黒鉄さんちのラスボス姉ちゃん   作:マゲルヌ

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4話 これは訓練です

「ハッ、ハッ、ハッ……!」

 

 黒鉄家の朝は早い。……しかし黒鉄一輝の朝はもっと早い。

 門弟たちの鍛錬が開始されるよりさらに前、まだ薄暗い時間から少年の活動は始まる。軽い準備運動から始まって……、ランニング、筋トレ、素振り、型稽古、イメージトレーニング等々、七歳児にはハードな練習メニューを一人黙々と熟していく。

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」

 

 無論彼には指導者などいないため、その全てが遠目に門弟たちを観察して覚えた見取り稽古だ。持ち前の観察眼で理を読み解き、乏しい経験からなんとか試行錯誤を繰り返してきた。

 導いてくれる師もおらず……、励まし合える友もおらず……、強くなれている保証もないまま努力を続ける日々。

 ――『本当にこの行動は正しいのか? さっさと諦めた方が楽なんじゃないのか……?』

 そんな不安に駆られたことも一度や二度ではない。

 

 

「ハアッ……、ハアッ……、ハアッ……!!」

 

 しかしそれでも、一輝は諦めなかった。

 才能が足りないなら、それを補うほどの努力を……。

 努力だけで足りないなら、今以上にもっと努力を……。

 それでもまだ足りないなら、この魂を削ってでも……!

 

 どれほど辛くても、どれほど馬鹿にされようとも、彼が歩みを止めることは決してなかった。全ては憧れの曾祖父に追い付くため。そして魔導騎士になるという夢のため。その一念のみで彼は今日まで努力を続けてきたのだ。

 幼くして後の大成を感じさせる、断固たる決意がそこにはあった……。

 

 

「ハアッ……、ハアッ……、ハアッ……、――――はひぃぃッ……!」

 

 まあ……それはそれとして。

 そんな努力家な一輝少年は、今現在――

 

 

 

 

「そぉれ……。もっと走れ……、走れぇええ……!」

「ひぃいい!? 来たああッ!」

 

 

 ――ポン刀片手に迫る(オニ)から、決死の思いで逃げていた!

 

 髪を振り乱して走る少年の背後から、刃渡り90cmの刃がブン、ブン、ブン!

 もちろん模造刀などではなくガチの本物。避け損なえば手足なんぞスパッと飛んでく業物である。

 朝っぱらから姉に叩き起こされて、かれこれこうして一時間以上。一輝はずーっと悲鳴を上げながら、広大な敷地内を追い回されているのである。

 ほら今この瞬間も、キラリと光る刃が少年の後頭部へ迫り――

 

「いやあああッッ!! 死ぬ! 死ぬ! これ絶対死んじゃううわああッ!?」

「……コラ……気を、抜かない……。真面目に、やらないと……首……飛ぶ、よ……?」

「いや絶対おかしいでしょコレえッ!? それって真剣だよね!? 当たったら致命傷だよね!? 普通訓練でこんな危険行為やりますかッ!?」

「…………??」

「『何言ってるか分からない』って顔しないでよおお!!」

 

 ………………。

 

 ……誤解のないように、一応説明しておこう。

 これは訓練である。

 一見すると、刃物持って弟を追い回すいじめ――というか、殺人未遂にしか見えないが……、ポンコツ姉が弟のためを想って考えた、歴とした訓練なのだ。

 

※弟を鍛えてあげよう。

 → でもまだ幼いし、激しい筋トレとかは良くない。

 → ランニングを中心に、走力とスタミナを鍛えよう。

 → ついでに根性と精神も鍛えてあげよう。

 → ……よし、真剣持って追い回そう。

 

 こんな感じの流れである。

 ……三行目から四行目がちょっとジャンプアップし過ぎな気がしないでもないが、実のところ理には適っていた。幼い身体に負荷をかけ過ぎると、正しい成長を阻害してしまうことがある。ゆえに、最初の内は伸び伸びと自然な動きを覚える方が良いのだ。

 実際、開始前にそう説明された一輝も、『あ、この人まともなことも考えられるんだな……』と納得の表情を見せていた。

 

 

 ――スッパアアアンッ!!

 

「ふおおおッ!? い、今スパって!! き……斬れた! 髪の毛斬れたよ姉さんンンッ!!」

「ン……だから言った。……真面目にしないと……首、落ちる……って。……髪の毛で……良かった、ね?」

「なんにも良くないんですけどおおッ!!?」

 

 ……残念ながら、互いの『伸び伸び』の感覚は、致命的にズレていたのだけれど……。

 

「……大、丈夫……避けられない……攻撃は……してないから……。……ちゃんと集中すれば……躱せる、から……。集中して……限界超えて……命懸けで死線を潜れば……ちゃんとギリギリで……躱せるから……! さあ、修行頑張れ一輝……! じゃすとどぅーいっと!!」

「これは修行じゃなくて“拷問”って言うんだよ姉さんンンンッ!!」

 

 

 ――その日、謎の奇声と爆音が黒鉄の敷地を揺らし、住民たちは静かに黙祷を捧げたという……。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 ………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぶはッ……! ごふッ……、あべらぁ……ッ」

「……フ、フフフ。……手取り、足取り……一緒に……訓練……。これはもう……仲良し姉弟と言って……差支え、ないのでは……?」

 

 一時間後、白目をむいて倒れる弟の横で、ポンコツ姉ちゃんは呑気にポヤポヤ喜んでいた。

 疎遠だった弟とこうして仲良く(?)なって、一緒に愉しく修行に励む。数日前には想像もしていなかった関係の進展ぶりに、刹那の口角は知らず上がっていく。

 

(ッと、……いけ、ない……声に……出てた……。……気を、抜くのは……厳禁……)

 

 緩みそうだった表情を刹那は慌てて引き締める。

 ……そうだ、ここで気を抜いてはならない。あくまで今の自分は――“難癖付けて弟を虐める理不尽な姉”なのだ。どこに人目があるか分からない以上、そのスタンスを崩すわけにはいかなかった。

 ……正直、一輝から怖がられる現状には寂しさを覚えないでもないが、初めて事務会話以上のコミュニケーションができたことに関しては大いに感動しているところだ。

 ――自分は今、仲良し姉弟(目標)へ向かって着実に前進している!

 その確かな手応えをモチベーションに、刹那は今日も今日とて心を鬼にし、優しく弟を鍛えていくのであった。

 

 

 

 

 ゆえに――

 

「……じゃあ……今度は……、……来客の、応対を……しよう、かな……?」

 

 ――ッッ!!?

 

 ゆえに刹那は迅速に次の行動へ移ることにした。一輝が気を失っている間に、不審者の処理を済ませようと考えたのだ。

 

 ……そう、少し前から感じていた視線。

 一輝に対して並々ならぬ感情を送り続ける怪しい人物が、彼らの後方三十メートルほどの林の中にいたのだ。

 警戒して逃げられないよう魔力による探知は行わなかったが、どうやら下手人の隠形の腕は大したものではないらしく、刹那が普通に気配を読むだけで容易く位置を割り出すことができた。

 後はちょちょいと身柄を確保して少しばかり“お話”をするだけである。

 

「……で、は……、その顔……、拝ませて……もらおう、かな……?」

「ッ!?」

 

 ――ガサリッ!

 

 刹那は茂みへ向けて一歩を踏み出した。それを見て相手は今さら逃げようとしているようだが、もう遅い。

 こうして声をかける前にすでに包囲は完了していたのだ。ターゲットの周囲にはすでに幾重にも魔力鎖が配置してあり、対象がいずれかに触れた瞬間、即捕縛できる仕掛けになっている。

 

「ッ!? ~~ッッ!!?」

 

 言ってる傍から発動したようだ。謎の人物の声にならない悲鳴が、魔力の鎖を媒介にひしひしと伝わってきている。

 果たしてこの人物は一輝に悪感情を持っている悪ガキなのか……、もしくはこちらの動向を探りにきた父の部下なのか……。まさか、大穴で“刺客”なんてことはないと思うが……。

 仮に、本当に一輝を狙って来た賊ならば――

 

「…………情報……吐かすため……、拷問……すべき……?」

「~~Δ♯×%&●♪$!?」

 

 刹那の呟きの直後、恐怖の念が一気に増大した。なんとか拘束を振り解こうと必死に暴れ、身を捩っているようだ。もしこれが通りすがりの出歯亀ならばここまで恐怖を感じはすまい。

 ……もしかするとこれは本当に“当たり”なのかもしれない。ならばじっくり丁寧に、お話に付き合ってもらう必要があるだろう。

 彼女は初めての拷問にちょっとだけワクワクした。

 

「……では、犯人よ……、……洗いざらい……ゲロして、もらおう、かッ……!!」

 

 刹那は思い切り魔力鎖を引っ張り、標的を茂みから釣り上げたのである。

 

 ――ガッサアアアア!!

 

 

 

 

 

「ひやああああ゛あッ!!? ごめんなさい、ごめんなさい! 殺さないでええええーーーッ!!」

 

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「……んえ?」

 

 刹那はポカンと口を開けたまま、間抜けな声を漏らした。

 引き抜いた鎖の先に吊るされていたのは……、悪ガキでも、刺客でも、ましてや父の部下でもなく……、

 

 

「しッ……死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくなッ――――きゅぅぅぅ……」

「……………………。……珠、雫(しず く)?」

 

 

 白目をむいたまま気絶する、彼女の末の妹だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒鉄珠雫(くろがねしずく)は特別な人間だった。それは思春期によくある思い込みなどではなく、客観的な事実である。

 名門・黒鉄本家の娘として生まれ、伐刀者としての位階は一流と言っていいBランク。身体能力こそ平均の域を出ないものの、魔力制御の才はそれを補って余りあるほど高く、指導に当たる高ランク騎士さえ唸らせるほど。

 勉学に関しても申し分なく、礼儀作法や教養も完璧。さらには万人が誉めそやす可憐な容姿まで持ち合わせていた。

 才能、容姿、頭脳、血統、そして社会的地位。人が凡そ望む全てのものを持って生まれてきた特別な人間、それが彼女であった。

 

 必然、周囲の者たちは挙って彼女を特別扱いした。

 珠雫がいくら我が儘を言おうが、他の子どもに理不尽を働こうが、いつも頭を下げさせられるのは周囲の方。

 彼女以外の姉弟が、一輝(無能扱い)王馬(気難しい)刹那(例のアレ)であったことも影響したのだろう。それらに比べればまだ取っ付きやすい珠雫に対し、分家の連中はあからさまに媚びてきたのだ。

 

 珠雫をチヤホヤすることで本家の覚えを良くし、できるだけ出世に繋げたい。そんな下世話な想いが笑顔の裏に常に透けて見えていた。

 六歳の小娘に顎で使われてペコペコする大人たち。権力の前では皆例外なく右へ倣え。

 そんなプライドのない人間全てを珠雫は見下し……、そして、その様を見て悦に入る自分自身のことを何よりも嫌いになっていった……。

 

 

 

 ――そんなある日のこと、彼女の価値観が引っくり返る事件が起きる。

 

 その日も珠雫はいつも通り、気まぐれに横暴を働いていた。

 分家の子どもたちへ嫌味を吐き、彼らの親に頭を下げさせ、その姿を見てさらに見下す言葉を放つ。

 よくよく見れば彼らの拳は微かに震えており、本心では悔しいのだということはよく分かった。それでもなお彼らは一言も言い返してこない。その情けない姿を見て珠雫はますますイラつき、余計に暴言を重ねていく。

 

 “黒鉄の娘”として特別扱いされればされるほど、まるで『珠雫という人間そのものには価値がない』と言われているようで……。こうして周囲に噛み付くことで、彼女はなんとか自分の心を保つしかなかったのだ。

 ……ままならない気持ちから罵倒を繰り返す少女と、逆らうわけにいかず静かに耐える親類たち。

 軋んでいく空気と、行き場をなくして澱んでいく怒気。

 どうにも収拾が付かなくなっていくその状況を、最終的に鎮めたのは――

 

 

 

 ――パシ…………ン!

 

 

 

「…………、え?」

 

 ――珠雫の左頬から響く、乾いた殴打の音だった。

 いつの間にか目の前には兄・黒鉄一輝が立っており、厳しい顔で彼女を睨んでいたのだ。

 

「…………謝るんだ、珠雫」

「……え、…………え?」

 

 突然の事態に珠雫はうまく状況を飲み込めないでいた。

 

 ――なんで落ちこぼれの兄がここに?

 ――なんで私に、命令しているの?

 ――どうして私が、謝らないといけないの?

 

 疑問を咀嚼している間に左頬は徐々に熱を帯び始め、やがてジンジンと痛み出す。そこでようやく珠雫は自分が兄に叩かれたのだと理解した。

 

「え……、や……な、なんで……。だ、だって……私……悪くッ」

 

 初めて感じる頬の痛み、そして家族に叩かれたのだというショックに、珠雫の気は動転した。まともに言葉も発せないまま涙で視界が霞んでいく。

 

 なぜ? どうして自分は叩かれた?

 今まで誰も怒らなかったのに……。

 私が望めば、みんな黙ったのに……ッ。

 誰かに叩かれたことなんて、一度もなかったのに……!

 

「……わ、私ッ……悪くなんかッ……ない、のに!」

「いいや……、君が悪い」

「……ッ」

 

 泣きながら絞り出した言葉はあっさりと否定された。

 しゃくり上げる妹の目をジッと見ながら、兄は淡々と糾弾を続ける。

 

「君が本家の娘であっても、彼らに命令する権利なんてない。それができるのは黒鉄の当主のみで……、それも、人々を守るために必要なときだけだ」

「……だ、だって……わ、私……ッ」

「彼らは便利に使っていい道具なんかじゃない。一人の意思ある人間なんだ。君がやった理不尽で身勝手な罵倒なんて、断じて許されるものじゃない」

「で……も……、わ、私…………悪、く……ッ」

「……珠雫、今すぐ皆に謝りなさい」

「……ぐす……ひぐ……。わ、悪く……えぐッ……」

 

 

「謝るんだッ! 珠雫!!」

「――ッ!」

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 その後のことはあまり覚えていない。

 ……ただ、初めての怒声に声を上げて泣いたこと、そして、自分を叱る兄の強い意志を秘めた瞳だけは、今でも鮮明に思い出すことができた。

 庇ったはずの分家の者たちに取り押さえられ、殴る蹴るの暴行を受ける中、ただジッと自分を見続けていた兄。

 

 ――どんな理不尽な目に遭おうとも、誰にも認められなくても、絶対に心だけは敗けてたまるか。

 何より雄弁に語っていたその瞳に、珠雫の心は訳も分からぬまま強く揺さぶられてしまったのだ。

 

 …………いや、この際取り繕うのはやめよう。

 周囲のことを見下し、自分のことすらも諦めていた少女は、このとき初めて誰かの生き様に憧れたのだ。

 落ちこぼれの烙印を押され、家族からも蔑まれ、満足な愛さえ受けられなかった少年が、それでもなお自分自身を諦めなかった尊い姿に、何より強く憧れたのだ。

 

 

 ――灰色だった少女の世界に、鮮やかな火が灯った瞬間だった……。

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 

 ――――

 

 

 

 とまあ、こんな感じの経緯で……。

 愛しの――じゃなかった……、ちょっとだけ尊敬する兄に会うべく、珠雫は姉への恐怖を押し殺し、ここまで偵察にやってきた。

『一輝があの恐ろしい姉に連れ去られ、二人で寝食を共にしている』と聞かされ、なんだかよく分からない焦りを感じた結果、居ても立ってもいられずこうして突っ込んできたのである。

 

(私の方がお兄様の良さをずっと分かってる! あんなポっと出の姉なんかに絶対負けないんだから!)

 

 自分たち兄妹の絆はあんな姉よりずっと強いのだと、珠雫は心の中で鼻息を荒くした。

 

 

 

『…………ダメだ……、そんな……たら……』

 

 

 

 ――ほら今も、耳を澄ませば兄の声が聞こえてくる。

 

 

 

『…………したら、…………が…………てしまう……』

 

 

 

 ――自分を変えてくれた力強い言葉が、はっきりこの耳に届いている。

 

 

 

『…………謝る…………早く……』

 

 

 

 ――きっと倒れた自分を案じて、兄が優しく声をかけてくれているに違いない。

 

 

 

『……早く……いて…………、……が折れ…………』

 

 

 ――ならばそろそろ目を覚まして、大切なお兄様に挨拶しなければ。

 そしてそのときこそ、兄妹による仲良し甘々ハッピーストーリーが始まるのだ!

 

「う、うーん、お兄様ぁ……ッ」

 

 温かな微睡みの中、少女は兄に『おはよう』を言うため、ゆっくりと目を開いていった。

 心地良い浮遊感とともに暗闇が開け、眩い光が世界を照らしていく……。

 そしてやがて、少女の瞳にその光景が飛び込んできて――

 

 

 

 

 

 

「ダメだよ姉さんンッ!! 人間の身体はこんなのに耐えられるようにできてないよッ! う、腕が折れるうう!!」

「……大……丈夫。……人は……そう簡単に……壊れ、ない……。何度も……確かめた、から……間違い、ない……。安心……する」

「何一つ安心できる要素がないんだけど!? ていうか過度な筋トレは禁止じゃなかったのッ!? これめちゃくちゃキツいんだけどッ!?」

「?? 何、言ってる……? これは掌への……魔力集束、訓練……。物理的負荷は……そんな……ない、よ?」

「“人間乗せて片手逆立ち”のどこが低負荷なのさ!――って、ああッ! 手に針があ!!」

 

 

「………………」

 

 目覚めた少女の瞳に映ったのは……優しく語りかけてくれる兄の笑顔ではなく、

 

 ――剣山の上で片手逆立ちしながら、拷問官()にグイグイ体重をかけられている虜囚()の姿だった!

 

 小さな腕はプルプル痙攣しながら“く”の字に曲がり、身体は今にも針に突き刺さりそうなほど傾いている。

 針の直径は10cm、長さはズズイと1m、それが5m四方に数十本。倒れてしまえばどんな人間も確実にお亡くなりになる、まさに地獄の処刑場であった。

 

 

「――――ッお、……お兄様ああああ゛あ゛あ゛ッ!!!?」

「え、珠雫? 良かった、目が覚めたん――ブふぇえッ!?」

 

 ――ドゴオオオンッ!!

 

「……おっ、と」

 

 直後、珠雫は全力で駆け出していた。汗だくでこちらを振り向いた兄の横腹目掛け、全身全霊でタックルを敢行。蛙が潰れたような声が聞こえたが、全て無視。

 ゴロゴロと地面を転がって跳ね起きると、奪い返されないようにしっかりと兄の身体を確保する。

 そして5mほど向こうに着地した刹那をキッと睨んだ。

 

「……ど、どうしてッ、……なんで、こんなことを……ッ!」

「…………? なに、が?」

「なにが……、じゃありませんッ!!」

 

 珠雫はギリと歯を食いしばる。

 ……一輝が恐ろしい姉に連れ去られたと聞いたとき、ある程度のことは覚悟していた。きっといろいろ酷い扱いを受けているのだろうと、心の準備だけはしてきた。

 が、現実は想像の遥か上だった。斜め上どころか大気圏の外である。

 

「何なんですか、この仕打ちは!? 一応は“特訓”という名目だったのでしょう!? 教え導いてあげると手を差し伸べたのでしょう!? それなのにこんな……酷い真似ッ……、こんなのもう、ただの拷問じゃないですかッ!!」

 

 自分から兄に会いに来た恥ずかしさとか、怪物姉への恐怖とか、そんなものは全て彼女の頭から吹き飛んでいた。

 ――この悪辣な姉の下からなんとしても兄を助け出す! 頭の中はもうそれ一色だ。

 

 相手は恐ろしい化け物? 戦ったら絶対に助からない?

 ――それがどうした!!

 いつかは戦わなければならない()、それが今だったというだけの話だ。たとえ刺し違えることになろうとも、大切な兄の命だけは絶対守ってみせる!

 

「さあ来なさい白髪鬼! お兄様への無体は、この黒鉄珠雫が許しませんッ!!」

「………………」

「どうしました!? 何をジッと見てるんですッ! 私のような有象無象、あなたが恐れる理由などどこにもないでしょう! 早くかかって来なさい!!」

「………………、ン」

 

 その啖呵に応えるように、やがて刹那は静かに腕を上げ、ピッと珠雫を指差した。

 

「――ッ!」

 

 瞬間、珠雫は全身をビクリと震わせる。

 

 …………やはり、怖い。

 覚悟を決めて臨んだはずなのに、正面に立たれただけで震えが治まらない。その闇色の瞳で見られるだけで、魂の鼓動まで止まってしまいそう。

 

(ッ……で、でもッ、……絶対に膝は屈しません! 最悪命を失ってでも、お兄様の身だけは必ず……!)

 

「……あ、の……」

「くっ、来ますかッ!」

「……や……、じゃなくて」

「な、なんです! さっきから何が言いたいんですか!?」

「えっと………………、一輝が…………死に、そうで」

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「………………へ?」

 

 紡がれたのは、想像していたよりもずっと優しい声と、想像もしていなかった指摘の言葉。

 気の抜けた珠雫が思わず下を向けば――

 

「…………あ」

「か、かひゅ……、こひゅっ……。し、しずッ…………し、ぬぅ……ッ」

 

 ガッチリと首を極められ、顔中真っ青にしている兄と目が合った。口の端からは泡を吹き、良く見ると額には大きなタンコブまでできている。

 弱弱しく妹の腕をタップして、震えながら必死で助けを求めて――――あ、腕落ちた。

 

「――――ッお、……お兄様ああああ゛あ゛あ゛ッ!!!?」

「んぐぇ! さ、さらに極まっ――」

「……あ……、早く……放した、方が……」

「いやああああ!! お兄様死なないでええええッ!!!」

「ンガポポポエェ……ッ!?」

「し、珠雫……? その歳で、兄殺しは……感心、しない……よ? ……ねえ待って……話、聞いて? ……聞いてよぅ」

 

 

 守るべき兄の命は、姉より先に妹の手で散りそうだった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――十分後。

 

「カホッ、ゲホッ! ……な、なるほど……、そういう理由で、僕に会いに来てくれたんだね……」

「……えっと……その…………はい……。概ね、そんな感じです……うぅぅ」

 

 珠雫は目覚めた兄の前で正座し、ここまでの経緯を説明していた。その顔は両掌でギュッと覆われており、耳まで真っ赤に染まっている。

 

 ……一言で言えば彼女は今、恥ずかしさで死にそうであった。

 チョークスリーパーで兄を葬りかけたことだけではない。

 夢の中で思い返した、肉親に聞かせるには若干恥ずかしい内容……。珠雫はそれをマルっと全部一輝に話してしまったのだ。

 

 ……さすがに一番恥ずかしいところは咄嗟にぼかしたが、『謝りたかった』だの、『会いに来るのが照れ臭かった』だの、『心を入れ替えました』だの、そこそこ恥ずかしいところはほとんど全部喋ってしまっていた。

 寝惚けているところに非常識な光景を目の当たりにして、気が動転してしまったのだろう。……げに恐ろしきは寝起き直後のテンションである。

 

「あ、あの……、その節は私のせいで、いろいろとご迷惑を……」

「いや、僕の方こそ……、あのときはついカッとなって叩いちゃって……ごめんね?」

「いえそんな……私が悪かったんですから。……先ほどのことも……なんと謝れば良いか……」

「い、いや、気にしないで。むしろ、僕の方から謝りに行かなきゃいけなかったのに……」

「いえそんな、私の方が――」

「いやいや、僕の方が――」

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「「………………、ふふっ」」

 

 ……だが、結果としてこれで良かったのかもしれない。

 勢いとはいえ素直に謝罪できたこと、そして一輝の性格が大らかだったことが幸いしたのだろう。二人はまるで、長年連れ添った兄妹のように穏やかに会話ができていた。

 その嬉しさから、珠雫の顔は思わずほころぶ。

 当初の予定とは若干違ったけれど、こうして無事に兄と仲良くなることができた。ならば少々の恥ずかしさなど些細なことだ。

 

(だって、お兄様がこんなところにいる理由なんて、もうないんですからね! フフッ)

 

 もう一つの方の理由でも、珠雫は顔をニヤケさせる。

 一輝が刹那のもとに身を寄せていた訳。それは、他に頼れる相手がいなかったからというのが最も大きい。鍛えてくれる相手も、守ってくれる相手もいなかったため、たとえ悪魔の誘惑と分かっていても、悪辣な姉の手を取るしかなかったのだ。

 

 ならばこれからは、珠雫が一輝を守ってあげれば良い。

 これまでの横暴を反省した直後で少々バツは悪いが、自分が少し強めに言い付ければ、家人たちも兄への嫌がらせをやめるだろう。一輝が望む、武術の指導者だって手配してあげられる。

 そうなればもう、こんなところからはオサラバだ。

 代わりに始まるのは兄と妹による甘々仲良しストーリー。明るいバラ色未来が、若い二人を待っているのだ!

 

「フフフ。――と、いうわけでお兄様? 今すぐ私と一緒に帰りましょうッ」

 

 達成感と高揚感を噛みしめながら、珠雫は笑顔で右手を差し出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ――「いや、僕はここに残るよ。……姉さんのところに」

 

 

 

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「………………、は?」

「え?」

 

 思ったよりも低い声が出たことに、珠雫自身が驚いた。――が、今一番気にすべきはその発言内容であった。

 

「し、珠雫? なんか今、怖い声が聞こえ――」

「どういうことですかああッッ!!?」

「のわあ!?」

 

 珠雫は全力で一輝の両肩に掴みかかった。敬愛する兄にはとても見せられない表情を晒していたが、それを気にする余裕もない。

 

 ――どうして、なんで一緒に帰ってくれないの?

 ――やっぱりまだ怒っているから? 私のことが嫌いだから?

 ――なぜ? どうして一緒に居てくれないの、お兄様ッッ!!

 

「…………ごめん。混乱させちゃったね、珠雫」

 

 堂々巡りを繰り返す雫の頭を、一輝の掌が優しく撫でる。

 

「別に君のことが嫌いだとか……、一緒に居たくないとか……、そういうことじゃないんだよ?」

「だ、だったら……ぐすっ……なんで……? ……いつもあの人に、酷い目に遭わされているんでしょう?」

 

 珠雫の問いに、一輝は深く……、それはもう深く頷いた。

 

「……うん、確かに……。……毎日姉さんから頭のおかしい訓練を………………訓練? …………うん、訓練のはず……、きっとアレは……訓練、だろう…………、訓練、だと思う? ――をずっと受けているけど」

「ほらぁ! 完全に目が死んでるじゃないですかぁ!?」

 

 強い意志を秘めた兄の瞳が、一瞬で闇に染まってしまった。そのヤバ過ぎる症状を目にして、珠雫は再び涙目で一輝の身体を揺する。やっぱりこんなところに兄を置いていけねえ!

 

「でもね? 僕は今、これまでで一番、成長を実感できているんだ」

「………ぁ」

 

 妹の心配をよそに、一輝はフワリと柔らかく笑う。

 

「あの人は確かに恐ろしい人だったけど、噂通りその実力は凄まじかった。……だからと言って指導者としても優秀、とは限らないんだけど、事実として僕は今、一人のときよりも確実に前へ進めていると感じてる」

「………………」

 

 再び光を取り戻した、大好きな兄の優しい瞳。

 その輝きは、珠雫の記憶に刻まれたどの色よりも力強く――そして眩しい。

 

「それにさ……ここでやめちゃうと、途中で逃げたみたいでカッコ悪いでしょ? 今の僕の目標は強くなることの他にもう一つ……、あの鬼より強い姉さんに一撃カマしてやることだからね。ここで力を付けて、いつか絶対あの冷静な顔を崩してやるんだ、フフフフ」

「お、お兄様……?」

「フフフ……いやホント、何なんだあの訓練は。いくら鍛えるって言っても限度があるだろ。ちくしょうあのクレイジー姉さんめ、いつか絶対目にもの見せてやるぞッ」

「…………」

 

 そう言って、珍しく悪態を吐く一輝の顔は、言葉とは裏腹にとても穏やかで……。

 彼が本心から『ここに居たい』と思っているのだと……、なんだかんだで姉に感謝しているのだと、珠雫の目から見ても容易に分かった。

 それは歪で、過酷で、とてもまともとは呼べない関係なんだろうけど、あの頃よりも遥かに生き生きと笑っている兄の顔を見てしまえば、珠雫にはもう何も言うことはできず……。

 

「だからね、珠雫……、僕のことは心配しないで? 一人でもなんとか、頑張ってやっていくから。――ね?」

 

 兄の幸せだけを一心に願う控えめな少女は、これからも彼の心が健やかであることを祈りつつ、潔くその身を引いたのであっt――

 

 

 

 

「――ムッスウウウウーーーッッ!!」

 

 

 

 

 ――否! そんな殊勝な態度、このブラコン妹にあるはずがなかった!!

 

 仮にこれが十年後、精神的にも余裕が生まれ、兄のことを本気で一番に考えられるようになった頃なら、話は違っただろう。

 だが今ここにいるのは、この間まで甘やかされてきたワガママ娘。兄の本音を聞かされたからと言って、『はいそうですか』と、いきなり大人な態度が取れるほど物分かりは良くない!

 

 兄と会えないのは寂しいし、いつでも自由に話せないのは嫌だし!

 何より! 一輝があの姉と二人きりだということが、なぜだかムチャクチャ気に食わないッ!!

 ――少女は今、過去最高に恋する乙女(ワガママ)であった。

 

 そしていろいろとトチ狂ってしまった少女は、ついに言ってはならない“言葉”を口にしてしまう!

 

「…………、私も……やります」

「……へ?」

「……私も、『やる』と言ったんです」

「いや……、え? 待って。……や、やるって、何を……?」

 

 惚けたことを聞く一輝をギロリと睨むと、珠雫は高らかに宣言した。

 

 

 

「私もッ! 姉さんの訓練をいっしょに受けると言ってるんですッッ!!!」

 

 

 

「はああああ゛あ゛ーーーーッ!!?」

 

 一輝はその場で引っくり返った。多分ここ数か月で一番の驚きようだった。

 

「い、いやいやいや! 何言ってるのさ珠雫!! 馬鹿なこと言うのはやめなさい! こんなのまともな人間のやることじゃないからねッ!?」

「嬉々としてやってる人間が何言ってるんですか!! なんですかッ、苦痛は全部自分のものですか!? もしかしてどMなんですか、お兄様はッ!?」

「いや違うよッ!? ていうかどこで覚えたのそんな言葉! 女の子がそんなこと言っちゃダメ!!」

 

 問題発言を連発する妹をなんとか宥めようとするも、興奮した珠雫は聞く耳も持たず。

 

「とにかくッ、もう決めましたから!! 私も明日から……いえ、今からいっしょに参加します! そうそう二人きりになれるだなんて思わないでくださいね、お兄様!!」

「言ってる意味が分かんないよ、珠雫!」

 

 もう――グダグダであった。先ほどまでのちょっとしたシリアス空気など完全に吹き飛んでしまっている。

 そんな中――

 

 

「……珠……雫ぅ」

「ピィッ!?」

 

 ……誰よりもシリアスをぶち壊す人物といえば、この人。

 一瞬前まで数十メートル先にいたはずの刹那が、珠雫の後ろからヌルリと顔を出した。そして、飛び上がる妹の肩に手を置くと、恐ろしい笑顔でニタリと嗤う。

 

「……自分から……訓練、したいとは……すごく感心な……心がけ……。歓迎、するよ……珠雫?(本心)」

「おおお、おうよ!ですッ。どどど、どんと来いですッ、この野郎!」

「よ、よすんだ、珠雫! 死にたいのか! ていうか目と膝がめっちゃ泳いでるよ、ホントに大丈夫!?」

「ななな、何言ってんですか。ここ、これはアレ、武者震いってやつですから! 全然ビビッてなんか、ないですから! ――さ、さあ、姉さん! あなたの訓練とやら、私にも見せるがいいですよ!!」

「! フフ、フ……わかっ、た……。珠雫の、ことも一緒に……全力で鍛えて……あげる、からッ。……期待……すると、良いよッ!」

「ののッ、望む、のぞむところろおロロおオッッ」

 

 

 

 ――かくして妹は、自ら地獄の門をくぐってしまい、兄は額を押さえながら天を仰いだのであった。

 

 そして――

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 

 

 

「――――う……、うにゃああああ゛あ゛あ゛ーーーーッッ!!!?」

 

 

 

 

 

 その日、一人の少女が危うく天に召されかけたが、兄を想う心によってなんとか生還したらしい……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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