時は経ち、私は中学二年生になった。
新たなクラスでは再び、るりちゃんと一緒になれた。思わず嬉しくて泣いてしまったのが随分と懐かしい。
勉強はどの教科も難しくて、ついていくのに必死だ。けれど、クラス内の人間関係は良好で、女の子の友達も増えたし、おかげで日々楽しく過ごせている。
ただ心残りがあるとすれば、アメジストの彼とあれ以来話をしていないことだ。
彼とは別のクラスになり、それだけで残念な気持ちになった一方で、どうも当人は隣のクラスにいるらしい。
うちのクラスの一条君や舞子君と彼が、廊下で談笑するのを何度か見かけている。るりちゃん曰く、彼らは一年生の時に同じクラスだったみたい。
話しかけるチャンスは何度もあった。それなのに、紅葉が木から落ち始める頃になっても、私はまだ彼に話しかけることすらできていない。
コミュニケーションに苦手意識がある訳ではないし、お店の手伝いのおかげで色んな人と話す機会がある。
それでも、どうしてだろう。
彼に話しかけようとしても、どうやって話しかけて、それから何を話せばよいのか。彼を視界に入れると、全く分からくなってしまう。
それに、男女関係なく、彼は誰かに囲まれている。
おかげで話しかける機会も限られるけれど、陽だまりみたいな彼の人柄が垣間見えて、ますます私は彼のことが気になってしまう。
そう、気になるのだ。気になって仕方ないのだ。
でも、彼に話しかけようとすると、心臓がバクバク音を立て、とても彼を目にすることができなくなる。
彼が近づいてくるのが分かると、咄嗟にどこか物陰に隠れたくなってしまう。
この気持ちのざわめきは、一体どういうことなんだろう。
そう頭を巡らせて溜め息をつく。
喧騒のする食堂で行列に並んでいるから、ついついぼんやりと考えてしまう。
ほどなく自分の番がやってきて、私は食券を食堂のおばさんに手渡すと、元気な声と共に熱々の中華丼がトレーに置かれる。
必要な食器を回収し、人の邪魔にならない柱付近で、沢山のおかずを頼むるりちゃんを待つ。今日もよく食べるなあ。体重計を気にする私は、少し羨ましく彼女を眺める。
るりちゃんはトレーに大盛りのごはんも付け足して、普段通りのポーカーフェイスでやって来る。私は苦笑いを返してから、席を探す彼女の後をついていく。
「あそこにしましょう」
るりちゃんが指さす方を見ると、十メートル先に向かい合いで空席が二つある。
混雑する時間帯だから、急いで確保しないと――――。
「小咲、どうしたの?」
るりちゃんが訝しげにこちらを見やるが、私は足を止めてしまう。
なぜなら、空いている席の隣には、私が今、最も気になる人物の後ろ姿があるから。
「ほら、急ぐよ小咲」
「ちょっ、ま、待ってるりちゃん!?」
私の制止も何のその、るりちゃんはズンズンと向かい、空いた席へ自分のトレーを置いてしまう。私は亀のようにゆっくり、ゆっくりと近づいていく。
「おや! るりちゃんじゃん!」
「あら舞子君、それに一条君。ちょっと邪魔するわね」
るりちゃんは早速席に着いて、隣の舞子君や一条君と挨拶を交わす。
ということは、必然的に、私の隣になるのは……。
「ほら小咲~! 早く来なさい~!」
「な、ま、待ってよ?! まだ心の準備が――――」
るりちゃんに促されるまま足を踏み出した瞬間、私にはまたしても独特の浮遊感が訪れる。
まずい――――。時すでに遅し。私の中華丼は彼に目がけて一直線に飛んでいってしまった。
「あっっつッッ?!!なんだこれ!?」
「わああああごめんなさいぃぃ!!!」
中華丼は無情にも彼の頭へと覆い被さる形となり、熱々なそれからのダメージをモロに受けてしまっている。
大変なことをやらかしてしまった。
冷や汗の止まらない私は、大急ぎで自分のありとあらゆるポケットを漁り、ハンカチやポケットティッシュを彼に渡しに行く。
「大丈夫か紫恩?!」
「これまた派手にやっちゃったね~」
「吞気なこと言ってる場合じゃないでしょ」
一条君が心配そうな表情で、自分のハンカチを取り出そうとしている。
舞子君とるりちゃんも、近くの席から台拭きを持ち寄っている。
「ごめんなさい!!私がうっかり手を――――」
「だ、大丈夫……何とか。めっちゃくちゃ熱いけど」
私から受け取ったハンカチで顔を拭いながら、彼は苦笑いまじりに努めて気丈に振る舞う。
ハンカチの先からアメジストの瞳と視線が交わる。
「あれ? 君は確か、あの階段の……」
「そ、その節はどうも! また迷惑、かけちゃって……」
嬉しいやら恥ずかしいやら申し訳ないやらで、私はまじまじと見つめてくる彼と目を合わせられない。
消え入りそうに俯く私に対し、彼は一条君のハンカチを頭にあてる。
「オレは大丈夫だから。そっちは? 怪我とかない?」
「躓いた、だけだから……私は何とも、ないよ……」
「よかった、君に怪我がなくて」
彼の優しさが沁み込んでくる。あの時も今回も悪いのは全部私だったのに。
どうして彼はこれだけの気遣いを、私に対して示してくれるのだろう。
「こう二回もトラブルに遭遇すると笑えてきちゃうな。そうでしょ? 小野寺小咲さん」
「え?! ど、どうして、私の名前……!!」
彼の透き通る声から私の名前が弾かれて、驚きに溢れた表情で私は彼を見返してしまう。
彼は地面に落ちていた何かを拾い、私へさっと差し出してくる。いつ落としたのだろう。慌てるあまり全然気付かなかった。
「生徒手帳。ほら、落し物にも気をつけなよ」
「わ?! ありがとう、気をつけます……!」
私が呆気に取られていると、彼が私へ生徒手帳をトスしてくる。私は咄嗟にそれを両手で大事に掴む。
ナイスキャッチ。彼の明るい声が耳に響く。
「オレの名前は
陽だまりの笑みで彼は、私を正面から捉える。彼という光が、私に射し込んでくる。
彼から目が離せない。離したい。でも離したくない。
抱える気持ちにどんどん色がついていく。
葉山紫恩君。何度も口ずさんでみたくなる。何と綺麗で穏やかな響き持った名前なんだろう。
◇ ◇ ◇
朝から学校に登校し、授業を日中受けて、それが終われば下校する。そんな何でもない平日。
いつもはそんな風に過ぎてゆく。だから私は今、授業後に一つの長机を囲んで皆と勉強する状況に落ち着かないでいる。
「なあなあ楽~宿題どこまで進んだ?」
「あ? 二枚目だが……」
「あらもやし? ちょっとのんびりしすぎじゃない?」
「うるせぇな! こっから集中して終わらせんだよ!」
向かい側の中央に座る舞子君の一言から、るりちゃんを挟んで左隣にいる桐崎さんと、彼女と向かい合う一条君がいつものように掛け合う。
ここは一条君のお家だ。彼の家柄は知っていたけれど、強面の方々は私たちを温かく出迎えてくれた。彼同様に、根っからの悪い人たちでないと安心している。
こうした勉強会なんてあまりないから、少し浮ついているのかも。でも、きっとその最大の要因は、私と向かい合う人物のせいに違いない。
「紫恩はどこまで進んでんの?」
「オレはあと少しかな? 集だってそれくらいだろ?」
やや苦笑交じりの葉山君は、机に向かいながら応じる。ペンを持つ左手でノートをトントンと叩き、右手でこめかめの辺りを抑えている。
勉強する葉山君もかっこいいな。
私は正面にいる好きな人を窺うばかりで、全く宿題に集中できないでいる。
「ねえ、るりちゃん? この問題分かる?」
「んー?」
問題が解けなくて困り果てる私は、るりちゃんに助けを求める。元から辿れば、葉山君たちに勉強会を提案したるりちゃんが、今回の発端だっだ。
「あーちょっと分かんないー葉山君に聞けばー?」
「ええ?! さっきずっと難しそうな問題解いてたでしょ!?」
「いいからとっとと行け!」
有無を言わせぬ彼女の圧力に負け、私は顔を俯かせながら葉山君の元へと向かう。
「えっと、その、よろしくお願いします……」
葉山君の少し斜め後ろに私は座る。いきなり彼の隣では、平静を保てそうにないから。
「ああよろしく、ちなみにどんな問題?」
「こ、この問題なんだけど……解ける?」
葉山君は若干驚きの表情見せた後、私の差し出す宿題プリントの問題に目を向ける。
「これか、この問題は先にαを代入してやると……」
プリントに向かう葉山君の真剣な眼差しを、説明を聞くよりも集中して盗み見てしまう。
見られる心配がないなら、こうしてずっと見ていたい。
私の視線を知ってか知らずか、彼は説明の際中に時おりこちらを確認してくるので、私はその度に慌ててペンを持つ彼の右手に視線を移す。
こんなやりとりの中でも、クラスで上位の学力を誇る彼の穏やかな説明は、きちんと私の耳に入り込んでくる。
「わあ解けたー! ありがとう! すっごく分かり易かった!」
雑念交じりの私でも分かるようになったのだから、彼の教え方に賞賛の念を抱かずにはいられない。
「中々難しいよねこの辺りは。オレもこの前、桐崎に少し教えて貰ったしさ」
「え? そうなの?」
葉山君の言葉に、私は間の抜けた返しをしてしまう。
彼と桐崎さんは一緒に勉強したことがある。胸にちくりとした痛みを感じる。
「桐崎なら宿題もすでに終わせたんじゃない?」
「うん終わってるよー! ねぇ小野寺さん! 勉強だったら私が教えようか?」
「え、ええ? でも……」
キラキラとした表情を遠慮なく向けてくる桐崎さん。私はモヤモヤのまま、曖昧な返事ばかりしてしまう。
「数学ならオレより桐崎に教えてもらうのがいいよ」
葉山君は微々たる笑みと共に、アメジストの瞳でそうするようにと促してくる。
霧の晴れない私はそれに抗うことができず、大人しく従って桐崎さんの元へ向かう。
桐崎さんに教えてもらうのに、なんら不満がある訳じゃない。不満じゃないけど、腑には落ちない。
本当はあのまま、彼の側にいさせて欲しかった。言葉に出せない想いは行き先もなく、私の中でうねるばかりだ。
「ねーねー小野寺さん、好きな人とかいないの?」
脳天を衝かれたように、私は思わず吹き出してしまう。
無邪気な桐崎さんからの、不意打ちで悪気の全くない質問。なんて間が悪いんだろう。
一条君が桐崎さんを咎めているが、彼女はガールズトークだと主張する。ガールズトークは女子だけのいる空間でやって欲しい。
「わ、私は今は、そういう人は……」
この場には皆いるし、しかも好きな人がいる。
今の私には、この誤魔化し方しか出来ないし、知らない。
葉山君の表情はまるで変化がなくて、雲のようにちっとも掴めない。
ちょっとくらい反応してくれてもいいのに。
自意識過剰な私は、勝手に落胆してしまう。
恥ずかしさ一杯の私がプリントばかり見つめる内に、舞子君が桐崎さんに一条君との進展具合を質問している。
それこそデリカシーがないんじゃないだろうか。色んなことを想像してしまって、私は頬を赤らめてしまう。
「お前ちょっとこっち来い……!!」
「ええー? 何だよー」
「あ! 紫恩も一応来てくれ!」
「オレも? 要らなくない?」
「いいから頼む! 来てくれ!」
一条君が立ち上がるや否や、物凄い勢いで舞子君だけでなく葉山君まで連れて、部屋を出て行ってしまう。
「騒がしいわね、もやし……」
「ったく一体どうしたのかしらね」
足音のしないほど遠くへ行ったことを確認してから、桐崎さんとるりちゃんが口々に疑問を呈す。すると、るりちゃんがこちらの肩に手を置いて桐崎さんの方を向く。
「そうだ小咲、桐崎さんに一つ訂正しなきゃじゃない? 好きな人のことで」
「え、小野寺さん! やっぱり好きな人いるの!?」
桐崎さんは目を輝かせて私に目を合わせてくる。
るりちゃんの気遣いだろうか。この状況のガールズトークなら、私も正直に自分の胸の内を明らかにできる。
「う、うん、実は……私は葉山君の事が……」
いざ口に出そうとすると、彼の陽だまりの笑みが脳裏に映し出されて、言葉に詰まってしまう。
ここできっぱり言えないとなると、いつ彼の前で私の想いを曝け出せるのだろう。
「そっかー!! 葉山君、いい人だもんねー。前も私たちのことで手伝ってくれたし、頼りになる友達よね!」
葉山君は、友達。その一言だけで安心した気持ちになる私は、自分の思うより悪い子なのかもしれない。
「私、応援してる! 小野寺さんならお似合いだよー!」
「そ、そうかな? ありがとう……」
「うん! あ、そしたらさっき、邪魔しちゃった……?」
「そんなことないよ! 全然! 気にしないで!」
「そう? なら良いわ」
桐崎さんに邪な気持ちはないのが、痛いほど伝わってくる。あっけらかんと素敵な笑みを浮かべる彼女と、私はもっと仲良くなりたくなる。
「そういえば桐崎さん、あなたと一条君のことだけど」
「え?! な、何かな宮本さん――――」
話も切り替わって、るりちゃんが桐崎さんたちのことを聞きだそうとする。その時、三人分の足音がこちらへと近づき、襖が開いて彼らが戻ってくる。
「ダ、ダーリン! 遅かったわねー?」
「お、おう? ちょっとな……」
助かったようにホッとした表情の桐崎さんを、一条君は訝しげに眺める。
そして彼らが席に腰を落ち着けてから、再び皆それぞれ勉強へと取り組み始める。
私は桐崎さんに宿題を教えてもらいつつ、時おり葉山君へ視線を移す。
静かで凛とした表情、きりっとした鼻、透明感ある白い肌。
かっこいいより美しいと感じるような男の子は、たとえ町の中を見渡したってそうそういない。
桐崎さんの説明がたまに頭に入ってこない。それほどあなたばかり見つめてしまう。
葉山君は私のこと、一体どう思っているんだろう。
お互いの胸の内が明らかになるのは、まだもう少し先のことになりそうだ。