もうすぐ春休みが訪れ、中一で慣れ親しんだクラスともお別れを迎える。
るりちゃんという親友も出来たのに、離れ離れになったりしたら嫌だな。
私は寂しさをまぎらわそうと、職員室へ向かう足を速めつつ、係の仕事で運んでいるものに目を向ける。今日の理科の実験で使ったプリントだ。内容はどんなだっけ。酸素と水素の違いか。
勉強はあまり得意じゃない。今度のテストに出されないといいな。私は叶うはずない願いをかける。
まもなく、一年生のフロアから職員室へと続く階段の前までやってくる。
階段を一段一段、ゆっくりと降りる。踊り場の掲示板も、新学期に向けて片付け始められている。
春休みが過ぎて二年生になっても、るりちゃんやお友達になった子とまた仲良くできるだろうか。新しいクラスになっても、他の子と親しくなれるだろうか。
――――コツン。私の足元から音がした。
途端に、私の上体が重力に従って倒れていく。
ああ、またドジやっちゃったみたいだ。
私は訪れる衝撃に備えてぐっと目を瞑ってしまう。
「――――っと、危ない」
ところが、やってきたのは階段による打ちつけでなく、私を抱きとめる柔らかな感触だった。
目を開いて階段の先を見れば、プリントが散り散りになっている。
私は真横から息遣いを感じて、恐る恐るそちらに顔を向けていく。
「よかった……ちゃんと気をつけなよ」
一瞬、女の子と見間違うほど、中性的で端正な顔をした男の子がいる。
彼のアメジストみたいに綺麗な紫の瞳に、私は自然とフォーカスしてしまう。
彼の瞳には呆けた私の顔がくっきりと映し出されている。こんな至近距離で私、男の子と顔を合わせている。
「あ、ありがとうござ――――!!?」
私はお礼を言おうとするけれど、彼の腕がお腹周りに回されていて、その腕に捕まりっぱなしの自分にようやく気がつく。
「ご、ごご、ごめんなさい!?」
羞恥にとらわれた私は、ウサギが飛び跳ねるように、彼の元から勢いよく離れてしまう。
落ち着いた雰囲気を醸し出す彼も、これにはさすがに呆然としている。
触れられたお腹の辺りが、やけに熱く感じてしまう。
頬が上気していくのも、胸が早鐘を打っていくのも、抑えることができない。
地蔵のように何も言い出せない私を尻目に、階下に降りて背を向ける彼はプリントを拾い始めていく。
「そ、そんな!? 大丈夫ですよ! 一人で全部拾えますから!」
「まあまあ、せっかくだしこれくらい気にしなくも」
まるで大したことでもないかのように、彼は軽く微笑んだまま手を止めようとしない。
……聞き入れてくれないんだな。私は申し訳なさを抱えたまま、黙って彼と同じ作業に取りかかる。
全部拾い集めるまでに、さほど時間はかからなかった。
「ありがとうございます! さっきもプリントも……」
彼がここを通り過ぎていなかったらと考えるだけで、背筋が凍るくらいぞっとする。今頃私はプリントも集められず、保健室で手当てを受けてたかもしれない。
「いやいや、君に怪我がなくて良かった」
微笑みをたたえて目を合わす彼は、一体どこまで紳士な人なんだろう。
上履きの色からして同じ一年生のようだし、一年生にこんな人がいたなんて、私はちっとも知らなかった。
「それじゃ、残りの道中も気をつけなよ」
「っ、あっ……!」
陽だまりのように温かな笑みを浮かべた彼は、私の横を通り過ぎてそのまま、階段を悠々と昇って行ってしまう。
夢から覚めたみたいに、彼の後ろ姿がはっきりと目に映る。理由は分からないけれど、彼にまだ言うことがあったのではと感じないではいられなくなる。
彼が私の視界から消えた後、両腕に抱えるプリントがずしんと重くなる気がした。
せめて名前だけでも聞いておけばよかった。
私のヘタレ、意気地なし。
彼の消えた階段の先を見上げ、私はその場でポツリと立ち尽くしてしまう。
彼の陽だまりみたいな温かな笑顔が脳裏に浮かび、心臓の拍動を再び加速させていく。
色褪せることのない、忘れられない想い出。
確かこの時が、
◇ ◇ ◇
春の陽気に澄み渡った青空が、サンダルを履いた足を軽やかにする。
学校はお休み。お店の手伝いもない。午前から女の子同士でショッピングに行き、私はその帰り道にいる。
こんな天気の良い日に、素敵な休日を満喫できる。
バッグにあるハンドタオルに手を伸ばし、汗を拭いながら私は上機嫌に道路沿いを歩く。
すると、道路を超えた反対側に、大きな公園へ続く入口がある。
まだ家に帰るには早いし、寄り道でもしよう。
私は少し先の信号を待ち、信号が青に切り替われば、そのまま公園内へと入っていく。
青々とした常緑樹は公園内を取り囲み、陽射しが隙間から差し込んで涼しさを感じさせる。ああ、春の陽気だ。私は目を閉じて感慨に浸る。
さらに公園の奥へと進めば、綺麗に足並みの揃えられた芝生広場が、私の視界に映り込んでくる。
休日というのもあって、家族連れの方々が多い。走り回る子どもたちを見て、微笑ましくて笑みがこぼれる。
そこでようやく私は、この公園に合格発表の後で訪れたのを思い出す。あの時は夜ですっかり暗かったし、雪も降っていたから。気づくのが遅れてしまった。
そうだ、葉山君とこの公園にあるベンチに座っていたんだ。私の頬は独りでに熱を帯び始める。
高校に補欠合格できて本当に、本当に良かった。
今では愛しの彼と一緒の高校、それに同じクラスで日々を過ごせている。
この前誘ったのは私だったけれど、彼が家まで送ってくれたの嬉しかったな。学校から家までの何でもない帰り道が、あんなに短いだなんて思いもしなかった。
葉山君と会えるのも明後日か。私の心はすっかり彼の姿を思い描いてしまっている。
確か、あのベンチに座ってたっけ。
ところが、そこに目を向けると、一体どうしてその彼の姿を見つけてしまう。
驚きと興奮が入り混じる私は人影に素早く潜みつつ、目を瞑り腕組みをする葉山君をせわしなく見つめる。どうやらお昼寝中のようだ。
静かに近づいて驚かしちゃおうかな。
悪戯心に火がついて、彼にそろりそろりと近づく度、心臓の鼓動がどんどんと加速していく。
なんて声をかけたらよいだろう。
彼との距離はもう、教室の机同士くらいだ。
頭に血が昇ってきてまともに考えられなくなる。彼に話しかけるのでさえ、私にとっては一つの関門なのだ。
「あれ……小野寺?」
「ギクッ!? ど、どうも、葉山君……」
優柔不断な私が躊躇いをしているうちに、葉山君は目を覚ましてしまったみたいだ。
彼は寝起きでさえも、慈愛にあふれた柔らかな表情を浮かべる。一方で、びっくり顔を晒してしまったのは、結局のところ私だった。
「こんな休日に会うなんて奇遇だね」
手持ちの荷物を膝の上に置き、葉山君は私の目を真っ直ぐ見る。アメジストの瞳を投げかける彼と相対するのは、高校生になっても照ればかり先をいくので難しい。
「そ、そうだよね! 休みに会うって滅多にないから!」
視線を斜めに飛ばしながら、私は早口で取り繕う。
学校以外で会うなんて、それこそあの夜以来。
うちのお店へたまに顔を出してくれるけど、高校生になってからはまだ一度もない。
「だよね、制服じゃない小野寺も新鮮」
そうだ、今日はお互いに制服同士じゃないんだ。
当たり前の事実に今さら気がついて、自分の服装がおかしくないか途端に気になり始める。
今日の私はピンクのワンピースに、ベージュのストラップサンダルを合わせている。
「葉山君は……私服も爽やかだね」
中央に英字付きの白地パーカー、デニムジャケット、黒地のスキニージーンズ。
高校生というより大学生みたい。普段より大人っぽい彼に、いつにも増して私の胸は落ち着かなくなる。
「どうかな? 小野寺の方がよっぽど春らしさがあって、かなり良い感じだと思う」
「あ、ありがとう」
私ばっかり顔をますます赤くさせていて、嬉しいけれど悔しくなってくる。一言で私をこうさせるのだから、葉山君はずるい。
「今日はどこかお出かけしてたの?」
「私は友達と買い物に来てその帰り。葉山君は?」
「気分転換に散歩。昼寝しちゃってたけど」
そういえば葉山君、昼休み後の授業はよくお昼寝してたな。
私の気づきを他所に、彼は荷物をリュックサックへしまい込み、左肩にかけて立ち上がる。
「せっかくだしさ、時間あれば公園少し散策しない?」
「うん! 一緒に歩こ!」
まさか葉山君からのお誘いが来るなんて。
今日は本当に素敵な休日だ。
急ぐ必要なんてないのに、私は嬉しさのあまり勢いよく立ち上がってしまう。
「よかった、それじゃあ行こう」
私の反応に込み上げた笑いを隠そうともせず、葉山君は明かるげにそう言って歩き出していく。
好きな人に恥ずかしいところをまた見られた。私は顔を上げられないまま、彼の斜め後ろからついていく。
何はともあれ、葉山君は私のそばにいて、木々生い茂る公園内を一緒に歩いてくれる。私は晴れ渡った空に感謝の思いを伝える。
「高校生になって早1ヶ月か。どう小野寺、慣れた?」
「ええ~どうだろう。まだ信じられない感じするかな」
「オレも。知ってる人だってクラスに多いし」
「そうなんだよね。なんだか実感湧かないな~」
葉山君は勿論、親友のるりちゃん、中2から知り合った一条君や舞子君。皆と同じクラスになれて毎日が本当に楽しい。
最近では桐崎さんという、金髪でとっても可愛い子も入って来て、私の周りの賑やかさはさらに増している。
「にしても、楽と桐崎の喧しさにもようやく慣れたね」
「あはは……あの二人仲いいよね」
「まあ、喧嘩するほど仲がいいってこともあるか」
桐崎さんの転校初日以来、彼女と一条君は一悶着あり、いつも言い争いを繰り広げている。この前も一条君のペンダント探しを手伝った際、ずっとそんな感じでケンカしあってた気がする。
でも、実のところ、あの二人は仲が結構いいんじゃないだろうか。
だって、あれだけお互いに言い合えるのは中々ない。
私と葉山君とでは、想像すらつかない。
「そういえば、葉山君」
「どうした?」
「葉山君はこの公園によく来るの?」
「そうだね、よく来るよ」
「どうして?」
私はちょっとした疑問を葉山君にぶつけてみる。
休日の今日も、補欠合格が分かったあの時も……。
この公園で彼と会えるのは、何かしら理由があるかもしれない。
「どうしてって……小さい頃からよく来てるし、たまに寄りたくなるんだ。ここには想い出もいくつかあるし」
言葉を慎重に選んでいる葉山君が、いつもに増して思慮深く感じた。
「想い出? どんな――――」
「あ、向こうにいるの楽じゃない?」
私は奥底へ足を踏み入れようとするが、その試みは葉山君に遮られてしまう。
向こうのベンチに座り、頭を抱えた一条君の姿が見える。
葉山君がそこへ駆け足気味に向かっていく。私も遅れないようについていく。
「おーい! 楽―!!」
「ん? って紫恩!? それに小野寺?! ど、どうして二人が?!」
葉山君がよく透き通る声でそう呼びかけると、驚いたように焦ったように一条君がこちらを見やる。
「さっきたまたま会ってさ、楽こそどうしたの?」
「い、いやあ、オレは――――」
「ダ~リ~ン!! お待たせ~~!! ゴメンね~! 思ったよりずっと時間かかっちゃって~……」
新たな少女――――桐崎さんの唐突な登場と衝撃の発言に、この場は完全に凍り付いてしまう。
ダーリン……。それって、桐崎さんと、一条君が、付き合っている、ってこと?
「二人、付き合い始めたの? おめでとう?」
「「待って!? 違う違う違う!!」」
あまりの展開に言葉を発せない私とは対照的に、葉山君は落ち着き払って彼らに祝福の言葉を送る。
桐崎さんと一条君は、必死の形相で否定しようとする。この二人は照れ隠しをしているんだろうか。
「違うと言われてもダーリンは……小野寺はどう?」
「わ、私?! ど、どうなんでしょう……」
まだ二人の関係に確信を掴めない私は、葉山君に話を振られてもどう答えればよいかわからない。照れた顔を隠すように俯くばかりである。
「違うんだ二人とも! これには深い訳が……!」
「そうなのよ! 何で私がこんなモヤシと……!」
さらに照れ隠しをしようと、彼らは躍起になっていく。そして、何かに気づいたように二人ともある方向を見やり、勢いがはたと止まってしまう。
見てる方向に何かあるのかな。
私もそちらへ視線を向けようとすると、隣から肩をポンと置かれる。
「邪魔して悪かった二人とも! 詳細はまた今度聞かせて。ほら行こう、小野寺!」
「え、ちょっ、葉山君?!」
唐突に葉山君から背中を押されるまま、私たちは四人で囲んだこの場を離れる。
何が何だか分からない。彼に押される背中が熱い。
桐崎さんと一条君はどこか救いを求める表情だ。置き去りにしたような気がして、少し申し訳なく思えてくる。
やがて2人の姿も随分と遠ざかり、葉山君は一息ついて私の隣にやって来る。私は彼に触れられていた背中に意識が向いてばかりだ。
「急かしてごめん、小野寺」
「ううん、気に、しないで。でも、どうしたの?」
「あの二人には只ならぬ事情があるようだし、邪魔するわけにもいかないかなって」
「そ、そっか……」
葉山君からごまかされたようで釈然としないけど、私は呼吸を落ち着けようと大人しく頷く。
私が呼吸を整えた頃、隣にいた葉山君はすっかり、日に照らされた池の水面へ目を向けている。
もうちょっと私のことも見て欲しい。
そんなおこがましい私は、図々しい女の子に映るだろうか。
公園の出口が徐々に見えてくる。
「そうだ小野寺」
「何?」
池の横を通り過ぎた後、葉山君はこちらに振り向く。
彼と真っ向から顔を合わせずらくて、私は思わず進む先ばかり見てしまう。
「和菓子屋おのでら、これから寄りたいんだけど。今日ってやってる?」
その言葉に私の胸は高まり、再び隣の葉山君に顔を向ける。彼の陽だまりの笑みが、私の心に射してくる。
「やってるよ! どうぞ寄って行って!」
葉山君が久々にうちのお店に来てくれる。喜びが波紋のように身体中に広がっていく。
けどそれ以上に。彼がお家まで隣歩いてくれる、まだ二人でいる時間を作ってくれることが、私にとって嬉しいのかもしれない。
葉山君は「それなら良かった」と明るく言うと、肩にかけたリュックサックを持ち直す。心なしか彼の足取りが軽やかになった気がする。それは私も同じだ。
一条君たちの事も、彼の想い出の事も。聞きたいことはいくらかあるけど、それらはまた今度聞けばいい。私は少し先を行った彼の後ろ姿を眺める。
そうだ。この公園の想い出について、私は古くなった一つの記憶を思い出す。
小三の春休み。あそこのベンチに座り、長い髪で黒縁眼鏡をかけた、女の子みたいな男の子。
ポラロイドという写真機で私を撮ってくれたあの子。
同い年のはずの彼は今、どこにいて、何をしているのだろう。