アクタージュは終わらない【原作の続き】   作:宇津木 恭吾

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SCENE137 後悔の味

 伊皿子にとって千世子の来訪はまったく考えもしていないものだった。

 

 こんな風に会いに来ているのをもし週刊誌なんかに撮られれば確実に千世子にもダメージがある。

 記事の見出しは大衆の興味を引くものにするため、虚実が混じることになるだろう。

 たとえば「保釈されたばかりの恋人の元に駆けつけるトップ女優」とか。

 

「俺のこと心配してきてくれたのか? 

 なかなかお優しいところあるじゃねえか」

 

 伊皿子はマキナを横に突き飛ばしてソファに深く腰掛け千世子と対面する。

 その時にようやく千代子の後ろに男がついてきていることに気づいた。

 パーカーのフードを目深に被り、ダボつかせたジーパンにボロボロのスニーカー。

 身なりからマネージャーではなさそうだが、不気味な存在感を放ち、千世子に注意を払っている。

 

(そりゃあひとりで来るわけねえよな)

 

 少しだけ落胆する伊皿子。

 千世子は彼を見下ろしながら告げる。

 

「あなたの顔なんて二度と見たくなかったよ。

 テレビでもスマホでもあなたの顔や名前がチラチラチラチラ出てきてさ、虫唾が走って仕方なかったわ」

「つれねえなぁ。

 一時は身体を重ねようとした仲だったじゃねえか」

 

 伊皿子は長い舌を出してそう言った。

 千世子の顔から張り付いたような笑みが消える。

 ピリピリと音を立てそうなほど空気が張り詰めていく。

 

「そう言って、栗原くんを挑発したのよね」

「ああ。アイツが身の程知らずにもお前に気があるみたいだったからさ。

 調子に乗りすぎんなってアドバイスさ。

 そしたら逆上して殴りかかってきてよ。

 俺が強過ぎたせいで悪者扱いだ」

 

 当然、伊皿子の語っていることは嘘である。

 無意識に自分を守るための嘘をついた。

 いや、正確には自分がやった事を認めたくないために信じたい嘘を真実だと思い込もうとしている。

 伊皿子琢磨はそういう卑怯さが染み付いている男なのだ。

 

「あなたって、本当に最低のクソ野郎よね。

 潔く罪も認めることができない。

 無様な事をした事をすぐ忘れようとする。

 ああ、そうじゃないと恥ずかしくてお外歩けないか」

 

 ギリギリのところで笑顔を保っているが千世子はわなわなと手を震わせている。

 それを見て伊皿子は逆に落ち着いた。

 自分が主導権を握っていると思えたからだ。

 

 しかし、

 

「落ち着いて」

 

 後ろにいたフード姿の男が千世子にそう声をかけた。

 千世子は彼を一瞥し軽く深呼吸すると、目を細めて言葉を続ける。

 

「前に干された時もこうだったのよね。

 都合よく被害者ヅラして王賀美さんに媚を売りに行ったんだっけ?」

「なんだと?」

 

 予想外のところから飛んできた千世子の口撃は続く。

 

「今の状況を王賀美さんと似たようなものだと思ってるかもしれないけど違うからね。

 あの人は代償をキチンと支払って出て行った。

 あなたは今から代償を支払わせられるし、追い出されるの」

 

 王賀美陸。

 

 伊皿子にとって憧れであり、邪魔者であり、裏切り者。

 一刻も早く消し去りたい記憶なのに、脳裏に焼きついた数年前の光景がフラッシュバックする。

 

 

 ◆◇◆

 

 当時、伊皿子は所属していた事務所を解雇されたばかりだった。

 原因は女性関係のルーズさや関係者への不適切な態度。

 事務所屈指の稼ぎ頭と言えど、芸能人のコンプライアンスが求められる現代においては抱えるのに厳しすぎる爆弾だった。

 

 だが、それでしおらしく反省する伊皿子ではない。

 自分の不祥事を不遇と解釈し、見る目のない日本の芸能界に敵意を抱いた。

 どうにかして見返してやりたいと考えた伊皿子がたどり着いた答えは、アメリカで再デビューする事だった。

 それは彼が憧れている王賀美陸の歩んだ道だった。

 

 芸能界で頂点に立ち、日本のスケールに収まりきれずアメリカで成功した現役最高の俳優。

 伊皿子の理論で言えば『勝ち続けている男』だった。

 何度かドラマで共演することもあったので、コンタクトを取るのはそこまで難しくはなかった。

 

 

「おう。久しぶりだな、琢磨」

 

 ロサンゼルスにあるパブで伊皿子は王賀美と再会した。

 いきなりハグをして来た王賀美に伊皿子は面食らいながらも、憧れの男と日本から遠く離れた場所で二人きりで会えた事を嬉しく思っていた。

 

「またハリウッド映画の出演が決まったんだってな。

 やっぱすげーよ、陸は。

 今や日本人のハリウッド俳優の第一人者だ」

「そりゃあここはアメリカだからな。

 映画に出れば誰でもハリウッド俳優だ」

 

 変わらない王賀美の様子に伊皿子は安堵と期待に胸を膨らませた。

 

(スターズに唾を吐いて事務所の社長をぶん殴った王賀美が今やハリウッドスターだ! 

 俺だってやれる。

 王賀美ほどじゃなくても俺だって近いことはできるはずだ)

 

 

 二人の会食は和やかに進んだ。

 昔話や共通の知り合いの話を中心に当たり障りのない話をして。

 

「久しぶりに日本語で会話してるぜ。

 たまには日本に戻りてえなあ。

 あっちで仕事があればいいんだがな」

「今の陸が望めばいくらでもオファー来るだろ?」

「俺に見合う仕事がねえんだよ。

 そもそも俺がコッチに来たのは仕事がなかったからだ。

 上手い奴や華のある奴とバチバチにしのぎを削るような芝居がしたいのに、俺と同じシーンの中にいると霞むから立たせられねえ。

 まあ、今の日本じゃ極上のステーキ肉を引き立てる皿になり得る役者すら見当たりそうにないがな」

 

 物憂げな顔でロックグラスに注がれたバーボンを呷る王賀美。

 

 ここだ! と伊皿子は口火を切った。

 

「分かるよ。俺も今の日本が窮屈でさ。

 事務所も作品や芝居の中身よりも体面ばかり気にするんだ。

 だから辞めちまった。

 俺も陸みたいにデカい舞台でもっと上を目指したいんだ!」

「ふうん。お前も事務所をなあ……」

「おう。そこで相談なんだけどさ、俺をアメリカの仕事に売り込んでくれねえかな?」

 

 伊皿子の魂胆はそこだった。

 自分を厄介者扱いした日本の芸能界に対する復讐。

 それには逃した魚の大きさを知らしめる必要があった。

 アメリカのドラマや映画に出て、鳴り物入りで凱旋する————伊皿子の描いたシナリオを進めるにはアメリカでの伝手を得る必要があった。

 それで旧知の王賀美を頼ったのだ。

 

 自分と同じように日本の芸能界に冷遇された王賀美なら俺のことを分かってくれる! 

 

 そう、都合よく考えていた。

 

 

「……あー、そういうことか。

 この俺を繋ぎ役なんかに使おうとは、良い度胸してるじゃねえか」

 

 王賀美の気配が変わった。

 グラス越しに伊皿子を睨みつける目には殺意すら混じっていた。

 

「ご、誤解すんなよ! 

 俺は……もしできたらって言うか……

 ホラ! ハリウッドって日本人俳優少ねえじゃん! 

 意外と需要があるかもって」

「バカか? ハリウッドに日本人が少ねえんじゃねえ。

 ハリウッドで使える日本人がいねえんだ」

「それは一線級の俳優が国内に留まってるからだろ。

 ちょっと監督とかプロデューサーを紹介してくれるだけでいいからさ。

 これでもお前がいなくなってから日本の役者の中じゃそれなりの——」

 

 ガタッ、と音を立てて王賀美は立ち上がり伊皿子を見下ろす。

 

「お前、海外で暮らした経験は?」

「……無えよ」

「英語喋れんのか?」

「台本に書かれてるのを覚えるくらいならなんとかなるだろ」

 

 伊皿子の返答に王賀美は呆れ返るように大きなため息を吐く。

 

「……今日のところは俺もノコノコやって来ちまったからな。

 大サービスでお前の勘違いを教えてやる」

 

 そこから先は伊皿子にとって屈辱的な時間だった。

 

「英語を喋れない奴にはバーガーショップの店員すら務まらない。

 監督やスタッフからの指示はどうすんだよ。

 全部通訳つけんのか? 

 そんなめんどくさい奴起用するかよ。

 そもそもアメリカのキャスティングにおいて日本人という人種は存在しねえ。

 大阪人と東京人をわざわざ区別しないようにチャイニーズもコリアンもみんな東洋人という一括りで数えられる。

 むしろ、他の国の連中に比べても華奢な体格、彫りの浅い顔立ち。

 ボディランゲージが少なく独自の風習と文化にどっぷり浸かっている。

 日本人はそういうネガティブなイメージを持たれていて、たまに日本人役が出てきても大抵アメリカ育ちの東洋人が奪っていく。

 日本からやってきた日本人なんてアメリカの習慣すら理解できていねえ。

 レジでの会計の仕方、トイレの入り方、シャワーの浴び方、飯の食い方。

 全部日本とは違うんだぜ」

 

 王賀美は伊皿子の浅はかな目論見をことごとく否定した。

 日本では並べる役者がいなかった王賀美ですらアメリカの映画業界で生き残るのは至難の業だった。

 

 

 語学学校に通い詰め、授業が終わってからも講師と食事に行ったりして徹底的に英語を話し込んだ。

 日常生活に英語を自然と取り入れるために、アメリカ人の恋人を作った。

 アイビーリーグ出の才女でアナウンサーをしていた彼女は王賀美のことを『役者志望の東洋人の一人』として扱った。

 

 自分が彼女を利用するだけのつもりが、彼女もまた消耗品のように王賀美を利用した。

 夜中に呼び出されて、事が終わるとタクシー代を渡されて追い出されることもあった。

 

 狂気的なまでにプライドの高い王賀美がそれを甘んじて受け入れたのは「ここで生き残れなければ王賀美陸は死ぬ」という強迫観念があったからだ。

 男としての体面にとらわれずに必要な力を身につける。

 王賀美陸を維持するために必要な力を。

 

 そんなギリギリの日々をくぐり抜けた結果、王賀美はかろうじてアメリカに居場所を得た。

 かろうじて、だ。

 ほんの些細なことで吹き飛んでしまう程度の足場しか得られていない。

 だから、伊皿子の楽観的な目論見は腹立たしく不愉快なものだ。

 それでも声を荒げたり殴りかかったりせず、自分の目の当たりにした壁を言語化して教えるあたりが王賀美の気風の良さなのだが、伊皿子には伝わらない。

 

「ちょっと先にアメリカに来たからって偉そうじゃん。

 アンタだけしか成功できないってわけじゃないだろ」

「もちろんそうだ。

 だが、言葉も喋れない。

 生活習慣も身についていない。

 そんな状況で仕事をもらえると思っているやつが長続きできるとは思えねえな。

 ここは日本の芸能界の敗者復活戦の会場じゃねえんだよ」

「敗者? 俺が負けたって言うのか!?」

「ああ。負け犬だよ。

 俺に尻尾振っておこぼれもらいに来るヤツなんてそれ以外のなんだって言うんだ?」

 

 そう。伊皿子はこの時、ハッキリと敗北を自覚したのだ。

 目の前の王賀美陸に対してだけではない。

 自分を解雇した所属事務所。

 救い上げてくれなかった他のプロダクション。

 この間まで対等以上に付き合っていたはずの連中が自分を過去のモノとして、腫れ物を扱うようにして距離を置いていく。

 自分が置かれている状況をようやく自覚したのだ。

 

「もうお前には会いたくねえ。

 二度と連絡してくんな」

 

 

 ◆◇◆

 

 

「よっぽど恥ずかしい記憶みたいね。

 血の気が引いてるわよ」

 

 伊皿子は我に返る。

 血の流れが一瞬止まっていたかのように全身が震えている。

 その息苦しさと不快感は全て目の前の千世子に対する怒りに変換された。

 

「テメエ、調子に乗ってんじゃねえぞ!! 

 ノコノコやってきて正義のヒロイン気取りかよ! 

 俺は退治されるような謂れはねえぞ!」

 

 声を荒げる伊皿子に対し、千世子はフン、と鼻で笑って語りかける。

 

「退治? そんなの私がするまでもなく終わってるじゃん。

 栗原くんの事務所はあなたに損害賠償請求するそうよ。

 マンイーターの製作委員会だってそう。

 テレビドラマや映画もあなたが過去に出ているものは全部放送自粛だし、芸能関係の各所があなたに怒りを覚えている。

 俳優、伊皿子琢磨はもう死んだの」

「ケッ、馬鹿馬鹿しい。

 俳優のタマゴを一人使い物にならないようにしたくらいなんだってんだ。

 アイツの代わりなんていくらでもいるだろう!」

「まるで自分に代わりはいないみたいな口振りね」

「そうだよ。一度は芸能事務所を解雇されてろくに仕事も与えられなかったが知り合いの伝手を辿って小さな映画や舞台にタダみたいなギャラで出演しながら持ち直してきたんだ。

 事務所の恩恵を受けっぱなしのお前に想像できるか? 

 俺は必要とされている俳優なんだよ! 

 だから俺を使いたい監督や観たいファンはいる! 

 そんな俺がこんなくだらないことで干されるのは間違ってるんだよ!」

 

 伊皿子の傲慢な物言いに千世子は落胆した。

 

(本当にこの人は栗原くんを怪我させたのを悪びれていないんだ。

 栗原くんの未来よりも自分の方が価値がある。

 だから、許されるべきだと……)

 

 千世子は少しだけ期待していた。

 伊皿子が自分のやったことを後悔して、栗原や迷惑をかけた関係者に申し訳なく思っていることを。

 しかし、そうじゃなかった。

 どこまで行っても伊皿子は自分の理論で行動し、それにそぐわないものを間違っていると否定する。

 

「救えない人だよ、あなたは……」

 

 そうポツリと呟き、笑顔の仮面を外した。

 まるで殺処分される野良犬を見るような憐みを持った目で伊皿子を射抜き、

 

「あなたに価値なんてない」

 

 キッパリとそう言った。

 頭に向かって繰り返し鈍器を殴りつけるように、言葉を続ける。

 

「あなたは自分に価値があるから、多少の悪さは許されると思っている。

 だけどね、そんな価値のある人間なんてどこにもいない。

 誰かを傷つけたり困らせたりしたら罰を受ける。

 それは人間として生きていくなら逃れられないことなの。

 大金をもらってチヤホヤされる芸能人(スター)だってそれは変わらない」

「出た出た、流行りのコンプライアンスって奴かよ。

 お前はトコトン会社の犬だな。

 客離れに怯える金儲けが好きな連中の理屈だ」

 

 伊皿子の反論を千世子はキッパリと否定する。

 

「私は女優だから、あなたのやったことを許せないの。

 私たちが女優でいられるのは演じる役と舞台があるから。

 それを作ってくれるのがスタッフや共演者。

 それに価値を見出してくれるファンがいるから、この芸能界(セカイ)は回っていられる。

 あなたはこの芸能界(セカイ)を滅ぼそうとする悪なんだよ。

 悪人でも価値のある人間なら罰は減じられるべき? 

 そんなクソみたいな理屈がまかり通るなら悪人はみんな芸能人(スター)を目指すでしょうね」

 

 千世子は伊皿子の目の前に近づき顔を覗き込んで告げる。

 

「あなたは善人の潔癖さに負けるんじゃない。

 この芸能界(セカイ)で生きている私たちの怒りによって負けるんだ。

 すぐに思い知ることになる。

 あなたなんていなくてもこの芸能界(セカイ)は回るってことを」

 

 伊皿子には千代子の怒りは全て自分に対する煽りのように感じられた。

 

(もう知るか。くだらねえことを言うために俺の前に現れやがって。

 思い知らせてやるよ。

 お前がいくら偉そうにこきやがったところで単純な暴力の前では無力だってことを!)

 

 伊皿子は拳を握り込んで立ち上がった。

 千世子は反射的に後ろに下がるが、手足の長い伊皿子の射程距離からは逃れられない。

 大人の男を気絶させるほどの威力の乗ったストレートパンチが千代子の顔面を壊す————ことはなかった。

 

「チッ……う? ぎゃああああああっ!!」

 

 伊皿子の拳は千代子の後ろに立っていた男に捕まれて握り潰されていた。

 自分より小さな体格の男の腕力に驚愕する伊皿子。

 動いた拍子に男のフードが取れていることに気づいた。

 その顔を見てさらに驚愕する。

 髪の色がブリーチで思い切り脱色され明るい金髪になっているが、その顔には見覚えがあった。

 

「みょ……明神阿良也!?」

「お、ちゃんと分かってくれるものだね。

 百城は誰だか分からなかったみたいだけど」

「だって似合わなさすぎるんだもん。

 阿良也さんは黒髪の方が良いよ」

 

 伊皿子の前で気軽に言葉を掛け合う阿良屋と千世子。

 まるで自分が眼中に入っていないかのような態度に伊皿子は焦る。

 

「お前ら……二人揃ってなんの真似を、うああああああっ!!」

 

 阿良也はさらに力を込めて今度は腕ごと捻る。

 伊皿子は地面に這いつくばって悲鳴を上げる。

 

「俺と百城が二人でやることなんて、芝居の稽古か役作り以外に無いでしょ。

 アンタに会いたかったんだよ、俺」

 

 伊皿子の耳元で阿良也は囁く。

 

「アンタが役者として求められている理由を知りたかった。

 会ってみて、百城に無様を引き出されて、そして今殴りかかって来たのでだいたい分かった。

 アンタは自分を思慮深く繊細な感性の持ち主だと思っている。

 だが、その思慮深さは自分の力に自信がない分、使える手段を全部使おうと頭を回しているだけ。

 感性は繊細なんかじゃなく自分が傷つくのを許せない傲慢さがあるだけ。

 だから他人の感情を理解しようともしない。

 自己評価と他者評価のギャップがアンタを道化にしてくれている。

 悪役の似合う男といえば聞こえがいいが、悲惨な末路を受けるにふさわしい惨めなやられ役なんだよ」

 

 阿良也が腕を離すと伊皿子はギロリと目を見開いて睨みつけるが、すぐに目を逸らした。

 

 阿良也は役作りのために常人の経験しないような経験を積んでいる。

 マタギを演じるために北海道の山に篭り、ヒグマを撃ち殺したこともある。

 伊皿子の不良行為の延長戦にある暴力とは格が違う本物の殺意を阿良也は自在にオンオフできる。

 

「つまらない役者だけど、あまり関わる機会がなかったタイプだな。

 一応食っておくよ。

 アンタの代わりを務めるには必要なことだから」

 

 

 

 

 千世子と阿良也が去った後、伊皿子は何も言わずソファに座ってうなだれていた。

 閉店の時間になっても腰が上がらない。

 

 虚脱状態だった。

 つい、数時間前まで自分の価値を信じて疑っていなかった男が自分の代わりがいることを思い知ってしまった。

 目を逸らしていた敗北と向き合わされることにより、自分のしでかしたことが間違いだったと認めざるを得なくなった。

 それが意味することは千世子の死刑宣告が実際に動き出してしまうことだ。

 

 

(今からできることは何もない。

 自分の存在はもうすぐ忘れられるだろう。

 代わりを務める?

 あんなアブナイ男がそんなモノで許すわけがない。

 全部全部塗りつぶすつもりだ。

 俺がいなくなってよかったってみんなが思うくらいに)

 

 

 敗北の味を反芻する伊皿子。

 どうしようもないこれからのことを考えると、自分がしでかしてしまったことに対する後悔の苦味が迸る。

 それは彼が生きている限り、繰り返し舌の上に現れるものだ。

 

 

 

 

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