かんかん照りの陽射しが打ちつけてくるおかげで、白い砂浜の上では素足で立っているのも難しい。
波打ち際でビーチバレーを楽しみ始めた皆を遠目に浮かべ、サンダルを履く私は砂浜からの揶揄いを躱し、手先の器用さを生かして砂のお城を建築中だ。
「ちょっともやし! トスくらいまともに上げられないワケ?!」
「うっせえな!? お前だってなあ! むやみやたらにスパイク打ちゃいいってもんじゃねえだろ!」
「これで8対1だからね~」
海に来てもいつも通り、一条君と千棘ちゃんとの間では怒号が飛び交う。舞子君の吞気な口調でのカウントコールと、るりちゃんの無関心そうに手で示すカウント表示が、より一層の苛烈さを強調する。
一方で、相対する紫恩君と鶫ちゃんのペアは、まるで上級者のように、お互いの距離感を保って抜群の安定感を発揮している。彼らはお互いに励まし合えるので、雰囲気自体も凄くよさそう。妬けてしまうくらいに。
ため息をついてしまうな私に、背後からゆっくりと砂を踏む足音が聞こえてくる。
「小野寺さん、あなたは参加しないんですか?」
砂のお城じゃなくて私を覗き込む橘さんは、含みを持たせた微笑を浮かべている。
体が弱いという彼女も、休憩を十分に取ったようで、今は元気一杯といった感じだ。
「ううん……私はもう少し後、にしようかな」
折角築き上げてきた砂のお城を完成させたい気持ちも、あるにはある。
それよりかは、紫恩君とペアになってしまうかもしれないのを、少し躊躇ってしまう自分がいる気もする。
最近の私はどうも、気分がさほど優れていない。
きっとこれは、風ちゃんとの夏祭りでの一件のせいだ。
彼女の紫恩君に対する心がけを、知ってしまったから。
紫恩君と一緒にいるいないに関わらず、彼の背後には風ちゃんの存在がちらつく。私の見えないところで風ちゃんは、彼と一緒でいるときは何をしているだろうか。彼といる私にどういう気持ちでいるのだろうか。
ぐるぐると考えに考えてしまえば、色んな気持ちがミキサーみたく混ざり合って、やがて掴んでいなきゃいけないものを手放してしまいそう。
こういう時に「そうですか」と相槌だけを返す橘さんには、彼女なりの気遣いなのかと勝手に感じてしまう。
立ち去って皆の元へ行くであろう橘さんを一瞥し、私は再び砂のお城の完成作業へと戻ろうとする。
「最近なんですがね、小野寺さん」
ところが、そのまま歩いて行くのでなく、ちょっと座り込んで口を開く橘さん。驚いた私はぱたりと手を止める。
「葉山さんのこと、避けてらっしゃいませんか? 勘違いなら申し訳ないのですが」
核心を突いてくる橘さんの言葉に、心臓を直接手で掴まれたような気がして、抵抗の意思さえ示すことができない。橘さんは当惑する私を見透かしているみたいだ。
「あなたに何があったのかはよく知りませんが……折角のこんな機会、生かさない方が可笑しいと思いません?」
マッチポイントー。舞子君の盛り上げる声。千棘ちゃんと一条君の互いを罵る声が、両耳を通り抜けていく。
「本気で好いとーなら、こんままではつまらんばい」
どきりとした私は思わず、橘さんの方へと顔を振り向けてしまう。転校してきて初めて教室へ来た時のような、如何にも清楚で可愛らしい表情を彼女はしている。
試合終了~。舞子君から告げられた途端、橘さんは勢いよく立ち上がってしまう。
「さて、私はこれから楽様とペアを組んでまいりますわ! それでは小野寺さん、御機嫌よう!」
真っ直ぐな向日葵みたく元気よさそうに橘さんは、彼らの元へたたたっと走り去っていく。ただただ言葉も返せなかった私は、彼女の活力や優しさを有難くも羨ましくも感じてしまう。
本気で好いとーなら、か……。
そうだよね。私は独り言を呟いてみる。
私もちゃんと、紫恩君といる時間、楽しまないと。
彼らと合流する前に、紫恩君と一緒にいる前に。心の準備も兼ねつつ、私は砂のお城を早く完成させようと、止まっていた両の手をまたテキパキと動かし始めた。
◇ ◇ ◇
すっかりの夜の支配下になった海辺や浜辺を、月明かりや星空が明るく照らし出してくれている。
楽しかった昼間のビーチバレーも、賑やかな夕方のバーベキューも。
今日という一日の終わりを、この見惚れる景色に教えられているようで、寂しさが込み上げる。こういう幸せを感じる日は、ずっと早く過ぎ去ってしまう。
私はひんやりしてきた砂浜の上を軽やかに歩き、波止場の先で一人佇んでいる人物の元へと急ぐ。彼の背後まで辿り着いてみれば、海の先を覗き込んでいた彼も、さすがに私の存在に気づいたようだ。
「小咲か、どうしたの?」
「ちょっと散歩……ねえ紫恩君、隣いい?」
「いいよ」
紫恩君は手に構えていたポラロイドを、右横に置いていたバッグの上にそっと載せる。私はその逆側に空いた彼の隣に腰を落ち着ける。潮の香りがつんと下からついてくる。
「皆はどうしてる?」
「じゃんけんで負けた人が片付けしてるよ、他の人は多分……どこかでまた遊んでるんじゃないかな」
「元気いいよな、あいつら」
私は一つ、彼に嘘をついてしまった。
本当は、一人勝ちした紫恩君が先に海の方へ歩き去って行ったのを見て、皆が彼の後を追うようにと気を利かせてくれたのだ。
私の誤魔化しにも気づかないみたいの紫恩君は、呆れているような、でもどこか楽しむような微笑を、波の立たないほど穏やかな海へと送る。
「写真、また撮ってたの?」
「海に来るなんて滅多にないからさ。それに、こんな天気のいい日の夜だし、尚更撮りたくなるよね」
ポラロイドを再び手に取り、フィルムを楽しそうに覗く紫恩君の笑顔が見れて、隣で眺める私にも温かな火が心に灯る。
「よかったらさ、見てもいい? どんなの撮ったのか」
「……もちろん!」
一瞬ピタッと動きも止まった気がしたけど、すぐに紫恩君は陽だまりの笑みを満面に浮かべ、私にも撮影した写真を見せてくる。
月明かりが鏡のように海面に映しだされ、幾つもの星空が夜空に燦然と散らばり、水平線の先が青白く光っている。
そこには、今目の前に広がる景色の様子が、より色鮮やかに輝きを増して映し出されていた。
「凄いね……! 写真にするとこんな違うんだね……!」
現実で目にしてる光景も十分だけれど、写真上での景色はまるで絵画のようで、私の中により多くの感動をもたらしてくれる。
「でしょ? 自分でも凄くイイ感じに撮れたよ」
嬉しそうに目を細める紫恩君。男の子って感じのカッコよさも、女性的な美しさも感じられて、私の頬を自然と赤くさせていく。
加えて、写真を二人で見ようとするため、身体を少し寄せあっているから、肩が触れ合いそうな二人の距離感にとぎまぎしてしまう。
そこで、高揚した気分に任せ、私はあの日から尋ねてみたかった質問を、紫恩君に直接投げかけてみる。
「あのさ、風ちゃんは、紫恩君にとってどんな存在?」
彼は意表を突かれたようにしながら、色も形も薄めな唇を淡々と開いていく。
「涼か……それこそ物心ついたあたりからの仲で、お互いに気兼ねすることないし、写真仲間でもあるから……きっとこれからも、そんな感じでいれる気がする」
空と海の境界が曖昧になった水平線を望みながら、紫恩君は風ちゃんについてそう語る。
一見落ち着いたように見える彼は、風ちゃんからの熱を帯びた感情に、果たして気づいているんだろうか。
「……私ね、この前、紫恩君と風ちゃんが夏祭りで一緒にいるのを見て、てっきり付き合ってるのかも、と考えちゃったのだけど」
「オレと、涼が? それはないよ! 第一、誰かと付き合うなんて、こんなオレには考えられないかな」
半分冗談、半分本気で。あの日初めて彼らを目にしたときの印象を伝えてみる。
けれど、紫恩君が今度は笑い飛ばして、水平線から星空へと視線を上げる。
誰かと付き合うとは考えてない。学校にいる女の子にあれだけ言い寄られても、頑なにOKを出さないあなた。予想もできたけれど、いざ言葉にされると……。
好きな人はいるんだろうか。また別の関心が生まれてきてしまう。
「あ、ほら見て! 流れ星!」
「わ、ホントだ……!」
私の心境も露知らず、少年らしく快活な紫恩君は空を指差し、私の雑念を振り払ってしまう。私も一瞬だけ見れた流れ星の輝きに目を奪われてしまった。
「なんだか、不思議だね」
「へ?」
紫恩君のペースに振り回されるばかりの私は、素っ頓狂な声を返してしまう。アメジストの瞳は私を真っ直ぐに捉えてくる。
「小咲とこうして一緒に海に来れるなんて、初めて君と出会った頃には想像すらできなかった」
僅かに上がった口角と柔らかくなった目元が、何より私の情動に訴えかけてくる。
「だから、ありがとう。オレをここまで連れてきてくれて。ずっと感謝してるんだ、心から」
陽だまりの笑みを浮かべた紫恩君のおかげで、まるで夜のはずなのに昼みたいな明かりが、私たちの周りを包み込んでくれてるみたいに感じられる。
「ううん、私の方こそ、ありがとう……!」
単純でありきたりな言葉でも、そこにしっかり自分の抱える想いを乗せようと、精一杯に私は伝える。そんな懸命な私を、紫恩君はまた温かな笑顔で迎えてくれる。
――――本気ですいとーなら。
昼間に橘さんから告げられた言葉が、脳内にリフレインしてくる。
ありがとう、橘さん。おかげで自分の中の勇気を、少しだけど掬い上げることができたよ。
「ねえ、紫恩君――――」
やっぱり私は、紫恩君が好きなんだ。
他の誰にだって、彼の隣は譲りたくない。
歯止めの利かなくなった想いは、自分でさえも制御不能にしていく。
「キス、してもいい?」
そうやって発言する瞬間まで、どれだけ自分の頭に血が上っていたのかさえ、気づけなかった。
キス、きす、kiss……。え、私、口に出した? 噓でしょ。夢であって欲しい。口に出した気がする。噓でしょ。間違いない、言ってしまった。
言葉にして数秒もしない内に、自分の口からついて出た言葉がとんでもないことだと気でく。なんてことだ……頭に浮かんだだけなら、まだ救いはあったはずなのに。
だってあんなに良い雰囲気だったから、想像が色々と膨らんでしまって……。どうしよう、絶対に変な子だと思われたに違いないし、最悪ひかれたかもしれない。
そうだ、紫恩君は。顔を思わず覆った両手の指の隙間から、隣いる彼をちらりと盗み見る。向こうの海岸線に視線を向けるから、彼の表情が全く読み取れない。
「キス、したいの?」
「ふえ?」
ところが、紫恩君は不意打ちのように振り向いてくる。私は腑抜けた声を出す以外出来なくなる。
先ほどまでの笑顔はすっかり消えていて、どこか神妙な面持ちで私の瞳を見つめてくる。
「ダメだよ、こんなところでそんなこと言っちゃ」
紫恩君の顔がぐっと近くなる。
瞳の奥が色濃く感じてしまう。
撫子の花のような唇に焦点が向かう。
もうこの先は彼に放り投げ、目を瞑ってしまう。
「そういうのはちゃんと……好きな人に言ってあげな」
けれど、次に訪れたのは、想像していた唇同士の触れ合いなんかじゃなくて、紫恩君からおでこをトンと人差し指で優しく押される衝突だった。
ゆっくりと目を開けると、もう紫恩君は元の場所に座っていて、この時間の終わりがやってきたんだと悟る。
茫然とする私に、紫恩君は静かな口調で伝えてくる。
「……少し、一人にしてくれないかな」
「……う、うん、皆の所、戻ってるね」
「ああ、気をつけて」
それからはもう紫恩君の言う通り、立ち上がって、回れ右をして、歩いていくだけだった。
何かを考えられなかった。ただ頭がボーっとして、どうやって皆の所に戻ったか、どうやって眠りについたのかさえ、分かりやしなかった。
◇ ◇ ◇
「行ったかな……」
米粒くらいに小さくなっていった彼女を見届けてから、僕は一つ大きく息を吐く。
一人だけの世界が訪れたことへの安堵と、彼女と二人でいる時間が過ぎ去ったことへの切なさを覚える。
月明かりに照らされてはいるけれど、やはり暗がりの中に広がった海を遠く望む。波は依然として少しも立っておらず、荒らされた心を次第に落ち着かさせてくれる。
「まさかあんなこと、言われるなんて……驚いた」
彼女から告げられたキスという衝撃の一言が、頭に残って離れてくれないし、何故なのか正しく理解できていない。
最近の小咲はどこか余所余所しかった。
ああして二人でいる時間を過ごせただけでも、個人的には十分に嬉しかったのにな。
ポラロイドを鞄の中にしまい込み、ネイビーの手帳を代わりに取り出す。
予定などをメモして記すのに普段使いしているが、その最終ページの見開きには一枚の写真が挟み込まれている。
公園の広場をぼやけた背景にして、中心には白いワンピースを着た女の子がにこやかに佇んでいる。
天使のようで女神のような女の子。
あれから髪は女性らしく伸びて背も高くなったけれど、可愛らしい顔だちも穏やかな雰囲気も、ちっとも変わっていない。
それでも、陽だまりのように温かな笑みを見せる君という存在が、僕の中で変わりつつあるのを秘かに感じてきている。
「祖父ちゃん……僕はこれから、どうしたらいい?」
ずっとお守りにしてきた大切な写真を掲げ、与えられるはずもないと知りながら、この先の人生における新たなヒントを、空の向こうにいるかもしれない人に求めた。