「このまま寝たら……もう目が覚めないだろうな」
中国大陸を納める大帝国『和』の初代皇帝、北郷一刀にはそんな確信があった。
彼がこの中原の地に降臨して、80年近い時間が経過した。
後漢王朝末期の動乱の待っ最中に降り立ち、劉備、曹操、孫権、董卓等、後の妻になる英傑たちとの出会いがあった
大陸中に芽吹きかける戦乱の芽と、その裏側で蠢く、この外史の崩壊を目論む道士達、剪定者との戦いがあった
人々の願いは、世界の理を超え、末端の枝葉に過ぎなかったこの外史は、太く厚い一本の巨木へと成長したのだ
そして、彼は後漢王朝を継いだ新たな王朝、ユーラシア大陸東部を収める巨大帝国和の初代皇帝へと上り詰めた
民の為、妻の為、子供達の、孫たちの未来の為、一刀は懸命に生きた
外部民族からの侵攻
かつての剪定者たちとは別の外史否定派管理者に先導された、西洋諸国との大規模世界大戦を瀬戸際での勃発阻止
邪馬台国との国交樹立
本当に、本当にいろいろな事があった
何もかもが上手くいったわけではない。悲しい事も、つらい事もたくさんあった
でも、それと同じ、否それ以上に幸せな思い出が幾つも出来た
70人を超える妻たちは次々と身籠っては子供たちを産み、成長した子供たちも同様に、誰かに恋をして、愛し合い、夫婦となって、孫が産まれる
そしてその孫たちもまた……
永遠に続く命の連鎖、そしてそれは始まりだけではなく、終わりをも一刀へと齎す
一人、また一人、妻が一刀に見守られながら泰山へと旅立っていった
別離の悲しみは大きく、一刀が負った心の傷は決して小さくない
だが、だからこそ、妻達は全員俺が見送らなくてはならない、残される悲しみと痛みを誰にも味合わせたくない。歯を食いしばりって立ち上がり、皇としての自分を待つ民の元に向かいながらそう思った
唯一の救いだったのは、全員が病気や負傷が原因での死ではなく、寿命を精一杯に生きたうえでの終わりだったことだろう
そしてつい一週間前、最後の見送りを一刀は済ませたばかり
あわただしくも葬儀が終わり、子供達の心も落ち着いてきて、ふと思ったのだ
もう自分がするべき事は残っていないのだ、と
そしてそれが核心に変わったのは、今朝起きてすぐだった
全身に感じる、言葉にできない小さな違和感。それが何故だか所謂お迎えであると一刀は確信していた
死ぬことへの恐怖は、自分でも不思議に思うくらいに涌いてこず、逆に納得と、皆の元に迎えるという安心感を感じるほどだ
料理をしっかりと味わい
仕事をきっちりと終わらせ
兵達に交じって鍛錬し
城の天守から街並みを眺め
家族、臣下達と取り留めもない会話を繰り返す
一刀の最後の一日は、いつも通りだった
取り乱して家族に、部下たちに不安を与える必要はない
しばらく逡巡した後、一刀は寝台に身を潜らせた。今更残る未練などもう何もない
子供達は健やかに育ち、かわいい孫に囲まれ、優秀な武官文官が彼らを支えてくれてる
民たちは日々笑顔で、諸外国との関係も、少なくともすぐ何か有事に発展するような懸念もない
剪定者気取りの道士達が来ることももうない、と自分たち側に立って戦った管理者も言ってくれたし、何かあれば彼…彼女?達が助けになってくれるだろう
意識が遠ざかるのが分かる。普段の水に溶けていくような睡眠への導入ではない、急速にどこかに落ちていくような浮遊感。
そうか、これが死か
事ここに至っても、恐怖は感じなかった。
未練はない、穏やかに、静かに、すべてを受け入れて旅立つ…はずだった
あぁ、そう言えば……
一刀は、その時微かに、本当に一瞬の、数秒にも満たない時間、思い浮かべてしまったのだ
今ここにいない、遠い過去に永遠に離別してしまった、正史にいるであろう家族と、友人たちの事を
父さんと母さんは、ずっと心配しながら死んじゃったんだろうな……
刀奈も、きっと泣いてたんだろうな……ダメな兄ちゃんで、ごめんな
及川……悪い、ゲーム借りっぱなしだっけ、そう言えば……
思わず苦笑してしまう
人間一切の未練を持たずに逝くのは難しいと、昔何かの本で読んだ記憶がある
その通りだ。必死になって、皆が泣かない結末を迎えたいと思っていたはずなのに
こんな土壇場中の土壇場で、大切な人たちを泣かせっぱなしだったことに気づくなんて
まずいな…死にたく…なくな…ちまった、ぞ……
薄れゆく意識の中で、彼は誰にともなく願う
みんなで……みんなで……こんど、こそ……
自分が知っている人すべてが平和であって欲しいという願い、そして、ほんの少しばかりの我儘、その幸福な輪の中に、自分も入っていたい
誰にあてたわけでもなく、誰かに届くことがない事も知ったまま、彼は願い、そして旅立っていった
翌朝、城がある新都に住む人々は、空に向かって昇っていく白い龍と、まるで龍に寄り添い侍るように飛んでいく、幾つもの極彩色の光を目撃した
それは一刀の朝を任されている侍従が、既に冷たくなっている彼を寝台で見つけ、泣き崩れた時とほぼ同時であった
最期を迎えた一刀の顔は、穏やかで、まるで眠っているかのようであったと言う
天の御使い、天へと帰還す
大陸中の人々が、龍をはじめとした瑞獣たちがその報に嘆き悲しんだ
一刀の遺言で葬式こそ質素だったものの、その死を悼んだ人々が各地で手向けを行い
軍や警備隊は自分達の悲しみを飲み込みながら、殉死を禁ずると遺言に残されたにもかかわらず、一刀のもとに殉死しようとする文官達を抑える為に奔走した
やがて、人々は前を向いて、互いに手に手を取り歩き始めた
またいつかどこかで再び会えるのだ。ならば今は、賢明に日々を生きること、それこそがかの百花王への手向けとなるはず
悲しみの末に、誰もがそう思った
一刀は百花帝と言う諡を送られた
常に相手の目線に立ち、気を配ることを欠かさなかった彼の周囲には、いつも人々の笑顔が花咲いていた
歴史上最も優しく、最も愛された皇帝に相応しい諡であった
そして、北郷一刀は再び聖フランチェスカ学園の男子寮にある、自室のベッドの上で目を覚ました
誤字脱字などございましたらどんどんご指摘ください。