魔女兵器 〜Another Real〜   作:かにみそスープ

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第2節 〜抗う者たちの軌跡〜

「わたくしセイントモリスは、死に至るまで、命を持って、民を守り抜くことを————」

 

 

 

 サモントン都市部中央にて、サモントンが持つ情報機関『ローゼンクロイツ』が誇る最上位部隊『位階十席』の1人であるモリスは、自身が持つ異質物武器である『不屈の信仰』の能力を使用して障壁を貼って、上空から押し潰さんとばかりに飛来する『ドール』を1人残らず都市部への侵入を阻む。

 

 しかし、それでも数だけは増加し続ける一方だ。ドーム状に展開して外側へと押し出してはいるが、同時に『盾』が展開している障壁の内部から外部へと一切の干渉をすることはできない。

 いつまでも障壁を貼っていては数を減らすことはできず、放置し続ければ都市部の外にいる農地にまで被害は広がってしまう。

 

 

 

 だからこそ彼女達は動く——。

 サモントンの情報機関『ローゼンクロイツ』は自国と民を守り抜くために——。

 

 

 

「セレサ! アイスティーナ! 聞こえていますかっ!」

 

『聴こえてるわよ。流石の私も今回ばかりは欠伸するわけにはいかないからね』

 

『こちらも聴こえている。作戦通り、北東部に待機しているぞ』

 

『私も南西部に到着してるよ〜〜』

 

「分かりました! では今より『盾』の能力を一部分だけ解除します! そこから侵入してくる『ドール』をすべて排除するのですっ! もちろん、民の犠牲は出さないのも厳守っ!」

 

『『了解っ!!』』

 

 モリスの言葉を合図にセレサと、まだ見ぬ少女の名である『アイスティーナ』が動き出す。

 だが、モリスは都市部の中央で『盾』の効力で障壁を貼っている以上動くことはできず、彼女らの状況を逐一把握するのは難しい。しかも『ドール』の数は膨大なのに助力することもできない。

 

 さらに言えば彼女に戦うことはできない。『盾』によって発生する障壁は強力な代わりに使用者に一切の『攻撃』を許さない。『祈り』だけが形となり皆を守る。あらゆる外敵を阻み拒む城壁のように堅牢に。まさに鉄壁にして金城。されど、それだけが『盾』改め『不屈の信仰』持つ力ではない。

 モリスは次なる指示を伝令する。『位階十席』の『第一位』としてではなく『ローゼンクロイツ』の組織のトップとして、民を守ることに尽力する。

 

「異質物対策チーム並びにテロ対策チームなどの実戦メンバーは『位階十席』のバックアップを! 諜報や情報処理などの非戦闘員は、民を都市部のシェルターやショッピングモールなどの比較的安全な場所へと避難誘導を急いでください!」

 

 モリスの指示が、今このサモントンにいる全エージェントを扇動する。言葉一つを伝えれば、都市部にいるエージェントはそれを目印として悩みも恐れもなく進み続ける。

 

 さながらそれはオルレアンの乙女と呼ばれた聖人『ジャンヌ・ダルク』のようなカリスマ性だった。彼女の言葉はすべて勇気の旗印となって民を絶望から掬い上げ、心のどこかで怯え震えるエージェントを突き動かす。

 

 

 

 これこそが彼女自身に能力がなくとも『位階十席』のリーダー格である『第一位』に身を置き、同時に『ローゼンクロイツ』という組織を束ねる地位を任される理由なのだ。

 

 異質物武器である『不屈の信仰』を最大限に活かし、どんな事態に陥りようとも彼女の指示に迷いはなく、陣頭に立つことは我が務めだと言うように常に前に出る。

 

 

 

 まさに『Noblesse oblige』の体現者——。

 貴顕の使命を果たすべく、モリスは粉骨砕身の心で立つ——。

 

 

 

 故に彼女は『聖騎士』なのだ——。

 

 

 

『第三東部養豚地区からの報告ですっ! 飛来する『ドール』によって一部の橋や道が封鎖されて都市部に避難するまでの予測時間が三時間以上も加算されています! このままでは保護した4名の命が危険です、指示を!』

 

 その声の主はモリスは知っている。最近配属されたばかりの15歳の少年エージェントだ。

 身長も年齢の割に低く華奢で、少年という身でも些か頼りがない。だがそれは見た目だけの話であり、情報処理の能力は機械音痴であるモリスから見ても郡を抜いて早く、戦闘技術はその年にしては成熟して隙が少なく、『ローゼンクロイツ』における実技戦闘教官であるセレサでさえも「ありゃ、世が世なら英雄だわ。というかなろう系だわ、あれ」と欠伸混じりで言うほどに才覚に恵まれた存在だ。

 

 だが、それでは何の意味もない。現実はただ酷く、血と涙が溢れ返っており、都合良く解決できるほど優しい物語ではない。

 少年1人で何とかできるほど『異質物』や『ドール』は優しくないのだ。

 

「……馬やオートバイといった移動手段はありますか? あるようでしたら被害がまだ少ない外部に向かってデックス家の別邸に向かってください。その人数でしたら一週間は過ごせる食料はありますし、子供達の秘密基地と称して地下シェルターも完備しています。一先ずの安全は保証されます」

 

『馬ならありますが……二頭しかおらず、どちらも2人乗るのが限界です。誰か1人残ることになりますが……』

 

 

 

 逆に言えば、誰か1人が必ず犠牲になるということ——。

 名も顔も知らぬ誰かのために少年が命を落とすのは、あまりにも惨すぎる。まだ未来は樹木のように枝分かれして自由に選べるというのに。

 

 かといって見殺しにしろというのも、少年の未熟ながらも正義感溢れる精神では受け止め過ぎて壊れてしまう。

 

 

 

 そんなことを15歳の少年が選ぶには酷だ——。

 だけど迅速に選択をしなければならない。危機は依然として進行中なのだから。選ばないという選択だけは絶対にしてはならないのだ。

 

 私はどうしていつもそこに居ないのか、と沸き立つ思いをモリスは噛み殺しながら、その少年エージェントに指示を告げる。

 

 

 

「……あなたに代わって、神からの罰は私が背負います。ですから使命や責任から逃げて大丈夫です。誰も貴方のことは責めません」

 

『……いえ、僕はここで残ります。親父だって『七年戦争』で俺や王女であるモリス様を守るために、その身を捧げました。今度は俺が守る番なんです』

 

 少年が溢した『王女』という単語に、モリスは自嘲的な笑みを浮かべて言う。

 

「……私はもう王女ではありません。『七年戦争』を機にフランス王家の血筋は私だけとなり、権威はすべてデックスに捧げました。今の私は伴侶もいない頭でっかちの女性です。……もし王女を守りたい、という意思で犠牲になると言うのならハッキリ言います。無駄です、余計なお世話です。その気持ちこそ殺しなさい」

 

『いえ、そのような気持ちはありません。サモントンが落ちれば、それは世界の破滅を意味する。こんな化け物達によって絶滅されるというわけではなく、サモントンが崩壊することで食糧難が起こり、その僅かな食料を求めて人間同士の争いが起きて終焉を迎えます。…………そんな結末だけは見たくない。あんな地獄は……『七年戦争』だけで充分なんだ』

 

 少年の悲壮な決意は、何も彼だけが持つ物ではない。『七年戦争』の体験者なら、きっと誰もが心の片隅で抱える物。それはレンだってそうだし、御桜川に通う一般女生徒どころか、世界中の同年代が思うに違いない。

 

 けれどそれを実行できる者はほんの一握りだ。そしてそれは、どんな人物であろうと、理由を積み重ねて捻り出さないと覚悟できない末路だ。今、少年はそれを口にした。

 

 モリスに止める権利はない。彼女はもう王女ではないのだから。ましてや、その覚悟を弾き返せるほどの理想主義者でもないのだ。

 

 

 

「…………あなたの勇気に感謝と謝罪を。貴方の名も心も、私の身が尽き果てるまでこの胸に刻みましょう。恨みさえもすべて」

 

 だから認めてしまう。わずか15歳の少年が命を捨てることを。

 せめてもの償いとして、少年の名を忘れず、少年を死地に送り出したのは自分なのだから、自分を責めていいと告げながら。

 

 

 

『……恨みなんてありません。モリス様には本当にお世話になりました。最後になりますが、僕にとって貴方は誇りであり、憧れであり、今でも変わらずに愛してます。あの日、助けてもらってからずっと』

 

「——そうですか。レヴィン」

 

 それで通信は終わる。モリスは『レヴィン』という少年の名を胸に押し留め、今一度彼との思い出を振り返る。

 決して濃密な関係ではなかった。ただの口煩い女房体質の上司に、憧れと敬意を抱く部下。もちろんモリスは少年が自分に惹かれてることは最初から知っていた。だけど年齢差や自身の使命もあって、彼女は少年の思いに応えることはしなかった。

 

 それは少年に限った話ではない。モリスのカリスマ性に惹かれて尽くそうとする者達は『ローゼンクロイツ』には多い。きっと、それは今はなき王家の風格の名残りでもあったのだろう。モリスが下した決断を拒否した者は今までおらず、そのせいで何人もの命を捧げてしまったのか。

 

「……決して忘れはしません、貴方のことも。……これまでも、これからも……犠牲となる人々のすべてを忘れはしません……」

 

 胸の中でモリスは『七年戦争』から今にかけて、サモントンのためにその身を尽くし果てた人々の名前を思い出す。『ローゼンクロイツ』に所属する者だけでなく、子供や恋人のために選択したごく普通の民さえも——。

 

 

 

 レヴィン、フィアース、ログナー。

 クラリッサ、カティナ、ラブライナ。

 アミティエ、キリエ、グランツ。

 ユーリ、イリス、マクスウェル。

 

 普通なら数え切れないほどの人々がその命を捧げた。

 

 

 

 その数、実に『499万9911人』——。

 

 モリスはその全ての人物と名前の顔を、今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

「URYYYYYYYYYYYYY!!」

 

 思い耽るモリスの背後から、障壁を貼る前の飛来で侵入していた『ドール』が襲いかかる。それに気づかないモリスではない。だが危機感を抱く必要はない。

 何故なら『不屈の信仰』は祈りの強さに比例して、その堅牢さを引き上げることで能力を拡張させる。障壁を貼る能力もその一環ではあるが、同時に使用者には攻撃を受け切る度量と信仰心があるなら、その種類に問わず攻撃を『反射』するという絶対防衛能力を宿す。

 

 故に回避行動も自衛行為も不要——。

 

 そのことはモリスを知る者なら誰もが承知の事実なのに、それを見ていた金髪の錬金術師こと『ハインリッヒ』は、思わずその手にある『ラピスラズリ』で瞬時に『ドール』を10等分に輪切りにして消滅させた。

 

「……無駄なことをしてしまいました」

 

 自分でもよく分からない行動をしてしまったハインリッヒは困惑してしまう。普段から服を脱ぎ捨てて思考するという性癖とも言える本能を抱えてる彼女ではあるが、その思考回路だけは知的好奇心や探究心に満ち溢れた学者肌だ。説明しきれない感情を自分が持つことに、苦虫を潰した表情を浮かべてしまう。

 

 だが、そんなことはモリスが知る由もない。彼女はその行為自体に無用だとは感じていても、誰かを守ろうとする心意気に「ありがとうございます」と素直に感謝を述べた。

 

「だ、大嫌いなあなたを助けるわけがないでしょう! ……もっと嫌いな連中が視界に入ったから排除したまでのこと。感謝を言われる筋合いはありません」

 

 感謝の言葉を想定していなかったハインリッヒが赤面となって慌てふためき、一息置くと言い訳がましく弁明する姿を見て、モリスは内心「ラファエル様みたいな素直じゃないなぁ」と感じながらも障壁の展開のために祈りを捧げ続ける。盾である『不屈の信仰』を構え、威風堂々と仁王立ちをしながら。

 

「……疑問に思っていたのですが、祈祷としては雑すぎませんか?」

 

「祈りとは心の所作。心が正しく形を成せば想いとなるのですから、形式など瑣末なことなのです。両手を合わせる必要も、膝をつく必要も正直どうでもいいのです」

 

「うわぁ、これが宗教国家のトップ層がする発言か」とハインリッヒは呆れながらもラピスラズリを握り直して、視線を交わさずに背中合わせとなって「指示を」とモリスに告げる。

 

「では南部に向かってください。あそこは人も少なく、畜産業も活発ではありません。錬金術を駆使して、嵐やらダイヤモンドダストやらご自由に振るっても大丈夫です」

 

「お心遣いには礼を言いましょう。本来は誰かを守るとか私の性に合わないのですが……今回ばかりは仕方ありません。『あの方』に面と向かってやり返せるチャンスでもありそうですし、素直に従いましょう」

 

 ハインリッヒはラピスラズリの他にもう一振りの剣を錬成して手に取る。

 それはハインリッヒが『フラメル』と呼称している赤い剣だ。『OS事件』で起きた海上での『マーメイド』との戦闘。それでハインリッヒは自分には長時間戦闘を行える持久力がないことを痛感し、それを補うために開発した新型武装だ。

 ラファエルが持つ『回復魔法』を錬金術で再現するために開発した物であり、その開発ルーツには『治癒石』を使用されたデータが参考となっている。

 

 流石に本家本元であるラファエルと比べたら回復効率は劣悪なんて物じゃないが、空間中の『魔力』を『フラメル』に取り込んで循環させることで半永続的に回復行為を行えるのは大きな差別点だ。これさえあれば『OS事件』のようにガス切れになって、イルカの助力が必要になることはない。

 

 

 

 攻撃特化武装『ラピスラズリ』——。

 防御特化武装『フラメル』——。

 万能支援武装『フィオーナ・ペリ』——。

 

 

 

 完全武装したハインリッヒに並大抵の相手は触れることさえ許さない。今の彼女ならば例えどんな人間が来ようとも相手になりはしない。

 

 それほどまでの決意と覚悟を持って、自身を貶めた『あの方』こと『ヨグ=ソトース』へと明確に反旗をあげる。

 

「『位階十席』の『第三位』——。襲名『錬金術師(アルケミスト)』のハインリッヒの地位に恥じぬように」

 

 ハインリッヒは深呼吸をして心身を整え、自分の立場を今一度ハッキリとさせるように告げる。

 自分は『守護者』として『あの方』に仕えるのではなく、レンを、ラファエルを、サモントンを、この国にいる人命を可能な限り守り通すことを宣告するように。

 

 

 

「鋼をまとい、剣を携え、 この身はすでに戦装束——。心せよッ、サモントンに仇為す者たちッ!!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「セラエノ……いったい何が……起きたのですか……?」

 

 一方その頃、ヴェルサイユ宮殿にて。

 

 レンに擬態した『ニャルラトホテプ』が宣告をし、バイジュウ達へと何かしらの衝撃を与えたが、それをセラエノが阻止した。そこまで視覚が機能しないバイジュウでも理解はできる。

 

 問題はそのニャルラトホテプと、すぐ側にいたヴィラクスの『魂』が消失していることにバイジュウは疑問を覚えたのだ。

 あんな一瞬で消失するなんて、バイジュウが情報として知っている『因果の狭間』を介して移動することくらい思い浮かばない。だけど、そんなことが気軽に行える物なのかとバイジュウは考えてしまう。

 

「目が見えないと説明しにくいな。とりあえずニャルラトホテプは爆発的な『時空位相波動』を発生させると同時に、ヴィラクスの『魔導書』と一緒にヴェルサイユ宮殿からは消えたと言っておこう」

 

「ヴィラクスも一緒に……? 彼女もまたガブリエルと同じように、別の裏切り者だったのですか……?」

 

 もしくは人質として攫われたか——。

 そんな疑問を抱くバイジュウに、セラエノは心を読んだのか「どちらも違う」と言って話し始めた。

 

「あいつは『従者』にされただけだ。しかも自分の意思を捻じ曲げられた人形同然にな……。今のあいつなら、ニャルラトホテプの命令である限り、際限なく文字通り『何でも』するだろうよ……殺人は当然として『子供』を産むことも喜んでな」

 

「子供を……!?」

 

 突然の宣告に、あらゆる感情が入り混じるのをバイジュウは感じた。

 

 それは羞恥心でもあり、嫌悪感でもあり、好奇心でもあった。何であれ『子供』産むという行為、つまりは『出産』という響きには、学者気質であるバイジュウにとっては良くも悪くも惹かれる物があった。

 

「ああ。とはいっても赤ちゃんなんて可愛い物じゃないぞ。アイツによって孕まされた生命は人の形にはならん。ヒトの胎より生まれた兵器、と言っても過言じゃないほどに、冒涜的で狂暴な生命体が臨月とか関係なく子宮を無理矢理破き、母体を食い散らかす……」

 

 言葉一つ一つが、女性にとって悍ましい姿になることをバイジュウはハッキリと想像してしまった。

 母体が内側から食われて少しずつなくなるのか、それとも上からも下からも穴という穴から生命が漏れ出て母体を取り込もうとするのか、もしくは母体は風船のように弾け飛び、その残骸を食べてしまうのか。

 

 何であれ想像するだけで吐き気が込み上げてくるほどに、それは生命を冒涜した光景であった。

 

「今こうしても何もならん、とりあえず合流するとしよう。私とお前……両者の仲間達にな」

 

 だとすれば一刻も早くヴィラクスを救い出したい、とバイジュウは思った。

 あの日、図書館でたまたま出会って論争しただけが、それでもバイジュウにとっては数少ない交友関係の一つだ。それを手放せるほど、バイジュウの心身は冷たくはない。むしろ人情み溢れる少女なのだ。

 

 もう二度と、誰かの命が自分の手から零れ落ちるところを見たくないほどに、少女の心は繋がりを捨てることができないのだ。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 そこはどこかも分からぬ暗黒の世界の只中。

 その世界の中で、2人の女性が混じり合うように互いの肉体を触れ合わせて、暗黒を照らす空間の裂け目へと視線を向ける。

 

 裂け目に写るは広大な緑化都市——今災厄に見合う『サモントン』の光景が、上空から見下ろすように映し出されていた。

 

「どうだ、ヴィラクス……。世界が蝕まれ、人々が恐れ慄く様は……」

 

「はい……。とても美しい光景です……」

 

「素直でいいんだけど……。それだけじゃ足りないんだよ。俺を満足させる答えじゃない」

 

 その暗闇にはレンの姿となっている『ニャルラトホテプ』と、自意識など薄れ、人形のように虚な目となって付き従うヴィラクスがいた。

 

 ニャルラトホテプは言葉でヴィラクスの肌身を撫でるように優しく問い、ヴィラクスは虚ながらも笑みを浮かべてその問いに応える。

 

「足りないのですか? いったい何が足りないのでしょうか……。悲鳴と絶望が広がっているというのに……」

 

「何のために、俺が君に『記憶共有』の能力を与えたと思う?」

 

「『記憶共有』……。……『魔導書』に触れた者の記憶が私の中に流れる能力……」

 

「よく覚えているじゃないか」と子供を褒める様に、ニャルラトホテプはヴィラクスを抱きしめながら頭を優しくも艶やかに撫で回す。

 

「想像しろ……。いや、追憶しろ……。この場にいる『ドール』はすべて『魔導書』に触れた者。俺の下僕であると同時に、お前の駒でもある」

 

「もちろん君は下僕じゃなくて大切な従者だけどね」と詐欺師紛いの言葉をニャルラトホテプは吐きながらヴィラクスの様子を伺う。

 

「『ドール』はすべて『魔導書』に触れた者……。つまり全ての『ドール』は私の記憶……」

 

 ニャルラトホテプに言われ、目を閉じてヴィラクスは流れる『ドール』達の記憶を辿っていく。

 

 蜃気楼のように歪んで流れる記憶は、常人なら理解できるはずがない。音も景色も解析不可能なノイズとなり、その記憶には一見して何の意味も無いものであろう。だが『魔導書』の持ち主であるヴィラクスは確かにその記憶を認識してしまう。

 

 流れる記憶は全て——『ドール』達が殺し回るサモントン市民の惨状を映し出した物であることを。

 

 ある者は四肢を引き千切られ——。

 ある者は体内を細切れにされ——。

 ある者は脳味噌を食い尽くされ——。

 

 赤子や子供となると更に酷く無惨な事になる。

 丁寧に手と足を踊り食いをされて泣き叫ぶ。あるいは抵抗できない事を良い事に、本能の赴くままに少年少女の全てを喰らい尽くす。さらには頭だけを捻り切って、宝物を抱える様に大事に持ち運ばれる者までいた。

 

 

 

「こ、これは……っ!?」

 

 その記憶を見て、ヴィラクスは頭痛に襲われる。あまりにも命を冒涜した行為の数々は、人間の正気という理性を一瞬で溶かし尽くし、理解を拒もうと生存本能が働いて少しずつ自意識を失わせていく。

 

 

 

「どうだ。『ドール』の記憶は?」

 

「くる、しいです……。いたい、です……。つらいのです……。ひとが……しんで、また死んで…………。……なぜ私、はここに……?」

 

 

 

 あまりの頭痛にヴィラクスの瞳に『正気』という光が宿る。だがそれさえもニャルラトホテプは計画通りだと言う様に、ドス黒い笑みをヴィラクスに向けて優しく言い聞かせ始める。

 

 

 

「そうかそうか。苦しいか、痛いか、辛いか。だけどこれこそが俺が知って欲しいことなんだよ」

 

「ニャルラトホテプ様が……? ……いえ、あなたは……?」

 

 

 

 ヴィラクスの問いにニャルラトホテプは答えない。そんな質問には意味がないと言う様に、自分の言葉だけをヴィラクスに向け続ける。

 

 

 

「いいか。これら全ては君を悦ばせる物なんだ。悶え苦しく様を見て、君はどう思う?」

 

「き、気持ち悪いです……!」

 

「気持ち悪い、それは正しい感情だ。だけど嫌悪すべき感情じゃないんだ。気持ち悪い、という感情はあって当然。喜んで受け入れるんだ」

 

「きもちわるいのは、よろこび……?」

 

「そうだ。だから恐れるな……その記憶は君を大いに楽しませてくれる」

 

 ニャルラトホテプの言葉に従い、改めてヴィラクスは『ドール』の記憶を覗いてしまう。当然見えるのは惨たらしく死に続ける市民の数々だ。一つだけでもマトモな人間なら耐え切れないのに、それが十、百、千と押し殺すように流れ続ける。

 

 

 

 その数え切れないほどの死の数々が、逆にヴィラクスの心を少しずつ凍らせていく。

 

 ——死なんて、こんなにあり触れて大したことがない物だと。

 

 

 

「人が死ぬ行く様はむしろ気持ちいいことなんだ。悦んでいいことなんだ。他人の不幸は蜜の味、受け入れて当然の感情なんだ」

 

「きもちいいこと……ひとがしぬのは……よろこんでいいこと……」

 

「そうだ。良い子だ、ヴィラクス。俺はそんなヴィラクスが大好きだよ」

 

「だいすき……ニャルラトホテプ様は、わたしを好ましく思ってくれる……。ひとを……不幸を招くことで、愛してくれる……!」

 

「そうだ。だから命じろ。『ドール』達に狂乱を、暴虐を、冒涜を。その混沌こそが俺とお前の悦びとなる」

 

「はい……♡ 私と貴方様の悦びのために……♡」

 

 ヴィラクスの自意識はもうなかった。ニャルラトホテプの忠実な従者として奉仕し尽くす信者となり、悦びと喜びの満ちた笑みで『ドール』から流れる記憶を楽しみながら、ニャルラトホテプと共に裂け目から見えるサモントンを観察し続ける。

 

 だがヴィラクスの視界には求める悦びはなかった。裂け目が写すサモントン都市部——。

 それはモリスの『不屈の信仰』に発生した障壁によって『ドール』の進行が阻まれ、指示に従って避難する民という2人にとって退屈で仕方がない光景しか写っていなかったのだから。

 

「……まあ『位階十席』に敵わないか」

 

「目障り……目障りだ……っ! ニャルラトホテプ様と私の絶頂を阻む者なんて……っ! こうなったら『ドール』を総動員させて……っ!!」

 

「いいや、『ドール』では力不足だ。ここは俺に任せておけ」

 

 子供を宥める様に再びヴィラクスの頭を撫でて、その無垢なる頬に口づけをすると、ニャルラトホテプは「出番だよ」と暗黒の世界に向けて言う。

 

 すると、暗黒から何とも形容し難い巨体を持った生物が『何十体』もニャルラトホテプの前に従順に足を揃えて立った。

 

 象よりも遥かに大きな体を持ち、曲がりくねった頸と繫がる頭部は馬に似た形をしている。全身は羽毛ように鱗が生え揃っており、コウモリの翼と似た皮膜が張られている。

 

 それは生物学的には『鳥』と呼べなくもない冒涜的な姿であり、それら全てにニャルラトホテプは高らかに命令を下した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——行け『シャンタク鳥』達よ。この国をカオスへと陥れてやれ」


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