DC COMICS × SCHOOL-LIVE 作:グレイソン
なんなんだこれは!?
ジェファーソン・ピアースは激怒した。惨劇の痕が広がる職員室の片隅に立ち、彼は拳を握り締めた。眼前にある机上には薄い冊子が広げられている。それは緊急避難用マニュアルと題された物で、この高校に校長として雇われた時、理事会で渡された一冊だった。
バリケードの設置によって三階一帯の安全を確保して少しばかりの時間がたった今日、ジェファーソンと、彼と共に生き残った佐倉慈教諭は、職員室の資料棚に仕舞われていたこのファイルの確認に訪れていた。生ける屍の掃討作戦や物資の調達、生存者の再捜索などに追われる中で、ファイルの存在はすっかりとジェファーソンの頭の中から抜け落ちていた。まだ若く新米ながらも、故に記憶に新しかったのであろう慈が思い出さねば、きっとそのまま書類の挟まったバインダーの間に埋もれていただろう。そして永遠に掘り出される事の無いままに、記憶の彼方へと消え去っていたに違いない。
だが、むしろそれで良かったのかも知れない。それか、有事の際にのみ開封を許可すると言う規約を破って、もっと早くに目を通しておくべきだった。ジェファーソンは文面を見詰めながらそう思った。この状況に置かれてから知りたくはなかった事実が、そこにはあったのだ。
資金面で学校の運営に関わっていた製薬会社ランダルコーポレーションが、まさか裏で生物兵器の開発研究を行っていただけでなく、それによって引き起こされるであろう悲劇を事前に予期していたと言う事実と、避難施設としての機能を校舎へもたせていながらも、たったの十五人と言う余りにも少ない人数のみが生存可能な量の物資しか用意されてはいないと言う非道さ、そしてその上更には、他者を見捨てる事を是とするような残酷な文章までが、ファイルには書き記されていたのだ。
これが学校と言う、人々を守り導く施設にあっていいものなのか!? いや、断じて許されるべきではない!
ジェファーソンは怒りのままに身体中から電気を迸らせた。これは教育者でありヒーローである彼の考えとは真っ向からぶつかるような意向だった。そして知り得なかったとは言え、そんなものの下で、彼は子供達に道徳や希望と言ったものを語っていたのだ。その間抜けな様に反吐が出そうになり、それに伴い激しさを増した怒りのボルテージに反応した彼の腕時計が、ブラックライトニングのスーツを展開しそうになる。彼は右拳を掲げ、そこに集めた稲妻を冊子目掛けて放とうとした。
「こ、校長、落ち着いて!」慈が焦りながら言った。「これを燃やしたってなんにもなりませんよ!?」
「……そうだな……そうだ」苦々しく顔をしかめながら、ジェフは深呼吸し、稲妻を収めた。確かにこれは八つ当たり以外のなんでもない。それにこのファイルは貴重な物資の情報源でもある。それを電撃の熱で消し炭にするだなんて、自分の首を締めるだけで生産性が欠片もない行いだ。そして何より、彼が守るべき数少ない生存者達の未来をより過酷なものに変えてしまいかねない。
生存者達――彼が、封印していたメタヒューマンとしての力を再び振るう事を戸惑ったが故に、たった四人と言う僅かな人数しか守れなかった存在。これ以上彼女達を苦しめるべきではない。
「でもこれ、どうしましょう……? あの子達に知らせても、受け止めきれずに傷付くだけかも知れませんし……」
「いや、秘密こそが人を一番苦しめる。相手を守りたくて吐く嘘は、一時しのぎにはなれど、後々大きく膨れ上がって派手に破裂する。その苦しみは、事実を知る苦悩よりも遥かに辛いものだ」ジェファーソンは慈を見やり、言った。「それに何より彼女達にも知る権利がある。この情報は全員で共有し、どう扱うかを決めよう。それが生ける屍どもとは違い、知能と理性ある人間である我々の選ぶべき道だ」
だが、とジェファーソンは続けた。
「責任を追及されるかも知れない。知らなかったとは言え、私や君――つまり教員はこの冊子を作った連中の側に立っているのだからな。生徒達は恨み、責め、憎むかも知れない」
うっ、と慈がたじろぐ。そんな覚悟は出来ないだろう。それが当然だ。むしろ立場を抜きにすれば、彼女とて同じ被害者なのは明白だ。責めこそしたくあれど、責められるなど……。故に、ジェファーソンは決意し、それを告げた。
「だから、君は知らなかった事にしていい。これは見なかった。私一人が読んでいた。責任は私にある。そうすればいい」
「そんな事……!?」慈は戸惑うように言った。「……で、出来ません!」
彼女は青白い顔に混乱を秘めた目をしながら、小さく首を振った。教師として在らねばと常に自分に言い聞かせていると言う彼女は、その行いに滲む不誠実さに嫌悪感を抱いているかのようだった。確かに、同じ立場になればそう感じるだろう。ジェファーソンも思った。
「校長一人に全てを背負わせる訳にはいきません! 私も、責められる必要があるのなら、その苦を受けます!」
「……分かった。君がそう望むのなら」ジェファーソンは冊子を閉じて携えた。「生徒達に打ち明けに行こう」
※
「なんだよそれ、ふざけてんのか……?」
胡桃の反応が全てを物語っている。悠里にはそう思えた。
生徒会室のデスクを囲み、彼女らはマニュアルを見詰めていた。
「こんなの……酷すぎるよ……」由紀が涙を滲ませながら呟く。
「校長達は知ってたのか、この内容を?」胡桃が睨み付け、問い掛けた。
「いや、知らなかった。緊急事態に陥るまで開くなと言う契約があったから、私を含めた教職員は誰も中を確認しなかったのだ」ピアース校長が言った。「だが……だからこそ、今では責任を感じている。契約など無視して、もっと前に読んでおくべきだったと」
ピアース校長の顔に浮かぶ悔いの色、そして慈の顔に浮かぶ戸惑いの色を見れば、それが本心からのものなのだとすぐに理解できた。彼らを責めるのは間違っている。そう思えた。だが、頭ではそう分かっていても、心は苛立ちと戸惑いを吐き出す先を求めている。こと、それが強大な力を持つ存在であれば尚更に、全てをぶつけてやりたくなってしまう。悠里は、自身もまた無意識の内に校長を睨み付けていた事に気付いた。
「校長もめぐねえも知らなかったんでしょ……?」由紀が涙ながらに言った。「だったら……わたし達と同じだよね……?」
「由紀……」胡桃が驚いたように見やる。
「知らなかったから、止められなかったし、逃げられなかったし……守りきれなかった。たとえ校長がブラックライトニングだったとしても……どうしようもなかったんだよね」
ピアース校長は項垂れたまま、黙っていた。その隣で、慈が口を固く結んで、じっと彼女を見詰めていた。
「そうだけどよ……」胡桃は怒りを滲ませた視線のままに言った。だがすぐに、納得するように小さく頷いた。「いや……そう、だよな……」
そうだ。悠里もまた、由紀の言葉によって気付かされていた。彼ら教師とて、例えヒーローであったとて、知りようもなければ救いようも、抗いようもない……。思考は激情を抑えようと、荒れ狂う胸の内に働きかけていた。
「由紀くん……胡桃くん……」ピアース校長は若干の驚きを忍ばせながら呟いた。「責めないのか? 私の不甲斐なさを」
「正直に言えば、気持ちは責めたいです」悠里は迷わずに言った。だが既に視線から棘は失せているのを、彼女自身も感じていた。「けど、由紀ちゃんの言う通り……責める相手とは違うと分かっているんです。だから、私達は責めません」
「悠里くん……」
「これは、真にブチのめすべき相手が誰かを示してくれた、言わば手掛かりだ。むしろあたし達は幸運だったのかも知れねぇな。そうやって答えに辿り着けたってのは」
胡桃の言葉に、ピアース校長は納得するように頷いた。
「確かにその通りだ。戦うべき敵が明確になった」
その眼には、居たたまれなさよりも強く光る、闘志の色が見えた。そして瞳に走る青白い稲妻も。悠里は彼が、長い引退生活から抜け出て、徐々に犯罪狩りのヒーローとしての姿勢を取り戻しつつあるのだと気付いた。
「奴らは、私の――ブラックライトニングの倒すべき相手だ」ピアース校長は真っ直ぐに、ランダルと書かれた文字列を見詰めながら言った。
「わたし達の、だよ」由紀が涙を拭いて言った。「戦うのは、生き残ったわたし達、皆でだよ」
「そうだ、それが死んでいった奴等にしてやれるせめてもの報いかも知れねぇしな」胡桃がショベルのグリップを握り締めながら言った。彼女にとって忌まわしい出来事を思い起こさせるそれは、同時に彼女の戦う力ともなっている。自分の愛をこの手で自ら破壊させられた、その怒りと憎しみが染み付いたショベルは、胡桃の掛け替えの無い一部と化してしまっているのだ。彼女はショベルの鈍い輝きを浮かべた刃先を見詰めながら頷いた。
悠里も胡桃と同調するかのように、自然と頷いていた。そしてそれは慈も同じだった。彼女らの意思は今、同じ敵を見出だす事によって一つとなっていたのだ。ランダルの悪事を追求し、この悲劇の原因となったものを白日の下に曝し、罪を償わせる。
「その為にも、この物資を有効活用して、今を生き延びていこうぜ」胡桃がしたたかな心意気を顔に表しながら言った。
「そうね。今を生き延びられなければ、明日来るかも知れない戦いにすら立ち向かえないものね」悠里も微笑み返して言った。
「君達は、私の予想を遥かに越える強さを持っていたようだ」ピアース校長が驚くように呟いた。「もっと悩み、苦しませてしまうかと思っていたが……」
「わたし達だってヒーローに守られるだけじゃないんだよ! ヒーローはなるもんだ、ってね!」由紀が腫れぼったい目元のままに笑顔で言った。「タイタンズで書いてあったから! ……あれ、アウトサイダーズだっけ?」
「お前、漫画じゃねぇか」胡桃が苦笑いした。「いやでも実在のチームを題材にしてるのか……事実なのか? ややこしいな」
「……ありがとう。君達から学べたものは多いし、何か強い力を貰った気がするよ」ピアース校長はそう言うと、慈と目を合わせた。
不安げなように見えていた慈も、今では前を向く力強さのようなものを再び手にしているかのように見えた。
「生徒と共に学び、生きる……それが教師なんですね」
「そうだな」ピアース校長は慈に向けて微笑んだ。ようやく見せた柔らかな表情に、悠里も、そしてその場の誰もが安らげる気がした。
※
すっかり日が落ちて、辺りを夜の暗闇が包む頃。ブラックライトニングとなったジェファーソンは机と椅子で作ったバリケードを軽々とどかすと、一行を三階と二階の間にある踊り場へと招いた。続々と隙間を潜り抜ける彼女らに対し、ブラックライトニングはマスクの下で困ったように眉を下げて声を掛ける。
「何度も言うが、ついてくる必要は無いんだぞ? 引き返して留守を守ってくれるだけでも助かるのだし……」
「ううん、一緒に行きたいの! わたしだって何かの役に立てるかもだし……荷物係くらい……」由紀が力強い眼差しを向け、尻すぼみに自信を失っていく。「とにかく、守られるだけは嫌なの!」
「……って事さ」胡桃がショベルを肩に担ぎながら言った。「あたしが校長の背中を守る。そうすりゃ負担も減るだろ?」
「必要な物はめぐねえと一緒にリストアップしてありますし、向こうでの物資の在庫も手分けして記録しておきます。だから、校長は戦う事にだけ集中して下さい」
悠里にそう言われ、ブラックライトニングは遂に参ったと言わんばかりに手を上げた。
「諸君の行動力には敬服するよ」
「皆があなたを信じて、そして共に在りたいと思っているんです。勿論、私もですが」慈が言った。
ブラックライトニングは、かつてのクライムファイター時代に立ち上がった市民の姿を思い返し、感慨深く息を吐いた。彼女らは、彼の背を躓き転びながらも追い掛けていた、あの日の人々と同じに思えた。平和と正義を貫いて生きる為に戦う者達のように。
「……では、しっかり護衛を務めさせてもらおうかな」
ブラックライトニングはバリケードを元の位置に戻すと、先頭に立って進んだ。その口元には、何処か嬉しさの滲む微笑みがあった。人々が立ち上がり、正しき道に向かって進むのを見る事ほど、喜びに満ちる事は無い。それはこの非常で非情な世界では尚更の事でもあった。
夜のとばりが落ちると、校舎近辺から生ける屍達は姿を消していく。ブラックライトニングやその仲間達がこの何日かの間で学んだ事だった。まるで生前の営みを踏襲するかのように、奴らは家々の狭間へと去っていくのだ。探索をするのであれば、夜も更けた頃合いが一番と言えた。そして夜の世界は、ブラックライトニングを含むクライムファイターの世界でもある。彼は、校舎内に居残ったイレギュラーな者達を見付けると、静かに忍び寄っては的確に排除した。
「お休み……もう帰る時が来たんだ」それがブラックライトニングが生ける屍をただの骸へと戻す時、囁く言葉だった。血にまみれ、四肢のどれかを無くし、はらわたをはみ出させながらも、せめて安らかに眠れるようにと、優しい稲妻を脳髄に走らせてやるのだった。ビクリと身を震わせた後で、苦しみに呻くような声を漏らし続けていた死者達は、ようやく静かに本当の眠りへ就いていった。
そうして、彼らはなんの問題も無く、件の地下への入り口である区画に辿り着いた。
通路を閉ざす分厚い防火シャッターを見上げ、その下部で邪魔をするように横たわる机を見詰め、一同は唖然とした。
「この区画、私は発電設備や古い資料の倉庫だと聞かされていたが、まさかそんなものを越えていたとはな」ブラックライトニングはシャッターに手を触れながら呟いた。
「そう言えばわたし、入学したばっかりの時に探検中にここに近付いて、教頭先生に怒られた事あるよ」由紀が苦い顔をする。
「一応生徒は近付かないようにってなってたから……万が一事故が起きたらって考えたんでしょうかしらね」慈が推理を述べた。
「でも、スッゴく怖かったんだよ? 冷や汗かいてて、なんだか焦ってたみたくて……今でも覚えてるよ」
ブラックライトニングはそれを聞いて首を傾げた。
「……変な話だな。建前とは言え高々それくらいの設備を必死になってまで隠すか? 私ならそんな事はしない」
「それに、こんな風に先客が居るのも解せねぇよ。なぁ校長?」胡桃がシャッターに挟まれるような形となっている机を軽く小突いた。「そう言やぁ教頭って、あたしらが入学した時から変わってないよな?」
「えぇ。ここ最近で人事異動があったのは、去年のピアース校長の赴任くらいよ」慈が顎に手をやりながら答える。
「もしかして、この中に入ったのは……教頭、かも知れない?」悠里の言葉に、緊張感が高まった。つまりそれは、教頭が以前から既にランダルの生物兵器開発や地下の非常避難施設の存在を認知していたと言う事に他ならないのだから。
「確かめよう。答えはこの向こうにある」敵と対峙するかのように言い、全身に稲妻の力を巡らせ、スーツを青白く発光させながら、ブラックライトニングはシャッターを潜った。「もし言い逃れるのならば、その時は私が追い詰める」
全員が彼の後に続くと、ブラックライトニングは電気の流れを感じ取った。そして壁際のスイッチを見付けてそれに触れ、暗闇に包まれていた辺りを明るく照らした。
無機質な通路には人の気配が無い。勿論、死人の気配もだ。しかし彼らは慎重に進んだ。機械室を覗き、ソーラーパネルによる蓄電で働き続けている事を確認すると、備蓄倉庫へと移る。
「医療品に非常食、こんなに沢山あるなんて……!」悠里が驚きを隠せない様子で声を漏らすが、ふと気付いて首を振った。「……いえ、それは私達の人数だからこそね。これだけでは確かに十五人が精一杯かしら」
「問題は、学校と言う何百人もの命が集う場所で、たったのそれだけしか用意するつもりが無かったと言う事です」慈が噛み締めるように返した。「私は、それが許せません」
「それは皆が同じ気持ちだよ、佐倉先生」ブラックライトニングは慰めるように肩を叩き、それから続けた。「まずは部屋の安全確認を行う。それが終わったら、悠里くんと協力してここの物資の記録を頼んでいいか? それから、持ち出せるだけの物を分担して運び出す準備をしてくれ」
「分かりました、校長先生」慈は感情を殺すように小さく頷いた。
「胡桃くんは彼女らの護衛を」
「了解」胡桃は両手に構えたショベルを力強く握り締め直す。
「由紀くん?」
「はい!」
「運び出すのは大変だろうが、力を貸してくれるね?」
「もっちろん! 任せて!」小さな胸を叩いて、由紀は笑みを浮かべた。
ブラックライトニング先導の下、部屋を警戒し終えると、その後少しの間は、誰もが己の作業に集中した。耳を澄ましながら異常に備える者、目録を作る者、必要な物資を纏め、移動に備える者……全員が与えられた使命を全うしていた。その中で、ブラックライトニングは部屋の出入口付近で全体を見張り続ける胡桃に近寄り、小さく囁いた。
「胡桃くん、しばしここの守りを任せていいかね?」
「ん? いいけど、どこ行くんだよ先生?」
「非常避難区画の地下二階だ。そこには居住施設があるとなっている。もし教頭がいるとすればそこだろう」
「それ、皆で行かなくていいのかよ?」
「いや……彼が無事に生きたままで居るとは限らない。もしそうなっていた場合は、嫌なものを見せる羽目になるだろう。今更と思うだろうが、余りそれは好ましくない」それに何よりも、ブラックライトニングは教頭が生きていた場合の対処も、彼女達に見せたくはなかった。生身の人間を尋問し、時には拷問するのだから。味方にまで恐怖心を抱かせたくはなかった。
胡桃はしばし黙っていたが、やがて短く息を吐いて小さく頷いた。
「……分かったよ。じゃあ、あたしらはいつでも出られるようにしてここで待ってるから、戻ってきたら声を掛けてくれ」
「ありがとう、助かるよ。……私以外が来ても開けるなよ?」
「声を掛けない限り開けないようにするから大丈夫さ」
フッと笑い合い、それからブラックライトニングは部屋を出た。
※
地下二階の避難区域に降りると、廊下に行き当たる。そこを警戒しつつ進みながら、ブラックライトニングは小部屋を一つずつ探っていった。その殆どが無人であったが、突き当たりにあるたった一部屋だけが生活感に満ち溢れていた。
部屋の中央にかつての主が直立していた。その体がゆっくりと揺れながらこちらを向く。部屋の主だった男の顔を見ると、ブラックライトニングはかぶりを振りながら溜め息を吐いた。
「教頭……」
その体はただ単に立ち尽くしていたと言う訳ではなかった。天井の電灯に括り付けられたネクタイによって、首からぶら下がっていたのだ。ダラリと下がって伸びきった手足は、まるで全てに絶望して力尽きたように見えた。
「なんて愚かな事を……」
一つの命が己の手で断たれてしまった上に、ランダルとの繋がりを確かめる為の手掛かりも失われてしまった。二つの喪失感に、ブラックライトニングは肩と共に視線を落とした。
このままにはしておけない。腐敗が始まる前に、せめて人として葬るべきだろう。ブラックライトニングが遺体を下ろそうと手を伸ばした時、教頭であったそれの目がバッチリと開いた。
その瞬間の反応が遅ければ、ブラックライトニングは首筋に深く噛み傷を刻み付けられていた事だろう。だが、稲妻を体に纏わす事で反発する衝撃を放ち、間一髪でそれを回避していた。
「馬鹿な! 死んでいた筈ではないのか!?」ブラックライトニングはマスクの下で目を見開いていた。それとも、死んでいたからこそ甦ったとでも言うのか?
それは、恐るべき事実を示していた。生ける屍と化す根本的な原因は、生物兵器なのかそれ以外なのか、まだはっきりとは分からずとも、自殺であれ他殺であれ、死する事で再び人喰いの怪物として甦るのならば、最早誰もが既にその何かによって身を侵されている事に他ならないのだ。
ブラックライトニングは宙吊りとなったままにジタバタともがく教頭だったそれを見詰めた。歯牙を剥き出しにし、獣のような声を上げて暴れ狂う姿に、恐怖と悲しみを抱いた。ここに彼女達を連れてこなくて良かった。彼は少しだけ安堵をしながら、拳に稲妻を蓄えた。なんの心構えも無しに、この事実と、これから行う事を見せ付けずに済んだのだから。
ネクタイが千切れて食人鬼が地に崩れ落ちた瞬間、ブラックライトニングは拳を突き出して溜め込んでいた力を一気に解き放った。青白い閃光が走って、人食いの怪物のその体を骨の髄から隅々まで余すことなく焼き焦がした。異臭が立ち込めて、黒い炭となった皮膚の裂け目からドロドロの肉をはみ出させた生ける屍は、壁に激突してビクビクとのたうち回った後、漸く本来のあるべき姿となった。
「原因がなんであれ、我々は今、誰もが絶望の中に居ると言う訳か」ブラックライトニングはかぶりを振って、一人ごちた。
※
「死んでた教頭が甦った?」胡桃の言葉は場を静まり返らせた。
生徒会室に物資を運び込み終えた一同は、ブラックライトニングの姿から戻ったピアース校長からの報告を聞いて動揺していた。
「確かに、死体が歩き回ってる世の中だけどよ……そうじゃなくて……」
「自殺した人もあんな風になる、って事なんだよね」由紀が愕然と言う。「じゃあ病気でも事故でも、何が理由で死んじゃっても……」
「甦る……人を食らう怪物として」悠里が呟くように続けた。
慈は自分の顔が蒼白になっていると感じられた。誰がなんの要因で命を落とそうが、その後は生ける屍と化すと言うのだから、常に敵が側に居るのと変わらない。そしてそれは、己の身の内にも……。
「医者もいない、病院なんて機能してない、道は今にも崩れそうな瓦礫で一杯、どこで死んだっておかしくない……こんな状況で、そんな事言われたって……」慈は思わず吐き捨てるように呟いた。
「分かっている。我々にはどうしようもないと言う事も、充分にだ」ピアース校長は険しい表情のままに答えた。「しかし事実を知っておかねばならない。酷なようだが、知らなかったままで居ては尚の事危険だ」
まるで悪い冗談のようだと慈は思った。だが彼の表情には、冗談を言えるような余裕など欠片も無いように見えた。ただひたすらに、残酷で無慈悲な現実を見据えているようだった。
誰もが納得し、頷いたが、その後にどう答えるべきかも分からなかった。ただ、重々しい沈黙が流れる。
「……取り敢えず今日は休むとしよう。体調を崩す事が命取りになるかも知れないと分かったばかりなのだからな、無茶は出来ない」
ピアース校長がそう言い、部屋を後にする。寝床にしている校長室へと戻るのだろう。
「……そう、だね」由紀がやおらと立ち上がり、言った。「と、とにかく、健康に元気に過ごしていれば大丈夫なんだもんね!」
努めて明るく出したであろう声からは、空元気なのは丸わかりだったが、それに従う他に道は無い。他の面々も頷き返して席を立ち、寝床にしている放送室へと向かって行く。
そうだ、負ける訳には行かない。挫ける訳には行かない。生き延びる為にも……。
慈も静かに彼女らに続いた。だが、この夜は誰も寝付けそうに無いだろうなとも思っていた。確かに大きな成果を得られた日ではあったが、それ以上にこの一日で受けた精神的な苦痛も深く、大きかった。