アクタージュは終わらない【原作の続き】   作:宇津木 恭吾

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SCENE127 貪欲

 キネマのうた撮影四日目。

 

 薄い雲が空を流れるも陽の光を遮ることはない撮影日和。

 オープンセットで大がかりな撮影をすることもあり、スタッフもキャストも屋内スタジオの時よりもたくさん集められていた。

 

「おー、いい具合にメンツが揃ってる揃ってる。

 真美さんは……いないんだよな。

 残念だなぁ、おしゃべりしたかったのに」

 

 そう言って笑う環を遠いものを見るような目で皐月は見つめている。

 

 環さんだけは薬師寺真美に認められていた。

 私や夜凪さんは取るに足らない子供扱いだったのに。

 

 きっと環さんならあの人を心の底から怒らせる芝居をしようと思えばできてしまうのだろう。

 

 うつむいた皐月は自分の足下を見ている。

 だが、いきなりその地面が遠く離れて……

 

「きゃああああっ!」

 

 環が皐月の脇を掴んで持ち上げたのだ。

 そしてそのまま自分の肩に担ぐ。

 肩車をされてしまった皐月は恥ずかしさのあまり赤面して喚き出した。

 

「お、おろしてっ!!」

「なんだ、高いところが怖いのか?」

「違うわよ! 恥ずかしいだけ! 

 子役だからって子ども扱いしないでっ! 

 これはハラスメントよ!」

 

 170センチ以上ある環に担がれると皐月は現場のどのキャストより高い場所に頭が来る。

 当然、注目を集めてしまい、エキストラの間では、

 

「キャー! 環蓮とさなぎちゃんのツーショットだ! 

 尊い尊い!」

「美人親子だなぁ、まるで」

「環ちゃんもアレくらいの子がいてもおかしくないもんな」

「肩車にあんなはしゃぐなんて無邪気ね」

 

 などといわれたい放題。

 

 もう! と両手で顔を覆う皐月。

 

「顔を隠すな。

 そうすると見えなくなる」

 

 ピリッと厳しさを滲ませた環の言葉に皐月は思わず手を下ろす。

 すると、眼前に見えたのは劇中の撮影隊に扮した主要キャスト陣だった。

 普段、彼らのお腹ほどの身長しかない皐月にとって初めて見た俯瞰の風景だった。

 

「笑っちゃうくらい豪華キャストだろ。

 でも殆どが戦前編だけの出番で、戦中編、戦後編、映画黄金期編、斜陽編、と主要キャストが入れ替わっていくんだ。

 凄まじい作品だよ、このキネマのうたは」

 

 皐月は環の言うことを聞いて申し訳ない気分になった。

 

 こんな凄い現場にいるのに私は自分が女優になりたいかどうかなんて初歩的なことに悩み苦しんでいる。

 場違いで情けない。

 

 落ち込む皐月。

 そばで見ていてたまらなくなった夜凪は声をかけようとしたが、環に視線で制される。

 

「なあ、なっちゃんのこと知ってるか?」

 

 なっちゃん————新名夏。

 アイドルグループ『ラブ・ブレッシング』の元メンバーで武道館コンサートも経験しているトップアイドル。

 

「当然よ。去年グループを卒業して女優に転身。

 すぐに舞台やWEBドラマで頭角を現して、主演ドラマや映画が待ち望まれている期待の若手女優でしょ」

「そうね。芝居も上手いしファンもついてる。

 でもね……」

 

 環は声のトーンを落として囁きかけるように皐月に話す。

 

「あの子は当分、主演級では使ってもらえないよ」

「え……」

「アイドルってね、歌って踊ってナンボなんだよ。

 役者の仕事はせいぜい一本100万円ってところだけど、何万人って観客動員できるイベントを開催したり、何百万枚とCD売って発生するお金は何十億、何百億。

 アイドルに役者をやらせる事務所の都合ってのはその子のファンを新規開拓する、つまり宣伝活動以上のものではないのさ。

 だから、役者の仕事をたくさんしたいなっちゃんはアイドルを辞めた」

 

 新名は決して気の強いタイプではない。

 年下の皐月にだっておっかなびっくり話しかけるし、夜凪に対しては敬語を使うことだってある。

 

「人気絶頂の時にグループ辞めるなんてセンセーショナルだけど、本人にとってはいばらの道さ。

 今まで一緒に仲良くやってきたメンバーが共演NG出してきたり、オーディションを出来レースに変えたりして芸能界から居場所を奪っていく。

 まるで抜け忍みたいだね。

 知ってる? 忍者って辞めようとするとかつての味方が敵になって襲ってくるんだよ」

 

 ニンジャはどうでもいいけど、すごいことを聞いてしまった……

 たしかに言われてみれば、同じグループで新名さんより人気もルックスも芝居も見劣りする子が映画やドラマの主要キャストを飾っている。

 いったい、どんな思いでそれを見ていたのだろう……

 

「入江くんなんかも面白いよね。

 子役やって引退して、バンド組んでメジャーデビューして一時は武道館や横アリでライブしてたんだ。

『Kerberos』ってバンド知ってる? 

 ビジュアル系……って皐月の世代じゃ馴染み薄いか」

「入江龍一さんって入江ひろみさんの息子ですよね。

 最初から役者だったんじゃ」

「よくある二世コンプレックスってヤツ。

 入江ひろみの息子じゃなくて一人の男でありたかったからって子役を辞めて音楽の道に進んだんだって。

 でも肝心の音楽の方より、請われて出た映画の方で人気出ちゃった。

 収まるところに収まっちゃったというか、割り切れたというか自分なりの答えを得たっぽいね」

 

 入江龍一は気怠そうな顔でスマホを弄っている。

 なお、やっていることはハイテンションのSNS投稿。

 

『環サマがさなぎチャンを肩車してる〜〜ぐはぁ(尊死)

 なんだここは!? 

 求めていたシャングリラでやんすか!??』

 

 なお、どちらが彼の本性かなどと問うのはナンセンスだ。

 

「松倉のオッチャンも借金大王とか呼ばれてて、かつては5億円くらい借金してて」

「10億だよ。まあそれは返済したけどな。

 おかげで安い大河の仕事を受けられる余裕も出てきたってもんさ」

 

 豪快に笑い飛ばす松倉。

 

「10億……ウチの食費何世紀分……」

 

 夜凪は頭がクラクラしてその場にへたり込んだ。

 皐月も聞いたことのない金額に青ざめている。

 

「ど、どうしてそんな借金を……」

「へへ、実は30年くらい前に映画を撮ったんだけどな。

 海外ロケとか1000人のエキストラとかやりたい放題やってたらいつの間にか予算がパンクしちまってな。

 しかも、バブル崩壊と時期が嵩なってスポンサーは逃げるし、興行的にも大失敗! 

 すげーだろ」

 

 皐月が顔を引きつらせていると、若手俳優の大熊駿太(おおくま しゅんた)がボソリと呟いた。

 

「そんな人に映画監督役をキャスティングするとか皮肉じゃね?」

 

 ボソリと呟いたのに何故かよく聞こえてしまうその声に松倉が反応した。

 

「なんだと駿太! 

 テメエだって東大卒のくせに『市原宗(いちはら たかし)』先生の役なんて嫌味だろ!」

「あー、出た。業界人の学歴逆差別。

 あと、僕は東大中退。

 文化人っぽいでしょ」

 

 カメラの回っていない時は常にボーッとした緩い雰囲気をまとう大熊と東大の単語が結びつかない、という表情で固まる皐月。

 

「今日は来てないけど天城さんも10年前に食道がんの手術してからろくにご飯が食べられなくなって大変だって。

『最近、グルメ系のドラマ増えてきてるから干される日も近いな』なんてうそぶいたりしながら毎年1本以上映画に出てる。

 凄まじいよね」

 

 天城は現場の空気に萎縮する皐月や夜凪の緊張をほぐすように穏やかに人懐こく語りかけてくれた。

 身体が弱ってるなんておくびにも出さず。

 

「いろんな人生があって、みんな挫折や葛藤と戦って今ここに立っている。

 ここにいる連中を選ばれた一部の人間みたいなことを言う奴が多いけど、それは間違いだ。

 ここにいるのは自分で生き方を選んだ人間なんだ」

「生き方を……選んだ」

 

 環の言葉を反芻する皐月。

 普段見上げてばかりの大先輩たちを見下ろしながら、心の中に風が吹き抜けるのを感じた。

 

「あ、皐月ちゃん。

 そこから僕のスマホで写真撮ってよ。

 なっちゃんと僕を中心に一枚」

「えっ、あ……はい」

 

 大熊の頼みを皐月が快く受け入れると、入江もぬっ、と近づいてきて「僕もひとつ」とお願いしてきた。

 

 のどかな雰囲気に皐月の顔は緩み、「フフッ」と笑みを漏らしてしまう。

 すると満足げに環が語りかける。

 

「そうそう。

 楽しむんだよ、貪欲に。

 せっかくの撮影現場だ。

 そして————君が選んでたどり着いた場所だ」

 

 

 ずっと、ママが望んでいたから私は芸能のお仕事をしているんだと思っていた。

 

 そうじゃない。

 きっかけはそうだったかもしれないけど、今はそうじゃない。

 

 物心がつき始めた時から、役者の先輩やスタッフさんに挨拶を欠かさなかった。

 気に入ってもらって他のお仕事をもらいたかったから。

 MHK教育の『いもむしこむし』に出た時、地味な「さなぎちゃん」を可愛く魅せるために何度も何度も監督さんに芝居を見てもらった。

 シェアウォーターだって、苦手な味だったけど笑顔で飲めるようにおウチで飲む練習をした。

 

 ママの操り人形なんて、そんなお行儀の良いものなんかじゃない。

 

 私はとってもよくばりで、ワガママなんだ。

 

 

 それからほどなくして、撮影本番が始まる。

 

 結果は一発OK。

 

 皐月は見事に周囲の期待に応えて見せた。

 

 

「ありがとうございます! 環さん! 

 おかげで気持ちよくお芝居できました!」

「なんのなんの。折角現場に足を運んだんだからもののついでというやつさ」

「ついで?」

 

 環はニヤリと笑って、香盤表(スケジュール)のある部分を指す。

 

「一話の見どころシーンだからね。

 どんな風になるか、現場で見ときたかったんだ」

 

 

 

 1933年に公開された戦前映画の傑作「燕子花」の撮影をしている映画スタッフの喧騒、それを見学しようと集まっている野次馬たち。

 序盤の主要キャストのほとんどとエキストラを合わせて総勢100人以上を現場に入れ、その隙間を潜るようにしてステディカムにカメラを載せて動き、1カットで撮り切ってしまう。

 

 このカットはキネマのうたの第一話の冒頭カットであり、世界観と登場人物と作品のスケールやクオリティを視聴者に示す重要な位置づけである。

 

 作業工程的に非常に重いこのシーンを撮るためにスタッフは神経を研ぎ澄ませながら綿密に準備を進めて、キャストの方も細かい動きやセリフのチェックに余念がない。

 ピリピリと張り詰めていく現場の雰囲気に遠慮して、出番のない真波役の三人は少し離れたところから見守っている。

 

 

「私さ、実は女優になんてなりたくなかったんだよね」

 

 環の爆弾発言に隣にいた夜凪と皐月は驚きで顔が強張る。

 

「アハハ、昔の話だよ。

 美少女コンテストでグランプリ取って鳴り物入りで芸能界デビューしたけど、あんまりやる気なくてねえ。

 とは言っても、お金になるし、受験勉強するよりかはマシだからってノリでこなしていたんだよ」

「環さん……デビュー間もない頃に大ヒット映画のヒロインとかやってますよね」

「そうそう『空の光は〜〜』ってやつ。

 あれは海のシーンとか外ロケは多いし、監督がこだわる人だったから待ち時間は長いしで大変だった。

『女優なんて割りに合わねえ』って思うきっかけになった作品さ」

 

 カラカラと笑ったあと、環は遠い場所を見るような目をして、

 

「もし、墨字くんが私の不真面目な内面を見透かしてくれなかったら、私はここにいなかったろうね」

 

 唐突に出てきた黒山墨字の名前に思わず夜凪は反応する。

 一方、環はそんな夜凪を見て不敵に笑った。

 

 

 本番が始まる。

 

 

「おい! ヘボ監督とは俺のことか! 

 大根役者!!」

 

 松倉演じる映画監督『幅木淳之介(はばき じゅんのすけ)』が吼える。

 大熊演じる若き日の名優『市原宗』もそれに負けない勢いで怒鳴り返し、大袈裟な顔芝居をする。

 

「俺が大根ならテメエは馬糞か牛糞だ。

 ちったぁ黙って地面に埋まって俺の肥やしになってみろい!!」

「おうおう! 上等だ! 表出ろ、コラ!」

 

 取っ組み合いの喧嘩になる二人を横目に、野次馬たちに笑顔で手を振る『鷺山たか子』を新名が愛らしく演じている。

 

「たか子さん。

 あまり気安くされていますと、また会社に怒られますよ」

「あらどうして? 

 私のことを好いているなんてかわいい方々じゃない。

 やさしく扱ってもバチなんてあたるものですか」

 

 映画会社の新入社員『網野宏(あみのひろし)』を小市民らしく演じる入江。

 

 

 キャストパワーもさる事ながら、複雑な長回しの1カットをミスらずに撮り切る撮影部の胆力と技術も見事。

 

 映画やドラマといった映像戯曲は複数の要素が結びついて生まれる総合芸術。

 

 故に難しく、故に歯車が噛み合った時の現場の一体感は筆舌に尽くし難い。

 

 

「カット! チェックします!!」

 

 

 カメラが止まる。

 限界まで張り詰めた空気が弛緩し、よく撮れてるかどうかという別の緊張がすぐに押し寄せる。

 

 数分の沈黙の後、助監督が大きな声で、

 

「オッケーです! 

 シーン1、撮り切りました!!」

 

 エキストラやスタッフから大きな拍手が起こり、キャストからも控えめな拍手が起こった。

 

 その光景を遠巻きに見つめていた夜凪と環が余韻に浸っていると、皐月が側にいないことに気づいた。

 

「あっ、いた」

 

 先に気づいたのは夜凪だった。

 皐月は監督の犬井のもとへと駆け出していた。

 

 

「よし、次のシーン。

 あっちのセットはもう準備できてるよな。

 ちょい押し気味だけど、陽が高いうちに撮るぞ」

 

 周りのスタッフたちに指示を出し、喫煙所に向かおうかとタバコの箱を手に取った犬井だったが、

 

「すみません! 監督!」

 

 皐月に声をかけられた。

 

「どうしました?」

 

 強面の犬井に面と向かった皐月は一瞬、臆しそうになったが、挫けずに声を上げた。

 

「お願いします。

 昨日の私のシーン……脚本を変えさせてしまったシーンをもう一度、取り直してください」

 

 そのお願いが聞こえてしまった周囲のスタッフは背筋が凍る思いだった。

 再撮影(リテイク)なんてのはタイトスケジュールのドラマ制作においてご法度中のご法度。

 しかも監督がOKを出しているシーンを撮り直すなんていうのは、監督の顔に泥を塗りたくるようなものだ。

 加えて、このシーンには薬師寺真美が関わっている。

 どれだけ心をすり減らし頭を下げても実現不可能だろうというのが常識的な発想。

 

「俺はOKって言ったけど、納得していないってこと?」

「……監督がOKって言ったのは、私が限界だと思ったからですよね。

 もし、私がもっと良い芝居ができれば、元の脚本のままで撮りたかったんですよね」

 

 痛いところを突きやがる、と犬井は皐月の物言いに感心した。

 

 真美の指摘はごもっともなものだった。

 初回からヒロインが祖母に虐待される画は賛否両論を巻き起こすだろう。

 だから、無難に交渉決裂という画を撮った。

 

 しかし……その祖母の虐待があっても、視聴者が安心して見られるような強さを皐月が演じることができれば話は別だ。

 

 

「……できるの?」

 

 犬井は静かに皐月に問いかける。

 皐月はまっすぐ犬井を見返してうなづく。

 

「ここにいる役者さんもスタッフさんもみんな一流の仕事をしています。

 だから……私も皆さんに恥ずかしくない仕事をします」

 

 ……末恐ろしい、じゃないな。

 既に恐ろしいよ。

 俺に対してここまで強気に出てくる女優何人いるよ、環みたいなネジが外れてるのは置いといて。

 しかも、こんなランドセル背負ってるような子供が。

 面白すぎるじゃねえか。

 

 犬井は無意識のうちに口角を上げていた。

 役者が一皮剥ける瞬間というのは突然やってくる。

 目の前の小さな少女のその瞬間はまさに今だ。

 

 自分で上げた高いハードルを超える芝居をして、犬井や薬師寺真美の予想を覆す。

 その自信は鳴乃皐月を間違いなく一つ上のステージに押し上げる。

 

 それが見たい————犬井は心底そう思っていたが、

 

 

「順番がおかしくなくって?」

 

 その声を聞いた者はみな、氷でできた刃を首筋に当てられるような錯覚を覚えた。

 

「真美さん……」

「あなたがしなくてはならないのはまず、不甲斐ない芝居をして周囲に手間をかけさせたお詫びでしょう。

 もっとも……再撮影なんて私は御免被りますけど」

 

 皐月は弾かれるように腰を直角に曲げて真美に頭を下げた。

 

「すみませんでした!! 

 気持ちが昂ってしまって、慌ててしまって……

 でも、どうか再撮影に協力してください」

 

 フフッ、と嬲るような笑みを浮かべる真美。

 頭を下げる皐月を見下ろして告げる。

 

「頑張ってる姿を見せたら応えてもらえる、そういう考えが甘えていると言うんです。

 あなたのような子役が監督に意見したり、先輩女優やスタッフを好き勝手に使える道理がないでしょう。

 だって、子供のわがままですもの」

「でも、今度はちゃんと」

「そうやって貪欲に芝居に向き合っていると見えるようにしろと、アリサちゃんから言われてるの? 

 だとしたら悪手よ。

 上っ面だけ取り繕う媚びたやり口が一番嫌いなの。

 私はあなたになにも期待していないし、アリサちゃんの思惑に乗るつもりもない」

 

 取りつく島もない完全な拒絶。

 おおよそ子役に対して取るような態度ではない。

 だが、薬師寺真美が言うのであれば、そこに少なからず正しさが漂う。

 その正しさは毒となり、周囲のスタッフを納得させ、皐月のお願いを子役のわがままに堕とす。

 

 ガリっ、と奥歯を噛みしめ皐月は大粒の涙をこぼし始めた。

 

 再び自分の考えの甘さを指摘された悔しさ。

 一切、話を聞こうとしない真美への怒り。

 恩師である星アリサを侮辱された屈辱。

 そして、それでも声を上げることのできない不甲斐なさ。

 

 声も上げずに泣く皐月を一瞥し、真美はその場を去ろうとした。

 その瞬間だった。

 

 

「女優がお芝居以外で人に涙を見せてはいけないわ」

 

 

 よく通る、だけど声を張ったわけでもなく、とても自然に発音した言葉。

 それを聞いた瞬間、真美は体ごと声の主に振り返った。

 

(お母さ————)

 

「夜凪さん……」

「はい、ハンカチ。

 じっくり水分吸わせて。

 シェアウォーター飲む?」

 

 夜凪が泣いている皐月のもとに駆け寄っている。

 それを真美は信じられないようなものを見る目で見ていた。

 

 さっき夜凪が皐月に声をかけたセリフを寸分違わず、真美ももらったことがある。

 

 約60年前。

 世田谷区の(きぬた)にあった撮影所で真美は泣いていた。

 思うような芝居ができない歯痒さに。

 

『女優がお芝居以外で人に涙を見せてはいけないわ』

 

 子役として芸能の道を進み始めた自分に母親である薬師寺真波が初めてくれたアドバイス。

 

 

 既に記憶の片隅に追いやられていた。

 だから、草見たちとの脚本会議の際にも披露していない逸話だ。

 だけど、知られているいないは問題じゃない。

 

 言葉が纏っている何かが真美に60年前の記憶を呼び起こさせたのだ。

 

 

 皐月はハンカチで涙を拭いながら夜凪に尋ねる。

 

「今の、何やったの? 

 夜凪さんだけど、ちょっと別の人だったような……」

 

 夜凪はフフフ、と笑いながら答える。

 

「まだ未完成だけどだいたい掴めてきたからテストがてら。

 どうだった?」

「……なんだか不思議。

 心に染みるというか、ホッとした」

 

 皐月の反応を満足そうに受け取る夜凪。

 一方、真美は心中穏やかでなかった。

 

 名前も知らない若手女優に自分が尊敬し畏怖した母————薬師寺真波の面影を重ねてしまったのだから。

 

 




※おまけ
原作に名前は出ていないけど顔は出ているというキャラには私が勝手に名前をつけています。
SCENE127までにでた人物一覧がこんな感じです。

天城陽一郎:顔合わせで「昭和の大御所」とされていた白髪の男性。
松倉紀世彦:「入江の母ちゃんもいい女だった」と言っていた中年男性。
入江龍一:上の松倉の発言を無視した金髪の若い男性(女性にも見えたけど男性と解釈)。
大熊駿太:顔合わせでなっちゃんにサインもらってた男
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