「お゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛……!」
爽やかな早朝の公園に似つかわしくない嗚咽の声が響き渡る。
声の主は苦悶の表情を浮かべ、公園の公衆トイレで胃の中身を吐き出していた。
「ごめんなさい! つい、いつもの感覚で走り込んじゃいました!」
汗だくでひたすら吐き続けている夢美。その周囲ではVacter所属のVtuberである七色和音がおろろと慌てていた。
夢美も和音も髪を結び、タンクトップにショートパンツというスポーティな格好をしている。
この二人が何をやっているかといえば、ランニングと発声練習である。
和音が普段から行っているメニューに夢美が参加したいと連絡を取った結果、夢美は朝から嘔吐することになったのであった。夢美からしてみれば、妹の由紀が家出したときに会い、連絡先を交換しただけの相手だったが、レオ以外に歌関係で頼れる事務所外の人間は和音くらいしかいなかった。
最初に連絡を取ったときは、お互いにコミュニケーション能力が低かったせいかやり取りに時間がかかっていたが、連絡を取り合っているうちに、思ったよりも気が合うことに気がつき、二人の間のぎこちなさはすっかり消えていた。
それから一通り夢美が再び落ち着いた後もランニングは再開できず、夢美はベンチにぐったりと腰掛けていた。
「由美子さん、これスポーツドリンクです!」
「あ゛ー、あ゛り゛が゛と゛ね゛……」
「あっ」
夢美は喉が渇いていたこともあり、和音の買ってきた500mlのスポーツドリンクを一気に呷った。
「――――んくんくっ! ぷはぁぁぁぁぁおろろろろろ!」
「500mlのを一気に飲んだらそうなりますよ……」
飲み切ったばかりのスポーツドリンクを戻す夢美を見て、さすがの和音も呆れたようにため息をついた。
それから一旦着替えた二人は、近くのカフェで朝食をとることにした。
「……まさか奈美ちゃんがあんな化け物メニューを毎日やってるとは思わなかったよ」
「昔からやってたわけじゃないですよ。今度のライブに向けてバテないように体力を作っているだけです」
和音はゲンナリした様子の夢美の言葉に苦笑しながらコーヒーを飲む。
和音の所属するVtuber事務所であるVacterでは、所属するVtuberによるクリスマスライブを行う予定があった。まだ先の話ではあるが、予想外の事態は往々にして起こるもの。
先を見据えた和音は地盤固めも兼ねて体力づくりに勤しんでいたのだ。
「それに、せっかく勢いがあるんですからいろいろと新しいことにも挑戦してみたかったんです」
「あー、最近歌を使ったネタにも挑戦してるよね。【銃声が鳴り響く戦場でピースサインを歌ったら平和になるのか!?】とか」
「あはは……結局普通に撃たれて終わりましたけどね」
和音はただ好きな曲を歌うだけのスタイルを崩し、もっと面白さを出せるネタを考えて動画投稿や配信を行うようになっていた。
もちろん、真面目な歌動画も今までと同じ頻度で投稿している。
「あと、最近投稿された紅蓮華めっちゃ良かったよ! あのサビ直前の力強い感じめっちゃいい! 何か、こう、綺麗な濁点というか、こぶし効いてるって感じでさ!」
「ゆ、由美子さん、落ち着いて! ここ外ですから!」
「あ、ごめん。限界化してた」
「きゅ、急に落ち着かないでください……」
和音は脳内に浮かんだ「うわぁ! いきなり落ち着くな!」と叫ぶ眼鏡の中年男性キャラのコラ画像を振り払ってかき消す。
相変わらず感情の起伏がジェットコースターな夢美は、下がりきったテンションのまま呟く。
「それにしても、奈美ちゃんも登録者数40万人超えかぁ……」
「私の場合はカラオケ配信や人狼コラボでブーストがかかったのも大きいですけどね」
いまだに初対面の人間の前ではおどおどしてしまう和音だったが、イルカ主催のカラオケ配信以来、自分に確固たる自信を持ってVtuber活動に取り組めるようになっていた。
以前はほとんどしていなかったコラボも積極的にするようになり、和音はトップVtuberへの一歩を踏み出していた。
「……昔のことといい、今回のことといい、司馬さんにはいくら感謝しても足りないくらいです」
「昔?」
「ああ、いえ! 何でもないです何でもないです!」
激しく狼狽する和音を見て、夢美はふと疑問に思ったことを口にした。
「ねえ、奈美ちゃんってどっかで見たことがあるような気がするんだけど」
「き、ききき、気のせいじゃないですかね!?」
絶対に気のせいじゃない。
そう思った夢美だったが、レオの昔の知り合いとなると、小学校の頃の知り合いか芸能界関係となる。
小学校の線はまずない。和音の出身地は石川県だからだ。レオと夢美は八王子出身のため、小学校が同じだったとは考えにくい。
しかし芸能界となると、和音の性格には違和感がある。
芸能界を生き抜いてきた人間が、こんなにもあがり症になるだろうか、と。
怪訝な表情を浮かべる夢美を見て、和音はごまかすように咳払いをすると話題を変えた。
「そういえば、今回私に歌のことで相談してきたのは司馬さんを意識しちゃって気まずくなったからですか?」
「ごぼっ!?」
和音の言葉に夢美は激しく咽る。幸い飲んでいた紅茶は零れてはいない。
「げほっ、げほ! ち、違くないんだけど、違うから!」
「えっ、違くないって……」
和音は夢美から零れ落ちた予想外の言葉に唖然とする。
そんな和音の隙をついて夢美は反撃に撃って出た。
「そういう奈美ちゃんこそ、拓哉の元同僚君といい感じって聞いたけどどうなんよ!」
「ぶふっ!?」
今度は和音がコーヒーで咽る番だった。まさかのカウンターを食らった和音は夢美に過去を聞かれたとき以上に狼狽した。
「そ、園山君とはそんな関係じゃありませんから! ただお店で酔っ払いに絡まれているところを助けてもらったりとかそんな感じで……」
「ほ――――!」
「な、何ニヤニヤしてるんですか! ち、違いますからね!」
普段の様子とは違って騒がしいやり取りをする二人だったが、周囲の視線を感じて縮こまるように大人しくなった。
「……場所を変えましょうか」
「……そだね」
急いで飲み物を飲み干すと、夢美と和音はそそくさとカフェを後にした。
続いて二人は近くにあったカラオケボックスに入ることにした。夢美の目的である歌唱力の向上のためである。
「どんな人にも自分の声の〝おいしい部分〟というものがあります。まずはそれを把握してみましょう」
「おお、本格的だ! やっぱり和音ちゃんに相談して良かった」
「まだ序盤ですよ……音を外したりとかそういうのは気にせず、とにかく歌ってみましょうか。曲のキーを体で覚えてしまえばこっちのものですからね」
和音は夢美が歌ってみたで歌う予定の曲を入れると、さっそく夢美に歌うように促した。
夢美が歌ったのはとあるアニメのオープニングテーマだった。
夢美は和音に言われた通り、何も気にせず思いっきり歌った。
「夢美さんは声の幅が広いですし、この曲はピッタリですね。キーは少し下げて歌う方がいいかもしれませんね」
冷静に夢美の歌声を分析すると、和音は次々とアドバイスを送る。
「Aメロは初配信のときのようなあざとい声で歌う方がいいかもしれませんね」
「初配信の話はやめろォ!」
初配信の話を持ち出され、夢美は頭を抱えて叫んだ。そんな夢美の様子を見て和音は楽しそうに微笑みながら続けた。
「Bメロ以降は優雅さや美しさを出せるといいですね。ここは夢美さんが普段歌っているような歌い方でいいと思います」
夢美はそこまで歌ってみた動画を上げている方ではないが、彼女の歌ってみた動画は妖精達から好評だった。歌っているときの夢美は〝茨木さん〟と呼ばれており、〝当初予定されていた茨木夢美〟と言われるほどに清楚だった。
「あと、ぶつぶつ台詞を呟くようなパートは地声くらい低くして棒読み感を出すと面白いと思います」
「あー、それはありだわ。うん、やってみる!」
和音のアドバイスを活かし、同じ曲を今度は声を変えて歌ってみる。
先程より、本家のような楽しい雰囲気の出る歌い方ができた夢美は、満足げに笑顔を浮かべる。
「さて、今度は曲に強弱をつける練習をしましょうか」
「よし! どんとこい!」
こうして夢美はひたすら和音との歌練習に明け暮れるのであった。
「あ゛ー……喉ガラガラだよ……」
和音との練習を終えてカラオケボックスを出る頃には、夢美の声はすっかり枯れていた。それだけ歌の練習に熱中していたのだ。
「はい、のど飴です」
「あ゛り゛が゛と゛―……」
和音から受け取ったのど飴を口に入れると、夢美は疲れきった笑みを浮かべた。
「そういえば、司馬さんと気まずいって言ってましたけど、何があったんですか?」
「話すと長くなるんだけど……」
夢美は自分が抱えている不安を和音に話すことにした。
レオや林檎と違って、自分には特技らしい特技が何もないこと。
このままでは二人の人気にぶら下がっているだけの存在になってしまう可能性があるということ。
レオや林檎、事務所の厚意に甘えて迷惑ばかりかけていること。
家族に対して感じている複雑な感情がぶり返してきたこと。
レオの初恋の相手が自分で、当時は冷たく接していたこと。
今更になってレオのことを男性として意識してしまっていること。
それらの不安を夢美は全て和音へと打ち明けた。
「……何というか凄い状況ですね」
「あはは……自分でもそう思う」
神妙な面持ちで呟く和音の様子を見て、夢美は苦笑する。
「うーん、私としてはあの二人がおかしいだけで、由美子さんが背伸びをする必要はないと思うんですけど……」
「わかってる。それはわかってるんだけど、さ。やっぱりずっと一緒に走り続けたいじゃん。あたしは三人で一緒にいるのが好きなんだ。だから、無理をしなきゃいけないのなら、あたしは無理をしたいの」
「由美子さん……」
和音は夢美の決意に満ちた瞳を見て、心が熱くなるのを感じた。
「わかりました! 私も全力で協力します! 歌に関しては任せてください!」
「ありがとね、心強いよ!」
こうして夢美は七色和音という理解者を得ることができた。
「あ、恋愛に関してはあまりアドバイスできませんよ? 私、ポンコツなので」
「それは知ってる。まあ、お互い頑張ろうよ」
「お、お互いって! 私は違いますからね!」
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
バレバレだっつーの、と呟くと夢美は顔を赤くして慌てる和音を見て満面の笑みを浮かべるのであった。
夢美と和音は気の合う人間相手にはおしゃべりになるタイプですね。
さてさて、本格的に恋愛描写に入れそうな今日この頃。
まだまだ夢美の問題は解決しないので、先の展開をお楽しみに!