現在の日本の芸能界においてもっとも人気のある女優は?
と質問されれば環蓮だと応える人間は多いだろう。
視聴率低迷の時代に主演ドラマの視聴率が15パーセントを切ることはなく、30パーセントを超えることすらある。
映画の興行収入ランキングにも毎年彼女の主演作は上位に食い込んでいる。
大ヒット請負人、と業界で呼ばれるほどに彼女は人を集める力がある。
圧倒的な美貌は三十路を過ぎても陰ることなくむしろ磨きがかかり、気さくさと妖艶さが同居する稀有なキャラクター性は未だ唯一無二のものだ。
人気者という括りではスターズの天使、百城千世子もかなりのものだが、キャラクターを作って人気を博している千世子と違い、環はキャラ作りを行ったことはない。
他人の目を気にしないありのままの姿で大衆に受け入れられている。
それでいて、女優としては様々な顔を演じ分ける力も兼ね備えている。
ある時は重い過去を背負った気丈な刑事。
ある時は恋愛体質のダメOL。
ある時は一途な愛を貫く時代劇のお姫様。
大胆なベッドシーンやヌードシーンの撮影も作品に必要であれば躊躇なく受け入れそれでいて自分の価値を下げることもない。
万能で非の打ち所がない女優の理想を体現できてしまうことが環蓮が最高の人気女優たる所以だ。
キネマのうたの企画自体、主演に環蓮を置くのがありきのものだった。
リスクの高過ぎる近現代劇の大河ドラマにおいて確実に視聴率を取るには役者の集客力に頼るのも戦略の一つ。
無論、実力の伴わないアイドル女優には任せられない。
そもそも薬師寺真波の一生を演じる以上、ある程度のキャリアを経ている女優が適任だった。
環サイドも三十路を超えて躍進を続ける稀代の名女優に相応しい箔として大河女優の肩書きを欲していた。
しかも伝説の女優を演じるとなれば「現代において薬師寺真波ポジションにいる女優は環蓮である」と誇示することができる。
中嶋のアプローチは渡りに船だった……にも関わらずだ。
(どうすりゃいいんだ!? この空気!)
柊は青ざめた顔で俯き、自分の膝と向き合っていた。
環の所属事務所に中嶋は押しかけ、それに夜凪はついて行き柊も放っておけず同行することとなった。
所属事務所の社長も最初はにこやかに出迎えてくれ社長室に通してくれたが、中嶋が環の出演話数を減らして代わりに夜凪を起用したいと言い出した瞬間、ガラリと表情を変えた。
50過ぎの細身の上品なナイスミドルがマフィアのボスのような威圧感を纏い来客を睨みつける。
「中嶋、自分が言ってるのが契約破りって自覚はあるんだよな」
「ええ。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「謝らなくていい。
そんな馬鹿げた話を呑むつもりねえんだから。
空いた環のスケジュール埋めるよりもお前のクビをすけ変えるほうが簡単だしな」
一介の芸能プロダクション社長に国営放送の人事権などあるはずはないが、そうとは思えないほど社長の脅しは真に迫っていた。
一刻も早くここを立ち去りなかったことにしたいと願っている柊はすでに涙目になっている。
夜凪もハラハラはしていたが、
(頑張って中嶋P!)
と中嶋を応援していた。
自分が漏らした「薬師寺真波を最後まで演じたい」という発言が問題だと言うことはわかる。
環から単純に役を奪うという問題ではなく彼女の積み上げたトップ女優という名声自体を踏みにじる行為だ。
それでも、中嶋から誘われた時についてきてしまったのは何か得体の知れない使命感に突き動かされていたからだ。
「無理なお願いを言っているのは分かります。
しかし、元々社長もこの企画に環さんを参加させるのに反対だったじゃないですか」
「当たり前だ。
薬師寺真波なんていう役を背負わされたら否が応でもくだらねえ批評家連中を招く。
『真波に比べると品格がない』『現代の女優にあの時代の女傑を演じるのは無理』ってな風にあやふやにもっともらしいことを言ってコケ下されるのが目に見えてる」
「それでも仕事を受けられたのは?」
社長は舌打ちしてソッポを向いて答える。
「環がやりたがったからに決まってるだろ。
それを利用して局内の反対派をねじ伏せたらしいな。
お前、不義理とは思わねえの?」
「私の義理はキネマのうたそのものに立てています。
この作品を最高のクオリティで世界に送り出す。
その為なら全てを賭ける所存です」
強面の事務所社長相手に平凡なサラリーマン風の中嶋が一歩も引かずに話し合っている光景を夜凪と柊はハラハラしながら見つめていた。
言い換えれば蚊帳の外に置かれていた。
だが、中嶋のペースに付き合うのを嫌った社長はその蚊帳の外に手を伸ばした。
「おい。夜凪景。
置物になるために連れて来られたのか?」
社長が夜凪の方を向いて尋ねる。
彼女は一瞬ギクリとしたが一呼吸置いて語りかける。
「いいえ。私が環さんから役を分けていただきたい、と直接お願いしたいと思ったからです」
夜凪の言葉を聞いた柊はどこか普段の夜凪とは違うものを感じ取った。
「役を分けてもらう?
ぶんどるじゃなくて?」
「はい。環さんが私より格上なのも分かっています。
大人になった薬師寺真波を演じられるのは環さんをおいていないでしょう」
しおらしく言っているものの、内心はマグマのように役に対する熱意が煮えたぎっている。
衝動的に薬師寺真波の一生を演じきりたいと思った。
しかし、今の自分にそれができない事をすぐに察した。
女優とは芝居をするだけが仕事ではない。
客を視聴者を呼び込まなくてはならない。
夜凪は世に出てきてまだ一年に満たない。
一方、環はデビューから20年芸能界のトップを走り続けてきた。
ファンの数はそれこそ桁違いである。
薬師寺真波を演じることはできる。
だが、環蓮の代わりは務まらない。
夜凪の冷静な部分はそれを理解していた。
「私が演じたいのは白洲さんとの別れを描く13話まで。
そこまでは何としても演じきりたいんです」
「へえ……仲良くしてもらってる先輩女優やその事務所に喧嘩売ってでも?」
「社長さん。女優なんていつの時代も誰とだって喧嘩しているようなものでしょう。
自分が一番だと思い上がっている女たちが四角いスクリーンの中で陣取り合戦。
私も環さんも皐月ちゃんも、同じ人間を演じるからって誰かの踏み台や繋ぎに甘んじるつもりはないんですから。
それに……13話までの薬師寺真波なら私が一番上手く演じられる。
だからお願いしにきたんです」
夜凪の熱弁を思わず聞き入っている社長。
それを見て中嶋は内心ほくそ笑んだ。
(僕のような凡人が語る言葉は誰の胸も打たない。
だから理論武装し、餌をチラつかせ、宥めすかしてどうにか交渉のテーブルを用意する。
だが、役者という生き物はそうじゃない。
演技の良し悪しって結局のところどれだけ説得力を持たせられるか。
演技上手の夜凪さんは
「あんたの言い分は分かった。
だが、契約書はこちらの手元にある。
それをひっくり返すにはこっちを……納得させてもらわねえとな」
パチンと社長は指を鳴らした。
すると、部屋の後方のドアから環が入ってきた。
「環さん!?」
「なかなかの熱弁だったじゃないか、景。
たまたま事務所に居合わせたんだけど面白いものを見せてもらった」
カツカツとヒールで床を叩きながら夜凪に近づく環。
「オーディションで初めて見た時から面白い子だとは思っていたよ。
誰よりも女優という仕事に誠実で貪欲で飢えていた。
この子が演じる薬師寺真波を観てみたい。
一視聴者としてはね」
戦闘態勢に入るように環を見る目を細める夜凪。
「撮影が始まってからほとんどこちらの現場には顔を出していないじゃないですか?」
「アハハ、言ったろ。
一視聴者として夜凪景の芝居を観てみたいって。
でも、女優としてはできる限り目に入れたくないのさ。
君の芝居は目に残る。
まあ、五話くらいなら私が演じる真波で上書きできるんだけどさすがに1クールもあんたが演じた役を無視するのは無理がある」
ポンと夜凪の肩に手を置いて、耳元で囁く。
「今回の仕事は私の繋ぎ。
大河の主演を張りたいなら、次の機会を待ちな。
完全な拒絶。
環に役を分ける意思はない。
だが、夜凪は不敵な笑みを浮かべながら、
「怖いんですか?
ポッと出の若手に自分が築き上げた地位を脅かされるのが」
と煽った。
これには流石にその場にいた全員が総毛だった。
「けいちゃん! どうしちゃったの!?」
柊が夜凪の肩を掴んで揺さぶる。
彼女と普段から寝食を共にしているからこそその異常に気づいた。
自分の気持ちに正直で、役に対して貪欲だけどこんな風に人を見下した煽り方をする人間ではないと知っているからだ。
環もまた共同生活を送る中で夜凪景のパーソナリティは掴んでいる。
そして、彼女は野生的な嗅覚を持っている。
柊の感じた違和感を別の感覚器で掴んでいた。
「景……あんた、まさか?」
「私はやり遂げるわ。
薬師寺真波を現代に甦らせる。
そしてあの時代をどのように生きたのか見せつけるの。
環さん。高いところから見下ろすには些かもったいないお芝居だと思わない?」
「あら、そんな居丈高に見える?」
「最初からそうだったじゃないですか。
昔の女を臭わせて煽ってくるあたり、未練がましさを捨て切れてなかったですけど」
不遜な態度に環の顔が一瞬、仁王のように怒りに歪んだ。
それを目の当たりにした社長や中嶋は気圧されたが、当の夜凪は「化けの皮を剥いでやった」と言わんばかりに微笑んでいる。
怒る環に微笑む夜凪。
どちらが精神的に優位なのか、言うまでもない。
環はハア……と大きくため息を吐いて気持ちを立て直す。
「口喧嘩なんて非生産的なことはやめよう。
こんなんで負けても私は役を譲らないからさ」
「じゃあ、何で負けたら役をくれるの?」
無邪気に尋ねる夜凪。
環はフッ、と小さく笑って提案する。
「ジャンケン。
しかも一発勝負。
あなたが勝ったら役をあげる。
でも、私が勝ったら————」
環は夜凪と額と額を合わせるように顔近づけて凄む。
「この仕事が終わったら女優を引退しな」
引退勧告。
さすがの社長も狼狽えながら環を宥めようとする。
「環! 脅すにしてもやりすぎ」
「じゃないでしょう。
先輩女優から役を奪おうってのにケジメもつけるつもりもないなんて許されるわけない。
コケにされて黙ってるほど、こちとら温厚な先輩じゃないんだよ」
「コンプライアンスってのを弁えろって。
伊皿子の一件があってから先輩後輩間のパワハラはギラつくんだよ」
小声で諌める社長だが、夜凪はウフフ、と笑った。
「いいですね。ジャンケン。
分かりやすくって」
「けいちゃん! やめなさい!
今すぐ謝ろう! ね!」
柊は夜凪を必死で引き止める。
環の神がかったジャンケンの強さを知っているからだ。
そもそもこんなギャンブルの賭け金に夜凪の女優生命を賭けるなんて許されない。
このままいけば来年には黒山墨字の長編映画の主演を張り、世界中にその存在を知らしめる。
大河の主演だって順番を待てば必ず回ってくる。
数話の出演のためにそれらを全て手放すことになるリスクをどうして取ろうとするのか、柊は理解ができなかった。
「ゆきちゃん。
大丈夫よ。私が勝つもの」
柊にかけられた夜凪の声は、これから人生を賭けた博打をするとは思えないほど穏やかで、反抗の気持ちが骨抜きにされてしまうほど暖かだった。
柊の手をふりほどき、夜凪は環と対峙した。
「景。私が本気じゃないと————」
「思ってないわ。
目を見れば分かる」
涼やかに応えた夜凪に対し、唇が怒りで震えた環。
そして、同じタイミング同じテンポ同じリズムで発される、
「ジャン・ケン————」
社長室のソファに環は立て膝で座り込んでいる。
好感度一位の爽やかな面影はそこには無く不機嫌さを抑えることなくばらまいている。
「大人気ないにも程があるだろ。
なんであんな小娘の首を賭けさせた?」
「私のプライドと若手の女優生命一つならフェアな取引と思うけど」
「そういうこと言ってるんじゃねえ。
何故辞めさせたかったんだ?」
社長の問いに環は髪の毛を掻きむしりながら怒鳴るようにして答える。
「仕方ないだろ。
あんな状態になっちまった以上、芝居から遠ざけた方がいい」
「あんな状態?」
環はそれ以上答えず、部屋を出て行こうとする。
「ああ、社長。
出番は飛んじゃったけど、当初の予定通り大河の現場に行くから。
スケジュールは変更しないで」
「……お前がジャンケン負けるの、初めて見たよ」
「ああ……私もだっ!」
勢いよくドアを開け閉めして環は出て行った。
タクシーで帰路につく夜凪と柊。
想像もしていなかったことが次々に起こってしまい、どうやって対処すべきか頭を悩ませている柊。
その肩に寄りかかって完全に熟睡している夜凪を見ていると、怒って引っ叩きたくなる衝動に駆られそうになるが、ぐっと堪える。
(けいちゃん……おかしかったよね?
普段からいろいろおかしい子だけど、それと比べても今日は本当におかしかった)
夜凪が女優になってからずっとそばに居続けている柊は環とは別の感覚で彼女の異変に気づいていた。
「寝て起きたらいつものけいちゃんに戻っておくれよ……
なんだか近くにいるのに遠くにいるみたいで落ち着かないんだよ」
柊は祈りを込めるようにそっと呟いた。