灯雁へ向かう電車の中。
車窓から外の風景を眺めていた郁が左手に感じたのは、灼けるような痛みだった。
傷んだ手の甲を見れば、そこには刺青のような文様が浮かんでいる。
令呪だ。
現時点ではまだあまり形ははっきりしておらず、赤い痣のような形として目に映る。
『まもなく、灯雁、灯雁です。お出口は右側です。ドアから手を放してお待ちください』
電車のアナウンスが響く。どうやら街に入ったことで聖杯が郁を認識し、此度の聖杯戦争のマスターと認めたらしい。
「成程……」
令呪を眺めながら感嘆の声を漏らしてしまう。
サーヴァントという最上級の使い魔を律するだけあって、神域ともいえるほどによく練られた支配魔術による逸品だという事が見て取れる。
この仕組みを考え、聖杯戦争に組み込んだのはあのマキリだと聞く。家系はとうに枯れたとはいえ噂に違わぬ大魔術師だ。
足元に下ろされたスーツケースを撫でる。
ケースの中に手に持っていた封筒と、その中に封じられていた資料をケースにしまい込む。
灯雁の駅に到着した電車を降り、街中を外側へ向けて進む。
街の郊外に、今回郁が拠点として目を付けた場所があるのだ。
この灯雁という街は、中央部はそれなりに賑わいを見せているが、ある程度離れれば民家が立ち並ぶ町だけじゃなく田畑や森もそれなりにあり、身を隠す場所にはそう困ることもない。
勿論、それはこちらから敵陣営の拠点を探すときにも候補の多さから難しくなるという事情もはらんでいるのであるが。
商店街に入り、建物と建物の間にひっそりと建つ扉の向こう、地下への階段へ入り込む。
階段を下っていくと、そこには開けた空間があった。
出入口のすぐ近くにはバーカウンターがあり、奥に行けば長いテーブルと椅子がいくつか置かれている。
ここはかつてバーであり、経営不振で閉店となったところを今回の聖杯戦争のために買い取ったのだ。
店の奥に荷物を置き、中からいくつかの宝石を取り出す。
その宝石を溶解させ、サーヴァントの召喚に必要な召喚陣を描く準備をしていると、ズボンのポケットに入った携帯電話がメロディーを鳴らす。
取り出して見てみれば、非通知での着信であった。
『石動さん。ヒカリにはもう着きましたか?』
聞こえてきたのは物静かな女の声だ。
「ええ、予定通り拠点に到着しました。先行して搬入した物資はどこに?」
『
「ありがとうございますボールト。報酬は銀行へ振り込んでおきました」
『感謝します。では、ご武運をお祈りいたします』
電話を切って言われた場所の空をなぞる。
瞬間、指先に引っかかるような感覚とともに郁の魔術刻印にしびれるような痛みが走った。
「……虚数属性による空間ポケットを用いた輸送用の魔術。いつ利用しても便利というほかありませんね」
空間の歪みに集中しつつ、指定された方法でかけられたロックを外していく。魔術刻印の痛みが本人確認の役割を果たし、魔術的なロックを解除する助けをしていた。
「
最後の鍵となる一節を唱えると、その空間の歪みが大きく開く。
その中のポケットから滑り落ちるように出てきた鞄やケースをバックヤードの奥へと運び込むうちに、気づけば時計の針が10時半を指していた。
魔術師ごとに魔力にはピークとなる時間帯がある。
サーヴァントの召喚のような莫大な魔力を使用する魔術を行使する場合、魔力のピークとなる時間帯に、最高のコンディションで臨むのが望ましい。
水銀にところどころ融解させた宝石を織り交ぜて魔法陣を描く。消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む。
描いた文様に斑や歪みがないか確かめ、その傍には祭壇を築き、触媒となる聖遺物の入った箱を置く。
サーヴァントの召喚は実際には聖杯が行うものであり、マスターとなる魔術師が行うのは英霊の降霊という奇跡を起こすにしては拍子抜けするほど簡素な魔術式で済む。あとは召喚したサーヴァントと契約を結び、現世に留まるための楔となってやればいいのだ。
ふと時計を見ると、郁の魔力のピークである午後12時が差し迫っていた。
魔法陣の斑や歪みの修正に思いのほか時間がかかったせいだろう。
普段よりも手際が悪い。聖杯戦争という大舞台に、自分でも予想以上に緊張し、怖気づいているらしい。
そう自覚するとともに僅かに震えた指の先を抑えて止める。
失敗すれば命を失うかもしれない仕事だ。恐ろしくないわけがない。
それでも、途中でやめることはできない。石動家の為、そして何より自分の全てを賭けても惜しくないと信じる妹の為。
その為ならば自分の死の恐怖などとるに足らないこと。
これまでの事にも、そして今自分が飛び込んでいく戦禍の危機にも後悔はない。
全ては自分自身で決めた事。
今までと同様、すべてを出し切って成し遂げる。それだけの事。
6騎の英霊、6人のマスター。その全ての願いを踏み躙り、その上に立ってでも勝ち抜いてみせる。
そうして得た栄誉は律の未来のための良い糧となるはずだ。
深呼吸を一つ、二つ。
普段通りのルーティンで精神状態を整えて英霊召喚の儀式に臨む。
ひりつくような感覚を皮膚に、芯から冷たい炎で焼かれるような感覚を体全体で覚えつつ、おぼえこんだ英霊召喚の呪文を頭の中で反芻する。
「……よし、やりましょう」
発した言葉に混ざる緊張の色を味わいながら魔法陣の前へ立つ。
「────
手に持った宝石に刻まれた術式を起動するための、最初の一節を唱える。
そのままのめりこむ様に神経を集中させる。詠唱を開始するとともに魔術回路によって体が奇跡を発動するための機構へと変貌していく。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
右肩へ刻まれた魔術刻印が励起し、不快な痛みを与えながら術式を補佐する。
「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
臓腑の全てが悲鳴を上げる。体内を循環する魔力は外気のマナとともに郁の体を蹂躙し、吹き荒ぶ嵐のように体中で荒れ狂う。
それでもなお、詠唱は止まらない。
むしろ、坂道を下りながら自転車のギアを上げていくように、そのまま漕ぎ出すように、さらに強く魔力を加速させていく。
召喚の陣が光を放つ。
人の身でありながら世界にその名声を刻み付け、座へと招かれし死者たちの望みの声へと繋がっていく。
その奇跡を成すために、他のあらゆるものが視界から、郁の世界から消えていく。今の郁の脳は、英霊召喚の奇跡しか認めない──!
「
繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
時は前後して、別の場所で同じ呪文を唱える者がいる。
陣を作る材料や形式の差異はあれど、同じ召喚の魔法陣を前にし、祭壇へはそれぞれが違う触媒が供えられる。
「────告げる」
例えばそれは教会の地下。
枝乃真宜が初めに感じたのは、焼け焦げるような両目の痛みだった。
痛み自体は術式の起動によって今まで幾度となく感じてきたものであったが、今回は普段と違う目の使い方をしているためか、大きく毛色の違うものであった。
その苦痛を尋常ならざる精神力で抑え込む。
「汝の身は我が元に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ──」
両目の魔力回路から、真宜自身の身体へと魔力は循環する。
苦痛を押し殺し、耐え抜き、そして絶えることなく詠唱を続ける。
「────誓いを此処に」
森の中、白い衣に身を包んだ女が言葉を紡ぐ。
体中を蝕む魔力を全く意に介さぬように、恍惚とした表情で、歌う様に呪文を唱える。
「我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者────」
召喚の陣に発する魔力の渦に、その銀の髪が揺れた。
瞬間、女の顔に僅かな笑みが浮かぶ。
そしてその時、彼女の求めに応じるかのように、大地の魔力が揺れ動いた。
それはまるで、聖杯により呼ばれる彼女の騎士を歓迎するかのように。
「────されど汝はその目を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者────」
追加詠唱。即ち、サーヴァントへ狂化のスキルを付与する呪文が挿し込まれる。
雑木林の中。九曜は呼び出す英霊に狂気を吹き込むことを、その理性を奪い狂戦士へと貶めることをその二節を以て宣告する。
体中を巡る魔力が、そしてそれ以上に彼の身体を蝕む呪が活性化して荒れ狂う。
その苦しみは、他のマスターを凌駕するものだろう。
だがしかし、それだけでは終わらない。
自らが呼び出すものをただの狂戦士に留める事などできないしする意味もない。
英霊召喚の奇跡を侵すように、その呪は九曜の血を通じ、
無論、その外法によって九曜の身体への負荷はさらに強くなる。
しかし、ここで退くことはない。
その瞳の奥に宿る切実な望みと堅き鉄の意志はそれを許さない。たとえその妄執こそが呪いのようだとののしられようと詰られようと止まることはあり得ない────!
「────汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!」
こうして、異なる時ではあるが、同じ灯雁の地でその儀式は執り行われた。
聖杯への願いが英霊の座へと届く。最大まで加速した魔力の奔流は召喚の陣と座を繋ぎ、溢れるばかりの光と猛烈に吹き荒ぶ風を伴い奇跡を成す。
そしてその奥から、それぞれ異なる出で立ちの影が姿を現した。
それは人々の記憶へと鮮烈に刻まれた伝説の影法師。
人の身でありながらも奇跡を成し、人を相克した超常の者たちの威容であった。
第5話です。
次回からサーヴァントたちが登場します。
今後の参考にしたいので、感想やご意見をお待ちしております。