アクタージュは終わらない【原作の続き】   作:宇津木 恭吾

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SCENE132 歴史と時代

 目の前の建物の入り口に向かっていく人々は身なりの良い中高年の女性ばかりだった。

 そこでようやく夜凪は自分が着物を着させられた理由が分かった。

 

「まさか……このためだけに着物を買ってくださったんですか!?」

「そうよ。タニマチ気取りで連れ回すような真似はしないから安心しなさい。

 正直、若い子と一緒にいるの好きじゃないのよ」

 

 気怠げに言い放った真美。

 

(好きでもない相手に今日だけで何十万円使ったの……)

 

 大女優の金銭感覚に夜凪はクラクラする。

 

「ああっ! 薬師寺真美よ! 

 後ろにいるのは……たしか、夜凪景!?」

 

 誰かが声を上げた。

 するとその気づきは一瞬で周囲に伝播し、好奇の目線が一斉に真美とその後ろを歩く夜凪に向けられる。

 

(やっぱり変装も無しに人混みに現れたらそうなるわよね!)

 

 夜凪は揉みくちゃにされるのを予想して身体を強張らせた。

 しかしそれは杞憂に終わる。

 

 キッパリとつぐまれていた真美の唇がうっすらと開き、ゆったりと言の葉を紡ぐ。

 

「こんばんわ、みなさま。

 お騒がせしてごめんなさいね」

 

 フワリと笑いかけ、静々と歩く真美の姿に周囲の人々は思わず見惚れた。

 真美はとうに還暦を過ぎており、若作りに興味は無く年相応の姿を受け入れている。

 美人女優として名を馳せていた頃の姿は見る影も無く、髪の毛は白く細くなり、顔にも多くのシワが刻まれ、宝石に喩えられた瞳も落ち窪んだ。

 それでも人々は彼女を美しいと思わざるを得ない。

 60年もの年月を芸能の世界で生き続けてきた生粋の女優は誰よりも他人の目に慣れており、そして人心を操る術も熟知している。

 

 落ち着いた物言いと堂々とした態度に周囲の人々は圧倒され、遠巻きに彼女を眺めている。

 道を譲られた真美の後ろをせっせとついていく夜凪。

 元々、歌舞伎鑑賞を趣味にするような人は余裕と落ち着きがある裕福な中年層以上がほとんどなのだ。

 とはいえ、少々場違いな客が混じっていることもある。

 

「やっべー! ギーナチョコの子じゃん! 

 クッソ可愛い! コッチ向いてよぉ」

 

 派手なライトグレーのスーツを纏った馴れ馴れしい口調のホスト風の若い男。

 隣にいる二回り上の女性は連れなのだろうが、彼を止めはしない。

 男はスマホを取り出してカメラを夜凪に向ける。

 

「ちょ……写真はNG!!」

 

 一般人に気安く写真を撮らせるな。

 高校の生徒たちと写真を撮った事をアリサに言うとそう叱られた。

 スポンサーたちは夜凪を撮影するために何千万円というお金を投資している。

 自分の肖像権を守るのも仕事相手に対する義理立て————とアリサから厳しく言い含められている。

 

 同じ高校の生徒たちについては生活環境を守るため、ある程度はファンサービスとして致し方ない、とお目こぼしはもらえたが、どう考えてもこれは良くない。

 

「ハイハイハイ、笑って笑って!」

 

 慌てて逃げようとするが着物と人混みのせいで動けない。

 ニンマリと笑った男の指がスマホの画面に触れ、シャッターが切られる……直前だった。

 

「へ?」

 

 男のスマホの画面には夜凪の顔は写っていない。

 夜凪の顔の位置には柿渋染めの扇子が開かれており、カメラから守っていた。

 そして、その扇子を差し出していたのは、真美だった。

 

「人気あるのね」

 

 クスリと笑い、パンッ! と扇子を掌で叩く。

 そして写真を撮っていた男をギロリとひと睨み。

 

「うぇ…………」

 

 図太い神経を持っていそうな男が気圧されるほどの迫力。

 再びカメラを向けることはせず、すごすごと連れの女性のもとに戻って行った。

 

 その立ち回りに周囲の真美への視線は一層強くなった。

 守られた夜凪自身も胸がドキドキしている。

 

「カッコイイ……

 まるで映画に出てくる女傑みたい」

 

 鮮やかすぎる振る舞いは日常を非現実的な特別な時間に変える。

 仕草や振る舞いが美しすぎる人と過ごすと往々にして起こる現象だ。

 

 

 

「真美ちゃん!」

 

 チケットをもぎられ入場するとすぐ真美が声をかけられた。

 夜凪は声の方を向くと、薄緑色の着物に身を包んだ80歳は過ぎた高齢の女性がゆっくりと歩み寄ってきていた。

 

「ご無沙汰しております。

 ご健勝そうで何より」

「あー、久しぶりだねえ。

『我が心のままに』の現場以来か?」

「やあね。昨年、顔見世でご挨拶したじゃないですか」

「そうだっけ? 

 ついこないだのことだった気がするんだけど」

「50年以上前はこないだにはなりはしませんよ」

 

 噛み合っているのかよく分からないやりとりを眺める夜凪。

 

『我が心のままに』は戦後間もない頃、夫を亡くした女性とその娘が貧しいながらもたくましく生きていく姿を描いたヒューマンドラマ作品。

 国内外の評価も高く、夜凪家の映画コレクション中にも入っている。

 真美は娘役で出演していて主演の母親役は東うららという往年の大女優だ。

 小柄で顔のパーツのどれもが小さく、華やかな美貌とは程遠い容姿ながらも観客を魅了する不思議な可憐さと鬼気迫る怪演をこなす演技力を兼ね揃えていた。

 

(……あれ?)

 

 夜凪は目の前の老婆に見覚えがあった。

 腰は曲がり背はさらに小さくなり、顔の筋肉は退化し凡庸な老人の顔をしている。

 それでも、真美と語らっている姿はまるで『我が心のままに』の後日談にありそうな姿で……

 

「東……うららさん?」

 

 夜凪は思わず声に出してしまった。

 すると老婆はぱあっ、と表情を明るくした。

 すると真美が夜凪の耳元で囁くように告げる。

 

「吉野さんよ」

「吉野……まさか、桜治郎さんの親戚?」

 

 夜凪が慌てふためいていると真美は「何も知らないのね」と言わんばかりの冷たい目線を向ける。

 それに気圧される夜凪に助け船を出すように老婆は笑いながら語りかける。

 

「まあまあ、懐かしい名前で呼んでくださるのね。

 しかもこんな若い娘さんに知られているなんて。

 桜治郎は私の孫ですよ」

「えええええっ!?」

「五月蝿い、静かに」

 

 

 映画女優、東うららは50年前に引退し、歌舞伎役者、吉野宗九郎の妻として梨園に入った。

 以来、千本屋吉野家の人間としての務めを果たすため女優活動は一切行っていない。

 半世紀前は銀幕の華としてそれこそ薬師寺真波と比肩し得る大女優だった。

 

「歌舞伎役者さんと結婚されてたんですね……

 私映画でしか観たことなかったから」

「奥様方は女優さん多いわよ。

 やっぱり役者さんっておモテになるから」

 

 チラリと真美が視線を向けた先では言葉の通り、役者の妻たちが来場されたお客相手に挨拶をしていた。

 

「珍しいね、あんたが娘さん連れてくるなんて。

 ん? 結婚しとったけ?」

「してませんよ。

 この子は今度大河で共演する若手です。

 社会勉強のために連れてきました」

「ああ……桜治郎が白洲さんをやるんだっけ。

 近い時代の話だとこういう妙があるんだよなあ。

 アンタは当然真波の役をやるんだろ」

 

 うららの発した言葉に一瞬、真美の表情が強張った。

 

「私は……曾祖母の役です。

 母を演じるには歳を取り過ぎましたから」

 

 再び涼やかな微笑を浮かべて答える真美を夜凪は複雑な気持ちで眺めていた。

 

 薬師寺真波は50歳の若さでこの世を去っている。

 キネマのうたの企画会議には『薬師寺真波 没後50年記念作品』という言葉も使われていた。

 当時、真美は15歳。

 娘役として映画女優として活躍し始めていた頃のことだった。

 

 以前、真美が環の目の前で「若ければ自分がやりたかった」というのは二つの意味がある。

 自分の方が女優として環より優れていたという自負。

 もう一つは還暦を過ぎた自分はすでに母親の享年をとっくに過ぎてしまっているということに対する後悔。

 

 それを感じとってしまった夜凪は自分が演じる薬師寺真波という役の重みを改めて受け止めるのだった。

 

 

「うららさんね、一年ぶりにあいさつに出られてるの」

 

 客席に向かう道すがら真美は夜凪に語りかける。

 

「お身体悪くされてたんですか?」

「ええ。ここ5年くらいは病院を出たり入ったり。

 若い頃は寝る間もなく現場から現場へと飛び回って、引退したら梨園の妻だもの。

 華やかに見えて過酷すぎる人生よ。

 穏やかで優しい方だから周りのことも想って辛そうな素振りは一切見せなかったけどね」

 

 しばしの沈黙の後、真美が小声で話す。

 

「あなたが東うらら、って呼んでくれたことよっぽど嬉しかったんだと思うわ。

 葛城屋の女将さんとしての人生の方が長くなってしまったけれど、女優だった頃の自分を誇りに思ってらっしゃる。

 人間誰しも自分が認めてほしいことで認めてもらいたいものなのよ」

 

 真美の言葉に夜凪は胸の奥を引っ掻かれたような気分になった。

 

「認められることが、あまりないんですか? 

 あんな凄い女優さんだったのに」

「梨園に入るとはそういうことよ。

 歌舞伎の世界は封建的な男社会。

 嫁いだ女に求められるのは屋号を守り、技を受け継ぐ男児を産むこと。

 三十路をとうにすぎて結婚したけれど三人も息子さんを産んだうららさんは立派に勤めを果たしたと言えるわね」

 

 現代っ子の夜凪にとっては理解しにくい価値観だ。

 ただ分かった事は歌舞伎役者の妻になるのは大変だということ————

 

「はっ!?」

 

 夜凪は頬を両手で押さえる。

 

「どうしたの?」

「もしかして……ここに連れてきてくださったのは私が桜治郎さんの妻は大変なんだと教えるために……」

 

 ズルッ、足を滑らせそうなほど真美は脱力した。

 夢に浮かされているような夜凪を凍りつかんばかりの冷たい目で見つめ、

 

「そんなあり得ないことの心配、つゆほどもしていませんよ。

 あなた謙虚なのか自信家なのか分からないわね……」

 

 バカなのはたしか、とはさすがに口にしなかった。

 

 

 二人は客席に座り、舞台にかけられた黒、柿色、萌葱色の定式幕と向かい合う。

 歌舞伎の観劇経験のない夜凪の手元には筋書(すじがき)と呼ばれる上演される演目のあらすじやみどころが書かれている冊子、上演中に音声解説してくれるイヤホンガイドがあった。

 ネタバレを見ながら観劇するというのは初めてのことだったが書かれている内容の面白さに思わず意識が引き込まれる。

 

「あまり読み込み過ぎるとお客さん気分が無くなるわよ。

 程々にね」

 

 真美の忠告を聞いて自分が役者目線になっていた事に気づき、筋書を閉じる夜凪。

 

「私、歌舞伎って初めてなんですけど何かアドバイスあります?」

「そうね。大向こうの人が『待ってましたっ!』『よっ! 葛城屋っ!』とか声を上げるけど、あれは決められた人しかやってはいけないから」

「アレってヤラセなんですか!?」

 

 夜凪は自分でやる気満々だったので、ガーン、と音が聞こえそうなほどショックを受けている。

 

「たまに居るのよね。

 役者のファンなのか知らないけど甲高い女の声で真似事しちゃうの。

 大向こうは男性しかいないから一発でバレるし、会場中から白い目で見られるわよ」

「いろいろと歌舞伎文化って女性に厳しくないですか? 

 女の役者さんもいないし……」

 

 不満を漏らすような夜凪の口振りを真美は想定していたように語り始める。

 

「元々、歌舞伎の発祥とされる風流(ふり)踊りは出雲阿国(いづもの おくに)が代表されるように女性の文化だったのよ。

 歌舞伎も当初は女が中心に舞台に上がって行われていたんだけれど、江戸の世は風紀の取り締まりが厳しくてね。

 取り締まりを避けて歌舞伎をやるためには女性を舞台に上げず、男だけで力強い物語を上演する必要があった。

 だから女形のように女性役も男がこなす文化ができた。

 あまりにその文化が根付きすぎてしまって、草創期の映画でも女性役を男性が演じていたり面白いことになっているけど」

「今はそんな決まりはないんだから歌舞伎女優が出てくる可能性も」

「まず体力的に無理よ。

 女形の着ている衣装って二〇キロくらいあるし。

 たとえそれがどうにかできる人がいても、伝統歌舞伎に女優が参入することは未来永劫あり得ない。

 私たち女優にとってあの定式幕はベルリンの壁よりも厚い」

 

 観客席がほぼ埋まり、上演前のアナウンスが流れる。

 真美は聞き取りやすい小声で夜凪に告げる。

 

「言葉や風習が変わり筋書とイヤホンガイドがなければ物語を追うことすらできない。

 万人向けのエンターテイメントからは程遠い教養になりつつある文化。

 世襲制や人権を無視したような厳しい稽古や偏屈な風習は現代人からすれば非人道的なものかもしれない。

 だけど元禄の世から今日まで三百年以上受け継がれてきている。

 観ておきなさい。

 きっとあなたがこれから戦う上の武器になるから」

「武器……? それは————」

 

 夜凪は問い返そうとしたが真美は舞台に目をやったまま唇の前に人差し指を立てた。

 マイペースなのに主導権を一切渡さない人ね、と夜凪は肩を竦め、あきらめたように舞台に目を向けた。

 

 

 演目は『義経千本桜』。

 三大名作に数えられるこの演目は源平の合戦が終わった後、落ち延びる源義経と静御前の前に敗れたはずの平家の武将たちが襲いくる幻想と史実が交錯する物語。

 しかし、歌舞伎において物語というのは美術や音と並んであくまで一要素に過ぎない。

 舞台の華はやはり役者。

 隈取りを施した悪役たちの力強さ。

 女形の嫋やかで艶やかな所作。

 舞台の上で役者たちは所狭しと動き回り、観客に訴えかける。

 

『俺を観ろ!』

 

 と。

 真似たくなるような独特で重みのある台詞回しに魅了され、大立回りに興奮する。

 怒涛のように時間が過ぎて、終わった後に残ったのは疲労すら伴う満足感だった。

 

 

 

 帰りのタクシーで夜凪は真美に観劇の感想を語り続けた。

 それを鬱陶しそうに聞き流しつつも、所々で微笑み混じりでうなづき返していた。

 

 夜凪の弟妹が預けられているスタジオ大黒天の前にタクシーは到着する。

 車から降りた夜凪は深々と真美に頭を下げる。

 

「今日は本当にありがとうございました! 

 その……いいものを観させていただきました!」

 

 その言葉を聞いて真美は満足気に笑う。

 

「着物の御礼よりそっちを先に伝えるあたり、見所があるわ」

「ハッ! い、いえ! もちろん着物も感謝してるんですが……あ」

 

 見所がある、と褒められていることに気づき、言葉を失う。

 

「三百年前と同じ舞台をこの世に再現できる歌舞伎役者たちはもはや歴史そのもの。

 ちょっとレッスンをかじっただけの映像役者や現代演劇の役者とは下積みも違うし、かかる期待と重圧に育まれた分厚さが比べ物にならない。

 だけど————」

 

 キッと貫くような視線で夜凪を見つめる真美。

 もし、映画の中であればBGMも環境音もフェードアウトするような緊張感が高まっていき、その言葉が紡がれる。

 

 

「映像の中でまで彼らの後塵を拝することは許されない。

 彼らが歴史ならあなたは『時代』となりなさい」

 

 

 期待と重圧を込めた言葉を残して、タクシーは走り去っていった。

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