたが、目にしてきたつもりにすぎなかったことを思い知った。シムはあくまでセラにとって、セラの三学年も下の生徒であり、そもそもヒトであり、セラを殺害しようとも捕食しようとも思っていない相手だ。――そうでない相手には、これほど冷徹に的確に攻撃を組み立てるとは。そして真に命に危機が迫ったときに、ここまで冷静に迅速に判断を下せるとは。
「トロールの肌には――『
セラは棒立ちになるシムの腕をつかみ、トロールとは反対方向に駆け出した。トロールを倒すなど無謀極まりないということは元々セラには分かっていたので、逃げることに専念できるだけの時間を稼ぐ心積もりだったのだ。怪物への恐怖、命が救われたことへの安堵、セラへの畏敬とで頭がいっぱいになっていたシムは、我に返り自分もセラに並んで走り出す。
「ここに置いて――ほかの――生徒は大丈夫ですかね?」
第一声にもふさわしくなければ、そんなことを言っている場合でもないと思いつつも、シムは頭によぎったことを口走っていた。
「ほとんどは――ハロウィーンパーティにいる――ことを祈ろう――」
「そうで――」
右の曲がり角を目前に控えたとき、セラの顔を見たシムはセラの緑の目が見開かれたことに気づいた。天井までの高さが
「危ない!!」
セラはシムの腕を再び掴んで急停止すると、シムを後ろに突き飛ばし、自分も振り返って跳んだ。床に四肢で着地すると同時に、シムを庇うように覆いかぶさる。
轟音。爆音。衝撃が壁を揺らす。壁が砕け、石の破片が雨あられと廊下に降り注いだ。謎の衝撃によって石の破片は魔力を帯び、凄まじい速度で床に突き刺さる。シムはセラに庇われながら、身が縮こまった。
「いったいなにが――」
セラは顔をしかめながら身を起こした。シムはセラを見て悲鳴をあげる。
「大丈夫ですか!」
セラの右腕と右脚に、「盾のマント」の防護魔法を貫いていくつもの石片が突き刺さっていた。ローブがじわりと濡れ、血のしずくが床に垂れ落ちる。
「それよりまずは――」
セラは床に転がった杖を左手でつかみ、衝撃がした方に照準をあわせた。シムはそちらに目を向け、唖然とした。
★
巨大な――7メートルはあろうかという巨体を持つ、ヒトに似た姿の怪物が、片膝をついて壁に右の拳を深々とめりこませていた。猛スピードで角から姿を現した怪物は、セラとシムを認識するや否や、躊躇なく豪腕をふるったようだった。怪物は腕が長く、手の甲を裏向きにすれば容易に二人の身長まで拳を届かせることができた。
セラの判断が一瞬でも遅れていれば、シムの体は粉みじんになっていたに違いない。シムは恐ろしさに立ち上がることができなかった。天井も怪物の背丈まで高くなっており、大廊下の光景は非常に壮大なものに変わっていた。
(なお、三階の大廊下を含めてホグワーツ城の一部の区画では、天井までの高さが場合に応じて伸び縮みする摩訶不思議な性質を持っていた。城の設計者ロウェナ・レイブンクローの摩訶不思議な才能は、しかしこの場合においてはシムとセラに全く不利に働いていた。怪物はこれだけの巨体を持つにもかかわらず、ここの廊下においては――城のどこから入ってきてここに来るまでどうしていたのかはさておいて――自由に体をふるうことができていたからだ)
怪物は、先ほどの山トロールがさらに巨大に荒々しくなった姿で、しかし山トロールよりも幾分ヒトに近い風貌をもっていた。
ギガントロール――ともに山岳地帯に生息し、ともに巨大な体躯と途方もない剛力と凶暴な気質とを持つ二種の生物、「
元々高かった膂力や魔法への耐性や凶暴性は巨人のそれに山トロールのそれをそのまま足しただけ増しており、巨人と同程度には知性があり、トロールと同程度には人肉を好む。背丈は巨人とトロールの中間ほどの背丈を持つが、貧弱だった魔法力が強化されておりある程度体長を伸縮することができる。また、ただでさえ半端でない破壊力を持つであろう豪速で繰り出されるその拳は、魔法的な衝撃波をも放つ。
稀少でほとんど存在が知られておらず「魔法省分類」は定められていなかったが、確実に危険度最大レベルの「
セラは杖先を巨人の拳にあわせると同時に詠唱を始めた。巨人は左手を壁につけ、めりこんだ右手を引き抜こうとしているさなかだった。
「
杖から奔流が
「
――その水が「
セラは休むことなく、杖を今度は足もとに向けて詠唱する。
「
「
セラの杖から、どろどろの灰色の、生コンクリートを模した幻影が出現し、怪物の足もとに流れ込む。コンクリートは怪物の足もとで固まり、怪物は足を動かせず再び吠えた。
セラは二度息を吐くと、右脚に刺さったとりわけ大きな破片を引き抜き、血が大量に溢れ出すのを尻目に、懐から取り出した空のクリスタル瓶を自らの血液で満たした。そして素早く「
そして壁に背中をもたれさせて立膝の姿勢をとり、数度深呼吸した。巨人の巨大な手と足を氷塊とコンクリートとで固めるのは、少しの魔力で行えるような小技ではなかった。セラの額からは汗が滝のように流れ、顔には疲労の色が濃く現れていた。セラは息を整えながら淡々とした調子で言った。
「今のうちに――大広間まで走って急いで先生を呼んできてくれ。――私は走れないから――ここで食い止める」
「そんな、無茶ですよ!あんな怪物相手に――脚だけじゃない、利き手も使えていないじゃないですか!それに魔力だって消耗しているでしょう!肩を貸しますから、はやく一緒に歩きましょう」
シムは悲鳴にも近い声で叫んだ。巨人は手と足を動かそうともがきながら吼えたけっている。
シムはセラの腕をつかみ、立ち上がらせようとしたが、セラは手を払いのけた。
「左手でも杖を使う訓練をしている、十分くらいなら持ちこたえられる、じきにあいつは動けるようになってしまうんだ、あんなに巨人は速いのにのんびり歩いていては、いや走ったとしても追いつかれる!この前も言っただろう、私ひとりなら身を護れるけど、君を護りながらじゃ無理だ!死んでしまう!合理的に考えろ、これしか選択肢がないんだ!」
「どこか隠れるとか――いや、僕もここで一緒に食い止めますよ――セラからもらった煙幕とか閃光弾とかもありますし、魔法だって――」
怪物の腕の氷がべきべき音を立てる。セラは焦れた様子でまくしたてた。
「どこかに隠れても探知されるに決まっているだろう!さっきのトロールだってそうだった!この前渡した防衛グッズもぜんぶ文字通り子供騙しだ!それに魔法がちょっと使えるようになったからって調子に乗るな、今の君じゃ戦闘なんて何もできない!邪魔なんだよ!君が先生を呼んでくれなきゃ喰い殺されるまで戦う羽目になる!私は君と心中するつもりはない!」
氷が砕け散る音が響いた。巨人の左腕が自由になる。
「スリザリンなら自分の身を護れ!スリザリンなら仲間の身も護れ!見捨てたくないなんて
「――ごめんなさい」
シムは駆け出した。巨人は左腕で右腕の氷を叩き割り始めており、巨人の背後をすりぬけるシムには目も暮れなかった。シムの姿が見えなくなり、セラは息をついて立ち上がった。右腕の氷を叩き割り終わった巨人を眺める。
「まずいな……」
セラは自分の膝が、腕が、全身が震えているのを感じ取った。
少なくともシムを安全に逃がすことができたが、シムの言う通りセラ自身の状況は、控え目に言っても絶望的だった。右脚を痛め移動もままならず、杖腕を痛め精妙な杖捌きは望めない。体力も消耗している。加えて先ほどの大技で魔力も大きく消耗してしまった。魔力の大部分が血流とともに循環している以上、それなりに出血してしまったことも痛手だ。さらに悪いことには、目の前の怪物は、明らかに先ほどの怪物より強力だ。
しかしセラはこのままここで死ぬつもりはさらさらない。セラは常々自分がグリフィンドールではなくスリザリンだと感じていた。セラは勇気を尊ぶべきだとは思っていない。自己犠牲に酔いしれたまま英雄的に果てたいわけでもない。自分も逃げたい気持ちを必死で抑えたのは、いくつも思い浮かんだ不確実な逃げ隠れる策を捨てたのは――これがシムのみならず、数分の間耐えさえすれば、自分の生存も確実になる選択肢だと判断したからだ。
ローブの
呑み込むや否や効果を発揮するのも魔法薬の妙味である。「安らぎの水薬」のお陰で心が鎮まって体の震えがおさまり、「強化薬」のお陰で集中が研ぎ澄まされ、自分の体に力が満ちてゆくのを感じる。――ただし、「強化薬」は自分の本来の魔力を増大させるわけではなく、単に魔力を放出する量を増大させるだけである。「水の溜まったタンクから蛇口を捻って水を流す」場合でたとえるならば、タンクの水の量は変わらず、単に蛇口を思い切り左に捻ることができるようになるだけである。戦闘を行える時間がさらに短くなる危険があるが、セラはシムが素早く先生を連れてくることに賭け、その間に生き延びる可能性を上げることにしたのだ(なお、「強化薬」には筋力や身体の頑健さも向上させる作用もあるが、目の前の怪物相手には気休めにすぎないことはセラは分かり切っていた)。分の悪い賭けだが、なんとか生き延びるしかない。
そのためには、時間と魔力とをわずかでも無駄にしてはならない。セラは目の前の怪物についての知識は全くなかったが、トロールや巨人に似た見た目から、怪物の肌にはほとんどの呪文は効かないだろうと踏んでいた。それならば――。
瓶を仕舞って大きく深呼吸すると同時に、ギガントロールが雄叫びをあげ、右手を壁から引き抜き、両足のコンクリートを叩き割った。ギガントロールの四肢が自由になる。ギガントロールがセラを睨みつけて右拳を振りかぶった瞬間、その眼に杖を向けてセラは叫んだ。
「
桃色の光球が二つ、ギガントロールの左右の眼に吸い込まれた。途端に両眼が赤く充血し、ギガントロールは叫んで両手で眼をこすりはじめた。
セラが唱えたのは「結膜炎の呪い」だ。呪いを喰らった対象の眼は、耐えがたいかゆみに襲われる。呪いの名称は一見間の抜けた響きに聞こえるが、しかしこの呪いはトロールや巨人など、肌が魔法を弾く生物から逃げるうえで
ドラゴンにすら――魔法族半ダースでやっと互角に戦えるかどうかという、きわめて強力かつ凶暴な魔法生物であるあのドラゴンと遭遇してしまったときですら、「結膜炎の呪い」は生き延びるための数少ない有効な対抗手段になりうる。
とはいえ当然、トロールや巨人やドラゴンに「結膜炎の呪い」を使うデメリットも多い。最たるものは、眼のかゆさに耐えかねて暴れ出してしまうことだ。このギガントロールも、やはり眼をこすりながら地団駄を踏み床を揺らした。地団駄の巻き添えを喰らわないうちに、セラはすかさず懐から、先ほど自らの血液を注いだ瓶を取り出した。
「
瓶から飛び出し、セラから遠く離れて漂いゆく赤い血液は、「
「ゴガァ……!」
ギガントロールは、眼をこすりながらそちらに顔を向けた。視界を奪われている以上、嗅覚への依存度合が大きくなるはずだ。そしてヒトの血の臭いには、とりわけ敏感に反応するはず――。セラの狙いはそれだった。だからこそ、後々おとりにできるかもしれないと思い、先ほど自らの血を保存しておいたのだ。
ギガントロールはセラから離れ、血の氷像の方に向かって駆け、豪腕をふるった。拳が当たるとともに氷像が爆ぜ、血の霰がギガントロールへ飛び散る。
「
セラの詠唱とともに、無数の緑色のトカゲが床に出現し、ギガントロールの体にまとわりつき、噛みついた。体中のトカゲをうるさそうに叩くギガントロールを横目に見ながら、セラは右足を引きずり歩を進めた。このトカゲはもちろん本物の生物ではなく、それを模した幻にすぎず、一定の負荷がかかると霧散してしまう。ギガントロールがはたくそばから、トカゲは緑の煙となって消えてゆく。しかしセラがギガントロールから距離を離すだけのわずかな時間は、息を落ち着けるだけのわずかな時間は稼げるはずだ。 彼女は懐から取り出した新たな魔法薬・「奮起薬」の小瓶を空け一息に飲み干し、魔力をわずかながら回復させた。しかしセラが角を曲がった瞬間、
「……なんでこんな目に……!」
行く手を黒い大蜘蛛が塞いでいた。木の葉の上にうじゃうじゃしている細かい蜘蛛などではない。高さ2メートルを越そうかという、馬車馬のような、毛むくじゃらの、巨大な怪物蜘蛛。セラはおぞましさに総毛立った。
★
――アクロマンチュラ。東南アジアのジャングルに住まう、人肉を喰らう巨大蜘蛛。強力な毒と、鋭利な
(なお、訓練や調教が不可能だという学術書の記述に反し、ホグワーツの「禁じられた森」の深奥にはヒトに飼育されていたアクロマンチュラが巣喰っているのだが、そのことはセラは知る由がない)
大蜘蛛は八つの目でこちらを睨むとはっきりと英語を話した。
「……ニクダ……ニクダ……!」
興奮して不吉に鋏を鳴らしながら、八本の脚を繰り突進してきた。
「
セラは反射的に、「蜘蛛」にのみ絶大な効果を発揮する特異な呪文を唱えた。いくつもの種類がある「
――はずだったが、このときのセラの呪文は不発に終わった。普通のサイズの小さな蜘蛛にはこのような魔法を撃つ意味はないし、このような魔法を撃つ意味があるほど巨大な蜘蛛に遭遇するような機会は普通はまずない。そのためセラはこの呪文の存在を知ったときに一度練習したのみで、わざわざ真面目に習得しようとは思わなかった。一般的なホグワーツ二年生ならすぐに使える程度に簡単な呪文だったが――利き手が使えない今のセラの杖の動きは、初めて使う呪文を成功させるには、精度が十分とはいえなかった。
大蜘蛛の鋏が前から迫るだけでなく、「結膜炎の呪い」の効果が切れたのか、右後ろからギガントロールが駆けて地を揺らす音も聞こえてきた。セラは自らの判断ミスを悔やむ暇はなかった。
「
セラの体は重力の向きに強烈に押し付けられ、スポンジのように軟らかくなった床が大きく沈み込む。角を曲がると同時にギガントロールが繰り出した蹴りと、アクロマンチュラの鋏とをともに間一髪でかわすことができた。ギガントロールは寸前で気づいて足を止めようとしたが、慣性には逆らいきれず、巨人の足と大蜘蛛の鋏とが衝突した。蜘蛛は後方に数メートル吹き飛ばされ――全力の蹴りでなかったため威力はさほどでもなかったようだが――巨人もまた足の痛みに悲鳴をあげ数歩よろめいた。
「
沈み込んだ床が弾性で元に戻る瞬間、セラはギガントロールの足のあたりに杖を向けた。後ろによろめいていたギガントロールは、つるつるに滑り出した床に抗えない。仰向けに倒れゆく。
「
床に無数の棘を生やし巨人の背中を刺そうとしたセラの試みは、しかし失敗した。ホグワーツ城の床には、床を危険に変形させるこの種の呪いを防ぐセキュリティがあるらしかった。
とはいえ巨人は床に背中をしたたかに打ち付けると、そのままセラから離れる方向に滑って行った。セラは視線を変える。大蜘蛛が再びこちらに猛然と迫っていた。杖を蜘蛛の下腹部へ向ける。
「
「
何かが大蜘蛛の下の床から忽然と現れ急速に膨れ上がり、大蜘蛛の体が持ち上がった。体長2メートルほどの、ごつごつした体皮を持つ大トカゲだった。
大トカゲは体をゆらし、大蜘蛛を引っくり返して地面に投げうった。仰向けに腹をさらして脚を動かす大蜘蛛に、そのままトカゲはのしかかる。これは魔法生物でもなんでもない、ただの大トカゲを模した幻なので、大蜘蛛の鋏に裂かれればすぐに消えてしまうだろう。それでも怪物どもから離れる時間はあるはずだ。むやみに動いては先生に見つけてもらえなくなるおそれはあるが――ギガントロールとアクロマンチュラに挟み撃ちにされたこの場所は死地でしかない。
セラは蜘蛛とトカゲの横をすりぬけた。廊下は再びまっすぐ伸びている。逃げ込める教室や、大広間につながる階段は未だ遠い。
走れない今の体でどうやって距離を稼ぐか。「
「
両手で握りしめた杖から慎重に風を出す。後ろ向きにセラの体は滑り出した。廊下の突き当りまでの数秒の間に、高速で思考を回し次の一手を探る。
――廊下を「
次々に案を打ち出しては却下するうち、廊下の曲がり角が目前というところで、セラは異変に気付き「
「
大トカゲを葬ったらしい大蜘蛛が姿を現すと、こちらに向けて光る糸の塊を猛然と吐き出した。アクロマンチュラが獲物に投げかける、強靭な魔法の糸だ。糸はセラの展開した透明な盾に阻まれたが――盾に絡みつき、そのまま盾を引きはがした。
「……!」
セラは板を靴に戻し、曲がり角を右に転がった。再度吐き出された糸が、一瞬前までセラのいた背後の壁に当たる。蜘蛛が鋏を鳴らしながら廊下を駆ける音が響く。巨人の咆哮と足音も聞こえてきた。
「くそ……!」
セラは歯噛みした。どう動けば良い。ここの廊下を抜ければ階段があるし、ここの廊下には逃げ込める教室もあるとはいえ――。セラは必死で頭を回そうとしたが、脳内を駆け巡るのは意味をなさない焦燥と絶望の声ばかりだった。
★
自己嫌悪、悔恨、無力感、絶望、混乱、焦燥、恐怖――無数の感情の激流に苛まれて、頭がぐちゃぐちゃになりながらシムは廊下を疾走していた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになりながら、鳩尾をおさえながら、角を曲がり階段を目指した。セラの身を案じ三歩おきに引き返したくなりつつも――本能的な部分を一番大きく占めている感情は、死の恐怖から離れたことによる安堵感であることに気づき、さらに自己嫌悪が強まるのだった。いかに理屈をつけようと、セラがおとりになってシムを逃がしたのは事実であり、シムがセラを置いて逃げたのも事実だった。シムが逃げたら、生き延びる望みがシムは撥ね上がる一方、セラはわずかだけ上昇する。不均衡な構図に絶望を覚える。
しかし自分にできることは何もなかった。策は何も思いつかなかったし、セラもまた策を検討して最善の選択肢を提示したのだろう。
実際にシムは有効な攻撃呪文をまだほとんど学んでいないし、シムの未だ貧弱な魔法力では――魔力量が急速に増大する最初の時期は身体の成長期に伴って到来する場合が多い――セラの援護にはなりえない。
……いや、セラは
たとえば、「目くらまし」だけなら見つかってしまったが、「消音呪文」と「消臭呪文」も一緒にかければ、二人で歩いて逃げられたのではないか。――いや、セラは「ヒトより鋭敏な聴覚や嗅覚を持つ生物には効かないかもしれないし、魔法力を察知して敵を追う生物には無意味だ」と言っていた。
それなら、たとえばセラにもらった防衛グッズは本当にぜんぶ子供騙しなのだろうか。シムは階段を二つ飛びに駆け降りながらポーチをまさぐる。煙幕を張れば――いや、ヒトの方が遥かに嗅覚も聴覚も劣っているのだから、こちらが不利になるだけだ。おもちゃのエアガン――論外だ。閃光弾――時間を一瞬は稼げるかもしれないが、それだけだ。
シムは思い浮かんだ案が否定される理屈が見つかるたび、悲しむのではなくほっとしている自分に気づき、さらなる自己嫌悪に襲われた。
シムは新たな玉を取り出した。これは今は有効な道具だ。踊り場で立ち止まって強く握りしめる。けたたましい警報の音が鳴り出した。大広間に入ったときに、遠くの先生方の上座テーブルまで走る手間は省けるだろう。
大丈夫だ。セラは強い。シムは自分に言い聞かせる。山トロールをすぐに片づけたし、少し怪我をしていようが少し疲れていようが、大丈夫なはずだ。――いや、本当に大丈夫なのだろうか。余裕を取り繕う余裕すらない最後のセラの表情が思い浮かぶ。
焦燥に包まれていたシムは、ホグワーツ生ならまず引っかからない階段の罠――ホグワーツには段があるように見えて足を乗せると沈み込んだり消えてしまう悪趣味な階段がホグワーツにはある――に足をとられてしまう。前につんのめって宙をぶざまに舞い、二階の床に投げ出される。手から飛び出した警報玉が、甲高い音を鳴らしながら二階の廊下へと消えて行く。料理を詰めた白い鞄も――なんでこんなものを肩に掛けたまま走っていたのか――放り出される。とっさに突き出した両腕と膝をしたたかに大理石に打ち付け、鈍痛と
よろめきながら立ち上がる。こんなことをしている場合ではないのに。セラはいま――。怪物の拳に潰されるセラの姿、血の海に浮かぶセラの姿、怪物に貪り喰われるセラの姿が脳裏をよぎった。鳩尾の痛みとあいまって強烈な吐き気が襲い、壁に両手をついてむせる。空っぽの胃袋から喉元までこみあげた塩酸が喉を焦がす。絶望が体を覆い無力感が心臓を焼く。
シムの脳を新たな後悔が
自らの愚かさに
「――そこにいるのは、スリザリンの生徒ですか?ひょっとしてシム・スオウ君?」
そのとき背後から独特の甲高いキーキー声が、「
二階の廊下の向こうから二人の人影が駆けて来た。けたたましい警報音も近づいてきた。
幼児と同じくらいに小さい老爺――「呪文学」教授にしてレイブンクロー寮監のフィリウス・フリットウィック先生と、小柄でずんぐりした老女――ハッフルパフ寮監にして「薬草学」教授のポモーナ・スプラウト先生が立っていた。
シムは腰がへなへな抜けて後ろによろめいた。スプラウト先生はシムを抱き留めようとして、握りしめた警報玉を取り落とした。
※純粋なヴィーラがどうやって生まれてくるのかちょっとわからなくて「ヴィーラ同士でも子孫を残すことができるが、あまり頻繁には行われない。また、ヴィーラとヒトとの間に生まれた子供は、『ヴィーラの血が混ざった男性』か『ヴィーラ』のどちらかになる」と書いてしまいましたが、フラーの母親は思い切りハーフヴィーラなのでしたね。父方の祖母がヴィーラなのかと思い込んでました、確認怠ってしまいました。感想でご指摘くださりありがとうございます。
(11/3 次話の後書きで書きましたが、ヴィーラトロールを山トロールに変更しました)
セラは「莫大な魔法力でくりだした豪快な力技で押し切れる」感じのタイプではなく、頭しぼって戦略的に頑張るタイプです。賢明とはいえない場合もあるのは、当然最適な選択を常に瞬時に取れるわけではないからです。メタ的にはもちろん、単に筆者の頭で考えられること以上の動きができないからです。
(恥ずかしながら、以前に感想をいただくまでトカゲといえばの性質「しっぽ切り」についてすっかり失念してました。物語のタイトルを語感で考えたあとの後付けだったので、トカゲに関してあまり深く考えてませんでした(3話の流れはトカゲのモチーフとは関係なく最初から考えてたものです)。蛇足なる語も感想をいただくまですっかり失念してました。感想欄で色々気づかされたり勉強になったり励みになったり心温まったり本当にありがたい限りです、頂くたび舞い上がってます!)
流血があるので「残酷な描写」タグをつけましたが、筆者はグロいのが苦手なので、原作の度を大きく超すような表現は出てきません。
なるべく原作の呪文だけで書きたいところですが、それだけでバトルを描くことが筆者には難しいので、いくつかオリジナル呪文を入れてます。苦手な方はすみません。いちおうあってもおかしくなさそうな範囲にとどめているつもりです。陰が薄い原作呪文と映画ゲームアプリの呪文とオリジナル呪文の区別が紛らわしそうなので、いちおう原作以外の呪文を下にまとめました。
原作(効果の一部がオリジナル):「
映画:「
ゲーム:「
原作に名前だけは登場するオリジナル呪文: 結膜炎の呪い「
オリジナル:「
ギガントロール:
ヒトと巨人が混血できるなら巨人とトロールも混血できるのではという気がしました。原作の巨人ほどでかくない分、小回り利いてヤバいイメージです。
アクロマンチュラ:
糸はオリジナル。
これらの硬い生物について、「麻痺せよ」みたいに直接攻撃する呪文は効かないけれど、「武器よ去れ」みたいな間接的な呪文は効くし、「結膜炎の呪い」も効くというのは原作とほぼ同じ設定です。
強化薬:効果は不明ながら原作に登場する薬のひとつ。Harry Potter wikiには「フィジカルが超人ゴリラになる」的なことが書いてありましたが、ビデオゲーム版の効果なんでしょうか。今話は流れ的に無理でしたが、そちらの効果の方が楽しそうなので、フィジカル強化薬もいずれ登場させます。「安らぎの水薬」は五巻登場、「奮起薬」はアプリ(未プレイ)に登場するよう。
魔力:呪文をどれだけ撃てるかについて、原作もかなりふわっとしてそうですし、今のところあまりはっきり考えてはいません。いちおうMPみたいなものがあって、魔法の種類によって消耗の度合が異なり、時間経過や休息で回復するくらいのイメージ。ただしMPが残っているからといって呪文を十連射二十連射できるわけではありません(MPゲージとは別に、短期的に回復するスタミナゲージがあるくらいのイメージ)。もちろんRPGのように厳密に数値的に定まっているわけではありません。また、「魔法力」の語は原作のように「魔法の力」くらいのふわっとしたイメージで使っています。
「出現」:この二次創作では、「
・いくら魔法の城だからってホグワーツ城の構造が色々とご都合主義では?→ごめんなさい
・右腕と右脚だけ怪我するってご都合主義では?→ごめんなさい
・強化薬とかは買えるのに、怪我をすぐ治療できるような薬は病院じゃないと貰えないってご都合主義では?→ごめんなさい
・廊下の床を危険に変形させる呪文が効かないのに「