時を少し戻して、『キネマのうた』クランクイン前日。
第一話のリハーサルがあったこの日、欠席していた薬師寺真美がどこにいたかというと自宅からほど近いところにある小さな喫茶店だった。
初老の店主とは長年の付き合いと培われた信頼関係があり、自宅に上げずに人と話し込みたい時はここを利用する。
そんな真美のテリトリーともいえる場所に、およそ20年ぶりに星アリサがやってきていた。
「表に出てこない間に随分老け込んだわね。
やはり日の当たるところから遠ざかるといかに銀幕の華と言えど萎れるものなのかしら」
「月日の流れのせいでしょう。
あなただって20年前に比べればすっかりお婆ちゃんじゃないですか」
「ええ。子役から少女、少女から若手、若手から中堅、中堅からベテラン、今は大ベテラン。
お婆ちゃんになっても人様の前に出れるようになることが私の目標だったのよ。
時代が移っても、立場が変わっても、自分が作り上げた“薬師寺真美”は常に観客に、製作者に求められ続けている。
おかげでこの国の芸能界を特等席で観覧できた。
こんな贅沢な経験をさせていただける女優という仕事は素晴らしいと思わない?」
「そうね。共演する役者を選り好みできるくらいに偉くなられたみたいですし。
さぞかし現場も楽しいことでしょう」
穏やかに語らう二人だが、言葉の端々にトゲが混じる。
取り繕う空気を先に取っ払ったのは真美の方だった。
「婆さんふたりの茶飲み話なんて画的に面白くもないわね。
さて、さっさと本題に入りなさいな。
こちらはわざわざ大切なリハをサボらせられたんだから」
「良い口実を作って差し上げたと思ってるんですけど。
子どもをいじめる年寄りなんて、それこそ誰も見たくない」
「あら。忘れちゃった?
現場に子どもなんていないわ。
みんなお金をもらってお仕事をしている。
子役だって子供を演じる役者というだけよ。
なら叱咤の二つや三つ出て当たり前でしょう」
5歳から子役として映画業界に居続けた真美は子役を子どもとして扱わず、甘やかさない。
その甘やかしが子役からの脱皮を妨げると思っているからだ。
「もちろん、おねえさんのその厳しさは学ばせていただいています。
おかげさまで千代子もアキラもキチンと子役時代と決別してステップアップさせられた」
「次はあの
たしかに愛らしくて世間にウケそうな女の子ね。
大切にしたいからイジメないでほしい?
それとも試練を与えるために厳しくしてほしい?
不義理を働いた挙句、ずっと会おうともしなかった先輩に頼み事するなんて図太くなったものね」
「……おねえさんの失望した顔を見たくなかったんですよ」
そう言ってアリサは俯いた。
大女優を母に持ち5歳から芸能界に飛び込んだサラブレッドである薬師寺真美。
何不自由ない暮らしを約束された彼女にとって女優の仕事とは、イージーモードの人生の難易度を高め、緊張と張りを与えてくれるものでもある。
一方、星アリサは芸能とは全く無縁の山村の貧しい家に育った。
村の男と結婚させられるのが嫌で家出さながら上京して、ウェイトレスのバイトをしていた時にスカウトされアイドルとして芸能界入りしたという背景がある。
映画を主戦場に名だたる大監督や名優とヒット作を量産していく真美に対して、アリサは舞台も映像もこなす役者だった。
ヒット作には今ひとつ恵まれないが、その類稀なる演技力で女優賞を総ナメにした。
背景も芸能界に入ってからの生き方も全く異なる二人だが、何故か馬があった。
真美はアリサのことを閉塞していく日本の映画界を変える逸材と期待していたし、アリサもまた黄金期が過ぎて斜陽の時代を迎えた映画界を支え続けてきた第一人者である真美のことを尊敬し、甘えも含めておねえさん、と呼んでいた。
『もし、星アリサが若くして引退しなければ……』
映画業界にて長らく言われ続けてきたもしも話。
だが、それを最も繰り返し思ったのは薬師寺真美だろう。
真美が女優になってからの経歴は華々しいものであるが、それとは裏腹にこの国の映画界は凋落の一途を辿っていた。
テレビの普及による映像文化の発展はオールドメディアであった劇場映画を隅に追いやり、タレント頼り、話題性頼りの安易な商業映画が量産されていく。
かつて映画会社に所属していた役者たちは芸能プロダクションに籍を移すこととなり、権力構造は一変し、映画が誰のものか分からなくなっていく。
真美はその光景を苦々しく思っていた。
自分の力でその閉塞感を打開し、かつての黄金期を取り戻そうと躍起になっていた。
伝説の女優、薬師寺真波の娘であるということも彼女の使命感を推すものだったのかもしれない。
しかし、真美は自分がその器でないことを思い知る。
星アリサという真の天才の出現によって。
身を焼くような嫉妬に苛まれながらもそれを心躍る高揚感と期待が勝った。
やがてアリサは日本どころか世界中の監督たちがこぞって使いたがる女優となる。
『星アリサが出ている』というだけで商業的な打算やしがらみに塗れた駄作を容易く蹴散らすことができる。
一般的な観客の目を肥えさせ、それに耐えうる作品が求められるようになれば、この国の映画界に変革がもたらされると夢に見ていた。
ところが、その夢はアリサの女優生命とともに潰えた。
抱いていた夢と盟友とも呼べる後輩女優を失ってしまった真美の落胆は語るまでもない。
目の前で申し訳なさそうに俯くアリサを見て、真美は意外にも心穏やかだった。
不思議ね。
顔も見たくないくらい怒っていたのに、いざこうやって会うと怒りより諦めの気分が先に立つの。
今の今まで、私はアリサちゃんが戻ってくることを期待していたのかもね。
叶わぬ夢が醒める時を迎えたくなかったから、会うのを拒んでいたのか。
我ながら、未練がましい……
「おわった……いや、終わっていたのね。
だったらもう、私とあなたは言葉を交わすこともいっしょにいる必要もないでしょう。
女優と商売敵のプロダクションの社長。
今までどおり、仲
真美は立ち上がり、席を離れようとするが、
「終わったのは私とあなたの関係だけよ」
アリサはそう言って立ち上がり真美の眼前に近づく。
「私よりも若くして“あの場所”に辿り着きつつある女優がいる。
夜凪景————薬師寺真波の少女時代を演じる子よ」
アリサの言葉に真美は記憶を手繰り寄せる。
ああ、あの子か。
まだ素人感の抜けきっていない女の子。
何を勘違いしているのか、顔合わせの席でからかった私に謝罪を求めてきた常識知らず。
アリサちゃんの息がかかっていたのね。
「私にはそんな逸材に見えなかったけれど」
「実際に芝居に触れれば分かるわ。
あの子は本物よ。
おそらく、現代の10代の女優で真波さんを演じられるなんてあの子くらい」
「聞き捨てならないわね。
誰もあの人を演じられるわけないわ。
キネマのうたは戦前、戦後の日本映画界の興亡を描くドラマ。
主人公の薬師寺真波もあくまで舞台装置のひとつ。
ドラマを壊さない程度に演じてくれればいい。
というより、演じられるなんて思われたら不愉快だわ」
言葉のとおり、真美は不愉快さを隠さずに言う。
アリサは小さくため息をついて言葉を返す。
「おねえさん、変わりましたね。
昔は若い子が良い芝居をすると聞きつけたら新しい玩具を見つけたみたいに喜んだのに」
「誰のせいだと?」
真美は冷たく鋭い眼光でアリサを貫く。
年甲斐もなくはしゃいでしまうくらいに期待をかけていたのにあなたは壊れちゃったじゃない、と言いたげに。
「無責任な発言でしたね。
ですが、夜凪景のことを見過ごすことは許されません。
あなたがこの国の映画界の行く末を憂いているなら。
スタッフと芸能プロダクション向けの公共事業みたいな映画ばかりが蔓延るこの時代に、あの子は歴史として残る仕事ができる。
上手く育てば向こう数十年に渡って日本映画界の至宝となり得る存在です」
真美は顔には出さずに驚いた。
女優を引退した後、プロダクションを作って裏方に回ったアリサの仕事ぶりは敏腕ではあった。
だが、仕事に夢を見ていない。
役者を兵隊のように画一的に鍛え上げ、良くも悪くも大衆のためのスターを量産してきた。
我が強く規格内に収まれない役者はどれだけのポテンシャルを秘めていても容赦なく放逐した。
日本を追われハリウッドに落ち延びた王賀美陸が最たるものだ。
「分かってるの?
そんなことを口にするということはあなたの20年間を否定することよ。
意向も聞いてもらえず、あなたの方針を押し付けられ、使い潰されてきた役者たちがどう思うでしょうね」
「だから? 懺悔や償いをしろとでも?
今更、死後のことを考えて天に財を積もうとは思わないわ。
ただ、私は“あの場所”にあるものを役者は持って帰ってこれるのか、それを観客に見せられるのか。
それを観たい」
“あの場所”————アリサは引退する直前、何度かこの単語を真美に漏らしていた。
曰く、役をつかもうと自分の意識に潜っているうちに今まで見たことのない場所に辿り着いた。
そこから何も持って帰って来れなかったけど、もしあそこにあるものを持って帰って来れたなら、私はもう一つ上のステージに上がれる。
結局はそうなる前に心を壊して芝居することを自体をやめてしまったが。
「相変わらずのエゴイストね。
自分が戦死した未知の領域に才能ある若者を放り込もうだなんて」
「だからひとつでも多くの荷物を持たせてやろうとしてるの。
そしてその荷物を渡せるのは私じゃない。
ずっと昭和中期から平成、令和と半世紀以上、この業界の第一線で戦い続けてきた薬師寺真美にしかできない、そう思ってるの」
アリサは一歩後ろに下がって、腰を曲げて頭を下げた。
「もう一度、後輩を育ててあげてください。
きっと、あの子はあなたを裏切らない」
芝居……ならもっと上手くやるわね。
芸能にそっぽ向いていたアリサちゃんを再び向き直らせる若手女優。
気にならないと言えば嘘になるけど……
「私が教えられることなんてないわよ。
大ベテランだから何かと持ち上げてくださるけど私の芝居なんて往年の名女優に比べたら凡庸もいいところ。
それに、たくさんの情報が溢れ、演技論や表現術が体系的に学べる現代の子たちに授けてあげられる目新しいものなんてないわ。
出来るのは、私が気にくわない芝居に嫌味を言ってあげるくらいね」
フフン、と鼻で笑う真美だったが、アリサは口元に笑みを浮かべた。
「ええ。それでも構いません。
私があなたにしてもらったことをしてもらえれば十分」
「……思い出したくもないわ」
その時の真美は、決して乗り気ではなかった。
裏切った盟友の頼みを聞くことは彼女の不義理を許すことのように思えたから。
しかし、泣いている皐月に対して夜凪が言った言葉を聞いて考えが揺らいだ。
『女優がお芝居以外で人に涙を見せてはいけないわ』
特徴をなぞっただけの安易な物真似ではない。
声音も声色も違うのに薬師寺真波がそこに現れているようにしか思えなかった。
柔らかく心地良い魔性とも呼べる声は薬師寺真波の専売特許だった。
それをまだ二十歳にもならない駆け出しの女優が再現してしまったことで真美は夜凪に目を向けざるを得なくなっていた。
キネマのうた第二話のリハーサルは撮影スタジオ内にある練習場で行われていた。
右を見ても左を見ても豪華キャストのその空間で異彩を放っているのはこれがドラマ初出演となる夜凪景。
その前評判を知っている者とそうでない者は半々くらいの割合だった。
「本当にあんな経験不足の女優で大丈夫か?」
という視線が付きまとっていた。
「スケジュールも詰まってるし、掛け合いのあるところだけやっていこうか。
シーン12、13。映画会社の採用試験を受けるため、東京に出ていこうとする真波。
文代は怪しんで問い詰めてくるが、芝居をして乗り切る。
薬師寺先生、夜凪さん、お願いします」
犬井に言われ、夜凪は無言で立ち上がった。
その手に台本はない。
「あらら、気合い十分といった様子ね」
そう言って真美も立ち上がり、台本を机に置く。
薬師寺真美はリハーサルは軽く流す程度の芝居しかしない。
もちろんサボっているというわけではない。
余力を残した状態で冷静に自分の芝居や相手の芝居を観察し、本番にピークを持ってくるためだ。
しかし、今日の真美は違った。
普段より5割増しでリハーサルを行う。
夜凪の力を一刻も早く確かめてみたいからだ。
(へっ、やる気満々なのは婆さんの方もじゃねえか)
何度も真美と共演したことのある松倉は珍しいこともあるものだ、と思った。
同時にその相手役を務める夜凪の方にも興味を持つ。
リハーサルの始まりは真美のセリフから始まった。
「真波。どこに出かけるの?」
静かだが威圧感のある真美の声に部屋の空気が張り詰める。
それをまともに受けた夜凪は真美に見られないように焦る顔をして、息を大きく吸い込む。
「松村さんに借りていた本を返しにいくの」
なんてことのないただの説明セリフ。
だが、
「ま……(真波さん!?)」
キネマのうたのキャスト陣で真波と共演した回数が最も多い昭和の大御所、天城陽一郎は思わず声を漏らしかける。
(嘘だろう……夜凪さんが生まれた頃にはとうに亡くなられているんだぞ。
面識があるわけでもないのにどうしてここまで似せて……いや、これは————)
「こんなに朝早く?」
「うん。本のお礼にお手伝いをしてこようと思って。
彼女のおうち、ご兄弟が多くて大変らしいの」
「へえ……まあ、ええわ。
子どもがいるならおはぎでも持っておいき」
「わあ! きっと喜んでもらえるわ!
おばあちゃんのおはぎは絶品だもの!」
芝居が進んでいく中で天城は夜凪が薬師寺真波に似せているのとは別物だと気づく。
(喋り方は恐ろしいほどに似ている。
だから、一瞬真波さんを感じてしまったが別に物真似をしているわけじゃない。
冷静に見れば全くの別人。
だが、この姿は既視感がある。
そうこれは————)
『皐月が演じた薬師寺真美が成長した姿』
夜凪の演技プランはクランクインの前から固まっていた。
薬師寺真美という実在の人間を環や皐月と一緒に演じる。
故に、もっとも若い時期を演じる皐月をベースとしてそれを成長させていくことが最も矛盾のない役作りになると考えた。
実際、誰もが夜凪の背後に真美とぶつかり合っていた皐月の姿をうっすら見ていた。
(皐月ちゃん、立派になって…………
あれ? いやいや、あれは夜凪景……だよね?)
新名夏は皐月と同じシーンで共演していた。
だからこそ生まれた感慨深さにも似た感傷。
なぜそんなものが自分の中から湧き上がってきたのか分からずに戸惑った。
そこにいるのは、夜凪景であり、鳴乃皐月であり、そして薬師寺真波。
芝居とは他人を演じること、というのが新名の理解だった。
しかしそんなレベルでは説明がつかない、とんでもないことが行われている。
監督の犬井は自分の目の前で起こっていることに震えが止まらない。
(おいおい……役を演じるなんてレベルじゃねえぞ、これは。
どんだけ強度の高い役作りしてやがるんだ。
台本がなくても何十時間と芝居を続けていられそうな完成度。
実際の薬師寺真波では無いだろうが、これもまた間違いなく『薬師寺真波』だ)
熟練の監督にダメ出しを許さぬ説得力ある芝居。
芝居は続く……
真美の追及をかわした夜凪は家の外に出た。
そこで「友達の家に本を返しにいく」という芝居を終える。
すると夜凪は突如、寝起きのようなアンニュイな口調で一言。
「……あ、私、東京に行くんだったべ」
ほうっ、と何か取り憑いていたものが解けたような顔をする。
真美に渡されたおはぎの入った風呂敷包みを一瞥し、駅に向かって走っていく。
「はい、そこまで」
カットを告げる犬井の声がかかって部屋の緊張が解けた。
同時に松倉が大きな音を立てて拍手した。
「おうおうっ! すんばらしいな!!
真波さんが降りてきたかと思ったぜ!!
やるじゃねえか、景っ!」
手放しの称賛に夜凪は少し照れ気味に「どうも」と返す。
天城も松倉に続いて夜凪を褒めようとしたが、すぐに口をつぐむ。
真美の姿が目に入ったからだ、夜凪を睨みつける真美の険しい顔が。
(最後の「真波の演技」が解けるところの芝居……完璧だった。
自分のつく嘘を本当のことだと思い込む。
役者なら自然とできることだけど、これを芝居の中の登場人物にやらせるのは難しい。
嘘をつく人間の芝居をするには嘘をついているということを知っていなければならないからだ。
故に、芝居の中にいる嘘をつく登場人物は自分を嘘つきだと分かって嘘をつくことしかできない……普通ならば)
真美はアリサが昔言っていた言葉を思い出す。
『芝居って嘘を本当のことだと思い込むことだと思ってたわ。
でも最近、分かったの。
そんな芝居は役者がやるべきことじゃない。
素人が何かを誤魔化すときにする程度の芝居ね。
役者の芝居に嘘は混ぜてはいけないのよ』
(この娘もアリサちゃんと同じ……
芝居をするのに嘘を必要としない。
だから「芝居をする芝居」だって完璧にできてしまう。
自分の中で真実を作り、それを疑わないから)
真美はアリサが何故、わざわざ自分に会いにきたのかを理解した。
期待の新星を育ててほしい、というのは間違いない。
だが、もうひとつ……真美に知っておいてほしかったのだ。
夜凪景が星アリサと同じ運命を歩む可能性が高い、ということを。
険しい顔をする真美の拳がギュッと握られる。
不愉快よ……
こんな人の良心を試すような真似をしてきたアリサちゃんのやり方が。
そして、私が焦がれ続けてきた芝居の才能をこんなに若くして持ち合わせている夜凪景の存在が。
あらゆることに無感動になりがちだった薬師寺真美の心が揺れ始めた。