宙に漂う水の分子はモヤを、地面に落ちた雨粒は水溜りを作り、ネオン街の光を受けて街は絵の具を溶いた水のように滲む。
千世子と阿良也はビルの外に剥き出しになっている螺旋状の避難階段の踊り場で佇んでいた。
世界はどんどん収縮していき、やがて二人きりになる。
(以上、表紙絵イメージ)
「伊皿子琢磨に文句を言いにいきたいんだけど付き合ってくれる?」
羅刹女の打ち上げ以降、千世子と阿良也は連絡を取り合っていない。
伊皿子の代役が決まった後も沈黙を守り続け、それを破った電話の一言目が上記のセリフだ。
「どうして俺なの?
別に俺は伊皿子琢磨に恨みはない。
むしろ、滑り込む隙間を与えてくれたことに感謝してるくらいだ」
阿良也は試すようにそうはぐらかした。
千世子はふふっ、とイタズラっぽく息を漏らす。
「私って昔から良い子だったから本気で人を傷つけたり、陥れようと動いたことってないの」
「奇遇だね。俺もそうだ」
「一回経験してみたいの。
私の初体験に付き合ってくれない?」
電話口からでも分かるくらい、禍々しいニオイがプンプンする。
どんどん面白い役者になっていくなあ、百城は。
と、阿良也はほくそ笑んで、話を受けた。
伊皿子を言葉で責め、過去の傷をほじくり返し、腕力でも捩じ伏せた。
社会的に許される仕返しはこれくらいのものだろう。
千世子の溜飲は少し下がり、阿良也は伊皿子という卑怯もののパーソナリティを食うことができた。
だが、それ以上に大きな収穫があった。
マンイーターの主役の二人は復讐の名の下、殺人を繰り返す犯罪者。
友人でも家族でも恋人でもないにも関わらず運命共同体となってしまう二人の関係はとても歪だ。
伊皿子は二人の関係の解釈を恋人関係の亜種程度にしか捉えていなかった。
だが、阿良也は違う。
千世子の話に乗る時、阿良也はこう語っている。
「共演者と共犯者って響きが似ているよね。
というか、意味や言葉の作りも。
元々同じ言葉だったんじゃないかって思うくらいだ」
突如始まった阿良也節にかすかに戸惑いつつも、
「続けて」
千世子は促した。
「羽馬木と紗奈がやっている犯罪は大量殺人。
非日常的で危険で刺激的なそれは舞台に通ずるところがある。
この二人は降りることが許されない舞台に上げられて恐ろしい思いをしている。
ミスるな、とお互いを厳しく監視して「助けてくれ」と依存し合い「よくやってくれた」と甘やかし合う。
俺は百城とそういう風にならなきゃいけないわけだ」
「うん。役に入り込むために関係を深めたいってことかな?
どうしたいの?」
「簡単なことだよ。
伊皿子琢磨は素行不良だと聞いている。
もしかすると逆上して襲いかかってくるかもしれない」
「だろうね」
「だけど心配しなくていい。
俺が絶対に百城を守る。
アンタがケガしたら今度こそこの映画は終わりだ」
「分かってる。
阿良也さんは私を守る。
私はそんな阿良也さんを信じてやりたいようにやる」
共演者と共犯者。
それに通ずるものはお互いが利敵関係にあり、信頼関係にあるということ。
そして、舞台も犯罪も失敗してしまえば取り返しのつかないことのなってしまうという緊張感がつきまとう。
一時的な関係ではあるがスリリングでドラマチックだ。
厳密に言えば炎上している伊皿子と接触すること自体が火の粉にわざわざ当たりに行くようなものでまずいことなのだ。
それでも千世子は黙っていられなかった。
栗原思っての義憤。
伊皿子のような蛮行の存在を許すわけにいかないという芸能人としての誇り。
どちらも子供じみたものだったが千世子にとっては譲れない気持ちで、阿良也はそれを許容した。
二人の中に共犯者意識が共有された。
だから、伊皿子への糾弾を終えた二人の間に起こったことは共犯者意識によるもの。
それ以上のものではない。
堂々と店を出た千世子と阿良也は足早に歩き、雑居ビルの非常階段の踊り場にて雨宿りをしていた。
降り始めた雨が街の灯を滲ませるのを二人横に並んで見つめていた。
「ありがとうね、阿良也さん。
約束どおり守ってくれて」
「そうするつもりで来たんだから」
「そっか」
言葉が途切れる。
千世子に笑顔はない。
他人といる時は常に笑みをたやさない彼女としては珍しいことだ。
「やっぱり、良いものじゃないなあ。
人を傷つけるってのは。
そのためにわざわざ伊皿子さんの過去を調べたり王賀美さんから話を聞き出したりしたけど。
復讐がスカッとするのははたから観ている手を汚さない赤の他人だけかもね。
復讐劇はニーズが強いワケだ」
「後悔してる?」
「ううん、全く。
あのまま調子こかせてたら、いつチャバネゴキブリみたいに現れるか分からないもん。
業界の片隅でカサカサ、カサカサ……って」
おどけて笑い、カラ元気を見せる千世子を阿良也はじっと見つめる。
「ろくでなしでどうしようもない奴だった。
アンタがやらなくても誰かが制裁を加えていた。
優しいもんだろ。アレくらいは」
「そうだね。
でもさ、思わずにはいられないんだよ。
もし、私じゃなくて夜凪さんが伊皿子さんの共演者だったら……って」
千世子の表情に影が差したのを阿良也は見逃さなかった。
そして、彼女の抱えている負い目を瞬時に理解した。
夜凪のルックスの良さや芝居のクオリティの高さは今や大衆に知れ渡っている。
しかし、それは表向きに知られる夜凪の良さであって、あいつの良さはそれだけにとどまらない。
その情熱は本気になれない役者を本気にさせる。
その才覚は孤高の天才たちに張り合いを与える。
その可能性は未来を憂う者たちに夢を抱かせる。
影響力の権化みたいな存在だ、夜凪は。
今、役者としては一歩リードしている百城だけど、そんなメチャクチャな能力はない。
必要とは思わないけど……そうか。
だから夜凪をライバル視しているのか。
阿良也はそっと一歩、千世子に近づいた。
腕を広げれば届く距離に。呑み込むような
「あんたは役者だ。
くだらないことに囚われるな」
「くだらない?
夜凪さんの力が?
役者の価値は芝居の巧さだから?
それ以外のものは必要ないってこと?」
自嘲気味に言葉を返す千世子の頭を阿良也はわしづかみにした。
「役者の価値は『どれだけ自由であれるか』。
夜凪と比べて、自分は持ってないからなんて理由で欲しがるものを選んじゃいけない。
あんたはあんただ。
ふと、千世子は自分をつかんでいる手の大きさに気付いた。
長くて細い指。
だけどそれは綺麗なだけじゃなく力強さもある。
フワフワ、フラフラと足取りのおぼつかない自分をここに固定してくれているかのように思える。
少しの沈黙の後、唐突にその言葉は発された。
「阿良也さん。キス……してもらえません?」
千世子の頭を掴んでいた手が思わず強張る。
なぜ? 役作り? それとも人恋しくて?
阿良也は出かけた疑問の言葉を無理やり呑み込んだ。
千世子の気持ちが前者であれ、後者であれ、無粋なものだからだ。
(別に相手がスターだからって俺が言うことを聞かなきゃいけない理由はない。
そもそも女に優しくするのは上手くないんだ)
思考とは裏腹に、阿良也の手が千世子の頭から頬に滑るようにして移動した。
向き合うと同時に目と目が合う二人。
互いに瞳の奥を見せないようにまぶたを閉じて、唇を重ね合った。
「舞台役者だから映像向きじゃないなんてのは杞憂だったな」
木下は撮影現場で芝居をする阿良也の姿を見て、その芝居の完成度とチェック用の14インチモニターでも分かる画面映えに固唾を飲んでいた。
単純な見栄えの良さでは阿良也よりも伊皿子の方が一枚上手だ。
だが、芝居をしている時の躍動感や醸し出す色気は比べ物にならない。
冴えない見た目のヴォーカリストが歌い出した瞬間に何十万人と熱狂させるように阿良也の芝居は観客と役者との距離をゼロにする。
それは映像においても健在だった。
木下は満足した顔で傍にいる助監督に声をかける。
「おい、明神阿良也の芝居、どう思う?」
「そりゃあ……すごいと思いますよ。
演劇で有名な人とは知っていましたけど、映像でもここまでとは。
この映画が公開されたら業界も一般人も彼の虜じゃないでしょうか」
「使ってみたいか?」
「……へ?」
「いつまでも根性の悪い二流監督の下で小突かれながら仕事したいわけじゃないだろ。
監督を目指さん助監督なんてこの世にいるのか?」
助監督はポリポリと頬を掻き、恐る恐る口を開く。
「そりゃあ、使ってみたいですよ。
未完成の役者の能力を引き出すのも演出の醍醐味ですけど、最高級の役者の芝居で画面を組み上げるのは、きっと夢のように楽しいでしょうから」
木下はクク、と肩を震わせて笑う。
「夢ねえ。そうだな、夢みたいだ。
ただ長々と業界に居座り続けただけの俺がこんなトップスターを撮れるなんてのは。
功労賞にしても、分不相応な報いを受けていると思うぜ」
「居座り続けられることがそもそも凄いと思いますよ。
芥子山先生も百城千世子も、明神阿良也を連れてきた胡散臭いプロデューサーだって名の知れた木下慈恩だから集まってきたんでしょう」
「抜かせ」
百城千世子の進化、明神阿良也の銀幕デビューという日本映画界における大きな功績と共に『マンイーター』は木下慈恩の代表作となる。
クランクアップから数ヶ月後。
撮影中断等により急ピッチで公開準備は進められたが、目立った不備もなく『マンイーター』は全国200スクリーンで公開が始まった。
当初の予想では芥子山作品ファンと百城千世子ファンが集まって興行収入は10億程度、とされていたが、伊皿子の事件により世間の注目を浴びていたことや演劇界の宝、明神阿良也の芝居が凄まじいと話題になると、客の入りは急激に加速した。
最終的に興行収入37億円。
この年の実写邦画のベスト3の興行収入を叩き出す大ヒット作となった。
それだけでなく映画の評価も高い。
主演女優、男優の芝居の迫力。
芥子山作品のアクの強さを程よくマイルドに商業映画に寄せた木下監督の手腕などが評論家からも高く評価され、この後、長く名作として語り継がれる作品となる。
余談だが、夜凪景はこの映画を柊雪と観に行った。
夜凪は観る映画の事前情報をなるべく入れようとしない。
だから、千世子と阿良也が出ている映画程度の認識で映画館の席に座ったのだ。
観賞後、彼女は震える指で千世子に電話する。
「千世子ちゃん!! 良かった!!
凄く良かった!!」
開口一番の主語を省いたセリフを千世子は瞬時に解釈する。
『ありがとー。
良い芝居できてた?』
「も、も、も、ももちろん!!
弱くて悪くて強くて人間臭くて凄いキャラだった!
あの役を千世子ちゃん以外にやらせたらダメだったと思う!」
『換えが効かないって嬉しい評価だね』
電話口の向こう側の千世子が上機嫌なのが分かる。
だから不躾とは思いながら下世話な質問をしてみた。
「阿良也さんと……すっごいキスしてたわよね……」
『ふふ……凄かったでしょう』
劇中の千世子と阿良也のキスシーンはさまざまなメディアで取り上げられて、話題になった。
千世子ファンは血の涙を流しながらリピーター化したという。
『阿良也さんって舌が長くて硬いのよね。
でも荒っぽくなくて、口の中を撫でるみたいに』
「解説しないでいいから!
キスどころじゃなく布団の中であんなことやこんなこともっ!」
『そうそう。
映画では見えないと思うけど、お互いいろんなところ触り合っててね』
「いろんなところ……」
夜凪は思わずゴクリと唾を飲んだ。
『それより、いま映画観終わったところ?
良かったらご飯でも食べない?』
「うん。でも、ゆきちゃんが一緒で」
『いいよ。柊さんにも感想聞きたいし。
みんなでランチしよ』
その後、千世子は店を指定して電話が切れた。
「なんだか不思議ね。
映画を観た直後に登場人物とご飯食べるなんて」
「けいちゃんも似たようなものじゃない。
至る所でCMは流れているし、年明けからは大河だよ」
『キネマのうた』の撮影が始まって間もない頃だった。
これから名だたる名優たちやスタッフとともに戦前の映画界という時代を作り込んでいく。
時間的にも精神的にも気兼ねなく誰かと遊んだり食事をしたりできなくなるかもしれない。
そのように夜凪は考えていたから千世子からの誘いは渡りに船だった。
「それにしても千世子ちゃんも阿良也さんも最高にエロくてキレイだったなー。
けいちゃんもうかうかしてられないね」
「わ、私だって役に入ればキスシーンだろうがベッドシーンだろうがドンと来いよ!」
ウフン、とピントのズレたセクシーアピールでウインクを披露する夜凪。
柊は生ぬるい目でそれを見届けた。
千世子の指定した店は個室が用意されたメキシコ料理のお店だった。
既に千世子は到着しているらしく、席に向かう廊下を歩く。
途中、ポロリと柊が夜凪に尋ねる。
「千世子ちゃんと阿良也さんってさ、付き合ってるのかな?」
「え!?」
「いや、私は記者会見のニュースとか観てたんだけど妙に距離が近いというか。
ほら、出演者同士で付き合うって業界の常だし」
「アハハ……それはない、絶対に無いわ。
あの二人は芝居に夢中でそんなことには目を向けないの!」
「(そう言ってるけいちゃんこそ現実から目を背けている気がする……)
でもさあ、千世子ちゃんが付き合うなら良い相手じゃない?
女癖悪いアイドルやヒモみたいなお笑い芸人よりもずっと良い!
案外、席で二人が待ってたりして」
「それこそあり得ないわ!
だって千世子ちゃん寝起きっぽかったし、阿良也さんの家はここから遠いはずだし」
夜凪は柊の妄想を否定しながら、個室の扉を開ける。
「早かったねえ、夜凪さん」
「夜凪と…………柊だった。
おつかれー」
夜凪は絶句し、柊は口をあんぐりと開けた。
大きなソファに並んで座って二人寄りかかるようにして一つのメニューを見ている千世子と阿良也がいたからだ。
「ど、どういうことぉぉぉぉ!!」
夜凪が叫ぶと千世子はこともなげに言う。
「私たち付き合い始めたの」
「嘘おおおおおおっ!?」
「うん、ウソだよ」
阿良也は千世子の頭に手を置いて口を開く。
「俺と千世子は親友だよ」
「阿良也さん、私にもそう言ってた!」
これにてノワール編は終わりです。
次週から大河ドラマ編の後篇となります。
まったく原作にないオリジナル、だけど原作の続きとしてあり得るものを作る。
ということでハラハラしながら書いていました。
感想等頂けると幸いです。