カフェのテラス席でカプチーノを飲みながらタブレットを開けていると隣の席に女性が座った。
大きなティアドロップのサングラスとマスクで顔の全面が覆われているが、頭の小ささや流行りの格好がオシャレに見え過ぎている。
間違いなく美人さんだ。
思わず観察してしまう。
キャラメルマキアートにカフェスプーンを突っ込んだ後、思い出したかのようにマスクを外した。
顕になったのは整った鼻梁に陶器のようにきめ細やかな白い肌。
生でこんな綺麗な子を見るのは初めて……いや、テレビの中でだってこんな綺麗な子を見るのは……あ————
頭の中にある遠く離れた記憶のピースと今の状況が結びついた。
僕はこの女の子を知っている。
テレビで雑誌で映画館で、彼女が天使のように笑っていたのを観ている。
思わず声をかけようと席をガタリと動かした瞬間、彼女は僕の方を振り向いた。
綺麗な天使と相対しているのに、メデューサに睨まれたかのように体が動かなくなった。
彼女はサングラスを少しだけ下げ大きな瞳を晒した。
目力の強い人の目ってマンガみたいにキラキラしているのを初めて知った。
彼女————百城千世子は唇に人差し指を当てて小さく呟く。
「ナイショにしててね」
僕は自然と腰を下ろしていた。
彼女と自分だけが持つ秘密が生まれたような気分になって、他に何もいらないくらいに満たされていた。
SCENE133 千世子の定義
羅刹女の舞台が終わって間もない頃、百城千世子もまた新しい仕事に取り組んでいた。
映画には何本も出演している。
しかし、今回出演を決めた映画は今までの彼女のキャリアに存在しない類の仕事だった。
「おはよーございまーす」
千世子が元気よく挨拶してスタジオに入るとスタッフが一斉に彼女に視線を向ける。
普段の現場ならクランクイン時には天使が降臨したのを目に焼き付けようと熱を持った視線が彼女に刺さる。
だが、低いトーンでおはようございます、と返してまもなくスタッフは何事もなかったかのように作業に戻る。
業界人からも好感度の高い『スターズの天使』のお出迎えにしては冷ややか過ぎるものだった。
「マジで来たよ、天使」
「ドタキャンされると思ってたわ」
「俺はそれを願ってたけどねー。
アイドルの成長(笑)のためにボスの作品を利用されたくないじゃん」
「ていうか、NG連発でボスがキレるのが嫌だ。
あの子芝居の方はどうなん?」
「んー、上手いと思うよ。
天使を演じてる分には」
「スターズの天使、か。
落ち目なのかね。
こんな役やったらタイトル通り堕天しちまうよ」
一部のスタッフが小声で交わしている言葉を千世子はキッチリと地獄耳で拾い上げている。
決して友好的とは言えないムードを感じ、千世子は自嘲気味に笑った。
(わあ。アウェイ感たっぷりだ。
ま、クランクインから一月以上経っての主演女優の登場なんて印象悪過ぎだもんね)
ここ数ヶ月、千世子は羅刹女の舞台にかかりきりだった。
もちろん、稽古以外の時間でこなせる『デスアイランド』の舞台挨拶や『羅刹女』の公演PRをできるバラエティ番組の出演などは行っていたが、芝居をする仕事は一切入れなかった。
これは羅刹女の演出家である黒山墨字との間で個人的に交わした約束によるものだった。
「俺がお前を作り変えてやる。
だから、この舞台に立つ間は他の芝居の仕事はしないでくれ」
「まるで嫉妬深い恋人みたいね」
「なんだ? 恋愛経験はあるのか?」
「私は天使だよ」
肯定とも否定とも取れそうな回答をする千世子。
墨字は鬱陶しそうに頭をかく。
千世子が羅刹女の舞台に立つ理由の一つに「スターズの天使」というイメージからの脱却願望があることを墨字は察していた。
もちろん、消費期限が過ぎた後も立ち回りの巧さや天運のおかげで芸能界で生き残ることもあり得るが、そうなれば夜凪景の後塵を拝し続けることとなる。
その屈辱を許容できるほど千世子は凡庸ではない。
「天使のイメージ脱却したからといって、その上にチープなイメージを塗り重ねられたら台無しなんだよ。
お前の次に繋がる武器は俺がくれてやる。
下手な奴らに指一本触らせるな」
まっすぐ睨みつけるように千世子を見据える墨字。
千世子は目を見開いたまま笑みを浮かべて答える。
「夜凪さんもそうやって口説いたのかな?」
「黙れマセガキ」
この段階で墨字は千世子を『悪魔的』————怒り、憎しみ、嫉妬、強欲といった忌避されるべきネガティブな感情を躊躇なく表現できる役者にできるという確信はあった。
だが、羅刹女の公演で夜凪が魅せた狂気の芝居は墨字を触発し、千世子をさらに上のステージにと押し上げた。
『天使と悪魔は呼び名が違うだけ』
キリスト教世界における上位天使であるルシファーが地獄の魔王となったように、仏教世界において子供を食い殺していた鬼子母神が安産の守り神になったように。
所業や見方によって呼び名が変わっただけであり、元は同じひとつのカラダである。
そして役者とはひとつのカラダで複数の人格を表現することができる生き物。
善か悪かどちらかを選ばなくてはならなくてもいい。
使い分けて構わないのだ。
衣装替えとメイクを終えた千世子は撮影スタジオの隅でパイプ椅子に座って台本を読みながら出番を待っていた。
彼女が参加している作品はノワール界の巨匠『
半グレ集団に親兄弟を殺されて自身も深い傷を負わされた女子大生が、刑務所帰りの殺人犯を誑かせて復讐をさせるという物語だ。
原作にはハードな暴力描写や性描写があり、そのまま映像化するならばどうやってもR15は免れないのだが、原作者である芥子山が「映画は俺の作品じゃないんだから好きにやっちまえよ」と言ったため、表現をマイルドにしPG12の区分で上映できるよう製作することが決定した。
監督は昭和の時代から極道もののVシネマやピンク映画を撮り続けてきた『
主演男優には十代の頃に一世風靡しながらも素行の悪さから大手事務所を追い出され、今はフリーで活動している
これだけの情報だと決して商業ウケしない作品になることが確実な人選だが、そこに百城千世子という煌びやかな宝石をひとつ放り込む。
するとこの作品は「人気の絶頂にあるスター女優の主演映画」に化ける。
ハードな描写はスター女優の体当たりの演技を観れるかもしれないという期待を呼び、観客見込みの増は公開規模に直結する。
自著の宣伝効果が望める芥子山にとってはまたとない話であり、メジャーシーンから遠ざかっている伊皿子にとっても自身をPRする格好のチャンスだ。
しかし、この状況を監督の木下慈恩は憂いていた。
木下からすれば自ら志願してきたとはいえスター女優を主演につけるのは本意ではない。
小規模な映画を中心に撮ってきた木下にとって、製作予算の都合による縛りは苦ではないが、女優のイメージに起因する演出上の縛りは耐えがたいものだった。
実績も失うものもない女優を自分色に染めるのは容易いし、性に合っている。
だが、国民のほとんどが知っているようなスター女優をベテランということ以外に大した実績のない監督が意のままにこき使えるわけがない。
気まぐれなスターや金と名声に貪欲な連中を喜ばせるために自分が割を食わなきゃいけないことを不快に思っていた。
そして、わかりやすい監督のイラつきはスタッフに伝播する。
結果、千世子は「監督にとって招かざる女優」というヘイトを集める立ち位置にいた。
「重役出勤だなあ、百城千世子」
主演男優の伊皿子が皮肉めいた口調で声をかけてきた。
「主役は遅れてくるものだから」
「なかなか言うねえ。
色物の舞台の次はこんなちっぽけな映画なんて、仕事行き詰まってるのかと思ったんだが?」
伊皿子の言葉に含まれたトゲに気づきながらも千世子は取り合わない。
「芥子山作品の実写映画はどれも成功しているし海外評価も高い。
木下監督も役者の底を引き出すのが上手で彼の作品からステップアップして活躍している人気女優さんもたくさんいる。
この仕事を他の人に取られたくないから志願したの」
「へっ、そう言うんなら俺のことも加えてくれよ。
若いうちから伊皿子琢磨の相手役ができるなんてお前幸せだぜ」
傲岸不遜な態度と揺るぎない自信。
誰かを彷彿とさせるその態度に千世子は隠れてため息を吐く。
(この人、王賀美さんとデビュー時期が被ってるんだっけ。
よくいる王賀美フォロワーか)
破天荒で孤高のスター王賀美陸。
その存在は大衆だけでなく、同業者の心をも鷲掴みにした。
自分もあのようになりたい——なまじ同じ役者業をやっている人間ならば尚のことそう思ってしまう。
故に王賀美フォロワーとなる者は少なからずいる。
そのほとんどがガワだけを真似た劣化版王賀美陸であるのだが、一応、伊皿子琢磨はそれらの有象無象とは一線を画す。
事務所所属時は好青年役を演じることが多かったが、フリーになってからは悪役や狂人を演じることが多くなり、濡れ場では惜しげもなく引き締まった裸体を披露し、色気を振り撒く。
本家ほどの存在感やカリスマ性はないにしろ、特別な存在感を漂わせる名優の一人だ。
(自信家なのは真似事だけじゃなく裏打ちする実力があることと、実際に業界のトップに近い場所にいた実績によるもの。
クセは強いけど、たしかにいい役者だよ。
そこは認める)
千世子は瞳を隠すように目を細めて笑う。
「もちろん。伊皿子さんとの共演も楽しみだったよ。
特に、本格的なラブシーンを演じるのは初めてだし、上手な人だと安心」
「ああ、しっかりリードしてやる。
だが惚れすぎるなよ。
ガキは好みじゃねえんだ」
満足したように千世子の元を去る伊皿子。
(好みじゃないとか言いながら、太ももガン見してきたな。あの人)
この程度でいちいち不快感を訴えたりはしない。
ただ、大物ぶっているくせにセコい男だなぁ、と千世子は心の中で笑った。
監督の木下は助監督の作った香盤表を見直して舌打ちする。
撮影予定時間は7:30〜26:30。
ハードな現場に馴れたスタッフでもゾッとするスケジュールだ。
「マジで撮れるのかよ。
追加撮影前提で組んでねえだろうな」
大作映画とは違い、予算の少ない映画でまず最初に削られるのが撮影スケジュールだ。
スタジオやロケ地に払う場所代、機材等のレンタル費用、スタッフやキャストの人件費、食費や燃料代、どれも撮影が長引けば高騰する。
故に撮影期間は短く設定される。
ひどい場合なんかは2時間の尺の映画を1週間で撮ることもある。
『マンイーター』はそこまでではなくとも、『デスアイランド』を始め、千世子が今まで出てきた映画に比べると撮影の規模も予算も小さい。
ろくな読み合わせもなく、本番前のリハーサルの直後にカメラを回し始める。
加えて、スケジュールを後ろ回しにしていた千世子は出ずっぱりになる。
体力的にも精神的にもかなり過酷な現場となる。
「ダイエットに夢中で飯も食ってなさそうなお嬢ちゃんだぞ。
ぶっ倒れられたらどうするつもりだ? あ?」
「僕もそう思ったので余裕を持って組んでたんですが、百城サイドから『こちらの都合でインが遅れたから、スケジュールは詰めて組んでくれて構わない』と」
「は〜〜〜あ? なんだその上から目線は?
ケンカ売ってんのか?
で、お前は言いなりになってバカみたいなスケジュール組んだのか」
木下は威嚇するように助監督の座る椅子の足をガツン、と蹴った。
助監督は立ち上がって、すみませんすみません、と繰り返し謝り通した。
「まあいいや。
世間知らずの天使様に知ってもらおうじゃねえか。
タレントに忖度しまくったお遊戯場じゃなく、マジモンの撮影現場をよ」
そう言って木下は不適に笑った。
最初に撮るのは物語において発端となるシーン。
千世子演じる
当然、千世子がいくらイメージの脱却を図ろうとしているからと言って、何でもかんでもやって良い許可を星アリサが出すわけがない。
セミヌードも禁止、下着も禁止、見せられるのは肩、背中、太ももまで。
その状況下で濡れ場を演じるとなると、監督の演出力と役者の演技力で補うしかない。
千世子にとって最初の撮影シーンはこの映画全体の出来を占う、試金石の意味を持つことになった。
撮影の準備が進められていく。
衣装係の女性は千世子の口に猿轡を噛ませながら、
(イケないコトしてるみたいで興奮するなあ)
と無垢な天使を汚す悦びを覚えていた。
「大丈夫? 痛くない?」
と、聞いてみるが……答えがない。
正面に回って千世子の顔を覗き込んでみると、
「ひぃっ!?」
衣装係の彼女の悲鳴は撮影準備中のスタッフの作業音によってかき消される程度のものだったので誰も気づくことはなかった。
しかし、衣装係の彼女だけは見てしまった。
目の前の天使の顔が青ざめ、宝石のような瞳の中におぞましいものが映し出されているかのように濁っているのを。
『星アリサの最高傑作』————百城千世子はそう呼ばれている。
故に周囲から向けられる期待は大きく、厳しい目が向けられ続けている。
芝居に関しても「ファンを愉しませるだけに特化した中身のない表層的な演技」批判されることも多かった。
ただし、彼女を下手だと揶揄する評論家はほとんどいない。
演技において、表情や仕草、台詞回しといった役者の器用さで作られる部分についてはむしろ評価が高い。
そんな彼女が、メソッド演技の習得による内面的な芝居まで身につけてしまったら……役者としてひとつの完成を迎える。
羅刹女の舞台を観た人の多くが「百城千世子が殻を破った!」とその芝居を称えた。
初体験の舞台においてもそうだったのだ。
ホームグラウンドとも呼べる、映画の現場でその力が発揮されたのならばどうなるか?
結果は、青ざめた木下監督の表情が雄弁に語っている。
「カット……マジか……」
当初木下が描いていたイメージは可憐な天使がその翼を引きちぎられて地に堕ちる憐れな光景。
芥子山作品のバイオレンスと百城千世子のキャラクターを共存させるのならば、そのくらいが妥当な落とし所だと思っていた。
しかし、木下はモニターに映し出された光景を観て戸惑いを覚えた。
この道40年近い木下にとって、脳内に描いたイメージと撮影される映像はほとんど変わりない。
役者の芝居、スタッフの技術、機材やロケ地の特性を感覚として理解しているからこそできる予測能力。
その能力がもたらす製作の安定感が仕事を途切れさせず、一定以上の評価を受け続けられる理由なのだが……
「どうでした? 監督。
イメージと違いました?」
ややハスキーな声で木下に尋ねる千世子。
かつての耳をくすぐるような甘い声はもう出ない。
喉は消耗品だ。
羅刹女の舞台における過酷な稽古は千世子から以前の声を奪っていた。
新たな力を手に入れる代償として。
「イメージとは……違うな。
アンタ、本当に百城千世子か?」
「うん。本物だよ。
本物だから、変えることができるの」
千世子は胸に手を当ててそう言った。
偽物は本物を真似る。
だから本物が変わらない限り、偽物は変わることができない。
「百城千世子は私。
私だけが百城千世子を定義することができるの」
威風堂々としたその眩い立ち姿から、木下は目を逸らしてカメラに撮れた映像を改めてチェックする。
目の前で親兄弟を殺された「紗奈」の顔には恐怖と悲嘆に塗りたくられていた。
そして男たちに馬乗りにされて殴られ、服を破られて悲鳴を上げる姿は観る者に悲痛な想いを抱かせながらも倒錯した情欲を湧き立てるに足る迫力に満ちていた。
芥子山作品の売りともいえる残虐さとリビドーの発露。
それが余すところなく再現された凄まじい映像がテープの中に収められている。
(何が天使だ……コイツはそんな可愛くて大人しいモンじゃねえ。
百城が泣けば観客は悲しくなり、百城が怒れば観客のハラワタが煮えくり返る。
全部コイツの掌の上で観客が転がされちまう!)
木下はとてつもなく面倒だと思った。
伊皿子はそれなりに実力のある俳優ではあるが情熱のあるタイプではない。
マイペースで芝居をされてはパワーバランスが千世子に傾き過ぎてしまう。
そのバランスを演出で補うのは骨が折れるからだ。
だが、同時にワクワクしていた。
木下が撮ってきた女優の中で群を抜いた素質を千世子は持っている。
「百城千世子。俺はあんたに一切期待していなかった。
俺のイメージの中のあんたは人気とルックスだけが売りの綺麗な飾り物だった」
「うん。知ってる」
ニッコリと口元は笑っているが目は笑っていない千世子の顔を見て、木下はゾクリと背筋が冷えて体が震えた。
「だが今は……あんたを撮りたくて仕方がねえ……
もっと、もっともっとあるんだよな!? あんたは!!」
思考に言葉が追いつかない。
それほどに木下は興奮していた。
今まで撮ったことのない何かを、目の前の女は撮らせてくれる。
そんな予感に胸が高鳴っている。
「それを魅せるのが、私たちの仕事でしょ」
周りのスタッフは豪腕の木下監督にタメ口を訊く千世子にハラハラしていた。
だが、当の木下は「ああ、その通りだ!」と豪快に笑った。
「おい、ボスが笑ってるよ」
「天使ちゃんのこと気に入ったんだね。
まあ、分かるけど」
「あの子……本当に凄いんだな」
頭領である木下監督が千世子を認めたことで、スタッフの千世子に対する警戒は解れ、炉に火がくべられるかのように現場の熱が高まった。
千世子に冷ややかな目線を向ける者はいなくなった。
相手役を務める伊皿子琢磨も笑みを浮かべている。
だが、それは才能と共に仕事ができる喜びを表すものではない。
「ガキと思ってたけどこれはなかなか……
唆るモン持ってんじゃねえか」
長い舌を自らの唇に這わして千世子の姿を目に焼き付ける。
狙った獲物をテイスティングするように、じっくりと、ねっとりと。
これから数週、大河ドラマ編とは別視点で同時期に動いている千世子サイドのお話を挟みます。
原作にカケラも土台が描かれていない完全オリジナルですね。ハラハラ……